雪の色を思った。
 穢れの無い、眩しいほどに真っ白な雪を。

 あの方は、たとえ泥の靴に踏みにじられようと、その清らかさは損なわれることが無く、いっそ、雪よりも光そのもののように美しかった。

 考えてみれば、そんなあの方も踏みにじられたことは、あったのだろうと思う。何もかも思うとおりに生きてきたかのように、いつも顔をすっきりと上げていたけれど、その生き死には、勝ち続けるだけのものではなかったのだ。

 失い、それでも追い求め、諦めずに更に追い求めて、かの遠い地まで、あの方は駆けた。駆け抜けて、誰もが目を見張るうちに、あっという間に駆け抜けていってしまった。


**


 真っ直ぐに立って、腰にある刀の柄に手首をかけて、土方は言った。それが聞こえた時、鉄之助はその言葉を、何かの幻だろうと思った。いや、ただそう思いたかっただけなのかもしれない。

 今の彼にとって、それはもっとも辛く、残酷な言葉だった。

「お前にはこれから、軍を離れて、一人で江戸へ戻って貰う」
「………」

 鉄之助はその言葉を、ただぼんやりと聞いて、土方の姿を見つめ続けていた。土方はその眼差しから、静かに横へ視線を外し、淡々と…つめたいほどに冷めた声で続ける。

「江戸についたら日野の佐藤彦五郎というものを訪ねて、これを手渡してくれ。お前のことは、その家が…」

 淡々と言う土方の言葉は、やがてゆっくりと止まった。土方は鉄之助を見つめ、そうしてさらに何か言おうと口を開く。

「…鉄」
「い、嫌です…」

 見開いた目に涙を浮かべて、鉄之助はやっとそれだけを言えた。土方の考えが判らなかった。夕べ、鉄之助を部屋に呼んで、自分のその身を彼に分け与えるようにして、肌に触れさせてくれた。

 それは、この先もずっと、傍にいていいと、そんなにも気に入ってくれているということではなかったのか…。

「鉄は…っ」

 土方は目を閉じ、それから何かに堪えるようにして、そっと唇を噛んだ。彼の白い指が刀の柄を撫で、その柄をしっかりと握る。

「鉄は隊長と…」
「市村」

 しゃくり上げるようにして、何かを言いかけた鉄之助は、びくりと震えて顔を上げた。そこに、誰よりも厳しくて恐ろしい、新選組副長の姿を見たのだ。彼のそんな姿は、もう随分と見ていなかった気がする。

 土方は剣の柄に手を掛けて、すらりとそれを抜き放ち、その刀の刃を鉄之助の首筋に当てた。まだ少年らしい、華奢な鉄之助の首筋に一筋の傷が付き、赤い色が微かに滲む。

「これは命令だ。叛くのなら新選組隊規に照らして、ここで処断する」

 睨み据える土方の目の、その奥の切ない痛みが見えなければ、おそらく鉄之助は、そこで切り捨てられることの方を選んだだろう。

 彼はその首筋を、じわじわと滲み出す血に染めながら、土方をじっと見つめていたが、やがては消えてしまいそうな声で、隊長の命を受け止める。涙を押し殺すような、嘆きを声にしたような、そんな声で彼は言った。

「隊長のご命令に…従い、ます…」
「……気を付けていけ。俺の命令を違えるな」

 これがお前への最後の命令だ、と、心の奥で言い添えて、土方はやっと刀を引き、鞘におさめてから微かに笑った。差し伸べた手が、鉄之助の首筋に触れて、流れた血をすまなそうにしている。

 自分の襟元の、白いマフラーを引き抜いて、汚れるのも叶わずに血を拭いてやると、懐から一枚の写真と書付けを取り出し、彦五郎に手渡すように言い添え、鉄之助に差し出した。

「もう行け。皆が起き出して来ないうちがいい」
「鉄は」

 手渡された手紙と写真とを、大事そうに胸にしまってから、鉄之助は真っ直ぐに顔を上げて、土方を見つめながら言った。最後だと、心のどこかでわかっていたが、無様に縋るようなことはしたくなかった。

