文 : 惑い星


『独り身の医家     * 前編』









「ところでさぁ、他でもないんだけど、あんたもそろそろ、身を固めちゃぁ…」

 世話焼きかぁさんとあだ名のついた、気のいいおばさんが、化野の家の縁側に座ってそんなことを言う。今日は大根のいいのを持ってきてくれたりして、妙に機嫌がいいと思ったらこの話だ。化野は辟易しながら、忙しいふりで診療日誌に視線を落としている。

「悪いねぇ、大根助かるよ。それでおばさん、今日は別にどこか悪くってきてるわけじゃなくて?」

 そう言ってやんわりと追い返そうとするも、気付いているのかいないのか、まったく腰を上げる様子が無い。

「いやぁ、悪いともさぁ。それというのもあんたがいつまでたってもイイ人を持たないから、あたしゃ、なんだか心配で心配で」

まったく有難いことを言ってくれる。これでも好いた人のひとりくらいはいるが、その相手とはゆえあって、一緒にも暮らす事も出来ないし、気持ちを大っぴらにもできないでいるのだ。こういう話題が出るたびに、恋しく思っていることなぞ、あいつは知りもしないだろうけど。

「えぇっとっ、ところであの大根は何にしたらいいかなぁ?」
「えぇ?? いやさ大根のことなんかより、あんた…。ほらねぇ、作ってあげたい相手もいないから、先生は今晩のおかずのことなんかも、そうやってさぁ…」

駄目だ。話をそらそうとしてもこの通り。誰か薬かなんか取りにきて、邪魔してくれないものかと、ついつい思う。

「ちょいと邪魔するよ」

と、そんな心の声を聞いていたかのような、その言葉。化野は顔を上げた。顔を上げて眩しげに見た。

「あぁ、よく来たな。また久しぶりじゃないか」
「そうだったか? いつ来ても変わらねぇな、ここは」

ギンコはのんびりとそう言って、里の女の隣辺りに腰を下ろす。座ってから少し狭苦しそうに、背中の木箱を横に置いた。気を遣いながらのその仕草に、ようやっと世話焼き屋の女は重い腰をあげる。

「じゃあ、また来るからね。考えといてね、先生だったら幾らでも相手が」
「そ、その話はもういいって…っ」

 ついつい焦ってそう言ったが、化野の気にした二つの耳は、どうやら話を先から聞いていたようである。

「やっと行ったか。大変だな、ひとりもんは」
「…何言ってる、それを言うんならお前だって」
「ま、俺みたいなのはまた別さ。あんたとは違うよ」

 さらりと笑ってそう言った、その横顔に化野は見惚れている。ここのところ伸ばしたままにしている髪は、前にギンコが来てからだと、随分長く見えるはずだが、どうせ気付いていないのだろう。

「上がっていいかね」
「え、勿論」

 いつもならそんなこと聞きもせずにずかずか上がるくせに。そうしてそんな遠慮の無い様子で、僅かばかり喜ばせてくれるのに。でもこの男はこの家に泊まって行ってはくれない。特に用がなければ、半日いるかどうかでまた行ってしまう。そりゃそうかと本当は分かっていた。

 この家は医家で、病や怪我のあるものが留まることはあっても、痛くも痒くも病んでもないものが、ほんの数日でも居座る場所ではないのだ。それでも、例えば仮にこの身がギンコと同じく…。

「化野? どうした、ぼんやりして」
「え? あぁ、すまない、ちょっと疲れているのかもな」
「なら少し休んでいりゃあいい。俺はちょっとそこの山へ入って、前に見かけた蟲の様子を見てくるから。ここじゃ初めて見た種類だったんで」

 ギンコは適当にそう言って、木箱をそこへ置いたまま立ち上がった。荷物を預けて行ってくれるという、そんな些細なことも何やら仄かに嬉しく、化野はそこへとそっと近付いた。

 もう何年も何年も、ずっと持ち歩かれているであろうこの木箱が、うらやましいような気がして、ふと軽く小突いてみる。がた、と小さく木箱は揺れて、少し留め金が緩んでいたのか、手前の蓋が開き掛けた。

「あ…っと」

 いけない、これはギンコの大事な…。そう思う傍から、妙な方向に気持ちが揺れた。
 
 この箱のように、自分もギンコについて行けたら。
 いつでも寄り添って、どこへでも共にゆき、
 ギンコの嬉しいことも楽しいことも、
 すべて傍で見ていられたら、どんなにか…。

 気付けば化野は、自分がいつも身につけているものを手にしていた。ずっと前から自分の愛用で、毎日毎日欠かさず使い、指にも肌にも馴染んだような、この品を、自分の代りにギンコが持ち歩いてくれたなら。

 でもそれを言葉にして、どうかそうしてくれと、乞うことは出来そうに無かった。

 だから化野はその品を、こっそりと手にしてギンコの木箱の中に入れた。あまり開けそうもない一番端の引き出しの、何やら詰め込まれたものの下になるように、ぐい、と押し込んだ。


 気付くだろうか、お前は。
 気付いて欲しい。でも気付かないで欲しい。
 だって、こんなものを持ち歩かせて、
 もしも気持ちが知れたら。

 はは、何を言ってる、知って欲しいくせにな、
 いつかでいいから、この気持ちを…。









12/08/04


前後編に分かれますこのお話。
化野が押し込んだ物をご想像ください。
答えは後編に!(JIN)