文 ; GINCA




『はやく、また来てくれ』    




■ 前編





 小さな漁師町で医家を営む化野と、山越えは、なるべく日の暮れる前に済ませたい、流しの蟲師のギンコの朝は早い。
 化野家の縁側に二人並んで、ギンコと化野は空を見上げていた。
 空は、薄墨色に晴れていた。
 もうすぐ、夜が明ける。
 黒っぽい上着を着込んで、傍らには背負いの木箱を置いて、ギンコは、既に、旅支度だ。
依頼の蟲師仕事は、化野のもとへ来るよりも先に済ませてから来るのが常なので、今呼ばれている仕事や、先を急がなくてはならない用事がある訳ではなかった。
が、長居をすればするだけ、蟲が寄る。
次に来る日を遅らせなければならなくなる。
よっ、と木箱のトランクを背負うと、ギンコは、いつものように、ぐるりと辺りを見回した。
その口元に、苦い笑みが浮かぶ。
化野には見えないが、蟲が、ギンコには見えているのだろう。
寄り集えば、それだけでも、人によくない影響を及ぼすことがある、という蟲。
そこまで蟲が寄るほど、この度も、長居をしてくれた訳ではないが、それでも、常ならば、この海辺の里にはいないような蟲の姿が見えるのだろうか?
何か、居てはマズイような蟲の姿が―――?
 が、化野の懸念に気づいたように、ギンコは、ひょいと化野の方を振り向くと、(ん? 何でもねぇよ)とでもいったふうに、にっと口の端を上げて、首を振った。そして、
「じゃあな」
 とだけ言って、くるりと化野に背を向けて歩き始める。
「おう、気をつけてな」
 化野も、いつものように、軽くそう言った。
そう言って―――唇を噛む。
 こんな、あっけない別れの一言だけ残して、あとは振り向きもせずに出かけて行くギンコは、そんな化野の姿を知らない。
ギンコが行ってしまう―――
そして、ギンコが傍にいて、その身の無事を目にして確かめることが出来ない日々が、また続く―――
その間、化野が、どんなに不安でやるせない思いをしながら待ち続けているものか、きっと、ギンコは知らないのだろうと思う。
「野宿で風邪ひくなよ」
「なるべく、生水は飲むなよ」
「怪我すんなよ」
 そんな心配しいのオカンみたいな繰り言を、その背に囀り続ける化野がどんな顔をしているのか、一度でも振り向いてみる気はないのだろうか? 本当に平気だとでも思っているのか?
化野に背を向けたまま、ギンコは、片手を高く上げてひらひらと振って、遠ざかる。
 大きな木箱を背負って、黒っぽい上着を身にまとった白い髪が、見る間に遠ざかり、小さくなってゆく。
 ふと、その影が、立ち止まり、こちらを振り向いた。
上着のポケットに入れた手が、白い巻き紙を、軽く握って取り出される。
それが分かるほどの距離だった。
くるくると両手で開きつつ、ギンコは、それへと視線を落とした。
 坂を下りる途中で、いつも上着のポケットに手を入れるギンコの癖。
それを、化野は、見飽きるほどによく知っている。ギンコが、ここで別れを言って、坂を下って、姿が見えなくなるまでの間、ずっと見ている化野だから。
白い巻き紙の正体は、化野の愛読書である『季刊・蟲好み』に載っていた記事の写しだ。
≪入手しやすい蟲がらみの珍品・お宝★選≫
「何だ、こいつは?」
そう問いに、戻って来てくれるのじゃないか?
とも、少しは期待していた。
が、ギンコは、広げた紙片を幾重にか畳み折ると、また上着の同じポケットの中に入れて、仕舞った。
そして、再び、化野の方へと目線を向けると、ギンコは、全身を化野の方へと向けて、遠目にもはっきりとわかるように、といったふうに、大きく、頷いた。それでも、足りないかと、両の腕を上げて大きく丸を作って見せる。
(はは・・・ )
 思わず、笑ってしまった。
 戻って来る気はないようだった。
(まあ、仕方ないか)
 化野も、大きく頷いて見せた。両手を胸の前で合わせて、深くお辞儀をする。
頭を上げると、ギンコは、また、行く手へと向き直って歩き出した。
一見ゆったりとした、その実、歩幅が広くて速い、いつもの足取りで、どんどん遠ざかってゆく。
その姿が裏の里山の裾野の小道を抜け、山道の奥へと消えて行くまで、化野は、その姿を見送っていた。




