13/01/30
… 暴れ風 …
斎藤が初めて土方の姿を見たのは、多摩の田舎道でのことである。
陽光降り注ぐ川縁で、その川を挟んだ向かい側、風体のよくない輩が幾人か固まり、何事か諍っていた。昼間から酒を食らい、賭博場なぞへ出入りするような、そうした連中だと遠目にも分かる。
このまま行けば近付く一方。目にしたくも無かったが、来た道を引き返してまで遠ざかろうとは思えず、斎藤はそのまま道なりに歩を進める。
川を挟んで距離が詰まると、口汚く罵る声だの、怒りを煽ろうとする声が聞こえてきた。けれど、それへの応えが一つも聞こえず、斎藤はそれまで逸らしていた視線を、ふと向けた。諍っているのは五人。だが、見れば四対一だ。多勢はごろつき、孤高の一人は…商人、なのか? 背に荷を負うて、その荷に合わぬ木刀が、確かに腰に。
男は、それで身を構えているつもりなのかどうか、わずかに体を斜にして、左手は負うた荷の肩紐を握り、もう一方の右の手は、何も持たずにだらりと下げたままである。
隙だらけだ。が、その隙が、瞬時にして消え去るのを斎藤は見てしまった。目の前の相手が、じり、と摺り足した時、もしくは、ちらと仲間に目配せした時などにも。都度、男は自らの隙を消し去ったのだ。結果、隙だらけのように見えて、相手は一向、手出しができぬ。
いつしか斎藤は足を止め、じっとそこへ立ったまま、彼らを…いや、孤高の男ひとりを見つめていた。やがて、喉奥から欲するように、低く本音が声になる。
「…抜け」
抜くも何も、木刀だ。わかっていたが、それでも見たかった。流派など、いったいなんだとでもいうように、立ち姿からして滅茶苦茶で、だから剣を持ったとて型などなかろうが、それでも一目、見たかった。そうしてあの男が、四人を相手にどう戦うのか。
「抜け。一目でいい。見たい」
無論、その声が届いた筈もないのだが、対岸に居る孤高は、不意に斎藤の方を振り向いた。にらみ合いの最中にいて、無防備そのものに見えた仕草は、しかし、囮でしかなく。
奇声を発してかかってくるごろつきどもなど、相手になりはしなかった。相変わらず荷紐に片手を置いたまま、一応は腰の木刀に手を添え、その格好で右へ、左へと体をかわす。素早い動きで、結わえた髪の先も、ゆら、ゆらりと相手をなぶるように揺れている。
「は、昼間っから、そんな飲んでヒトに絡むもんじゃねぇな…っと」
声はそれだけ。突っ掛かってきたまま、石に躓いて体勢を崩した相手の背なへと、ある意味、卑怯に木刀を降り下ろす。やや手加減のその一撃に、ぎゃぁ、と大仰な声が上がった。
仲間の悲鳴に、今更怯んだごろつきたちを、ぐるり、一望。そうして男は着物の裾の片側を、躊躇いなくめくりあげると、そのまま土手を駆け下りて、斜めに川を突っ切ってくる。腰近くまでをずぶ濡れにして水から上がり、一瞬、ほんの一瞬だけ、ひた、と斎藤を見たのだ。
そして、どこか不機嫌な顔を、した。
「……」
飲まれたように、斎藤の声は出なかった。見せたその顔、跳ねた飛沫で濡れた髪、ほどけた襟から零れる白肌が、先ほどの暴れ風のごとき姿とは、あまりにかけ離れていて息を飲んだ。
それが、最初の一幕であった。
遠ざかる背に視線が吸われて、斎藤は暫し、その川辺から立ち去ることができなかったのである。
終
13/02/07
… 素の様 …
「梅、…梅一輪…」
何事か、そのようなことを呟きながら、土方は一人川に沿う土手の上を歩いていた。片袖の中に片手を仕舞い込んだまま、ぶらぶらと歩く長身の姿は、気侭で無造作ながら中々に涼やかだ。
「春、来たる、梅…。いや、梅咲いて」
ぶつぶつと、彼は呟きながら歩いているのである。川面を渡り、この土手の上まで吹き渡っている風が、まだ春先の今は切るように冷たくて、そんなに寒いと言うのに、家の庭に梅の花が綻びているのを見たのだ。
