ゆきぼたる
行燈をひとつ灯して、化野は雪の中をゆく。積もった雪を踏みしめて。かざしたともし火の橙の光の傍では、ぼぅ、と雪が色を映して、冬の夜にしか見られぬそれが、沁みるように美しい。
一歩、一歩と化野はゆくのだ。里外れ、家屋も無くなり道も途絶えるその先まで、ひとり。
「やれまぁあんたぁ、飲み過ぎよぉ」
「なぁに言ってんだっ、まだ飲めらぁっ」
里で有名な呑んべぇの夫婦、仲がいいんだか悪いんだか。暮れの宴会している部屋の端っこで、口喧嘩しながら水のように酒を飲み干し。それが随分強い酒だったものだから、やがてはどちらも潰れてしまった。
世話焼きで知られた別の夫婦ものが、その二人を背負うやら、支えるやらで帰っていき、里長の家の広間は静かになった。
宴会も終盤、ほとんどのものはもう帰ってしまっているし、元より外はしんしんと降る雪。音も声も響かず吸われて、一度そのその静けさに気付くと、大声を張り上げるのも何やら気兼ねをしてしまう。
「さっきまで賑やかだったのに、急に静かだなぁ」
酒を飲むふりをして水の盃を傾け、誰か他に潰れてはいないか、具合の悪いものが居ないかと、つい見渡してしまうのは医家の性だろう。年老いた長もとうに休んでいるし、残っているのはあとほんの数人だ。
さて、そろそろお開きかと腰を浮かせようとした時、ごめんください、と玄関の方から声がした。素面の化野が出ていくと、其処に居たのは里の子供だ。
「お? どうした? 父さん母さんはもう帰っていったろ?」
「そうなんだけど、あの…」
身一つ分だけ戸を開けて、そこで口籠っているのはあの時の子だ。もう随分前のことだが、曰くつきの硯のせいで、一時は命の危ういところだった、幼い娘。
「父さんたちはもう寝ちゃってて…」
「ん? なら?」
「…先生。また変なものが見えるの。蛍、みたいな。その光がなんだか、誰かを探してるように見えたから」
聞けば、二つか三つの淡い光が、蛍みたいに光を消したり付けたりしながら、里のあちらこちらへと漂っているというのだ。
光はその子の家を訪れた。建て付けの悪い戸の隙間から、雪と一緒に入ってきて、彼女の父親と母親、そして彼女自身の周りを確かめるように飛んだあと、外へ出ていき、別の家でも多分そうしているのでは、と。
「蛍? この季節にか?」
問えば、娘はふるふると首を横に振る。違うの、とそう言った。なら、あぁ、それはつまり。
「蟲…」
こっくりと深く頷く顔。化野は身を屈めて、その子の目をそっと覗き込んだ。怯えてなどいない。怖気てなどいない。夢の話などでもない。この子は俺に、それを教えに来てくれたんだ。
「その光、今はどこに? まだ、追い掛けられるか?」
「多分、大丈夫」
化野は誰かが忘れた襟巻で、その子の頭と肩を覆ってやり、自分も羽織の前をしっかりと合わせて外へと出た。首の竦むように冷えた空気。視野を埋めるほどに降り頻る、大きくて沢山の雪。ちらちらと左右に震えながら落ちてくるそれが、物音を吸いこの世を狭く見せている。
見えない視野を少しでも、と、化野は火を入れた行燈を翳す。さらさら、さらさらと雪のふる音が、内で火の揺れる行燈の紙の上に落ちていくのだ。
「その光、どっちに?」
「ええと、あっち。家の沢山ある方へ行ったの。一つずつ、確かめるようにしていくから、まだきっと、さっきと近いところにいると思う」
「そうか。案内してもらっていいか?」
こくり、とまた彼女は頷く。雪を踏み進むと、光はほどなく見つかった。実際は、見えているのは彼女の方だけで、化野はその指さす場所へ、ただただ視線をさまよわすことしかできない。焦れるほどにもどかしくて…。けれど、少女は何かを追う眼差しを、ふっ、と化野の胸のあたりへ向け。そして、言ったのだ。
「…もしかして、この子たちが探してたのは、先生なのかも」
「え」
「だって、先生のこと見つけたら、もうみんな、他所へ行かないで先生の所へ来たもの。見えなくてもいるよ、ここに、三つ」
「そう? なのか…? こ、此処に?」
あぁ、見たい。
見たくてたまらない。
どうしたら俺にも見られる?
何か術はないのか?