それから、ひと月後―――
化野の住む小さな漁師町へ向かうギンコの背中で、背負いの木箱のトランクの中身が暴れて、鳴った。
 カタカタ、カタタタッ。
ウロ繭に文が届いた音だ。
「お。またか」
 と、ギンコをして、つい、こう言わしめるのにも訳がある。
この文の相手は、推して、分かる。
内容も。
ウロ守の綺(あや)からだ。
この界隈のどこかからの蟲師仕事の依頼だろう。
「しょうがねぇなあ」
 木箱のトランクを下ろして蓋を開け、ウロ文専用の鉤つきの蟲ピンでウロ繭から文を掻き出す。
前に、化野の住むあの小さな漁師町を出てから、きっかり三十日後を目指して―――蟲を寄せ過ぎないギリギリの間隔、ということで―――また、ギンコが化野のもとを訪れる頃、まるで誂えたかのように、この界隈からの蟲師仕事の依頼が、ウロ守の綺から届くのだ。
 まあ、通り道ではあるし、請けないのもナンだと思うので、ギンコは、毎度引き受ける。
 で、毎度、入り遅れる。
そうやって、入り遅れれば、出も遅らせるので、その次に来る日もずれ込んでしまう。
そんな、ずれ込む日数も、もはや1日や5日ではなくなってきているのいうのに、どういう具合いにか、そのずれ込んだ分もまた見越したように、次に、またギンコがやって来た頃に、『あの小さな漁師町の近くの里で、蟲がらみと思われる異変が起きた』という依頼の文が、ギンコに届くのだった。
「うん。ごめんね。大体わかってるんだ、ギンコが来る頃って」
 と、悪びれもせずに、綺は言ったものだった。
「つまり・・・飛脚の定期便が来るのよ。毎日。『化野先生宛てにウロ文が来てたら―――ってことは、ギンコからだよね?―――ギンコからの文があれば、一両日中には受け取りたいから』って」
「へえ?」
 嬉しさとありがたさで、思わず、ギンコは、にっと口の端を上げた。
 それで、あの時―――化野への返しの文の時だけでなく、ギンコからの問い合わせの文にも、すぐに返事の文が―――
(そうだったのか)
いや―――そう、言われてみれば、何か、そんなようなことを、化野が言っていたことがあるような気がした。
そうだ。この界隈で、性質の悪い風邪のような病が流行った時だ。
「山の中に独りで棲んでいる、あの娘のウロ守―――綺さんと言ったか?―――あの娘も、今のところ、大丈夫だぞ。あの娘の所へも、普段から、時折り人をやるなどしているからな」
毎日、とまでは聞いていなかったが。
「それが来ない、ってことは、ギンコが化野先生ん家に来ている、ってことでしょ?」
そして、ギンコが旅立った翌日からは、また、くだんの飛脚がやって来る、と言う訳だ。そこから、ひと月数える、と・・・
「それにね、いろいろ噂も入ってくるし」
「噂?」
 うん、と綺は頷いた。そして、くすっ☆と笑う。
「いろいろ」
 あ?
 何だ、くすっ☆ってのは。
「ほぅお・・・・・・例えば?」
「例えば、って言うか・・・
ギンコがまた来る頃になると、化野先生が『この先の何処そこで、ギンコを見かけた』って話を、昨日立ち寄った誰ソレから聞いたみたいだ、って」
「ほう?」
「それで、また、いろいろ準備が始まったよ、って」 
 あ?
「お布団干してあったり、いつもの、先生のじゃない柄の浴衣や着物、洗って干してあったり、「お和屋」のお徳さんと肴のお膳の相談してたとか・・・ 」
にこ。
と、綺は口元をほころばせた。
「肴のお膳まで、もう頼んだんなら、その次の日か、次の次の日くらいには絶対着く予定なんだろうな、って」
 ・・・・・・そうかよ。