今朝のことだが、ふと心惹かれて彼は筆と紙を用意した。人の来ないのをよくよく確かめてから、誰もいない縁側に坐し、一句、と改めて梅を見上げた。だが、書こうと思うとこれがいけない。身構えることで肩に余計な力が入って、ロクな言葉が出て来やしないのだ。
歳、
まぁ、巧くやろうとするな。
まずは肩の力を抜けよ。
剣術というのは、急いて上達するものではないのだ、などと、ほとんど年の変わらぬ勇に言われて、業腹だったのはつい先日のことだが、それと同じで句作も力が入り過ぎては駄目だと言うことなのだろう。
句作と剣術と、どちらもある意味では同じ、か。
そうして自分で気付いてしまうと、今度は腹を立てたあの時の自分が恥ずかしくなる。勇のいる道場へ行こうとしていた足を、そこでぴたりと止めて、足先にあった小石をコツリと蹴る。
その途端、草しか見えなかった斜面で、がさ、と大きく音が鳴った。野良犬でも居たかと思って身を乗り出せば、額を片手で押さえた年若い男が起き上がって土方を見た。その険悪な表情に、蹴った石が当たったのだとわかる。
「あ…」
すまん、などと素直に言える性格ではないが、それでも悪いと思ったのが顔に出ていたらしい。男は額から手を外し、手のひらに血などついていないのを確かめると、仏頂面のままそれでも言った。
「大したことはない」
その一瞬、互いに気付いたことが二つ、あった。
『この男、試衛館で見た』
『それ以前にも会ったことがある』
先に声を発したのは土方である。男の方は元々無口で、喋った声を、殆どのものが記憶していないほどだったから。
「お前、確か山口、とか」
「あぁ…あんたは?」
問い返された途端、土方はむっ、と口元をへの字にした。名前も覚えられていない上、年下の相手に「あんた」呼ばわりされるとは。何か一つくらい悪態でもついてやろうかと思ったが、とっさに言葉が出て来ずに、その代り、懐からかさりと何かが零れた。
ひらりと風に舞ったものは小さな紙片。受け止めて、山口はそこへと視線を下ろし。
「梅…?」
「っ、あ! か、返しやがれっ」
焦って伸ばした土方の指先からも、斉藤の指からも、小さな紙片は擦り抜けた。春風の一閃。土方の句作の出来損ないが、一句書かれた短冊である。舞い上がって、くるくると風に踊らされながら、それは遠く川面に落ちて、流されていってしまった。
「あれだともう」
追い付けないな、と山口が言う。あの日の土方のように、例え川に身を浸す気になったとしても、流れゆく紙片の方が、遥かに速い。遠ざかるそれはすぐに見えなくなり、視線を戻した時、土方は白い頬を仄赤く上気させていたのである。
「……」
虚を突かれた。視線が暫し外せなかった。たまに竹刀を交えに行く道場で、幾度かこの男を見た時の、どんな表情とも違うそれが、驚くほど新鮮で、目に焼き付くようだ。
「人に言うな!」
怒った口調で言い放った声に、山口はするりと言っていた。何を口止めされているのかすら、実はよく分かっていないまま。
「言わない代わりに、あんたの名前教えてくれ」
「……土方。土方歳三だ…!」
そのまま踵を返して、肩をそびやかせて遠ざかる背中。この川辺で彼の背中を見送るのは二度目だ。前の時のことも、今やはっきりと思い出した。あれは既に数年も前のことだが、それでも鮮やかな色合いで。
「土方歳三…」
自分では僅かも気付かずに、その時の山口は、何かに焦がれるような不思議な顔をした。彼が誰にも見せたことの無い、もしかすると彼自身も知らないような、素の顔であった。
終
13/03/24
… 滴落つ …
この人も、泣くのか。あぁ、こんなふうに泣くのか。それがその瞬間の、斉藤の感想だった。そう思うと同時に、心の臓が静かに騒ぎ出していて、踵を返す機をすでに失くしている。