…何か。
「…あ」
その時、気付いた。雪の上にさまよう影の幾つか。
降り続く雪が、積もった雪の上に落ちる前。一瞬だけ映る微か影に混じって、淡い白と、淡い緑に色のついたものが揺れている。実態ではない、けれど見間違いでもない、これは確かに影だ。見えないはずの、異形の、影。
「教えてくれて、ありがとう」
と、化野は里の娘にそう言った。
「もういいよ、家にお帰り。雪も降っているし、こんな夜に外にいたら風邪をひく。父さん母さんたちが気付いて心配するからな。さ、この行燈を持って」
言って行燈を渡そうとすれば、少女は首を横にしっかりと降って、否、と言った。
「家はすぐそこだから、灯りが無くても大丈夫。だって先生、それが無かったら、蟲の居るのがわからないでしょう」
確かにそうだが。
「でも」
「本当に大丈夫。先生も、雪、気を付けてね」
彼女は駆け出し、途中で一度立ち止まって手を振ると、しっかりと自分の家の方へと駆けて行った。降る雪の中へ見えなくなるまで案じて見送って、ほぅ、と白い息を吐いたら、その息の消えた視野に、揺れる不思議な影がまた見えてくる。
ぽつん、ぽつん、と小さく三つ。美しい淡い緑と、ぼんやり滲む白が、二つと。その色は、化野に"彼"を思い出させる。手のひらで、そうっと捕まえようしながら、彼は言った。
「…もしかしてお前たちは」
ゆらゆらと揺れて、化野の手から逃げていく、色のついた影。
「ギンコから俺への、知らせか何か、なのか…?」
答えなど帰らぬと分かっていて、化野はそう問いかける。影はちらちらと、雪の様のように震えながら、彼の見ている白い地面に映るばかりだ。
行燈を
ひとつきり灯して
化野は
しんしん降る
雪の中を、ゆく
積もった雪を踏みしめて。降り続く雪を髪に、肩に積もらせながら。かざしたともし火の橙の光の傍では、ぼぅ、と雪が色を映して、冬しか見られぬ橙のそれが、胸深く沁み入るように、あまりにも美しかった。
でもそれよりも、もっと美しいものを、化野は心のうちに見ている。翡翠の瞳、真っ白な髪をした、彼の想い人。進む先を教えるように、化野の足元に、ゆらゆらと姿を見せてくれている、淡い光を追い掛けていると、"彼"の姿しか、もう見えなくて。
だから子供を家に帰した。きっと、いつまででも何処まででも、追い掛けてしまう。そんな気がしていたから。
「あぁ、まったく、重症だよ…」
ギンコは硝子の角瓶の中味を、子細に見て青くなっていた。
「まずい。数が、足りねぇ」
ぴったりと口を閉めた瓶の中、緩やかに明滅する、白い光たち。それらは『ゆきぼたる』と呼ばれる蟲だ。雪の降る寒い土地にしか適応しないが、その特性故に、捕らえられては各地に運ばれ、高値で取引される。
別の呼び名も持っており、むしろそちらの名の方が通りがいい。その呼び名を『願叶え』或いは『蟲の恩返し』と。
「恩なんか、別に返さなくてもいいってのに。むしろ…」
確かに、捕らえられ売り飛ばされる寸前のこいつらを取り返し、故郷に帰してやるため携えてきた。このあたりの土地で合うのかと、試しに数匹ずつ雪原に放って、残り十匹となったところで、三匹足りないと気付いた。とすると、消えた三匹の行方は…。
あぁ、まさか俺の心を読んで、
叶えようとしてくれてるってのか。
余計なことだ。
叶えてもらっちゃ、困るんだ。
知らぬ間に消えていた蟲の行き先。その心当たりがあり過ぎて、ギンコは遥か湾の向こうを、困り果てた顔をしたまま、振り向くのだ。
「…頼むから、馬鹿なことを、してくれるなよ」
化野はひたすらに歩いていた。
とうに道もなくなり、里外れよりさらにずっと遠くまで来てしまって。何処へ連れて行く気だ、と問うても、雪原に映る蟲の影が、答えてくれる筈もない。
息は上がり、最初はうっすら汗すらかいた。けれどそれも過ぎると今度は、体が芯から冷えて、両足がもつれてうまく歩くことも出来ない。雪の中に何度も転び、手を、膝をついた。
「お前と歩いている、とでも思えば、な。苦しくとも、楽しいさ。なぁ、ギンコ」
けれど、そう言った言葉の終わるか終わらぬかのうちに、化野は足を止めたのだ。
「あぁ、こりゃ…さしもの俺も」
たとえどんなにいざなわれ様とも、あとほんの一歩も進めやしない。そこは切り立った、崖の端。その崖のぎりぎりで、三つの光は地面にゆらゆら揺れている。
「無理だ。行けない。別の道を…案内してくれ」
