恋 一 情 




「島田、お前は医者を…!」

 土方の言葉を聞くと、島田は言われた通りに茶屋を飛び出して行く。このまま抱えて運んでいいのかどうか、医術の知識のない彼らでは、それすらも判らない。それほど衰弱が酷かった。斉藤の目は、宙を彷徨うように揺れていて…。

 一人でそんな彼を見ている土方は、胸が潰れるようで、冷静ではいられない。

「さい…とう…」

 部屋の真ん中におろされた彼の傍まで、行くのですら膝が震えた。血の色など、匂いなど、慣れているはずじゃないか。それどころか仲間の死すら見てきた。闘死という形ででも、粛清という形ででも。なのに何故こんなにも、体が震えるのだろう。

「い、今すぐ医者が来る。大丈夫だな…? 斉藤」

 手を差し伸べて肩に触れると、着物ごしのその肌が、随分と冷たいような気がした。息が詰まるような思いで、土方は斉藤の傍に寄り添い、震える腕で、彼の体を抱いたのだ。

 あぁ、き、気のせいだったか。温かい…。

 動揺し過ぎている自分を、心のどこかで自覚したが、それでもどうにもならなかった。目を閉じた斉藤の顔が、妙に静かに見え、そんなことまで恐ろしい。

「斉藤…っ、さ、斉藤ッ。め、目ぇ…開けろっ」

 ぐったりした彼の体を、揺さぶってしまいたい心細さを、必死の思いで押し殺し、土方はそろりと斉藤の頬に触れる。口から何度も零れたであろう血が、赤黒く色を変えて固まって、彼の唇を汚していた。その不穏な色が怖い。彼の唇が息をしているのかどうか、確かめたくなる。

「な、なんか言えよ。…斉藤」
「ん…。ひ、土方さ…」

 零れた声にほっとしたのに、その次には細く開かれた目の虚ろさに、土方は心臓を押し潰されそうになる。死んでいこうとする奴の目に、似ているように思えたのだ。

「ば…か…。苦しいんだろう…っ。口なんか開かねぇでいい。目も閉じてろよ。俺の言うことなんか、聞かねぇで。医者は…医者はまだなのかッ。遅い…っ」

 その時、痛みに霞んでいた視界に、斉藤はぽんやりと見ていた。鬼と呼ばれる副長の、怯えたような目。震える唇。冷えた唇や首筋を、大事そうに撫でてくれる土方の指。とても現実とは思えない、その光景を。

「夢…か…」

 全身に受けた傷が熱を持ち、斉藤の肌という肌が全部、引き攣れる痛みに悲鳴を上げている。なのに、酷く体が寒かった。折角、大切な人を夢に見ているのに、夢の視野さえ朧ろで、今にも消えてしまいそうなのだ。

 消えるな、消えるな…と、そう思う。出会ってから始めて、こんなに間近で彼を見るのに、それがただの夢だって、消えられてたまるかと、そう思う。

 ああ…あんまり綺麗な、綺麗な人で、触れることさえ怖いくらいで。それでも本当は触れたくて、彼の唇を吸いたくて、肌のすべてに口づけしたくて、そればかり思って、これまで遠くから見ていたのだ。その土方が、こんなに自分の近くにいる。

「夢だろう…これは」
「何、言って…。うわ言か…っ? 斉藤…。今、医者が」
「夢なら…」
「…え?」

 土方はやっと聞こえるかすれた声を、耳を寄せて何とか聞き取り、もう涙すら浮かべていた目を見開いたのだ。

「…好きだ……」
「さ、さい…」

 そこまで言うだけの事で、斉藤はもう目を閉じてしまった。飲まず喰わず、恐らく睡眠すらも与えられず、昼夜打ち据えられた傷の痛みで、きっと彼は目覚めながら夢を見ているのだ。土方はそう思った。

 多分、こいつは今、惚れた女の事をでも。

 こんな時だというのに、嫉妬で胸が焼け焦げた。唇を噛んで、噛んだままの唇を、彼はそのまま斉藤の唇に押し付けた。衝動的にしたことで、今は自分のその大胆さに、気付いている余裕もない。

 その淡い口づけで、斉藤の血の匂いが喉まで入り、それと同時に、唇から零れる息遣いが判った。

 妬いてる場合か。違うだろう。
 生きていてくれただけで、嬉しいじゃねぇか。
 女の事を夢で口説くなんざ、まだまだ大丈夫な証だ。

「副長、医者です。斉藤は…っ」
「遅ぇぞ、早くこっちへッ」

 医者の体を抱え上げるようにして、島田は階段を上がってくる。気付けば土方の腕の中で、斉藤は意識を失っていた。畳の上に仰向けに横たえさせ、医者は彼の体を隈なく診たが、やがては顔を上げて、強く頷く。