土方は井戸端で一人でいたのだ。汲み上げた桶の水を、頭から被っていた。着物は着たまま、髪は元々少し乱れていたのか、後れ毛が滴と共に顔に纏い付いている。白い肌を、黒の髪と透き通った水滴が、飾る。
膝付いたまま項垂れている土方は、声も言ってはいなかったのに、斉藤は気付いてしまっていた。
あぁ、泣いてる…。
強張ったような肩の線、桶の縁に置いた手に、妙に力の入っている様。首だけが、がく、と下へ向いていて、浅い息遣いに揺らぐ背中。悔し涙なのか、それとも憤りの。
土方は常から、世辞にも大人しいとは言えない性格で、敵も少なくは無いのだと知っている。もう随分前のことになるが、やくざものに絡まれているのも見たことがあった。その時はあざやかに躱す姿が見事だったし、当人がもう、そういうこと日常に馴れていて、滅多なことで後れを取るものではないのだ。
でもそれが今回は、ある意味、相手が悪かったのだという。恨みを買うと言うことは、あらゆる理不尽を、どこかで覚悟せねばならないと言うことでもあった。
太吉といって、よくそこのところから、
道場の中を覗き見してた人がいましたよね。
わたしたちよりまだ若いくらいの。
問われもせぬのに斉藤に教えてくれたのは、試衛館の門人の沖田だ。彼の言う太吉を斉藤はよく知らなかったが、彼よりさらに三つ四つ年下に見える男が、よくこの道場の前で、剣術修行の真似事をしていたのは見たことがある。
それから、その男が土方の稽古が終わるのを待っていて、何くれと纏わりついていたのも。兄ぃ兄ぃといつも言ってくるのを、土方は煩そうにしてばかりいたが。
その太吉って人が、怪我をしたんです。
一度も会ったこともないごろつき達に、
あっという間に囲まれて、乱暴されたそうですよ。
それで目が片方、見えなくなるかもしれないって…。
酷いですよね、本当に酷い。
あぁ、それは確かに酷いことだ。土方に太刀打ちできないからと言って、彼の傍にいる弱いものに、鬱憤晴らしで手出しをしたということなのだろう。そうして今、ふと目にした土方は、井戸端で頭から水をかぶって、高ぶる思いを沈めていた。
「このままじゃ…、済ませねぇ…」
ぽつり、零れた声と同時に、土方は立ち上がって振り向いた。斉藤がそこに立っているのを、その刹那にやっと気付いて驚き、一瞬後には射殺すような目をした。
「てめぇは何でか、いっつも嫌なとこに出てくる。なんなんだ、俺を見張ってやがんのか…?」
「……意外だ」
問われたことへの返事ではなく、ただの独白めいて斉藤は呟いた。あんたは、本当に意外な顔ばかり見せる。まるで幾人ものあんたがいるようだ。見張ってるわけじゃないが、正直、見ていたくなる。もちろん、これは心の中で言っている言葉だ。
「…手伝おうか」
「あぁっ? いらねぇ! 一人で充分だ…っ。太吉の兄貴分は俺ぁだ、てめぇにゃ関係ねぇ」
殆ど無意識に際出していた手布は、手の甲で激しく弾かれた。泥の中に布は落ちたが、不思議と腹など立たなかった。いらぬ世話だと分かっていて言ったのだ。そう言わなければ、黙って彼を見ていたことに説明がつけられないから。
去っていく後ろ姿に思った。今は追い縋れる背中じゃない。だからこれから、あの背を追っても当たり前でいられるところに、自分は居たい。居られるようになりたい、と。
十日も経ったころだろうか。いつもこのあたりで悪さをしていたごろつき達の姿が、急に半分ほどにも減っていた。残るものたちも、みな目立つ怪我を負っていて、妙に素行が大人しくなったのだという。
またあの川べりで、擦れ違った土方の顔には、ほんの小さな擦り傷。その後ろをついて歩くのは太吉で、片目を包帯で覆っていながら、晴れ晴れとした誇らしげな顔だった。そうして土方は、相変わらずの煩そうな顔であしらっている。
