文 : こおりの




『          』 第五話









 ギンコは目を覚ますや否や、必死で何か訴えかけるような素振りをして――それも束の間、またすぐ気を失ったように眠ってしまった。
 夕方、化野の屋敷に到着したギンコは早々に治療を始め、幸い患者から患いの原因であるモノを払うことに成功した…ようだが、まるで犠牲になるかの如く、今度はギンコ本人がソレに憑かれてしまったようだ。現れている症状は例の患者と同じで、気を失っているギンコの喉元に触れてみれば火のように熱く、目を覚ました時は始終咳をして息をするのも辛そうにしていた。

「…ああ、」

 ぬるくなってしまった手ぬぐいを傍らの水桶に沈める。しばらく冷やしてから絞り、苦しくない程度の強さで喉元に宛がってやる。目を閉じたギンコの表情が少し緩むのを見て、化野は思わず溜め息を漏らした。ふと目をやった雨戸の向こう、濃紺の夜空高くには月が光っている。
 ギンコが最初に気を失ってから、まだ半日も経っていないが、化野にはそれを短いとは感じられなかった。
 目の前で辛そうにしているギンコの様子と、己の記憶の中にある患者の様子とを、何度も照らし合わせた。ギンコが患者の喉を覗き込み何かを見つけていたようなので、自分も同じようにギンコの喉を確認してみた。しかし、やはり何も見えなかった。昨日まで臥せっていた男の喉を診た時もそうだったので、わかってはいたが、落胆した。
 ――少しでも蟲を見ることができれば。
 今まで何度となく思ったことではあるし、思ってもしようのないことなのだが、思わずにはいられない。
 
「…いや、大丈夫だ」

 大丈夫だ。
 化野は自分の口から出た言葉を、心の中で繰り返した。
 ギンコの症状は例の患者と同じ経過を辿っている。それならば、これから二、三日の間、日中は咳や喉の熱さが和らぐはずなのだ。その間にギンコの考えも確認できるし、解決への糸口が掴めるかもしれない。それに、試していない別の手だってある。ギンコは怒りそう…いや、確実に怒るだろうが、自分に原因のモノを憑かせることができるなら、そうしたっていい。そうすればギンコは動けるし、外から診ているだけではわからない実際の症状を、身をもって知ることができるのだ。
 
「……すまんな」

 今は熱さを和らげてやることしかできる事がない。ならばそれに専念するに限る――化野は桶を手に取り立ち上がった。

   
 


「蟲師って奴らはよ、好かねえんだ」

 突然背後から声がしたので、化野はせっかく引き上げた釣瓶を危うく井戸底へ落としてしまうところだった。振り返って確認するよりも先に、声の正体に思い当たり、手中の縄を握り締める。井戸端に持ってきた木桶へザブリと水を移し、また釣瓶を井戸の中へ落とした。もう一度縄を引きかけ、やめる。
 一息吐いてから、化野は背後を振り返った。少し離れた場所に懐手の男が立っている。
 昨日、ギンコが来るまで臥せっていた患者――藤次(とうじ)という男だ。

「…何だ、眠れないのか?」

 いつもどおりの表情のつもりではあるが、自分でも声が平坦だと思う。仮にもついさっきまで患者だった人間相手なのに、今の自分ときたら、医家でもなんでもない。ギンコが救ってくれた患者なのに……腹の底に黒いものがわだかまっていくのを誤魔化せない。
 ギンコに蟲が移ったことにより、臥せっていた男は元気になった。しかし、しばらく臥せっていた身体は少なからず衰弱しているらしく、もちろん化野はそんな人間を、どことなりへも簡単に帰すことはできなかった。体力が回復するまで――せめて今日、明日中はこの屋敷で養生するよう求めた。
  
「…いや、悪かった。世話かけたな」

 藤次はばつの悪そうな顔をして、軽く頭を下げて見せた。その不器用ながらも殊勝な様子に化野は面食らい、思わずまじまじと男の顔を見つめてしまう。その視線を避けるように、半ば俯いたまま、藤次は言葉を続けた。

「昼間もよ…ちゃんと礼を言うつもりだったんだが、ひねくれちまって。俺は…いや、"俺ら"は、蟲師のことをよく知らずに嫌ってたみてえだ」
「…どういうことだ?」

 化野の問いかけに藤次は顔を上げると、懐から何かを取り出した。
 …短い竹筒のようである。太さもさほど無く、それは手のひらにちょこんと乗るほどの大きさだ。

「俺の一族は皆、こいつを持ってる」
「?」

 水桶をその場に残して、化野は藤次のもとへ歩み寄った。竹筒を間近で見てみるが、特別なところはないように見える。強いて挙げるならば、その竹筒が、竹として生えていた時の姿を思わせるような瑞々しい青色をしている、という点くらいなものだ。

「…何だ、それは。お守りの類なのか?それに、それがどう蟲師嫌いと関係が…」

 化野は片眼鏡を上げつつ、藤次を斜めに見上げる。藤次は手のひらの竹筒を軽く揺すり、何かを懐かしむように目を閉じた。その藤次の表情は、この数日間に化野に向けた表情の類からは、想像もつかぬほど穏やかだ。
 
