雨咲きの花
雨が降っていた。霧のような細かい雨だ。土方の視線の先には、まだ硬いままの蕾の椿があり、その濃い緑の葉の上で、雨の雫が途切れぬ音を生んでいる。ここは人の住んでおらぬ空き家。空き家のままに家主から借り受けて、住まうわけでなく時折使っていた。
例えばどうしても一人になりたい時。
例えば、他の誰にも知られずに、人と会おうと思う時。
もうここに座してから一刻も経ったろうか。雨の音をじっと聞きながら、土方は酷く落ち着かぬ気持ちでいた。自分がこんな思いをしようとは、他の誰かは勿論、彼自身にも思いも寄らぬことだからだ。
雨は続いている。さーーーーーーー、と、意識の外から彼の心へ囁く様に、目には見えぬほどの細かい雨が、降っている。
かた、と小さく音がした。庭の周りに巡っている高い塀に、小さな木戸があるのだが、その戸が微かに鳴ったのである。軽く体を屈めながら、表情もなく入ってきたのは、土方がこの家に呼んだ男である。
新選組副長助勤、三番隊隊長、斎藤一。
勿論、すぐにそれと気付いたが、まるで気付いておらぬかのように、ふ、と土方は視線を外した。先からずっと待っていたものを、忘れたとでも言うようにだ。斎藤は木戸から入って、それ以上は近付いて来ようとせず、そこにじっと立っていた。
傘も持たずにきたものか、既にしとど濡れている髪も着物も、さらにもっと濡れていき、着物の下の体のかたちが、段々と浮き上がってくるようだ。
…なんで、何も言わねぇんだ。そう思った。自分から声も掛けぬのが悪いのだと、思っていても考えない。
こういうところは気に喰わねぇ。まるで、そんなに濡れたのが俺のせいだとでも言いてぇみたいに、じっとそのまんまでいやがるから。前から気に入らなくて、それでケチでもつけてぇように思って、よく眺める様になったら、この男の事が…見えてきた。
若い癖に、嫌味なくらい寡黙で無表情。いったい何を考えているんだか、常に分からねぇ風情をして。
だけれど命じたことを損じることがなく、常に見事にやり遂げて、しかも自慢な様子など欠片も見せず、稀に手柄を気付かれずとも構わぬ。その、媚の無さ。正直、こんな男が隊にいたのかと思った。しかも多摩の頃から、試衛館に出入りしていて、この京ではわざわざ新選組に入ってきた。
あぁ、そうか近藤さんを慕ってか。自然と、土方は思ったものだ。あの人は豪傑だからな。人柄も良いし万人を惹き付ける。男ならこうありてぇと思うような人だ。
組の為に働く斉藤の姿を、ある時すとんとそう納得して、同時に心の底では苛立った。隊の頭は近藤勇。自分はその下の副長で、隊の全部は近藤のものだ。俺が指図しようと、別の誰かが指図しようと、組の為、局長のためならば、この男は変わらず動くのだろう。
ただ、そんなふうに思っている自分を、負けず嫌いの土方は気付いていない。
「……何してる、さっさとこっちへ来い」
「承知」
髪からも着物からも、ぽたぽたと雫を落としながら、斎藤は土方のいる縁側まで近付いてきた。近付いて、でも軒の下には入らない場所で、ぴたりと足を止めてしまう。
「中へ上がれ」
「いや、いい、濡れる」
「だが…」
「いい、ここで」
短いが、すでに押し問答のようなものだ。呼び付けられなどして迷惑なのか、と、土方の肩が僅かに怒る。じゃあ、言っても無駄かと、半ば先を予見しながら土方は立ち上り、自分も雨の下ぎりぎりまで出て来て言った。
「なら言うが、本当は手短に言えるような話じゃねぇんだ。乱暴な言い方になるのは勘弁して貰う。斎藤、お前、俺の下につかねぇか…?」
唐突にそう問われた斉藤は、髪から雫を落としながら、僅かに眉を顰めたようだった。その目が真意を謀るように、間近から土方の目を見つめ、暫し黙ったあとで漸く言葉を発する。
「今も俺は、あんたの下についているつもりだが」
「そうじゃねぇ。いや、そうだが、それは新選組っていう組織の中の話だろう。近藤さんを頭に頂いて、俺やお前が居て、それ以外にも数十人の隊士をひっくるめてる。それじゃあ、お前は結局俺のもんじゃねぇ。組の、近藤さんのものだ。俺が言うのはそうじゃなくて、斎藤、つまり、新選組三番隊隊長の斎藤一であるより先に、俺の………」
そこまで言って、唐突に土方は黙った。手の甲を唇に付けて、迸る言葉をそこで切り、自分が今言っていた言葉、さらにその先に言おうとしていた言葉を思い、俄かに動揺し始める。
今、一体俺は、何を言おうとした?
