文 : わたがし
「続 ・ は や る 気 持 ち 」
「何事だ、ありゃ?」
いやいや―――呆けている場合ではなかった。
思わず、取り落としてしまった蟲煙草を拾い上げると、ギンコは、自分も、化野の方へと緩やかな野道を下って走り出した。
兎にも角にも―――化野はギンコ目掛けて駆けて来ているのだろうから、せめて、その距離を短くしてやらんと―――ああ。患者らの微弱な血脈もよく感じとれるように、あまり皮が堅くなるようなことはしちゃあならんのだ、と言っていた大事な医家先生の指先の皮膚が、きっと傷だらけの滅多滅多だ。
「いいから、そこで待ってろ!」
と向かい来る化野に叫んでみるが、まったく足を止める気配はない。
「つっても聞こえんのか」
と、空しく、ギンコは独りごちた。
いや、聞こえたようだった。化野は、ぱあっと更に嬉しそうに顔を輝かせて、両手足を駆使する速度を増した。
「しょうがねぇなぁ・・・」
とにかく、急ぎ、走りながら、ギンコは、この奇行の原因は?と思いをめぐらせた。
憑いた者に、あんな奇行をさせるもの。
狐か?
蟲師を生業にしている者とはいえ、真っ先にそれが浮かんだが、
―-――いや、狐じゃねえな。
と、ギンコは思い直した。
狐憑きってのは、目がつり上がるもんだ、と相場は決まっている。が、今の化野は、むしろ、逆。もともと、つり目がちな双眸が、満面の笑みに崩れて、目尻が垂れている。
それに、この奇行―――
「蟲の仕業かね」
以前に仕事を請け負った、宿づきの琵琶弾きの講談師の女が、弾き語っていた蟲師話のひとつが、確か、こんな話だった―――
〜 行くな。寂しい。一緒にいたい。
〜 されど、言うても詮無い言葉。
〜 その言の葉に栓された、喉の痞え(つかえ)に巣食うモノ。
〜 言うに言えない愛しい人に、
〜 会うた途端に、蟲の棲む、身が口ほどにものを言い、
〜 詮無い言葉に巣食う蟲ごと、身は走り出し、まろび行く。
実際、蟲が逸る余りに、喉元が足より先へと出ようとするので、つんのめり、それでも走るので、四つに這って獣のように駆けて行くのだ。それが、坂の上から下へだったりすると、もっと大変だ。転んだ拍子にころがって、そのままころころとやって来る。それでも、さすがは蟲による奇行だ。坂の途中でその相手と出会えば、そこより先は、重力にも慣性の法則とやらにも従わず、その場でピタリと止まるのだという。
ゆえに、この蟲の名は『ツカエ』、または『コロ』という。
そうだ。あの蟲だ、コイツは。
今や、ほんの一寸先に、千切れんばかりに尾を振っているような、化野の輝く笑顔があった。
いつもの化野は―――例えば、ギンコがいない夜、どんな表情をしているのだろう?
大股で、その間を踏み越えると、ギンコは、そっと、化野の両の手首を握って立ち上がらせた。
この蟲を払う方法は、ただひとつ。
痞えた言葉を除くこと。
そう、例えば・・・
『会いたかった! お前が傍にいなくて寂しかった』とか―――
「・・・・・・ッ!」
思うだけで、歯茎がむずむずしてきた。
いやいやいやいや―――!