「鉄之助は、土方隊長を、ずっとお慕いしています」

 清々しく笑ってすらいる少年の顔を、土方は静かに見つめ、小さく眉をしかめたかと思うと、すぐに顔を横へ向け、ぽつりと、言葉を転がすようにようにして呟いた。

「俺も、お前を好きだよ、鉄。だから」
 
  …死なせたくないのだ。

 言えない言葉の代わりに、もう一度土方は鉄之助の姿を見、そうして静かに言った。

「気をつけていけ」

 土方は鉄之助に、お前を好きだ、と、そうまで言った。鉄之助にとってそれは、常であれば、天にも昇る心地になれる言葉だろうに、その日のそれは、哀しい離別の言葉だった。

 涙の溢れてしまいそうな目を、片袖で、ぐい、と拭い、最後にもう一度だけ土方を見つめて、鉄之助はその部屋を出た。すぐに自分の室へと向い、同室のものを起こさないように荷物をまとめ、彼はそのまま軍を出たのだ。


 *** *** ***

 
 そうして日野へと向かう道の上で、鉄之助はその報を聞いた。その時、彼は泣き叫んだりはしなかった。ただただ、草の揺れる原を見ながら、ああ…と、鉄之助は思ったのだ。

 一つ、終わった、と、彼はそう思った。


 『もしも戦場で俺が倒れても、
     迷わずその先へ行けるような、そういう強さを持て』


 土方の言った言葉を思い出して、それを言った彼の姿を思い、鉄之助は土方から受け取った写真を、着物の上からそっと撫でた。

 大丈夫です。気をつけてゆきます。
 貴方の命じたことを守って、託されたことを最後まで鉄は果します。

 
 そして彼は数ヶ月かけて、日野へと辿り着いた。手紙と写真を渡し、自分も伝え聞いただけの、土方の最期を伝え、そうして彼はまた土方の言葉を思う。


 『俺が命じた勤めを、ちゃんと果すまでは、
      お前は命をなくしちゃならねぇんだ』

 ああ…これも、終わった。


 目を閉じると、どうしてか、脳裏に冴え冴えと白い雪が見えた。


 *** *** ***


 此処からは遠いかの地まで、あの方は駆け抜けていってしまった。その傍らに、ずっと付き従っていた自分を、私は今、あの方自身の次に誇らしく思っていたい。

 今も私は貴方を、あの時以上にもっと…。
 だからこそ、なのです、隊長。

 貴方の事を、私はいつも思い出していました。いつ、どの季節に思い出しても、貴方は、雪の中に咲く牡丹のように美しいです。

 あの最果ての北の地でも、もう冬などではなかったでしょうがど、その時の貴方の姿を考えると、目の中には、真っ白な雪の中に零れた、一輪の、真っ赤な、とても綺麗な牡丹の花が見えるのです。

 
 貴方は怒るかもしれないけれども、私もまた、
 あの北の地を目指した貴方と似た気持ちで、
 今日、こうして行きます。

 こんな時だというのに、温かな、熱いほどに温かな貴方の肌を、私は思い出し、優しく言って下さった言葉を、ほんの昨日のことのように、今もまた思い出しています。


 ……鉄、俺ぁ生身だよ…。


 
 この命尽きるまでも
 いいえ、命が尽きたその先も

 ずっと、鉄は貴方一人を、お慕いしています。



                                     終

 












 待ってて下さっていた方が居たとして、ありがとうございますっ。時間が掛かってしまって済みませんでした! このノベルは、ちょっと惑い星には難しかったみたい。

 こんなふうに書きたい!って思っているのに、どう書いていいか戸惑ってばかりってのは、本当に苦しいですね! そして出来上がっていく話は、想像していたのと微妙にずれていくしよ!

 ですがこうして書き上げてみれば、ヘタレなところもダメダメなところも、みんな可愛く思えちゃいます。困ったもんですよね。特に鉄が可愛くて、鉄から見た土方さんがまた、綺麗で儚げで…。

 ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。惑い星はまた近いうち、碧血碑行ってきますわ、なくとなく。


07/07/11





.
雪白に面影