道場であった沖田は、怪我の一つもしていない癖して、いつも愛用の竹刀を直しに出しているという。
「やれやれ、飛んだとばっちりですよ。…ま、いい気晴らしでしたけどね」
そう言って笑った沖田を、斉藤は心の何処かで羨んだ。
終
13/05/05
… 細乱れ …
もう今日で二日、斎藤は土方の姿を見ていない。そろそろ日も暮れ落ちる夕刻、試衛館からに帰り道。その日は音の無い雨が降っていた。五月雨、というやつである。
あまりに細いので目にも見えず、同じ理由で随分と静かで、濡れた土を踏む斉藤の足音ばかりが、等間隔に響いていた。と、その足音が僅かに乱れる。徐々にゆっくりになり、やがては止まる。
「土方さん…?」
二日、姿を見ていなかった土方の背中が見えた。身を屈め、急ぐようにして斉藤の先を歩いている。声を掛けずそのままついて歩いて、斎藤は稲荷神社の鳥居をくぐった。信仰の深い場所なのか、祠は人が入れるほどに大きく、そのわりに寂れていて、そこに入っていった土方の姿が不思議だ。
見ていると、祠の中に小さな火が灯った。他の人間の気配は無く、土方のものだけだと分かると、斎藤はゆっくりとそこに近付き、声を掛けることも無く戸を押し開いた。
「っ、な、なんだてめぇは」
目を見開き、動揺を露わにした土方は、雨で濡れた着物のもろ肌を、惜しげも無く左右に脱いだなりだった。そうして薄暗い蝋燭の灯りで見る体には、手当もしていない青痣だの擦り傷だのが。
「…別に。あんたの行く姿が見えたので」
見えたから追った。ここに入って行ったから自分も入った、と、それでは土方の問うた言葉の返事にはなっていない。案の定、土方は酷く嫌そうに、ふい、と横を向いて彼から視線を外してしまう。
「てめぇは本当に、来て欲しくない時、居て欲しくない時にばかり傍にいやがる…っ。俺はてめぇに用なんざねぇんだ、とっとと出て行け」
険しく言いながら、床に片膝付いた土方の体が、ぐら、と横に傾く。何しろ、祠は狭い。畳二枚にも満たない空間なのだ。差し伸べた手がすぐに届いて、斎藤は乞われもせぬのに彼の体を支えていた。
「医者には」
言っていないだろうと分かっていて聞いた。
「こんなもなぁ、蚊に刺されたようなもんだ。医者になんぞかかったら笑い草だ。いいから出て行け。このことは」
「他言無用、と?」
「……そうだ」
う、と土方が低く呻いた。真っ白な肌に赤い鮮烈な傷が、まるで美しい装飾のように見えて、斎藤は密かに、ごく、と息を飲む。それだけではなく、痛そうに顰めた土方の顔から、目が逸らせなくなっていた。自分がおかしいのは先から分かっている。
衆道、などという言葉で決めつけたくはなかったが、ただ、真っ直ぐに、有り得ぬなどと否定することは無く、そのままに、斎藤は土方の存在へと傾いていた。
「人には洩らさない。だが、あとでもう一度来る」
「どういう…」
酷く不思議そうに、腑に落ちぬ険しい顔で、土方はそう聞いた。斎藤はそれへは返事もせずに、細く開けた祠の戸の隙間から外へ出る。雨は少し強まっていたが、少しばかり火照った体に、その雨粒が気持ちよかった。
雨の中を走りながら、斎藤は考えていた。多分土方は、太吉を襲ったごろつき共のうちの誰かに、また難癖をつけられたのだろう。卑怯な手を使われたか、今回は後れを取り、あの怪我を負わされたのだ。
だが、あんな無様を平気で人に曝せる男じゃない。人の居なくなる隙を探して、家や道場に手当の道具を取りに行くも、果たせず祠に戻ってきた、というところか。
しかし、斉藤が同じ目的を果たすのもすぐではなかった。怪我ひとつ見当たらない姿で、打ち身擦り傷の薬だの包帯だのを引っ張り出していれば、一体何をと問われるに決まっている。道場にて人の居なくなるのを待ち、結局は辺りが暗くなる頃、漸く祠へと戻ってきた。