こっ恥ずかしいが、蟲払いの為だ。
と、自分に訳を作る。
言いづらいのは、こっちも同じだ。別に、でかい声で言わなくたっていいんだ。
ギンコは、ふわりと化野を抱き締めて、その耳元で囁いた。
「会いたかった――― 」
すると、
「俺もだ、ギンコ!」
と―――ギンコの、こっ恥ずかしい言葉を待たずに―――化野は言い継いだ。
「お前がいないと、寂しくってかなわんよ」
さらりと、そう言い結んだ化野の口から、すぅーっと、薄紅色の霧のようなものが抜け出てきた。ふわり、ふわりと宙に舞いながら、空の青へと四散して、消えた。
驚いて、化野は、
「何だ、今のは?」
「蟲だ」
と、ギンコは言った。
「蟲?」
化野は、ますます目を丸くして、
「俺の口から出ていったぞ? あ!」
そこで、ふと、思い出したように、化野は、
「よう、久しぶり!」
と、いつものように、ひょいと上げた片手を、自分も見上げて―――わちゃー、と言った顔をして、その乾いた土まみれの、掻き傷だらけの我が手をじぃっと見つめて、
「人間、やれば出来るもんなんだな、本当に」
どうやら、この蟲は、宿主にその奇行の記憶を残す類いのモノであるようだった。さすがの蟲好みも、ちょっと動揺しているようだ。
「よう」
全然、久しぶりじゃねえが。
と思いながら、ギンコも挨拶を返して、
「そいつも、蟲の仕業だ」
とギンコは言った。
が、身につまされる話ではあったが、ある意味、他人事だった。もっと雪深い寒い地方に生息する蟲であるように聞いていたから―――この海里の辺りにもいるような蟲だとは思わなかった。
「どうにもならんことでも―――言うだけ言っとけ、って蟲だ。言っとけば、この蟲には憑かれない」
「ほう! その話は、ぜひ聞きたいな!」
ギンコの言の葉の微妙な間をいぶかしみながらも、化野は、目を輝かせて、頷いた。
そして、無理な体勢で駆使してきたものだから、日ごろ使わないような筋肉も使っていたりして、体が、あちこち痛むのだろう。丸めた拳でぽんぽんぽんとうなじや首筋を叩き、背中を叩いて、腰に手の甲を当て、軽く背筋をそらして伸びをした。
道の端のススキの葉にやられたのだろう。きれいな顔も、掻き傷だらけだ。
ギンコは、木箱のトランクの肩紐を、右側だけ外すと、化野の前に背を向けて両膝をついた。
「ほれ」
「あ?」
一瞬ぽかんと間があいて―――化野は、辞退した。
「その木箱も背負ってか? その上、俺もだなんて、無茶すんな」
「大丈夫だ、いつものことだから」
とギンコは言った。
「お前と同じ背丈の、丸っこい婆さんだって、おぶってったことあるぞ」
「しかし――― 」
「・・・すまんな、化野」
背を向けたまま、ぽつりとギンコは呟いた。
「俺なんぞとかかずらわったばかりに、こんな蟲に憑かれることになったのかも知れん」
「まあ、びっくりしたがな」
くすくす、と化野が笑っているのが聞こえた。
「なかなか、面白い体験だった」
のし。
と化野は、ギンコの背中におぶさってきた。
「人の背におぶさるなんざ、久しぶりだなあ」
ギンコの耳のすぐ後ろで、実に、楽しそうに、化野は、
「つまり、お前といると、色々、常にないことを体験出来るって訳だ」
そう―――言われると、聞こえはいいが。
「笑い事かよ」
よっと、化野をおぶって立ち上がりながら、ギンコは、
「坂の、上から下へ、ってんじゃなかったから、良かったが――― 」
「そうか、ころがるな」
「ころがるんだよ」
「ああ、重心が高くなったから気をつけろよ、ギンコ」
「俺は、ころがらんよ」
化野は、はははっと笑うと、また蟲に話を戻して、
「で、蟲の名前は『コロ』か」
「知ってたのか?」
ギンコは、驚いた。
何かの―――蟲患いの文献にでも載っていたとか?
「いや、知らんよ。と言うか、本当に『コロ』なのか?」
「『ツカエ』だ。だが、『コロ』とも言う」
「ふざけてんなぁ」
と言って、化野は笑ったが、それは軽口をきいているだけで、そんな命名の仕方に、化野は感心しているようだった。
ギンコは、いつもの平易な口調で説明した。
「別に、ふざけてるって訳じゃねえ。新種の蟲なんぞ、見つけんのは、大概、流しの蟲師だからな。無学で、物知らずだ。まんま、見た目か、特質で名前をつけるのが、いちばん手っ取り早くて簡単なんだ」
「お前を見てて、流しの蟲師が『無学で、物知らず』だなんては思えんがね。まあ、何にしろ、そういう名前が、結局、分かりやすくて一番なんだ。しかし、そうか、おむすびコロコロの『コロ』なのか、本当に」
「蟲の名前なんざ、そんなもんなんだよ」
今や、化野は、腹を抱えて大笑いしていた。
はあ。
と、ギンコは息をついた。
なんだか・・・
そんなギンコの様子に、化野は、何とか口元を引き締めながら、
「なあ、今夜も泊まってゆくのだろう?」
たった今、蟲による障りがあったばかりなのだ。ならば、ギンコは、用心に―――と、化野は、期待しているようだ。
「あー、そのつもりだ」
とギンコは頷いた。
そう―――この蟲のことは、まだ、あまりよくは分かっていない。先ほどの処置で、抜かりがないか、もう一晩、確かめてから出立した方がいいだろう。
「ふむ」
と、化野は、嬉しそうに頷いて、
「どうにもならんようなことでも、言うだけ言ってみるもんだな」
「ああ。そういうもんだ」
とギンコも頷いたのだった。
終
11/11/26