文 : 惑い星


『独り身の医家     * 後編』









 化野がそんなことをしている頃、ギンコは山へ入って行って、少しして出てきて、のんびり里の中を散歩していた。何やらこの頃、あの家には上がりにくい。いや、上がりにくいというか、上がって傍にいると落ち着かないというか。

 お前、髪を伸ばしてんのか。
 まだ結構短いが、それこそ女みたいに。
 あんなふうにしてると、なんだか…。

「ちょっと! ギンコさん、って言ったかい?」
「あ?」

 何やら少し険しい調子で声がかかって、ギンコはいぶかしげに振り向いた。振り向かずとも分かったが、ついさっき化野のところで会った中年の女だ。うしろにあと二人ばかり、里のものがついている。

「俺に何か?」
「あぁ、ごめんなさいよぉ、大きな声出しちまって」

 女は自分の声音に自分で驚いたようで、ばつが悪そうに笑っていた。

「あのねぇ、ちぃと確かめときたいんだけど」
「もしかして、化野のこと、とか?」

 やや察しが着いてギンコが問うと、女はうんうんと頷いて唐突にこう言ったのだ。

「違ってたら悪いんだけどさ。もしかして、あんた、先生のこと、そのうち連れてっちまうつもりなのかい?」
「え? いやまさか」
「本当に? ならいいんだけど」

 女はあからさまにほっとした顔。胸を撫で下ろさんばかりだ。後ろの二人も同様で、彼らは心持ち小声になって言ったのである。

「いやねぇ、この里にはあの先生しか医家がいないだろ? 万一でも居なくなられちゃ大変だもんで…。持病のあるものもいるし、年寄りも少なく無いし、他に医家と言ったら、谷を越えるか湾の向こうか、どっちにしても頼りになりゃしないじゃないか。だからさぁ」

 そんなことを言いながら、その女の言葉にも、うしろの男らの眼差しにも、自分勝手なばかりの思いは見えない。化野はこの里の人々に愛されて、この里にいるべき人間なのだと、来るたびに見てきたギンコにも分かっていることだった。

 つまりは身を固めろというのも同じ理由だろう。元は余所者だったとしても、ここで伴侶をもって、これからはずっとここの人間でいて欲しいと、そんな願いを掛けて、ついついの口出し。ついついの世話焼き。

「…持ってきゃしねぇよ。なんなら教えとくが、故あって、俺は誰かをずっと連れ歩くとか、そんなことは出来ねぇんだ」

 会いたきゃぁ会いに来るしか、
 やりようはねぇ。
 今もこの先もずうっと先も、な。

 女たちが納得したかどうかは分からない。この里で所帯を持って貰おうとか、そんなことを言っているのを背に、すぐさま踵を返してギンコは化野の家に駆け戻る。そしたら大根の煮たののいい匂いがしていた。いっぱしの女みてぇに、お前、煮炊きもするんだな。

 そして出された煮物を食い、味がしねぇよ、だなんて憎まれ口を叩き、でもちいっと冷えてたから、ありがてぇ、だなんてあとから取り成して、ギンコは化野の色んな表情を眺める。傍にいられない分、まとめて色々見て、心の中に大事にしまう。

 その日の夕にはいつものように、じゃあまたな、と言って、またひとつきかふたつき後になるまで、顔も見れない旅へとギンコは戻っていった。



 夜半、ひとりで岬の上。

 腰を下ろして、遠くの化野の里の灯を見ながら、ギンコは木箱を引き寄せる。そして普段開けない抽斗を開けていた。少し前からその抽斗の中で、ことりことりと聞き慣れぬ音がして、何やら気になっていたからだ。

 来る日も来る日も同じこれを背負っているから、些細なかさつきも物音も、彼にとっては耳に馴染まない。

 引っ張り出した抽斗の奥に、こっそり隠れていたのは丸い小さな…手鏡。使い込んだ古い品だが、美しい錦を貼ってあって、それが化野のものだとギンコは知っている。いつだかそれを手にして、大事そうに言っていた言葉が聞こえてくるのだ。


 生意気に、医家になんかなっちまうような私にゃ、
 手鏡なんかちぃとも、似合わないけどね。
 小さい頃から使ってるもんで、手放せないんだよ。
 変かい? ギンコ、私がこんなの…さ。


 ふと流す眼差しが、首筋の白が、初めて色っぽく見えたその時のことだから、嫌になるほどよく覚えている。化野、お前な、ひとつ里の中にもいられず、人を傍にも置けない俺だぜ? なのに誰かひとりに惚れさせるなんざぁ。

 …随分だよな、お前さんは。


 そうしてギンコはごろりと寝転び、肌寒い秋風ん中、高い空の星を見上げて呟いた。昼間ギンコの背に届いた、里人らの声に対してである。

「悪いけどなぁ、化野を貰うのは、やっぱり俺のようだ」

 連れてきゃせんから、勘弁しろよ。
 そんで、いつまでもあいつが
 男勝りで医家をやってられるよう、
 出来れば良くしてやってくれ。

 とは、なにやら既に貰ったような言い分か。

 その手のひらには、化野の肌の温みも残るような、小さな手鏡。次に行った時にゃあ、これを目の前に見せて、いったいなんと言ってやろうか。それともこれはこれで貰っといて、俺からは別の鏡を渡そうか。

 せめてもの約束のしるしに…。

 いや、待てよ、こりゃぁ大変だ、珍品好きのお前の気に入る手鏡とくれば、そう簡単には見つかるまい。まさに大変だ、とそう言ったギンコは、何やら妙に生き生きと、笑った顔をしているのだった。


 男勝りで変わりもんで、
 可愛げなくて煮炊きも下手で。
 それでも俺を夢中にさせた。

 あぁ、まったく、
 いい女だよ、お前さんは。












12/08/11

女化野とギンコの話。片眼鏡じゃなくて、手鏡を渡す、という。(惑い星)

というわけで、正解は「手鏡」でしたー!(JIN)