blogより 転載  08/03/13〜10/05/13
チビ ノベル  8ケ

08/03/13

… あんたのイヌ …



眩暈が酷い。

 指示を出し終えて、周囲から人が消えると、不覚にも目の前が暗くなった。ふらついて無意識に傍らのものに縋り、なんとか立っていると、片手で縋ったそれが、不意に動いて彼を支えたのだ。

「あんた自ら、やるとは思わなかった。顔に血の気がない。大丈夫か」

斉藤の声がそう言った。血? 何の話だ? こんなに血の匂いがしている。鼻孔は、血と、溶けた蝋と、肉の焦げる匂いとでいっぱいだった。耳には立て続けに聞かされた、奴の呻き声が詰まっている。

 非道い、ことをした。
 ただの尋問じゃぁない、拷問だ。しかもあまりに残酷な。

それでもしなければならなかった。非道いと判っていたから、せめて自分でやった。これはだから、逃げられぬ苦痛なのだ。誰にも慰めてなど欲しくはない。彼を支える斉藤の腕が、さらにしっかりと体に回されるのを感じて、土方は弱々しく抗った。

「よせ。離せ。いらん気遣いだ」
「いるかいらんか知らない。俺がそうしたくてあんたを抱いてるだけだ。指が…震えているな。そんなのを誰かに見られたくないだろう」

言いながら強引に、斎藤は土方を家屋と家屋の隙間へと引き入れる。抗いながらも引きずられ、人に見えない物影で、改めて強く抱きしめられる。半分崩折れた恰好で、土方の顔が斎藤の胸に埋まった。

 彼の体からは、薄く血の匂いが香っている。新しい匂いではないが、染み付いたその匂いに、土方はやっと息をついて、自分からも彼の背に腕を回す。

 血まみれなのは自分だけじゃぁなかったな、と何の慰めにもなりゃしない事実に、不思議と笑いが込み上げた。

「斎藤…?」
「なんだ」
「いや…」

名を呼んでおいて、そこから言葉が続かない。斎藤はしばし続きの台詞を待ったが、ただただ流れる沈黙に、きつく抱いていた腕を緩めた。

 おあつらえ向きに、傍らに置き捨てられてある古机に土方の腰を落ち着かせ、自分は彼の前の地面に膝をつく。ぼんやりと斎藤を見下ろす土方の顔が、何故だか少しあどけない。

「指が、まだ震えている…」
「放っとけ、今に止まる」
「…俺が、すぐに止めてやる」

 斉藤はそう言って、土方の手を自分の口元へと引き寄せた。手のひらの唇を触れさせ、そのまま指先に口づけし、視線では、ぼんやりとしている土方の顔をじっと食い入るように見て。

「新選組は、幕府のイヌだそうだが…俺は、あんたのイヌだ」

 そんなことを淡々と言って、斉藤は舌先で、土方の人差し指と中指の間を舐めた。びくりと引っ込められそうになる彼の手を、強く掴んで引き止めて、今度は華奢な小指を根元まで口に含む。

 何かを連想させるような、微妙な感触で吸い付かれ、舐め回され、歯を立てられて、土方はうっすらと頬を上気させる。こんなことをされていたら、今に心が、時折来る夜のように斉藤を求めてしまいそうだ。

「やめろ。俺のイヌだってんなら、いう事聞け」
「…あんたのイヌだが、元はそこらへんにいる獣だ」

 小さく、斉藤の目元が笑っていた。

「獣で、ケダモノだから、いうことを聞かないこともある」

 そんなことを言って、土方をぎくりとさせておいて、斉藤はするりと立ち上がり、今まで愛撫していた彼の手を眺めるのだ。表では何人かの隊士が、副長の姿を探し回っているようだった。

「震えは止まったようだ」
「……あぁ、礼を言うべきか?」
「いや…俺はただイヌらしく、飼い主の手を舐めただけだからな」

 血の気が戻った土方の顔を、満足げに見つめて、斉藤は土方の傍を通り、路地の向こうへと抜けていく。遠ざかる背中を眺め、それから土方は、さっき愛撫された指先を、自分の唇へと触れさせた。

