たまくい蟲とたまご石 







 ある時、急に右足の指が痛むようになった。歩く時に少々難儀だが、大したことはないと、それほど気にしていなかった。しばらくすると左手の指が痺れるようになった。利き手ではないのであまり困らず、たまに揉んでは凌いでいた。足指の痛みも続いていた。

 そして今度は右の膝の調子も悪い。時々がくりと力が抜けて、この間など縁側から転げ落ちてしまった。庭石で頭を打って、あわや死ぬところだ。危なかった。気をつけねばと、慎重になった。

 そんなこんなで疲れるせいなのか、元々弱い片目の視力も、少し落ちたように思うし、いつからか片方の耳が、どうも殆ど聞こえていないようだ。そろそろギンコが来る頃だから、どうやって隠しておこうかと思案した。あまり心配を掛けたくない。

 けれど、ギンコは中々訪れなかった。隠したって気付かれるかと焦っていたから、何処かで少し、ほっとしていた。お前が来なくてよかった、と思うなんて。まさかそんな日が、来ようとは。

 ある日、思った。これはもしかして、蟲、のせいだろうか。ギンコが来たら、あっという間に治して貰えて、何もかもが元通りになるだろうか。蔵にある品のせいだ、あれほど言ったのに妙なものを買うからだと、きっと俺は手厳しくやられるのだ。そうならばいい、そうならば。

 体のあちこちがこんなに不自由で、それでも里の皆は俺を頼りと、体の不調を診せにくる。なんとかかんとか医家として、里人たちを診てやれるが、それもいつまで出来るかと、怖く思った。

 それでも月日は過ぎていく。ギンコはもう、半年ほども来ていない。自分の体の不具合に困り果てながら、友のことも案じている。旅暮らしではない俺ならばまだいい。あいつがもしもこうなったら、それはもうどれほど難儀か知れやしない。

 あぁ、今日はまた足の指がしくしくと痛む。縁側に腰を下ろし、右膝の上に左足を乗せ、足の指を片手で揉んでいてふと気付いた。足指の痛むのは、右足だった筈なのに。記憶違いだったかと右足の指を動かしたら、そちらも痛むままだった。

 ぞわりとした。半年でこんなにもあちこち悪くなって、これからもこれが続くなら、俺はいったいどうなるのだろう…。

 心配されないように、なるべく隠そうと思っていた気持ちが、その時急に反転した。痛む足を庇いながら畳の上を這い、痺れる指を気にしながら文箱を取り出し、筆を手に取る。ギンコにふみを書いた。情けないが、助けて欲しいという気持ちを、一文字ずつに込めて。

 ギンコはどこか遠くに居るのか、中々里を訪れなかった。ふみの返事も来ない。体の不調はあちらこちらに現れたまま、最近では布団に起き上がるのも辛い。里のみんなのことは、隣里の医家にたまに来てもらっている。

 よく見えていた方の目も、殆ど見えなくなって、くわえて両耳ともほぼ聴覚を失っている。たぶん、匂いすらも感じなくなっているのだろう。里の皆を頼んだはずの隣里の医家に、気休めの痛み止めを貰い、里人がかわるがわる世話してくれていた。

 死、とは、こうしてじわじわと近付くのだろうか。

 そんな弱気なことをふと思った、ある朝のこと。急に、ぷつ、と何もかも分からなくなった。光が見えない、音も、温度も感じない。肌に何かが触れる感触も無く、ただ、思った。

 あぁ、死ぬのか、と。
 今、死ぬのか、俺は。

 その時だった。急に、ごちんっっ、と額に衝撃が来た。そして見えたのだ。いや、光すら見えないのだから、見ているのとは違うのかもしれない。でも、見えるとしかいいようのないそれはおそらく、ずっと焦がれていた、蟲たちの様、だった。


 虹。虹色をして空を泳ぐ何か。

 砂浜の貝から飛び立つ無数の鳥。

 青白い炎が焼け野原から立ち上る。

 夜の、遠くの海がぼうっと光って。

 雪の中を、綺麗な蝶が舞う。

 そして無限にあふれるような、眩い金色。

 あぁ、あぁ、美しい。

 なんて美しいのか。

 でも俺は、まだ一度も、

 これらを自分の目で見ていない。


 見たくて見たくて、必死に両目を見開いたら、刺さるほどに強い光が飛び込んできた。大勢の誰かがどよめく声が聞こえると同時に、左右から幾つもの手が体に触れた。それら全部があまりに鮮明で強くて、そして嬉しくて、涙が出た。

