『 青 芥 子 』 



… こりゃあ、切腹かな。

 そう、淡々と思った。
 この人にこんな真似をして、ただで済む筈は無い。無意味な言い訳をする気もないが、理由なんぞ、さらに告げようとは思わない。

「…っ! ん…」

 押し付けた唇に、不意に血の味が染みて、その血が微かに口にまで入ってくる。重ねた唇の端を酷く噛み切られたその瞬間に、喉の奥でただ呻いて、斉藤はそれでも、土方の唇に食らいついて離さなかった。

「斉藤…っ」

 胸に手をついて拒み、顔を横に向けることで、やっと蹂躙から逃れた土方は、見開いた目で、ただ強く斉藤を凝視する。顔色を失ったその肌に、血の色をつけた唇が、変に艶めいて見えた。ここは屯所傍の、狭い路地奥。

「何のつもりだ。てめぇ」

 平静に言ったつもりの言葉は、語尾が震えている。顔ごと逸らされた土方の目を見ていると、彼の方が、咎められるべき何かをしたように見えてくる。

「別に…」

 斉藤は自分でも気付かずに、微かに笑った。あんなにも遠くにいるように見えて、今までずっと、欲しがることさえ出来なかったのだ。それが、ただ一歩を踏み出してみた今は。

「あんたの『まじない』…とやらが、どんな味か、知りたくなっただけだ」
「…何を、訳のわからん…ことを」

 言葉に、はっきりと動揺が滲んでいる。斉藤は間近で土方を見つめたまま、軽く上げた手で、彼の刀の柄に手を掛けた。唇を濡らした自分の血を、舌先で小さく舐める。

「俺に僅かばかり分けて、消えてなくなるものでもないだろう。嫌なら逃げたらいい。それとも…斬るか?」

 刀の柄を強く押さえると同時に、斉藤の腕が、土方の体を壁に押さえつけた。土方の大刀は封じた。だが、彼の腰には脇差もある。斉藤の刀を奪う方法もあるだろう。土方が彼を斬る気なら、もうこの瞬間に、斉藤は生きていまい。

 震えるような息をついて、土方は言った。背後の壁に背中を強く押し付け、彼はゆっくりと斉藤に視線を戻す。静かだが、怒りの染みた目だ。

「敵前逃亡は、出来ねぇからな。私闘を…許さず、とも法度にある」
「俺のしている事が、真っ先に隊規に触れるだろう。士道に…叛くまじきこと…」
「判ってて、やるのかよ」

 射殺すようなきつい目。その目が、さらに、斉藤を突き動かすのだなどと、土方は知るまい。高潔な武士の魂なんぞ、この欲にとり付かれた瞬間に消えた。それは土方という人を、知った刹那の事だったように思える。

「…斉藤…。今、一刻しか…時間がねぇんだ。行って、あいつの様子が見たい」

 まるで、懇願するような言い方。このままもっと彼を蹂躙したくなるような、甘美な誘いに等しい。

「あんた、そう嫌でもないんだな。慣れているのか?」
「…斉…っ、…ふ…ぅっ」

 もう斉藤は、土方の刀から手を離していた。強引に体を押さえつけてもいない。一方の手で土方の顎を捕らえ、もう一方の手では、彼の首筋に触れる。

 触れた手のひらの下で、土方の喉が小さく上下した。薄く目を開いたままの、唇での交接が深く、複雑になる。舌が彼の口腔の熱を感じ取り、唾液の甘さを味わう。

 そうしながら、喉に触れていた手で襟を軽く乱させ、そこに唇を落とす。と、不意に笑いを含んだ声が、土方の鎖骨の上を這った。

「本気で嫌がるとか暴れるとか、しないのか」

 斉藤の指先が、土方の肩の上を直になぞる。身を竦ませて、微かに震えて、今度は土方が薄く笑った。最初の怒りと焦りが、その顔から消えている。

「こんなことをしてるお前も、ここまで黙ってさせてる俺も、十二分に士道不覚悟だ。だが、お前が言わなけりゃ、誰かに知られりゃしねぇしな」

 両腕をだらりと体の脇に下げて、今はもう、体に力を入れもせず、ただ壁に背中を預けている土方。斜めに空を見上げる目は、変に澄んでいて静かだった。

「あいつのところに、行くのか? これから」
「ああ。明日からは忙しくなる。行くなら今日の今しかない」
「供は」
「…お前がくるさ」

 笑って言うと、土方は乱された襟を手早く整え、何事も無かったように、路地の外へ向けて歩いていく。斉藤は、そんな土方の背中を暫し眺め、それから路地の奥へと向った。

 裏を回って屯所に入り、最初から屯所内の何処かにいたような顔で、再び表通りへ出る。歩き始めた斉藤の前を、いつもと寸分違わぬ様子の土方が、速い足取りで歩いていた。

 背中を見つめて歩きながら、斉藤は思っている。

 自分と土方の間の距離は、縮まったのか、それとも遠ざかったのか。いや、もしかすると最初から、交わらぬ世界に住む相手だったのだろうか。

 掴みどころのない男…。一時、捕らえたと思っても、もう今は手の中にいない。半端に触れた肌に、唇に、さらなる欲を植え付けられただけだ。

 得体の知れぬ青い華の毒が、知らぬうちに体を蝕むように。

 角を曲がって消えた土方の姿に、微かな渇きを感じて、斉藤はさらに脚を速めるのだった。


                                    終










 こんな難しいものを、なんで書き始めちゃったかなぁ。とか思ってしまいました。で、なんとか書いてみれば、あんまり特徴のないお話になってしまったような気がする。

 力不足。がくり。

 でもまあ、自分では好きになれたので、よかったのかも。これを書くために、じっくり瞑想(妄想?)しようと、立待岬のデカイ岩の上に座って、暫し目を閉じていたりもしてみた。われながら変な人だ。

 斉藤にとっては、土方はちょっと掴みどころのない、ややこしい人のようだ。刃物のように鋭く尖っていたかと思うと、見方を変えたらいきなり、酷く脆かったり、何処か傷ついていたりする人。

 それでもって、麻薬の材料になる華を連想させるらしい。そんなもんがこの時代にあったかなんて、私にだって判りゃしません。気にしないで読みましょう。笑。


06/06/26
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