 生々しい血の匂いはまだ覚えていたが、それよりも斉藤の匂いが、強く自分を支えてくれている気がした。
















08/05/19、08/08/31と、09/05/01


… ひとりことば …


刃物に触れるように、あんたに指を触れる。
綺麗な体を反らした姿も、光るようなその美しさも、
やはり刃のようだと思うから、
指先が切れて血が滲もうとも、この指、這わせるのを
もう止められないのだ。

俺の指が傷つくと、あんたはどこか悲しそうだ。
俺の指が血に濡れると、あんたはやっぱり辛そうに見える。

構わないでくれ。
どうせ俺がしたくてしていること。
囚われたくて囚われて、
縛られたくて縛られて、
繋がれたくて繋がれている、
永遠に、俺はあんたのものだから。









… 明けの勝敗 …


 目を覚ますと、障子の隙間を開けたその前に座って、あんたは髪を撫で付けてた。まだまだ夏だが、早朝は空気が澄んでて清々しい。隙間から、かすかに吹き入る涼しい風が、あんたの白い首筋に、わずかばかりの後れ毛を揺らす。

 まるで、昨夜の俺の、愛撫のようだ、と。ぼんやり思った。くすぐったげに肩をすくめ、煩そうに手でそれを、結わえた髪の紐の方へと撫で付け、撫で付けしては、あんたは庭の緑の木の葉を見上げている。

「起きたのか、斉藤」

 振り向きもせずに言うのは、俺が殺していた気配を表に出してからのこと、言われた途端に、後ろから手を伸ばし、あんたの顎に後ろから指を掛け、喉をそらさせて首筋に唇を這わせた。

「まだ、床にいてくれ。起きる刻限までは、まだ一刻もあるだろう」
「離せ。ぎりぎりまで寝ているのは、俺の性に合わん」
「だろうが。次はいつか判らないんだ」

 顔を無理にこちらへ向けて、あんたの唇を強引に吸うと、あんたは迷惑そうな顔をして、臂で俺を押し退けにかかる。夜はあんなに素直なものを、朝にはあんたは冷たい顔だ。その冷たい顔がまた、綺麗で、綺麗で、眩暈がする。理性が砕けて、俺の中のケダモノが騒ぐ。

「夜が明けたら、その時は、組のあんたに戻るがいいが、まだ夜のうちは、あんたは俺の土方さんだ」

 絡めた舌に、ほんのわずかの温度が灯る。その熱をさらに高められれば、ここは俺の勝ちだろう。そしたらあんたは俺の腕の中に戻る。そうでなれけば俺の負け。あんたは組のことばかり思う、冷たくてつれない上司になっちまう。

 だが、あんたがうっすら開いた目の中に、悪戯っぽい光を見せて、俺はこの場の敗北を知るのだ。後れ毛を撫で付ける仕草まで、実は「誘い」か。俺を引き寄せて面白がっていたのか? ならば勝敗はこの後に、俺の愛撫とあんたの喘ぎで計るとしよう。

 夜明けまでもう一刻足らず、朝の日よ、なるべくゆるりと昇れ、と俺は思うのだった。







… 白牡丹 …


白牡丹 月夜月夜に染めてほし
はくぼたん つきよつきよに そめてほし


はだけた着物の前をそのままに、あんたは黙って俺を見た
悔しげな顔などしていない。
ぼんやりとただ俺の方を見たまま、
淡々とした眼差しで、少し、あんたは怒っているんだろう。
つい、抱いた。なんて、そんな言葉は吐くつもりがない。
綺麗に銀色をした月の明かりが、あんたを色っぽく見せたから、
欲にまみれた俺の想いは、抑えようもなく暴れて…。
辛いような顔をして、あんたはずっと、きつく目を閉じていた。
気の違ったような俺を、一度も罵らず、無言で抗い、
余程嫌なのか、幾度もこぶしで、床を打ち据えていたのだ。
憎いだろう、俺が。もう嫌われちまった。取り返しはつかない。
そんなふうに思いながら、俺はあんたの傍を離れられないでいる。
目を赤くしたまま、まだあんたは俺を見ていた。
手のひらはもう、こぶしを作ってはおらず、
ほんの微かに動いて、信じがたいことに俺を手招きしたのだ。
白い牡丹の花弁のように、あんたの肌は薄紅に染まって見えた。