「酷い打ち傷だが、命には別状はありませんな。何日か休養をして、熱が下がって、疲れが取れるのを待てば、何も問題は」
「…だがっ、意識がねぇじゃねぇか!」

 声を荒げた土方を、幾分驚いた顔で島田が見る。医者は慣れたように薄く頬笑み、もう一度丁寧に言った。

「意識がないというより、極度の疲労で、体が休養を欲しているんでしょう。寝ている、と言い替えてもいいですが」
「な…んだって…?」

 はっきりと聞こえる大きさで、土方は安堵の息をついた。

 なんだ、じゃあ、あれは寝言か?
 寝言なんかで俺を焦らせやがったのか。
 ふざけるなよ。散々、心配掛けやがって。

 でも。死ぬことはねぇ、と。

「島田。俺ぁ、先に屯所へ戻る。準備をしておくから、なるべくそうっと抱いて帰ってくれ。ゆっくりでいいから、揺らさねぇようにな」
「は、はい…っ」

 医者に礼の金子を渡して、土方はふらりと外へ出た。ついさっきここへ来た時は、どこも見ていなかった町中の様子が、妙に生き生きとして目に入ってくる。

 不思議なことだった。斉藤が生きていて、自分も生きている。その事が、こんなに何もかもを変えてみせるなんて…。土方は片手の甲で、そっと自分の唇に触れた。どこか困ったような顔をして、彼は急ぎ足に屯所へと戻って行くのだった。


 *** *** ***


 斉藤が目を開けると、見たような見ないような天井が目に入った。少なくとも、自分がいつも寝起きしている場所じゃない。知った部屋だとは思うが、いったいここは、何処のどんな部屋だったか。

「斉藤! やっと起きたな」

 誰かの声がして、一瞬でその声の持ち主を思い浮かべ、彼はがばりと身を起こす。

「ふ、副…っ。ぅあ…ッ」
「馬鹿。いきなり動くな。あちこち痣だらけなんだからな」

 言い置いて部屋を出て行き、土方はすぐに戻ってくる。

「何をきょろきょろしてやがる。俺の部屋だ。俺の。ここが一番静かだし、体も気も休まると思って、特別ここに運ばせたんだ」

 そして土方は一つ咳払いして、あさっての方を向いて言い捨てた。

「助けられたばっかりん時に、女の夢なんか見てる奴は、殺したって死なねぇとは思ったけどな」
「夢?女…?」 

 なんの事かと言いたげに、斉藤は眉をしかめている。そんな彼に粉の薬と白湯の湯飲みを渡し、首を傾げている斉藤を睨んだ。

「お前、夢で女に言ってたんだろうが」
「あの時、俺が見た夢には」

 そんなふうに二人は互いに言い掛ける。相手の声を耳にしながら、互いに自分の声を止めようとせず、土方は言った。

「好きだって」

 そうしてそれと同時に、斉藤も言っていた。

「あんただけしか」

 その一瞬の沈黙の後に、二人は視線を、それぞれ何もない場所へと逃がしている。

「え?」
「…あ。うわっ!」

 斉藤は一声叫んで、布団の上に転げた湯飲みを拾い上げた。いつの間にか、薬包の上から粉薬も零れている。勿論、白湯も零れてしまった。いつもはそんな顔を見せない斉藤が、おたおたと慌てているのが珍しい。

「…く、薬、持ってきてやるから、寝てろ…っ」

 バリ…っ。

 妙な音がした。投げるように土方は言って立ち上がったが、着物の布地の裾を踏んだのだ。つんのめって、なんとか掴んだ障子には指の穴が一つ、くっきりと。

 残された斉藤は、さっきの湯飲みを手に包んで、呆然と布団の柄を眺めている。

 夢じゃ、なかったのか…。
 俺を抱いてたあんたも。
 俺の本心を聞いたあんたも。

 斉藤の心臓は、また激しく高鳴り出し、その胸にこぶしを当てて彼は項垂れる。死にそうだ。容赦ない拷問の傷より、鋭い刀での傷より、この胸の高鳴りの方が、余程、自分は死にそうになる。

 あんたには、生涯敵いそうにない。
 だから俺はきっと、死ぬまであんたの下に、いるんだ。

 あんたが好きだ…。


                                    終











 あのファンの方なら、ピーンと来そうなシーンを書いてしまいました。はっきり述べるわけにはいきませんで、そう、あのシーンです。あれの後の一幕なのです。

 タイトルの「恋一情」は「こいひとじょう」と読んでいただけたら嬉しいですが、無理ですよね。アハ。つまり二人の恋の一頁だと言いたかったの。でも恋一歩も変だし、恋一段? 恋初日? どれも変なので、このタイトルに決まり。響きが好きなので、是非「こいひとじょう」と!

 実は、これはぽけ様から頂いたリクエストです。とあるステキなものを、惑い星に用意してくださったお礼です。どうもリクを踏まえてない気もしますが、どどどどとうかご容赦をっ。

 次はアレですね、アレ。暫し待ってて下さいな〜。いつも有難うございます〜。それではー。


07/10/28