「…遅ぇ」
暗がりから、ぽつり、そんな声が聞こえる。斎藤は携えていた提灯の唐紙を下ろして、灯りを強くした。携えてきたものを土方の傍に並べながら、視線を上げてその姿を見る。
土方はもろ肌を脱いだままの姿だった。背を壁に寄り掛けて、小さく肩を縮込めている様が、寒いのだろうと思わせた。斎藤は何も言わなかったし、土方も何も言わない。無言のままで薬や包帯を取り、小器用に怪我の治療をした。
余った包帯や薬を、斎藤の前に転がし、土方は着物を纏い直すと、己の腕を枕にそこへ横になった。双方何も言わぬ沈黙は、居心地が悪いようでいて、逆に許されているような気にもなる。出て行け、邪魔だ、ぐらいの悪態を、普段の土方なら平気でつくだろう。
一度止んでいた五月雨が、また降り始めた。祠の軒から滴る滴の音。あたりの草を打つ雨音。風も出て来たらしい、ごう、と鳴る音と共に、雨の音はばらばらと強くなった。
「てめぇは変わってんな」
ぽつり、また一言だけ土方が言った。
「どういうところが…?」
純粋に知りたくて斉藤が聞いた。
「てめぇがいても、俺ぁは素でいられるみてぇだ。そういうところが、変わってる」
「……」
腑に落ちないことを言われたのに、身のうちが熱くなるような心地がした。やがて静かに聞こえてきた寝息に、斎藤は羽織りを脱ぎ、土方の体に掛けた。
「明日も、来ますよ…」
眠る土方の耳元に、ほんの少しばかり近付いて言った。来るなと言われる恐れの無い、寝入った耳に囁くとは、随分と臆病だと、己の心の揺らぎを想った。
細かく、震える様に心は乱れている。五月雨の音を聞きながら、細乱れの心を抱いて、斎藤は帰り道を行った。
終
13/07/04
… 秘め花 …
「あばら家に、寝ていて寒し…春の、月」
ぽつりと、土方は呟いた。心は静かに澄んでいて、およそそんなことなど考えていた直後とは思えない。だけれど沈めた脳裏の底には、「その計画」があり、彼は暗がりの中で、むくりと身を起こすのだ。
明日も来る、と斉藤は言った。ならばもう直かも知れぬ、顔を合わせる前にと急ぎ支度をして、土方はその祠の外へ出た。猫のように足音を立てず、淡い月明かりだけの夜道をいく姿を、見ているものなどない。
決めた通りの場所へ生き、考えた通りの仕掛けをして、物陰に潜んでじっと待つ。夜冷えは傷ついた体に辛かったが、そんなことはどうでもいい。しくじればどうなるかなど、考えればすぐに分かるそんなことは、微塵も考えない。
道の向こうから酔いどれ共の声がした。二人、三人、四人といったところか。下卑た笑いで夜を騒がせ、少しずつ、少しずつ近付いてくる。
「なぁ、今頃どうしたかなぁ、あの生意気な」
「ヤサにゃ戻ってねぇらしい。どっかでおっ死んだんじゃぁ?」
「散々、ぶっ叩いてやったからな、かも知んねぇ。ザマ見やがれ」
口々に、そう噂するのが自分のことと、土方は分かっていたが、悔しげな顔一つせず、ただ闇そのもののように、蹲って。
「これからは俺らの天下だ! やりてぇ放題し放題ってな!」
「見ろや、あすこにもう一軒飲み屋があらぁな」
「おぅ、そうだな、寄ってこう寄ってこう」
道を斜めに逸れた男たちの足元で、土方はしっかりと手にしていた黒い紐を、ぴん、と。うわ、だの、おっと、だの、小石にでも躓いたような声で、男どもはてんでによろめいて、つんのめって、そしてそのまま、その先の斜面へと突っ込んだ。
露に濡れた草は、酔いどれ共の足をさらに滑らせ、その後は、もう、夜とも思えぬ大騒ぎ、である。
斜面の下は牛小屋だ。小屋と言っても屋根しかなくて、そこで五、六頭の牛が立ったまま寝ていたのだ。元来臆病な牛たちは、いきなり滑り落ちて来て、次々自分らの脚にぶつかってきた何かに仰天した。