08/10/08

… 秋空のように …

『斉藤と・バージョン』

「今は、秋空のような、そんな奴になったんだよ、あいつぁ…」

 縁側で、ぽつり、土方は独り言を言った。そう、それは独り言だったのだが、傍で聞いている男は、それをそうとはとらえてくれなかった。体一つ分だけ離れたままで、顔は向けずに視線だけで彼を眺め、ぼそり、声にならない声のように返事をする。

「意味が判らない」
「…何もお前に話しかけてねぇ」

 風が吹いて、少し乱れた後れ毛が、彼の白い頬を撫でて震えている。遠くを見る目をした土方は、その深い目に空を映して、薄く開いた唇に、何か言いたげな色を見せていた。

「耳に入れば気になる。あんたのその目も、唇も…まだ、沖」
「いいから、お前は欲しいもんに、さっさと手ぇ出しゃいいだろうが。さっきから、寄るんだか寄らねぇんだか、曖昧な場所に根ぇ下して嫌がって…っ」

 言い掛けた斉藤の声を遮って、土方は彼をじろりと睨んだ。珍しく土方は時間が空いていて、斉藤は非番で、邪魔をするものはいない。

「なら、遠慮なく」

 斉藤は土方に近寄ると、まずは大きな片手のひらで、そっと彼の両目を塞いだ。そうしてから唇を塞ぐ。抱き寄せて抱き締めて体の自由も奪った。あんたは沖田さんのものじゃぁない、自分のものだ、と、そう言いたげに。







『島田と・バージョン』

「今は、秋空のような、そんな奴になったんだよ、あいつぁ…」

 縁側で、ぽつり、土方はそう言った。そう、それは独り言だったから、傍で聞いていた男は、聞こえない振りをして、かわりに彼の体を気遣った。体一つ分だけ離れたままで自分の羽織を脱ぎ、腕を懸命に伸ばして、それを土方の肩に掛ける。

「お寒いでしょう」
「か弱いと思ってるのか、俺を」
「いえ、そんなことは。でも俺の体温は高いんですよ。嫌でなければ着ていてください」

 風が吹いて、少し乱れた後れ毛が、彼の白い頬を撫でて震えている。遠くを見る目をした土方は、その深い目に空を映して、薄く開いた唇に、何か言いたげな色を見せていた。

「貴方が何を考えているか、頭の悪い俺には判らないですが、それがどんなことでも、俺が土方さんを」

「守るってか? やっぱり、か弱いと思ってるんだろう」

 怒ったように、微かに口尖らせる土方のその唇を、じっと島田の眼差しが見る。

「そ、その…可愛いと、思ってはいます。寂しそうで、辛そうで。そしていじらしい」

 あなたのせいじゃ、ありません。誰のせいでもないんです。だから…。小さく小さく呟いた言葉は、風に吹かれて千切られて、土方には聞こえなかったかも知れぬ。てめぇ、不遜だぞ。と、土方は島田を睨んだ。

「寒い。羽織じゃ足りねぇ。あっためろ」

 言い捨てて土方は立ち上がり、自室へと歩いた。後について来る島田を、ちらりと振り返ってみた頬が、照れたように少し染まっていた。















09/11/06

… 生身の雪花 … (※喪の時と同じ世界観)



 見渡す限りの雪原を、ずっと一人で歩いていた。自分のつけた足跡も、最初の方のはきっともう、降り続く雪の下に埋もれて消えただろう。こんなに真っ黒な服を着ていたって、こんなにも降り続く大粒の雪の只中では、目立ったりなぞしない。

 寒いのは得意じゃねぇけどな
 雪は嫌いじゃない
 綺麗じゃねぇか、まるで白い花だ
 咲き乱れる白い花の大地
 風に舞い上がって、それから
 ゆっくりと降り頻る真っ白な花びら

 女々しいって、笑うか?
 笑えよ、お前なら許すさ。
 許すから、早く追い掛けてくればいい。

 寒過ぎて、瞬きしないようにしている瞳の上の水分までが、凍り付きそうで怖い。だけれど目を閉じれば、まぶたが凍って開けなくなりそうだ。もしもそうなったらきっと、落ちてくるお前の唇がなけりゃ、開かない。

 … あんた、まるで雪の化身みたいで少し、怖かった …

 いつだったか珍しく雪が降ったときに、半分飛んだままで耳にした言葉が、本当にお前の声だったのか、俺はもう思い出せないから、新しい思い出をくれ。幻なんかじゃなくて、夢なんかじゃなくて、滅多に熱くならねぇお前の、冷たい手の温もりが欲しい。

