幾 鳴 幾 夜  八 





 島田は土方の体をベッドにそっと横たえ、彼から剥いだ襦袢でその裸身を包むと、開いている窓を静かに閉め、二間続きの隣室へ、何か拭くものを取りに入っていった。戸惑いながらも勝手に探し、布巾らしきものを見つけると、それでごしごしと窓近くの床を拭き、窓枠に積もった雪の溶けたのを拭き取る。

 少し丁寧すぎるくらいに床や窓周りを拭いてしまうと、島田はやっと少しは気持ちが落ち着いて、土方を寝かせたベッドを振り向いた。けれどうっすらと目を開けている土方を見ると、途端に心臓が騒ぎ出して、顔が赤くなるのが判った。

「副ちょ…。いえ、その、ひ…ひじか…」
「ああ、島田、すまねぇな、床、拭いててくれたのか」
「あ、は…はい」

 身を起こして肌を曝すと、島田は慌てて横を向いた。そうして島田が横を向いている間に、土方は襦袢だけを身につけ、細いその体をベットから下ろして立ち上がる。乱れた髪が酷く色っぽくて、彼へ視線を戻した島田は眩暈がしそうだった。

「なぁ? …また、お前ぇと酒が飲みてぇな。誘ったら、来てくれるか…?」
「あ、それは…、あの…」

 言っている意味が、判るだろう? 土方の眼差しがそう言っていた。けれどその目は、この夜の始まりに見せた彼の目とは、どこかが違っているように思えた。まるで少女がはにかむような、そんな恥じらいが滲む。

 こんな人だったろうか、と、島田はまた目が眩むように思った。 

「は…はい、是非…また呼んで下さい」
「あぁ、島田」
「は……。っぅ…ん…」

 いつの間にか目の前に来ていた土方が、彼の胸に手を置いて、軽く伸び上がり、その唇を島田の口へと押し付けていた。

「約束だ」

 そうしてあざやかな笑み。少し悪戯っぽいような、どこか少年のような…。それから、つい、と背中を向けて、土方は島田をからかった。

「片袖、濡れてるぞ。替えはあるのか?」

 袖が濡れているのは、実は、隣室での自慰の跡。土方が眠ったのだと思って、高ぶったままに干されていた己のそれを、島田は一人で慰めたのだ。そうしてそれを飛び散らせるわけにいかず、袖でおさえたときの染み。島田は首まで真っ赤にしながら言った。

「へ、部屋へ戻ればあります。あぁ、明るくなる前に戻らなければ」
「…もう朝か。早いな」
「はい、そろそろ、俺」
「あぁ、今夜は…世話に、なったな…」
「………いえ」

 島田は土方に指摘された片袖を、なんとか隠すようにしながら、明け方前の外へと出た。窓辺に立った、白い襦袢の土方が、どうしてか思い悩むような顔をしながら、ずっと島田の後姿を見ていた。雪の中を歩く姿が見えなくなるまで、ずっと寒い風を浴びながら窓を閉じずに立っていた。
 

 * ** *** ** *


 島田の鼓動は、朝から酷く高鳴っていた。

 夜が開ける前に、こっそりと自室に戻って、一睡すら出来るはずも無く朝を迎えて、土方がどうしているか気になると同時に、どんなふうに顔を見ていいのか判らない。自分からはもう二度と、声も掛けられないような気もしていて、激しい動揺で頭がどうにかなりそうだ。

 それでも気付けば、迷いながら脚が勝手に土方の自室へ向いてしまっていて、顔を上げた目の前にはもう。あの閉じた扉が。

「………ふ、副」
 
 その時、がちゃり、と音を立てて扉が開いた。中から出てきたのは、ここのところずっと、土方の身の回りの世話を命じられている市村鉄之助。まだ子供といってもいいような年の、幼いほどの少年だった。

 その市村が、俯いて目を赤くして、盆を胸に抱えたまま出てきて、危うく島田の体にぶつかりそうになった。

「あっ、す、すみません、し、島田先生」
「…いや、どうかしたのか? 副長に、な、何か?」
「違うんです」

 市村は突然、ぽろぽろと涙を零した。

「い、市村…っ?」
「違うんです。嬉しいんです。副長が…っ。副長が、私の入れたお茶を『ありがとう』と…」

 いつもいう礼の言葉と、それは酷く違っていた。茶を運んだとき、今までだって、声くらい掛けてもらっていたが、それが今日は違ったのだ。どこがどう、とは市村も言葉にならない。だけれど、今までよりもずっと、あたたかだったのだ。

「なんだか、今朝はあの方が、とても近くにおられるように思えたんです。いつももっと、ぴりぴりとしていて、どこかお辛そうだったけど、今朝は違ったので、それで…」

 一生懸命にそう言って、市村は島田を見上げた。島田は胸が詰まるように思いをして、やっとの思いで、そうか、とだけ言った。そうして島田は土方の部屋を訪ねずにそこを引き返す。