組のものじゃなく、近藤さんのものでもなくて、
俺の…?
「あぁ」
斉藤は限りなく無表情なままの顔で、それでも微かに笑ったようだった。びしょ濡れの前髪を、額の方へ荒く掻き上げ、さらにもう少し笑みを深める。土方はその顔に、視線を釘付けられたように見つめ、続く彼の言葉を聞いた。
「それは、承知、としか言いようがない」
「……斎…」
濡れた手で、斎藤は土方の腕を掴んだ。そのままぐい、と引き寄せて、一言一言言い聞かせるように言ったのだ。
「俺は、とうに、あんたのものだ。あんたが喜ぶなら、これからも組の為になることをするし、あんたが俺を欲しいなら、遠慮なく俺を取ればいい」
土方は、瞬きすら忘れて斉藤の顔を見つめていた。その額を濡らした軒からの雫が、頬を伝い顎から滴るのを見ていた。その雫が、彼の着物の胸を濡らしていくのを…。ばくばくと心臓が鳴って、立っているのが辛く思えた。
「さ…いと…」
「……何か取り違えているなら、今のうちにそう言ってくれ」
斎藤の冷え切った手が、する、と土方の腕から外れた。
「いや、取り違えてなんぞ、いねぇ」
「承知」
もう一度、斎藤は言った。土方はふつふつと湧き上がるように嬉しくなった。なのに斉藤は一歩後ろへと下がって、庭の椿を振り向いていた。変わらず雨に濡れる椿だ。蕾も固い。花は焦れるようにゆっくりと、蕾を開くものだ。
「頼みがある。今日はもう帰るように言ってくれ、副長」
「…いや、まだ帰るな」
土方はこちらを見ない斎藤の顔を、どうしても自分へと向かせたかった。本当にこの男は表情が変わらない。言ったように思っているなら、嬉しそうにしたらどうだと思った。二人以外誰もいないから、互いに手酌するよりないが、酒なども用意していなくはない。
「酒がある。俺は飲まんが、お前はいける口だろう」
「いや、いい…。もう十分に酔っている。これ以上はあんたの為にならない。帰れと言ってくれ」
言うと、土方は花が綻ぶように笑ったのだ。
「馬鹿な。お前が飲んでいるところは、宴やなんだでいつも見ていた。酔ったって顔色も表情も口数も変えねぇだろうが。寧ろどう変わるのか見てみてぇくらいだよ。今夜は俺の薦める酒で酔って行け」
そうして土方は陰の方から酒ののった膳を引き出し、そのまま部屋の隅の長持を開けた。普段着らしい渋い色の着物が見えた。
「そら、これ。俺のしかねぇが替えの着物ぐらいあるんだ。俺ぁの肌に当てたのが嫌でなければ、その濡れたのはさっさと脱いで、これを着て」
「…あんた、無防備過ぎる」
唐突に、雨の様相が変わった。ざぁ、と打つような暗い雨に変じたのだ。話し声も届き難いほどの音が、開け放ったままの部屋の中へと押し入っていた。その雨の音と共に、斎藤が部屋へと入ってくる。
長持の前で膝を付いていた土方の視野は、一瞬にして別のものに入れ替えられていた。天井だった。木目の美しい天井。遅れて、じわ、と痛んだ背中は畳に着いていた。滴り落ちる水滴は、斎藤の髪から。そして言葉が、雨の音に消されずに耳へと入ってくる。
「日頃、素を見せない俺が、酔ってどう変わるのか、見たいと言ったのはあんただよ」
先に表情を変えたのは土方だった。はっきりと怯えた。伊達に餓鬼のころから、喧嘩師などと呼ばれちゃいない。両肩に掛かった腕の強さは痛いほどで、仰臥した体を挟んで両脇に膝を付かれた恰好が、どれだけ不利かも瞬時に悟った。
「ふざ…け…っ」
「ふざけてこんなことが出来るほど、俺に面白味がないのは、あんたも知っているだろう」
着物を左右に剥かれた。その上で、両肘を脇に付けるように、二袖を腹の上に捩じって押さえられた。膝に体重を掛けられて脚をばたつかせることも出来ず、そこまでされていながら、斎藤の左手はまだ空いていた。
「女を黙らせるには、こういう法があると聞く。あんたは女じゃないが、女にするようなことをしたいと、常から」
