文 : 惑い星




『          』 第四話









 常なら憑かぬ筈の蟲が人に憑く。
 留意すべきは、いったい何が、
 常との異なりであるか、という…

 ギンコはずっと、暈火の古い記録を思い浮かべている。何しろ随分前に読んだきりだから、一字一句覚えているはずもない。ただ、文面の終わりに記されていたそれが気になって、足早に歩きながら脳裏で繰り返していたのだ。

 例えばその蟲が暈火だったとしても、元々は人に憑くという性質のない蟲なのだ。参考に出来る記録は一つきりだが、その記録の中の暈火と、今回と、まったく同じ対処法で済むものとは限らない。問題は、何をもって「その蟲」が「その人間」に憑いたか、ということ。常と何が違ったか。何故その蟲は、その人間を選んだか。

 必要なものがいつも寄る店で手に入らず、止む無く道を逸れながら、ギンコは急いた気持ちで、化野に宛てた二通目の文を書く。


  薬草を入手するために二日、或いは三日、到着が遅れる。
  その間、お前にしておいて欲しいことがある。
  患者の話をよくよく聞いて、
  それをこと細かく書き留めておいてほしいのだ。
  特に生業、日頃どのように暮らしていたのかなど。
  無関係と思えることでも、何でも…


「…う……」

 ずきり、喉が痛んだ。その痛みが肺にまで刺さるようで、ギンコの回想はそこで霧散した。そう、彼はただ、思い出していたのだ。ここに来るまでの間のことを…。

 横になったまま自分の胸を鷲掴んで、ギンコは起き上がろうと足掻く。寝てる場合じゃねぇんだ。来た途端、寝るなと化野の頭をはたいた俺なのに。無理でも起き上がろうとしたが、滅多やたらと体が重い。それに恐ろしく熱い。全身を覆うように、尋常ではない熱さが包んでいて、息をすると身のうちを轟々と、熱風が行き来する。

「ご…、ほ…ッ…」

 咳をしても熱い。喉から、舌から、息が通り抜ける場所すべてが焼け爛れそうだ。焼け付く熱を厭うて息を止めれば、体が空気を求めて、すぐにも頭ががんがんと痛んでくる。それでもギンコは言った。

「あ、あだ…し…。ふ…み…っ」
「ギンコ…ッ」

 多分、ほんの僅か離れていただけなのだろう、両手で桶を持って、井戸のある方から戻ってきた化野が、ギンコを視野に見るなり、彼の傍へと駆け寄った。畳に水が零れるのなど、気付いてもいない様子で膝を付く。

「気付いたんだな、ギンコ。一先ずよかったっ。覚えているか? お前、患者の口に松明の火をかざして、その後っ」

 言われながら何があったか思い出す。そうだったのだ。ギンコはなんとか薬を手に入れて、急ぎこの里に入り、この化野の家で患者を診た。当の患者に疎んじる目をされながら、そんなものは気にも留めず、とにかく暈火を払おうと…。
 でも、患者の喉から追い払われたその蟲が、今度はギンコに憑いたのだ。最初から、充分有り得ることだった。覚えているという意味で、僅かばかり頷いて見せながら、ギンコはもう一度言おうとした。あぁ、熱くて、喉をじかに火で炙られているようだ。

「ふ、文…、届い…っ」
「文か。ちゃんと届いてるぞ。明日中に着くと書いてあったのに、二日を過ぎても来ないから、用意に時間が掛かっているのかと、心配して…」
「…それ…じゃ、な…。…う…ぅっ…」

 二通目の文は届いていないのか。ウロという蟲に頼った文のやりとりでは、極々稀にこういうことがある。誰を恨むことも出来ないが、選りによってこの文が、とギンコの目の前が暗くなった。じゃあ、炎でおびき出す方法が良くない方へ転んだ今、次の対処法を見つける材料は、何一つ…

「か、かん、じゃ…っ、は…」

 どれだけ自分の意識がなかったか分からないが、一日も経っていたとしたら、あの患者はもうここにはいないだろう。一こと言うごとに、熱くて苦しくて、それだけでギンコの意識がまた飛びそうになる。

 少しでも熱を感じずに済むように、細く細く息をしながら、ギンコは黙って化野を見つめた。

「あ…」

 いったいどういうことになったのか、蟲が見えずとも分かっているのだろう。化野は必死に動揺を隠して、ギンコがさらに何か言おうとするのを身振りで押し留めた。声を出すたびに顔を歪め、苦しげにしているのを見るのが辛い。

「喋ると喉が苦しいんだろう。お前が来る前までの患者の様子と同じだ。ギンコのお陰であの人はよくなって…」

 もうこの家を発った、と、そう言われるのを覚悟して、ギンコの目が揺らぐ。

「おう、目ぇ覚めたのかい、若造が」

 腹のあたりを掻きながら、当の患者が部屋へと入ってきたのだ。ギンコは目を見開き、貪るかのようにその男を見た。身なりで生業の分かることもある。そんな些細なことからでも、蟲を払う新たな手がかりが入手できるかもしれないのだ。ギンコは重たい片腕を持ち上げて、化野の片袖を掴む。

「き、聞い、て…く…」

 聞いてくれ、化野。
 その人に、聞いてくれ。
 どうして暈火があんたに憑いたのか。
 炎以外に何を差し出せば、
 喉奥から暈火をおびき出せるのか。

 ギンコの姿を暫し眺めて、それでも少しは良心が咎めたのだろう。男は口を歪めて余所を向き、苦いものを噛むように言った。

「ま、治してくれて、礼は言うがね。俺が楽んなって、なんで今度はそっちが苦しそうにしてんのか、知りゃしねぇけどな」

 余所を向いたままで、ふらりと表へ出て行く男の目が、庭先の何も無いところをちらりと見た。そこへわだかまっている小さなものが、くるくると円を描き、すぐに解けてどこへなりと散っていく。

 すべて、というわけではないが確かに彼には「見えて」いるのだ。見えぬものの多い、その生き物たちの姿が。













第五話
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