 その後、さらに何日か雪は続いた。降り続いた雪が随分積もっていたので、ある日、朝から調練の代わりに、その雪退けを全員ですることになった。

 島田が朝餉を食べてから外へ出ると、黒い長い上着を着た土方が、雪を運んでいる平隊士らのすぐ傍にいて、ふとしゃがんで、白い手のひらに真っ白の雪を掬い取るのが見えた。

「…こうも見事だと、合戦でもしてぇような気になるな」

 彼はそう、ぽつりと言ったのだ。それを聞いた隊士が、不思議そうに首を傾げる。土方は、ふ、と笑って更に言った。彼の美麗な微笑みに、その場にいた隊士の数人が、口を開けて見入っている。

「知らねぇか。雪の多い土地の子供は、こうして雪で玉を作って、それをぶつけ合って合戦するのさ。まず二手に分かれてな。そういうのも案外、戦術の訓練によさそうだ」

 もう一度しゃがんだ土方が、傍らにいた隊士に言って、小枝を一本取ってこらせ、積もった雪の上に何かを書いている。

「こう、ここを敵陣だとすると、俺ならばここにひと塊の兵を置いて、そこが本陣だと思わせて、こっちの見えにくいとこに伏兵を」

 傍にいた隊士は、雪退けの手を止めたら叱られるんじゃないかと、最初はチラチラと気にしながら仕事をしていた。だが土方が近くにいるもの皆を目で呼ぶので、結局はそこに集まって、彼の周りに人垣が出来てきた。

 島田は土方と皆のその様子を、開いた口を閉じるのを忘れて遠くから見ていた。声は切れ切れにだが聞こえてくる。生き生きとした声だった。

 あの人は、と、そう思う。つい数日前まで、人を寄せ付けない香りを、あんなに放って孤独でいたのに、今はあんなふうに…。だが、きっとこれこそが、土方歳三なのだ。これが本来なのだ。たった数日で彼は自分を、取り戻そうとしている。

 あれから、何度か言葉は交わしたが、あの日はまるで夢のような…。俺は結局、あの方を、少しでも助けることが出来たのだろうか。そう思ってしまった自分が、酷く小さく思えて、足元の白い雪ばかりを島田は見ていた。けれどその時。

「島田!」

 あれほど遠くから、すっ、と通る澄んだ声で、土方は島田を呼んだのだ。戸惑いながらも急いで駆け寄った島田の腕を、土方の手が掴む。一瞬合わさった目が、ちらりと恥じらいに似た何かを滲ませた気がした。

「島田、見ろ。お前が守るのはここだ。本陣の斜め前。本陣にいると見せかけて、こっちの伏兵の中に俺もいるから、お前もここにつくのだ。お前がいてくれたら、俺は自分らしく振舞える」
「俺は、副長の、お傍に」
「あぁ、そうだ。お前でなくば駄目だ」
「は、はい…」

 腕を掴んだ土方の手に、きゅ、と小さく力が篭った。雪の白すぎる色が目に染みて、島田は土方が地面に書いた合戦の配置図が、よく見えなくなっていく。

 離れません。

 声に出さずに言った島田の言葉が届いたように、土方はこくり、と小さく頷いて、広い広い雪の地の図面に、酷く大きな合戦図を書いていく。巧みに描かれたその図を、口々に隊士が褒めると、土方は照れたように笑って、指にすくった雪を、そっと目元に当てていた。

 島田。と土方が彼を呼ぶ。

 はい、副長。と島田が呼び返す。

 雪はどこまでも白く、白く、それでも北の遅い春が、ゆっくりと近付く季節のこと…。

 



 
 函館での土方歳三を、優しい男だったと言ったものは少なくない。
 鬼と呼ばれた京時代の彼を知るものの中に、
 そんな彼を別人のようだとは言わず、これが本来の彼なのだ、
 と、語ったものもあった。

 夢を追い、夢に生き、そのために自分の姿すら変貌させていた彼が、
 この地で、ほろりと零すように、
 本当の、土方歳三を垣間見せたのだろうか。
 夢に向けて生涯を駆け通した彼は、あの最期の日に恐らくは、
 少年の眼差しをしていたのだろうと思う。

 彼の命は潰えたが、魂はそのまま夢を目指し、
 立ち止まることなく進み続けたのかもしれない。
 そして、そうあってこその土方歳三なのだと、
 のちにこれを話に聞いたある男が、
 遠い遠い場所を見るような目で、
 ぽつり、消えそうな声で、言ったのだという。



 終

 







 あぁ、寂しいな。こんな戦場でも、春に花が開くように幸せを見つけた彼。だけれど、ここ、北の地に本当の春が来るとき、彼という人の生涯は、終わりを迎えるのですね。どぉっ(涙)。こういうテーマを書いてしまうのは、土方ファンなら、あることかと思うのですが、まぁ、ここ…函館だしね。

 最近、碧血碑行ってないけども、いかなきゃだね、うん。

 ここまで読んでくださいましたかた、ありがとうござました。なんか似たようなエンディングを別で書いた気もするけど、確認しないことにします。あー、気にしない方向で。←駄目じゃないかー。


2010/08/16