とも旅 tomo tabi
「あれか…」
前を歩くギンコがそう言った。しんしんと、きりも無く雪の降る夜である。深く積もった雪に足を取られながら、その声に顔を上げた化野は、ほっとして息をつく。
「ようやっとかい。遭難するかと」
「だから、易くねぇぞ、って言ったろ」
ギンコは一瞬振り向いただけで、足を止めずに斜面を下り始める。うしろで化野がこけてもお構いなしだ。
「ついてこれねぇなら置いてくぞー」
「うわっ、待っ…。お、鬼か! お前っ」
悪態を吐くものの、置いていかれては敵わない。旅姿を真っ白にしたままで、化野はギンコに追い縋るのだった。
「ようこそお出で下さいました。蟲師の、ギンコさんでしたね。…それと、そちらの方は…?」
白髪の老女が、ギンコの後ろへと視線を送る。
「あぁ、こいつのことは気にしないで下さい。行き掛かり上行動を共にしているだけの、ただの連れで」
「いっ、医家の化野と言います! 何か力になれればっ」
冷たい男だと思いながら、化野はギンコの言葉に被せるように生業と名を告げる。老女は村長を名乗った。村の人々の体に起こった異変を、異形の仕業ではないかと思い、蟲師を呼んだのだという。勿論、医家にも幾度か相談したが、何の解決にも至らなかった、と。
他の生業ならいざ知らず、医家であれば様々助けになれるのではないかと思って、ギンコの仕事にも付き添わせて貰っている。なのに、本当に助けになれたことなど殆どない。
またか。
と、化野はこっそり息を吐く。
「化野」
「あ、あぁ」
「今から『患者』に会う。治療を手伝ってくれるか」
「わかったっ」
ぱぁっ、と顔を明るくしかけて、慌てて表情を引き締めた。村長の家から場所を移して、耳を病んだという里人の家を訪問する。硬い表情をしていた『患者』やその家族は、化野が医家だと言った時、少しはほっとした顔をしただろうか。とは言え、蟲患いの患部を診るのはギンコで、化野は彼の木箱の横に控えて、身を乗り出すだけしかできない。
「なるほど、この粘液…。原因は蟲ですな」
言った途端に、その場に居た殆どの人間の空気が固くなるのだ。『蟲』は異質だ。存在を知っていたとしても、それが自分に影響を及ぼしているなど、ただ気味の悪さと不安を感じるだけ。
「『吽』と言います。これが音を喰ってるんです」
ギンコは手燭を借りて屋根裏に上がり、原因の蟲を探すようだった。残された化野は、不安がる家族の視線を受けて、大丈夫ですよ、などと根拠のない言葉を添えた。ギンコはやがて蟲の群れを発見し、顔やら体を煤で汚して戻ってくると、患者にその蟲の一匹を見せているようだった。
「一見、かたつむりのような」
化野には見えないが、患者は幸い「見える」たちだったようで、苦労なく信用を得る。
「消えた…!」
「移動したんですな。耳の中にかたつむりそっくりな器官があるのをご存じですか?」
首を傾げられているのを見て、化野はここぞと言葉を添えていく。
「かたつむり、という漢字をそのまま使った、カギュウ、という器官でして。そのカギュウと、そこに満たされた液体によって、生き物は音を聞きます」
「その、カギュウに蟲が棲む。そこであなたの耳に入ってきた音を喰ってしまう。ですから、その蟲を追い出せば聴覚は元に戻る。器官が壊されたわけではありませんから」
患者の妻によって、湯気を上げる湯が運ばれてくる。ギンコはそれへ白い粉を注いでいた。彼の蟲払いを、何回か見てきた上で想像するに、多分塩だろう。その湯を入れた水差しを、ギンコが無言で化野に差し出した。患者や家族もなんの疑問も持たず、化野の方へと向いて、治療を待っている。
「これを耳に流し込めば…」
「うわっ。からっっ。ぺっぺっ、なんだこれ!」
「塩ですよ」
化野が患者の耳の中へ、塩混じりの湯を流し込んだ途端、男はがばりと起き上がる。種明かしのように言ったギンコの声も、聞こえていないかもしれなかった。からい、からいと騒いでいたその男の膝に、何かがぽとり、と落ちてきた、気がした。でももう男もその家族も、その存在を見ようとしなかった。
「聞こえるぞ…っ」
「あぁ、あんた。よかったっ」
喜び合う彼らを横目に、ギンコはもう道具を片付けている。
「驚きました。蟲師の仕事と言うのを初めて見ました。あとは一人だけ、両耳を病んでしまったものが…。私の、孫なんですが」
さっき歩いた道を戻りながら、村長がそんな話をする。不安げな老いた顔を振り向くギンコの姿が、一番後ろの化野からはよく見えた。
その後、化野は邪魔にならないよう少し離れて、けれどもすべてを見聞きしていた。村長の孫の「蟲患い」の様、それと向き合い深く思案するギンコの声音、表情。
情の深い男だな、と、化野は思うのだ。医家ではないが、彼は医家としても有能だ。確かに抱く情に思考を乱されることなく、冷静に判断し、最善の方法を探し出し、治療をする。俺も、こうあらねば、と化野が思うぐらいに、彼は医家だった。