ぶもぅぶもぅと鳴きながら、逃げようとして騒ぎ出す。鼻面同士を繋がれていて、逃げ出すことも出来ないから、余計に怒って、その巨大な体でひしめいて、重たい体重の乗った足で、足元を散々に踏み締め…。
土方は、牛の鳴き声に混じった男どもの叫びとともに、足かどこかの骨が折れるような、鈍い音も数回聞いた。それ見たことかと笑ってやりたいと思ったが、そうして顔を見せることで、太吉がまた狙われたら大変だ。
やつらの足を引っ掛けた紐と、小道具で向こうの飲み屋から拝借した、赤い提灯を回収し、それを元の店先へ返そうと…。
「………っと」
ぐら、と土方の視野が傾いたのはその時である。空の途中に掛かる淡い月が、いきなり跳ね上がって高いところへ。でもそれはつまり、土方が地面に膝を付いて、倒れたということだ。手にしていた提灯が、火のついたまま土へと落ちて、唐紙にぼぅ、と火が移る。
「……あぁ…燃やし、ちま…っ」
そうは言うが膝に力が入らない。立ち上がるどころか胸までもう地面について、その時ようやっと、自分の状態に彼は気付いた。しゃがんで身を潜めていた草の露で、びしょ濡れの体が氷のように冷たい。それでいて額は、火でも燃え移ったかのように熱くって。
「…いけねぇ…、俺ぁ、熱…が…」
土方は足掻いた。少しは燃え残るだろう提灯も、手に持っているこの紐も、自分自身がここにいることすらも、やつらに仕返しした証拠になる。少なくとも、自分がここで誰かに見咎められるわけには。ばれちまったら、また太吉が。
そう思って必死になる体が、唐突に抱きかかえられた。力強い腕と胸だった。知っている匂いがして、無意識に縋っていた。抱かれている自身の体が、温められて心地がいい。かくん、と頭が傾いて、唇が、誰かの肌に触れたとわかった。
「…っ、あ、あんたって人は」
そう言った声が、土方の唇に直に響いて、触れているのが彼の喉だと知れる。彼の…斉藤、の。
「………」
きゅ。と一瞬、吸っていた。途端に斉藤の体がびくりと震えて、土方を抱いていた腕が緩みかけ、一瞬後にはもっと強く抱かれていた。
「あの祠へ、連れて行きますよ」
いいですか、と尋ねる響きではなかった。もう有無も言わさず抱き上げて、存外軽いその体を、大事そうに抱いて斉藤は、例の祠へと急いだ。体中の怪我と、少なからずの失血と、今夜までと今夜の、この無茶のせいで、土方はもう意識を失う寸前なのだ。だから。
だから、今のも意識してのことではあるまい。ただの偶然だ。ただの、意味もないことの筈だ。触れた喉に口づけをされ、縋るように抱き返されたなどと、そんなことは。
なのにずきずきと、その部分が熱を持っていた。土方の唇が吸ったところが、鼓動するように疼いている。
「あんた、って人は…」
もう一度、同じことを言いながら、斉藤は土方を祠の床へと横たえた。もう意識の無い体の、その肌の白さと、意外な細さと、甘い息とに、斎藤の理性は一瞬ごとに粉微塵になる。
月は中空で、ふ、と雲に飲まれた。闇夜が訪れて、尚更舞台が整った。この夜この先、何が起こるか。それは二人だけが知る秘め花。何も起らないではないだろう。けれど、それがどんな花なのか、彼ら以外の誰も、知りえないことなのだ。
あばら家に…。
終
熱があって大変なのに、なんてことを! ってのは、土方さんに言っていいのか、斎藤に言うべきなのか分からん惑です。本能なのか何なのか、斎藤の気持ちに気付いた土方さんの、粋な「礼替わり」ですかねぇ?
でも軽く、きゅ、っと。なんてそんなの! 暴走ワンコの背を押すようなもんだが! 土方さんの具合が悪かろうがなんだろうが、気遣いが吹っ飛んでって、無体を強いてしまう。そんなキャラです、うちの斉藤。続きはありませんっ。あとは皆さまの想像におまかせ☆
読んで下さりありがとうございましたーっ。
13/07/04