文 ; 惑い星






『          』 第六話











 かさのほ。

 その言葉を口にした途端、藤次の胸の奥に何か濁ったようなものが渦を巻いた。もう随分前のことだというのに、それでも心が澱むようなこの気持ちは変わらない。

 それはもう十年以上も前のことだ。蟲師と名乗る数人の男が藤次の里を訪れ、この地で増えた「かさのほ」が、近隣の里に移って災いを及ぼしていると言ってきた。なんのことだか分からず、里長がそのうちの一人を引き止め、詳しい説明を求めているうち、他の蟲師たちが里人の目を盗むようにして、山の土に毒を蒔いたのである。

 山の斜面で、青々と美しく生い茂っていた竹の根元を掘り起こし、地下に走っている根を散々に傷つけて、蟲師らはそこへ黒い毒を流し込んだ。「かさのほ」を殺す薬だと言っていたが、当然のこと竹の根もあちこち腐って、山の殆どの竹が枯れて倒れてしまった。

 その時蟲師たちが言っていた言葉が、生々しく藤次の耳に蘇ってくる。


 暈火は群れ過ぎると、
 山や里に火を放ち兼ねない災いの蟲。
 危険の無いよう、数を減らす必要が生じるのだ。
 

 かさのほ、だと…。こいつらはそんなんじゃねぇ。俺にゃあちゃんとわかってるんだ。ちぃせぇ頃、一度だけ見た。青竹の中のこいつは、青く透けてて綺麗で、大人しいもんなんだ。火なんか放って回ったりしねぇ。わざわいなんかじゃぁねぇ…。



「……い…、おい、あんた。聞こえないのか…?」
「あ…っあぁ、すまねぇ。考え事しちまって」

 己が思いの中に沈んでいた藤次は、化野の声でやっと我に返る。気付けば化野に片腕を捕まえられて、どこぞへ引っ張っていかれるところだったのだ。

「眠った方がいいと言ったばかりだが、ちょっと来て貰えんか。ギンコの書いた覚書に、さっきあんたが話してくれた『かさのほ』という名が確か書いてあったんだ。悪いが今からそれに目を通して、何か気の付くことがあったら…」
「…いや、かさのほ、って言ってたのは、前に俺の里に来た蟲師連中だからな。俺はそんなもんのことは知りゃしねぇ」
「え? だが…」

 なんとなく、違和感を感じた。ついさっきまでとは藤次の様子が変わったような。もしかしたら、何か隠したいことでもあるのか、と、然したる根拠も無く化野は思ったのだ。

「…ともかく来てくれ。そして読むだけ読んでみてくれ。その上で、やっぱり知らないなら知らないでいい。頼む、今臥せっているあいつを助けるために、何とかあの症状を治す糸口が欲しいんだ」

 そう言って化野が頭を下げると、藤次はどこか居心地が悪そうに首を掻く。彼は不器用な言い方で、自分にできることでいいなら、手は貸す、と言ってくれたのだった。




 もうすぐだ。多分、もうすぐ。
 それまでの辛抱なんだ。
 もう少しすれば、いったんは楽になるはず。

 ギンコは浅くせいせいと息をしながら、半分眠ったような、それでいて眠れないような、苦しい時間を過ごしていた。寝間の着物を着せられた体が、じっとりと汗で濡れている。昏倒した後床に寝かされ、もう半日も過ぎたころだろうか。人の喉に憑いた暈火は、段々と熱を放つ時間を長くしていくのだ。

 だが、それでも一定の時間が過ぎれば、まるで切り替わるようにその熱を引いて、それまでとは逆に…。

「あ、…ぁあ…」

 引いていく。熱が、あの苦しさがゆっくりと引いて、逆にひいやりした感触が、喉の奥で震えているような。楽でいられるこの状態が、どれだけ続くのかまでは分からないから、化野やあの男と話をするなら、今を逃してはならない。

「あだし…の…。い、いねぇ、のか…」

 身を起こすのも辛く、辛うじて首だけを持ち上げて、ギンコは部屋の中を見渡した。室内には誰もいない。枕元に小さな行灯があるが、その火は消えている。

「ほら見てくれ、ここに『かさのほ』と書いてある。それが喉に憑くこともあると。ということは、あんたのその筒の中にいるのは、その…」

 縁側の方から化野の声が聞こえて、ギンコは焦ってそちらを見た。障子は細く開いていて、その向こうに化野の背な。そして隣には恐らく、あの患者だった男がいるのだろう。どうやら二人はギンコの覚書を見ているようだ。短い沈黙の後、今度は男が言った。

「…まぁ、な。確かに、そう書いてはある。だが、蟲師連中の言う『かさのほ』は、俺らが持ってるこの筒んなかの"もの"とは全然違ってんだぜ」

 何故だか、苛立ちを無理に押さえつけようとしているような声。ギンコは耳をそばだてて目を閉じた。そうしている間に、喉はさらに楽になって、喋ることも出来そうだった。化野も男も、ギンコが聞いているとは知らずに話している。 

「全然違う…。そうなのか?」
「おれらが餓鬼の頃から持ってるこの竹筒の中身は、山に生えた竹ん中で生まれて、その竹を青々と立派に育ててくれる"もの"だ。ずっとそう里に言い伝えられて来てっから、里の誰もが知ってるこったよ。里は昔から竹炭を作って商ってきたところだ。今だってこうして炭を行商して、里に帰るとこなんだからな。それを聞きゃぁ、おれらが"こいつら"を大事に思うのも分かるだろう? その上、こうして俺らのことまでも生涯守ってくれて」

「ギ、ギンコ…っ」

 男の話を途中で切るように、化野がギンコの名を呼んだ。背なで気配を感じ、彼が目を覚ましているのに気付いたのだろう。必死の顔をした化野の横で、少し前まで化野の「患者」だった男が、ふい、と軽く顔を逸らすのが見えた。

 いや、ギンコから顔を逸らしたわけじゃない、丁度そこを漂っていた"もの"を、男は無意識に避けたのだ。

「…あぁ、化野、世話ぁ掛けて悪かった。…今なら話が出来る。それほど長い時間、こうしていられないと思うが」
「どっ、どういうことだ…?」
「今は詳しく言えんが。俺が思うに、この蟲はちぃと特別なんだよ。今は人にも害をなさねぇし、喉に憑いたまんまでも熱なんか放たねぇで、火の性質すら無い大人しい姿になってる。…とにかく、今、してた話を俺にも聞かせてくれるか? 恐らくは、それこそが聞きたかった話だよ」

 ギンコはようやっと身を起こし、それから藤次の方へ片手を差し伸べて言った。

「あんたの話、もっと詳しく聞かせてくれるかい? その竹筒とやらも、よく見せて欲しいんだがな」










第七話
コオリノ 執筆中