その、翌日。
「化野…っ」
「ど、どうした?」
上着を着、襟巻を巻いたギンコが、開いた部屋の戸の向こうから化野に言った。
「真火が外へ出たっきり戻っていないんだ。じき夜になるし雪も降っている」
「探すんだな。じゃあ俺もっ」
「いや、お前はばあさんについててやってくれ」
「……わかった」
あぁ、最善だ。冷静だな、と化野は思って、彼の言う通り、自分は残った。
寄り添う化野に、患者の祖母はぽつぽつと語る。昨日も聞いた話だったが、少し、空気が違う気がした。死んだ娘のこと、その前に片耳の聞こえないまま山を行き、谷に落ちた娘の婿の話。どちらも蟲のせいだった。そして今また、可愛い孫まで、蟲故の危険にさらされている。
「大丈夫ですよ」
「本当に…?」
「えぇ」
化野は言った。今度は根拠のある言葉だ。少なくとも化野は一心に信じている。
「あの男とは、付き合いはそう長くはないですが。実は俺も蟲患いでしてね。年がら年中、やたらと動き回る蟲に憑かれている。憑かれた宿主はその蟲のせいで、三日と同じ場所には居られないんです。そんなわけで、その蟲の寿命が尽きるまでの一年足らず、あの男と一緒に旅をね」
「そうでしたか」
「付き合いが短くとも、その間ずっと傍らで見て来て、彼が慎重なのも腕が立つのも分かっている。あまりそうは見えずとも、情が深いこともね。だから、きっと大丈夫、待ちましょう」
ギンコは腕が立つ。そう言ったとおり、やがて彼は真火を伴って帰ってきた。そして、彼の気付いた方法によって『阿』はとうとう、真火の耳の奥で溶け、流れ出してきたのである。
項垂れた真火の膝に、ぽとり、ぽとり、と、角は落ち、
真火はどうしてか、少し、淋しげな顔をした。
「お前、俺が居ない間、なんか余計なことを言ったろ」
「余計なことなんか言ってない。お前が有能だから安心していい、って言っただけだ」
「…それが余計なんだよ。俺は別に、有能なんかじゃないんだ」
深い雪を踏みながら、ギンコが道を行く。さっきまで彼らが居た里は、もう随分背後に遠い。穿たれたギンコの足跡の隣に、もう一つの足跡が残っていく。
「有能だろ。それに、優しい」
「何を根拠に」
「治療代を取らなかったろ? あんな角だけでいいとか」
言えばギンコは、にやりと笑って化野を振り向いた。
「こんなもんでも、とびきり高く買ってくれる知り合いがいるもんでね。しまったなぁ、二つより四つの方が金になったか。今からでも戻って」
嘯くギンコの様子を、化野が面白そうに笑って揶揄する。
「そんな気もねぇ癖に。それにな」
遅れ気味なのを少し急いで追い付いて、化野はギンコのすぐ隣に並んだ。
「見ていたから分かる。これは、二つだけなのがかえって価値があるのさ」
「…わけのわからんことを。あー、早くお前を連れ歩かんで済むようにならんかねぇ」
「一年と聞いたぞ、まだ共に旅して半年だな」
ギンコがふい、と視線を揺らす。其処に蟲が通ったのだろうと思い、見えもせぬそれを目で追うように、化野はきょろきょろする。
「ギンコ、俺はお前が話してくれる、蟲の話や旅の話が好きだ。隣でお前のすることを見ているのも楽しいし、勉強にもなる。だから、残り半年も、楽しみだ。わ…っ!」
すぐに上に伸びていた枝から、雪の塊が音もなく散り落ちて、化野の頭を真っ白にする。
「つっ、冷てぇッ」
「…ぶっ」
ギンコは笑う。すぐ傍で雪を払う化野に、案外屈託のない顔を見せている。多分本人は気付いていない。
化野の居た海里では、里人たちが彼の帰りを待っている。そんなわけに行かないと分かっていながら、化野はついつい思うのだ。あと半年と言わず、一年でも、二年でも、なんならもっとでもいい。俺は、お前の隣を、歩いていたい。
「じきに街が見えてくる。帽子か襟巻かなんか買えよ。この先まだまだ、雪の中だ」
「そ、そうするっ」
何故だか妙に嬉しくて、化野は浮き立つように返事をする。大地は何処までも真っ白だが、その上に広がる空は、案外明るい青だった。
終
本日は「LEAVES」の18回目の誕生日になります。もう18回なんですね。20回目も目前じゃないかーいっ。驚きです。お祝いっぽくはないけれど、お話をひとつ書きました。
ひとつひとつは間が空いているけど、このところ、原作の物語を取り入れたお話を書いています。初心に帰るってわけじゃないのですが、資料とかネタ探しの為に、原作コミックスやアニメを見ると、やっば深いな、凄いなぁって思います。
このお話のギンコと化野は、一時だとしても共に旅をしています。やがて化野は里へ帰り、元のようにギンコを待つ暮らしに戻るのでしょう。離れ離れでも同じ大地を踏み、同じ空の下で、二人は生きていくのです。
ともあれ、ご訪問下さる方、いつもありがとうございます。これからも「LEAVES」と惑い星をよろしくお願いします。
2024.02.26
惑い星