「本当。ごめんね」
 と、綺は言った。
「でも、ギンコなら、腕は確かだから、安心して頼めるし。
蟲患いとかで、困ってるって言われれば、やっぱり早く、確実に対処して貰えるようにしてあげたいし」
あー・・・まあ、そうやって、仕事を回して貰えんのは、嬉しいし、有難いがな。
「それに、ギンコが近くにいそうな頃って、大体、この辺のみんな、分かってることだから――― 」
「あ?」
思わず目を見開いて、ギンコは綺を見た。
みんな?
いやいや、冗談が過ぎんだろう。
―――って、本当にか?
「ギンコが、早く化野先生に会いたいばっかりに、蟲のことで困ってる里を素通りして、先に、化野先生に会いに行っちゃった、だなんて聞こえが悪いでしょ?」
 う。
ギンコは、目線を落として、上着のポケットに目を向け、手を入れた。蟲煙草を取り出す。
まあ・・・・・・いや、確かに。それじゃ、聞こえが悪いこと極まりねぇわな。
「でも、そこをグッと堪えて、先に来てくれているんだから、ギンコ、評判いいよ」
「あー、そりゃどうも」
 右手に蟲煙草を持って、口にくわえる。
「それに、ギンコを、あの町の『お抱え蟲師』にしたからって、隣近所の里のことも、ギンコに気にかけさせてくれてるって、あんたの化野先生の株も上がってるし・・・」
ごほ。
と、まだ煙にむせる筈もないのに、ギンコは咳こんだ。
(『あんたの化野先生』、なのか?)
 思わず、まじっと綺を見やると、綺は、にっこりと頷いた。
「あの先生、いい先生だよね。私も、好き。本当、評判いいよ」
 あー・・・いや、まあ、それなら、それもいいが。
 ん? そういや、『最近、浜の若いもんが、あんまり懐いてこなくなった』とかって、化野が、少し寂しがっていたっけが。
 仕事が『虫除け』にもなる、というのなら、やはり、毎度請けていて正解、なのだろう。
 思わぬ副産物もあったものだ。
 しかし、だった。
かくして、めでたく両想いになってからは、きっかり三十日あけで、化野のもとに通って来ていたのが、だんだん、一日遅れ・・・三日遅れ・・・十日遅れに・・・・・・と遅れ遅れになってきているのだ。
まあ、早くなるのはマズイが、遅くなる分には、蟲を寄せ過ぎない為、という点では、確かに問題はない。
ないが!だ。
日の置き具合で危うくなるのは、何も、蟲のことだけじゃねぇだろう、とギンコは思うのだ。
しかし、だからと言って、その分の遅れも見越して、早めに化野の町へと向かう、という訳にもいかなかった。
そんなことをしたら、前に泊まった時に寄せてしまった蟲が十分散らないうちに、あの豊かな海辺の里に近づいてしまう。
前に寄せてしまったかもしれない蟲が、まだ、もと居た古巣に戻らぬうちに。
きっかり三十日あけてから来ていれば、町までは到達することはなかったであろう、いつかのあの蟲みたいに。
また、新たな蟲まで寄せてしまうことにもなってしまうかも知れなかった。
まして、その招ばれた仕事で滞在するのは、化野の住む町の近隣の里だ。むしろ、常よりも間遠に通うようにしなければ、その分、蟲が寄る道理だった。
 まあ、しかし、そうやって、ギンコも、ちゃんと蟲が寄り過ぎぬような頃合いを見計らって再訪するようにしているから、今のところ、問題はないようなのだが―――
 二人の恋路にとっては、問題あり!とギンコは思う、今日この頃、という訳だった。










12/03/24



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