言ってはみるものの、光は崖の向こうへ、ついてきてくれと告げているようにしか見えず。
「いや、いくらお前の願いでも。この先へ行ったら海へと落ちる。落ちたら死ぬ。死んだら、本物のお前に、二度とは会えなくなるからなぁ。…すまん」
せっかく、お前のいざない、だというのに。
「行けないよ、これ以上。ならせめて、この心だけでも、持って行ってくれんか。あいつのところまで」
出来ないことの、代わりに言った。それすらも、出来ることとは思えず、苦笑し、化野はその場に膝を落とす。力を抜き、冷たい冷たい雪の上、胡坐をかいて、すぐ目の前の地面に落ちる、光たちを見つめた。
「出来んか? んん? そうだろう。蟲のお前たちに出来ないことがあるように、ヒトの俺にも出来ないことはあるんだ。むしろ出来ないことだらけで、悲しいばかりさ。分ったら、戻れよ、あいつのところへ」
すると、光は変化した。気のせいでなくば、白と緑だった光が、ほのりと淡い藍の色へ。まるで化野の着ている着物の色を、ほんの少し吸い取ったかのように。
「…お…」
そうして、化野がそれをよくよく見る前に、光たちは三つとも、ふうっ、と消えてしまったのだった。
「消えた…。夢か? 幻だったか? いや、見たのは俺だけじゃない。現実のはずだ」
化野は自棄になったように、雪の中にばふりと仰向けになった。冷たいが、さほどではない。まるで綿の布団のように心地いいとすら。とは言うものの。
「……へ、っくし…っ」
くしゃみが一つ出て、化野は慌てて立ち上がる。そうして、降り頻る雪の向こう、わずかも見えてはいない湾の向こうを振り向いた。
「もう帰るぞ。おい。……なぁ?」
お前、其処に居るのか?
居るなら、蟲の遣いなんかより、
お前自身が此処へ来りゃぁ…。
埒もあかない繰り言だ。あいつに言ったこともある。独り言でなぞ、数え切れない。夢の中でも数え切れないほどに、何度も何度も繰り返した。
来てくれ
来てくれ
会いたい、と
ギンコのいるのは吹き曝しだ。寒くて寒くてどうしようもなく。とっておきの酒を取り出して呷ってみるものの、そんなものは大して役には立たなかった。
それでも、其処を立ち去るわけにはいかず、ギンコはじっと、海の向こうを見ている。そうして空がしらじらと開けてきた頃だろうか。白に金を混ぜ込むような、明けの黎明を背景に、待ち続けたそれらが戻ってきた。
逃げた蟲の三匹だ。ギンコはそうっと瓶の口を開け、焦りもせずに待っている。するとその蟲達は、吸い寄せられるように瓶の中へと入り込み。
「やれやれ、肝つぶさせやがる」
戻ったってことは、願いは叶え損ねたのだろう。あいつにまで辿り着けなかったか。それとももうあいつは暮れの宴会で酒でも飲んで、ぐっすり眠っていたものか。そもそもあいつは蟲が見えない。
如何に会いたくとも、
連れて来て欲しくとも。
人には出来ることと
出来ないことが…。
そこまで思って、ギンコは気付いた。角瓶の中の蟲が、総じて藍色をしていることに。
「どっから持ってきた、その色…」
時折、蟲達のうち一匹が、橙色に光るのは、あいつの手にした行燈の光の色か。そんなこともわかるほど、俺はあいつの姿をいつもいつも思い浮かべて。そう、蟲にもその願いを見抜かれるほど。
会いたい
会いたい
来てくれ、と
願うだけの、けして伝えぬその想い。叶うはずのない、ただただ静かに、望んでいるだけの。叶えることは出来なかったとしても、蟲はギンコの願いを化野に、化野の願いをギンコへ、確かに運んだのだ。
「余計なことを。でも…」
ギンコは角瓶をもう暫し眺め、大切そうに木箱の奥へとしまい直すのだ。
「その色が抜けるまで、もう少し、居てくれ」
ギンコは旅へと戻る。否、今も変わらず旅の途中だ。昇る朝日へ背を向けて、眩しい白を踏み締めて、ギンコは歩いて行くのだった。
終
新年に合ってない! 気がする!! でも暮れと新年のお話だからっ。しかもこういう話、前にも何処かで??? それは気にしない自分との約束。てなわけで、やっと書けましたーーーっ。たぶん、あけましてから二人して、風邪っ引きですよねぇ。すまないね、寒い思いをさせてっっっ。
では飾る。
昨年一年(本数は減ったとは思いますがっ)蟲師メインでサイトを更新し続けることが出来て、充実していました。皆様のおかげですっ。ありがとうございますっっ。今年も頑張りますので、どうぞよろしくお願いしますねっ。
2019.01.01