 欲しくて、あぁ、もう壊れる。
 壊れてしまいてぇんだ、いっそ。

 俺はずっと外側ばかり鎧ってきたから、誰にも触れさせねぇ内側は本当は、おっかなくなるくらい脆いんだ。ひび割れてるのが、見えてただろう。

 お前、今は 何処に居る?
 思い出さねぇのか、俺のことを。
 なぁ、俺はここにいるよ。
 この真っ白い冷たい雪の中に。


* *** ******* *** *


 真下を見下ろして背を丸め、消えかけた足跡を辿って追いかける。

 あの人はいつも、黒い軍服に身を包んでいるんだ。それがまるで、喪装のようだと思ったが、その姿が降り続く雪に紛れることなく、探し出すことができるから、俺は助かってた。随分歩いて姿を見つけ、身動きしない背中を見てぽつりと思う。

 見つけてなど、欲しくないのですか。

 そう尋ねることは出来ずに、自分の着ていた羽織をその背に掛けた。俺の羽織はこの人には大きい。それが段々と目立ってくるように思える。この人はまた痩せた。顔が白い、雪のように。

「寒いな」
「上着を着ておられないからです」
「……島田」
「はい」

 降り続く雪を見つめたままで、副長は俺の名を呼んだ。澄んだ目に映っているのは、見渡す限りの白い原。膝下までもすっぽりと埋まるほど、一晩で積もった雪が、一ヶ月前までの草の原を白く覆っていて、そこはまるで別の世界のようだ。

「寒くないのか」
「…鍛えていますから、平気です。でも、そろそろ貴方を連れて戻りたい」
「部屋へ戻ったって寒い」
「火鉢を借りてきてお持ちしましょう」

 やっと俺を見て、うっすらと微笑む顔が、ふい、とまた足元へ視線を落としてつぶやく。

「火鉢があっても、まだ寒い。わかる…だろう…」
「はい…」

 それは、いつもの符号だと判っていた。この地に来た頃には俺は察しが悪すぎて、願いを溜めた目をさせたままで、幾夜もお一人のままにしてしまった。

「言っても構わないでしょうか」
「……いい」
「お慕い、しています」
「…」

 今までに、いったい何度言っただろう。ずっとずっと封じていたこの言葉は、最初の夜にねだられて初めて声にした。なんでだ、同情か、哀れんでいるんだろう、と抱かれながら言うこの人に、そうじゃないと伝えるためだけに。

 だけれど、やっぱり駄目だと判っている。だから、

 追い掛けてくればいい、早く。文を書いて居場所を探させるなど、命令される以外のことなどしないが、それでも、雪の中に紛れてしまおうとしているこの人を、俺ではちゃんと支えられない。

 両手を差し伸べたって、しっかり掴まえたいと思ったって、この人は俺には片手だけでしかすがらない。目の前で膝をついて、冷たい雪の大地に沈んでいこうとするこの人を、本当に支えられるのは、すべてを許されたあんただけだ。 

 ずっと待っていられるほど、この人は強くなんかない。
 ずっと待っていられるような、平和な立場の人じゃない。

 こんなに脆い人なのに。
 この人の敵は多すぎて、
 俺ひとりで守り抜くなんて、もう。



 あぁ、もう、出来なかったよ…。


 北の地の五月はまだ、どこかしこに雪が残っていた。そのせいかあの人の倒れた場所が、あの、真っ白い雪原だったような気がしてやまない。今も待っているのかもしれない、あの場所で。

 寒そうに身を竦ませて。
 俺の羽織を、それとも、あんたを?
















10/05/13

… 梅花の涙雨 …


 しとしとと、しとしとと、雨の雫があんたの上に垂れる。あんたはそれを頭へ受けて、少し寝乱れた髪を濡らしていた。俯いた額から頬へ、唇へとその滴りが流れて、唇を濡らして零れている。

 あんたの着ているのは、夜着の薄物一枚きりで、びっしょりと濡れたその白が、体に纏いついて肌色を透かせていた。世辞にも逞しいとは言えない体の、その線が酷くあらわで、俺はあんたの部屋にいたままで、苦しいような、痛いような心地でじっとしている。