「"こいつら"は俺の郷里の山に棲みついていて、うちの一族に子が生まれると、ひとつだけ山から下りて来る。山に生えた竹で作った容れ物を赤ん坊の傍へ置いておけば、”そいつ”はその中に棲みつくようになんだよ。そうしてそれを持っていれば…”そいつ”が、生涯その人間を守ってくれる」
「な…」

 何だ、それは……再び同じ言葉を口にしそうになる。化野はますます不思議に思いながらも、漠然とこの竹筒の中には蟲がいるのだろうと考える。だが、藤次の口からは蟲という言葉が出てこない。
 竹筒には小さな栓がはまっているが、それを抜く素振りは見せないので、開けると”それ”は逃げてしまうのだろうか。 

「守る…って、やはりご利益があるような、そういうものか?健康でいられるとか商売繁盛とか、そういう…」
「いや、…そうか、違うな。正しくは…”俺ら以外のもの”を、守ってくれるんだ」
「”以外”?」
「ああ。俺ら一族はな、"こいつら"が無ければ、まるで災厄の根源みたいになっちまう。…周りの生き物が皆、弱ってくんだよ。鶏でも蛙でも、庭木なんかでも――もちろん人もだ。何か、小さいモンが集まってきて、辺りが黒く靄がかかったみてえになって……でも、"こいつら"が居れば、集まってきたモンを散らしてくれる」
「散らす…」

 化野はふと、ギンコが常に咥えている煙草を連想する。あれが無いと、ギンコにも蟲が寄ってくるらしい。集まりすぎた蟲は至るところに悪影響を及ぼす…そういう事情も共通しているように思う。
 今一度竹筒を確認しようと化野が目を向けた先で、藤次の手は竹筒を握り締めた。指の節が白く見えるほど強い力で握り込んでいる様子に、化野は不審がり顔を上げる。
 ついさっきまでの穏やかさの欠片も無い、怒りの色に染まった藤次の目が、そこにはあった。
 
「…そうだ。俺らは"こいつら"無しでは、まともに暮らせやしねえ。俺らと"こいつら"はずっと共に生きてきたのに――蟲師の奴らは、"こいつら"を捕まえて、殺しやがる…!」
「そんな……殺すって、理由も無しにか?」

 化野は思わず藤次の言葉を疑った。理由もなしに、蟲師はそんなことをするのだろうか。ギンコなら…ギンコならそんなことはしない。むしろ何かに害を及ぼしているようなモノでも、なるべくならそのモノ達が生ける方法を選ぶのだ。一体何故、藤次の言う蟲師達は、その竹筒の中に居るモノの仲間達…おそらく蟲を、殺してしまったのだろう。
 化野の問いかけも耳に入らず、握り締めた手の中の竹筒を、瞳の色はそのままに無表情で見つめていた藤次は、はっと我に返った。

「…すまねえ、思い出すと…つい。さっき何か言ったか?」

 少ししょぼくれたように言う藤次に、改めて同じことを問いかけることはできないような気がして、化野はただ静かに首を左右に振った。
 普通とは言い難い藤次の体質、郷里の山に棲む蟲らしきモノ、それを殺す蟲師のこと……今まさにギンコを患わしている蟲と関係あるかはわからないが、ギンコにも聞いてもらうべきだ。何か手がかりになるかもしれない…
 今は自分の患者であるというのに、蟲師としてのギンコを頼らざるを得ない己の無力さに情けなくなるが、何よりも早くギンコを助けたい。化野に鬱々と沈んでいる暇は無かった。

「色々と話をしてくれて、よかった。…今、倒れちまってる蟲師…ギンコって言うんだが、あいつが目を覚ましてから、また話を聞いてもいいか?こんな夜更けだ、あんたもそろそろ眠ったほうがいい…まだ本調子じゃないだろうに」
「…そりゃこっちの台詞だ。俺が言うのもなんだが、酷ぇツラしてんぞ……化野先生。あの蟲師のこと心配だろうが、あんたも少しは休みな」

 そう言ってあっけらかんと笑う藤次は、竹筒を懐へしまいこむと、ゆるりと背を向けて歩き出した。化野は井戸端の水桶を取り、藤次の後に続く。

 「そういや…その、名前は無いのか?"そいつら"に」

 さっきから藤次は竹筒の中のモノを、"こいつ"やら"そいつ"と呼ぶ。一族皆が共にソレと暮らしているというのに、呼び名の一つもないのだろうか。不便だろうに…。
 先を歩く藤次が立ち止まり、体半分振り返る。片手を後ろ首にやり、遠い過去を思い出すようにしばし斜め上を見上げた。

「俺らは特別何とも…呼び名をつけるまでも無く身近にあるモンだからな。…ああ、ただ、蟲師達は確か――『かさのほ』とか、言っていたな」

 かさのほ?……どこかで…
 そう思い巡らした化野の頭の中に、半端に広げられたギンコの覚書が過ぎった。 

















第六話
惑い星様 執筆中!