「…っ、よ、せ…ッ」
帯より下の、着物の合わせ目を斉藤の手がまさぐった。よせ、と言った時には既に、下帯に手が掛けられていた。強引に緩められ、直に触れられ、狭い場所でぐいぐいと弄られた。稲光を見たように思ったが、いつまでも音がしてこないのは、それが雷ではないからだ。
「ぁ…、あッ…」
巧い。余程の慣れかと思うほど。一瞬ごとに力を削がれていき、放つ頃には、殆ど従順だった。気付けば帯を解かれて、隠れているのは肘から先ぐらいのものだった。着物を左右に広げられて、真っ白な肌が斉藤の前にさらけ出されていた。
土方の履いていた足袋の残りの片方を、小鉤を一つずつ指で外して、爪先部分を歯で噛んで脱がせて、脇へと放る。その足の甲へ、斎藤がゆっくりと唇を這わせていた。
不思議だった。これは凌辱なのだと、そう思うのに、足に口づけする斉藤の顔を、ぼんやりと眺めていて誇らしい気にさえなった。まるで、跪かせているようだとさえ思うのだ。ただ、男としての矜持はずたずたで、ほろ、と頬に涙が伝っていた。
「……泣くのを初めて見た」
斉藤がそんなことを言う。泣かせておいて何を言うのか。
「見たことのない顔を、さっきから随分見れた。今夜死ぬなら、俺は本望だな。戦の場でなくとも、あんたの手で逝くんなら畳の上でも構わない」
斉藤の唇が、足の甲から足首、脛を辿り、大腿に触れている。そうしてそこにまで届きそうになって、狼狽した。今更のように、畳に肘を立てて逃げようとした。すぐ脇に、むき身の刀が置かれていて、無意識に柄を握ってから更に狼狽する。
「斬るか…? 首を落とすか、それとも心の臓を一突きか?」
薄く笑った斉藤の、その笑みにまた眩んだ。眩んで、握った刀をからりと放った。
「…斬りゃあしねぇ」
零れた言葉は擦れていた。傍らの銚子を取って煽ると、随分甘く感じて、落ちる様に酔っていきそうだった。
「…せっかく、お前を俺ぁのものにしたばかりだ。報酬が先払いとは…知らなかったが…」
土方は両の手首を、自分の目の上で交差に重ねるようにして、視野を覆って、それから呟いた。
「…安いもんだ。お前が生涯、手に入るんなら」
「斬らないのか」
斉藤の、酷く意外そうな声音が、笑んでしまいそうなぐらい小気味よかった。
「斬らねぇ」
「意外だ」
「お前の予想の通りになんか、なるかよ、この俺ぁが」
負けず嫌いの土方の、精一杯の強がりで、でも紛れも無く本心でもあった。こんなことをされながら、斬り捨てるほどにも憎めない。自分のものにしたいのだと、そう思ったのが、本当の本心だったのだと、今更のように土方は思っていた。
「…これで簡単には、失くならねぇ絆だな」
目元を隠したままで、また、土方は笑った。
雨はいつの間にか、また霧のような小雨に変わっていた。暫しあと、二人共に身を起こして、最初に見たのは庭の椿だった。花は見事に綻んで、白く白く、けれどもほんの一筋、花弁に朱の色が差していた。
急いで開いても、花は花だ。
無理に広げられようと、花弁は花弁。
醜く散るとは限らねぇ。
そこで終いとも限らねぇよ。
意味深に言った言葉が、斎藤を眩しげな顔にさせた。あんたには敵わない。告げはせずに心で言ったが、その言葉は届いていたのかもしれなかった。
花も恥じらい閉じるのではと思うほど、土方の笑い顔が綺麗だった。
終
momo様、リクエストありがとうございますっ。土方から斉藤への片思いの筈なのに、気付いたらいつもと同じ話になっていて、あらららら? すみません。これでご勘弁をっ。斎藤が豹変?したあたりからが、書いてて特に楽しかったでっすーっ。それにしても犯されても嬉しげって、どこまで斉藤に惚れてたの?
いまさらですが、お誕生日おめでとうございますっ(^^)ノ 少しでも気に入って貰えたらと思いますっ。
13/04/14