 生きてるもんである以上、誰でもいつかは死ぬもんさ。
 そんならなんか一つくれぇ、でかいことして逝きてぇよ、俺ぁは。

 京へと上るという時に、そういって獰猛なくらいに笑ってた、て、言っていたのは誰だっただろう。あぁ、目に浮かぶようだけれど、今のあんたと、その想像の中のあんたが、あまりに掛け離れていて胸が裂けそうだよ。

 ふ、と顔を上げて、あんたは自嘲を浮かべながらこっちを見た。俺はくしゃくしゃに乱れちまった、このあんたの夜具の上にいる。まるでふて腐れたような格好で体丸めて、もう、為すべきことのひとつさえ判らないで、ただただ、じっ、とあんたを見ているよ。

「……斉藤…。気ぃ、済んだか…?」

 ぽつり、言う言葉は、不思議と震えては居ず、そのまま事実のとおりに、俺よりずっと年上の物言いだった。

「そうだよな…。おめぇだって、あいつとは年の近ぇ仲間なんだもんなぁ。やり切れねぇ、どうにもしてやれねぇのが苦しい、って、そう思うよなぁ」

 それでこの振る舞いか、と咎めることもせず、乱された夜着の襟を、両腕で胸に掻き合わせて、あんたは震えた。

「いい…。いいんだ、別に。そも、全部が俺のせい、って、言われても、俺ぁは反論できねぇから、いいさ。でけぇ夢え語って、まだ餓鬼の総司を、こんなとこまで連れてきちまって、挙句、病にさせて…か…」
「ひ…じかたさ…」

 一瞬、何を言われたのか判らなかった。俺はやっと身を起こして、殆ど裸のなりのままで、震えながら言う言葉を探す。そんなのは酷い誤解だ。そんなつもりはないのだと、それだけは言わなきゃならない。

 違う。違う。責めたんだなんて、思わないでくれ。
 誰より傷ついて、辛い気持ちりあんたを、
 俺がどうして、責めるだなんて、思うんだ。

「ちが……。俺は…」

 言い掛けて、また俺は押し黙る。びしょ濡れたままのなりで、あんたはすっくりと立って、すぐ傍まで迫る梅の枝を見ていた。じき春がくるから、気の早い梅の蕾が、枝先に丸く膨らんでるのを、あんたは見ている。

「…いいさ、案外、楽にしてくれるもんだな、…って、思ったしな」

 枝先から滴る水滴が、目を閉じたあんたの頬に落ちる。透き通った雫よりも、もっと透き通った顔をして、あんたは言って、そうして笑った。

「おめぇに、されてる…少しの間、だけだけどな。そんだけ、ちったぁ、何にも考えらんなくなって、それで意識飛ばして目ぇ覚ましたら、息が少しは上手く、出来るようになったみてぇだよ」
 
 まるで感謝を言うように、あんたは。
 全部が自分のせいだと語って、あんたは。
 あんたは…。

 気付けば俺は、またあんたを夜具の上に組み敷いてる。激情はおさまらず…。いいや、いっそあんたの肌に触れて、もっともっとと燃え盛り、焼き尽くすように、喰らい尽すように、あんたを抱いてる。


 そう…じ…っ。


 けして恋仲の相手を呼ぶような声音ではなくて、あんたが何度も、そうやって別の男の名を呟いて、俺は狂って、終いにゃ一匹のケモノにまで堕ちそうだ。

 あんたが弟のように可愛がった、死んだ男と変わらぬ年で、それでもあんたに、縋られたくて、支えにされたくて、それもできなくて…。ただ、雨ん中の花のようなあんたが、これ以上雨に打たれないように、俺は肌をさらした体でもって、あんたのその身を覆うんだけだ。

 いつか立ち直ったあんたの隣で、あいつみたいに。あぁ、誰より凄い剣士だったあいつみたいに、きり、と立って、なんでもないことみたいに、軽々と俺はあんたを守るのだ。

 この身が粉々になるまで、守って、守って、守るのだ。
 永久に、永久に、どこへでも付き従い、生涯かけて。

 生涯かけて。



 まだ、咲かぬ梅の香の匂いがした。
 夢の中では、まだ為すべきことがあったのに、
 目覚めたら、何もない。

 あの人も…
 あの日のままの俺すらも。

 ただ、しとしとと降る雨の中、
 たった一輪、咲いた梅花が濡れていた。