 まだ、俺は、生きていた。生きている。

「化野先生っ、おでこ大丈夫っ?」

 里の子供がそう言ったので思い出した。さっきのあの衝撃はいったいなんだったのか。見回すと、里人の顔、顔、顔の中に、白い頭の友が居た。髪は白いが額が変に赤くて、その赤いところを痛そうにさすっている。

「…ギンコ、もしかして、お前が助けてくれたのか…?」

 ギンコはふい、と明後日の方を向く。

「別に。冥途の土産に、見たがってたものを見せてやろうかと思っただけだ」
「じゃ、じゃあ、あれはやっぱり」

 目を閉じると、さっき見た美しいものたちを、まだあざやかに思い出せる。今まで動けなかったのが嘘のように飛び起きて、俺は言った。

「も、もう一度見せろっ」
「どんだけ貴重なもんだと思ってんだっ、二度と無理だ、阿呆っ」

 まだずきずきと痛んでいる額を、今度はべちんっ、と平手ではたかれた。見慣れたようなやり取りに、里人たちは心底ほっとした顔。本当に戻ってこれたのだと、俺は久しぶりに笑顔になった。






 夜、囲炉裏を間に挟み、あかあかと揺れる炎を前に、ギンコは話をしてくれた。伏し目がちで淡々とした様が、蟲の話をしてくれるいつもの彼の姿だった。
 
「お前に憑いてたのは、恐らくだが、魂喰蟲だな」
「たま、くい、むし。た、魂を、喰うのか?」

 やはり死ぬところだったのだと、俺はぞっとする。

「正確にはそうじゃない。体のあちこちに不調を感じさせて、じわじわと宿主を追い詰めるんだ。実際には何処も侵されてはいず、何でもないんだと気付きさえすれば害は無いんだがな。どこか痛いと、どうしたってそこに意識がいくし、嫌だな、辛いなって思うだろ? 魂喰蟲はそういう負の感情を喰うのさ」

 不安や、苦しいと思う気持ち、嫌だという感情、苛立ち。自分はどうなるのかという怖さ。それらを喰っては力を得て、また別の場所を不調にさせる、それを繰り返して、簡単には跳ねのけられないように深くとりついて、終いには…。

「お前は医家だから、不調なとこを他者に診て貰うことがなく、自分の感覚だけに囚われ続けたんじゃないか? 大丈夫なんだ、と思う機会が得られずに月日を過ごした。まぁ、これもある意味、医家の不養生だな」

 ギンコは一瞬視線を上げて、ぎろ、と俺を見た。

「蟲のせいでもなんでも、次になんかあったら、早めに人を頼れ。近くの里の医家とか、俺とか、な」

 ずっとふみも書かず、助けて欲しいと言わなかったことを、ギンコは怒っているのだと思った。悪かったと素直に詫びて、今度からは必ずそうすると約束した。ギンコはいつもの煙草を取り出し、囲炉裏から火を移してくゆらせた。ふーっ、と煙を吐く顔が、ようやっと薄い笑みを浮かべていた。

「ふみを貰って、書いてあった症状から、魂喰蟲のせいだろうと分かった。それで魂御石を探しに行った。結構遠くまで行ったんだぜ? そりゃもう大変だった」
「たまご石?」
「そっちのたまごじゃねぇ。魂のたま、だ。珍しくて貴重な石だから、御をつけて、魂御石」

 ギンコは指で、床に御の字を書く。

「光酒を多く含んで落ちる滝の傍にあるんだ。光脈を流れる無数の生き物が、何らかの理由で結晶化したものだとも言うが、事実は分っていない。見た目は川辺なんかにある普通の丸い石でな、ある場所がわかっていても、これがそれだと判断するのも難しいんだ。拾って、こう額に押し当てて、込めたいことを強く考える。それが魂御石なら、少し、温かくなる」

 何でもない口調で語られるそれが、どれだけ大変なことなのか、聞いただけで分かって、俺はギンコに問い掛けた。

「見つけるまで、それを、どのぐらい…?」
「…いいや、運よくすぐ見つかって」
「すぐって?」

 言うか言うまいか、ギンコは少し考えたようだった。その間ずっと視線を逸らさず見つめていたら、肩をひょい、とすくめてから教えてくれた。

「すぐさ。確か、三日三晩、ぐらいだったかな」
「寝ずに、か?」
「寝たさ。見つけた途端にほっとして、すとんと寝落ちて、そのまま数時間。ま、寒い季節じゃなくてよかったけどな」

 聞いた途端に、かくんと頭が下がった。よく見れはギンコは酷く疲れた顔をしている。着ているものもいつも以上に汚れていて、どれだけ無理をして来てくれたのかと思ったのだ。

「悪かっ」
「謝られても嬉しかぁない」
「ありがとう」
「…で? 魂御石がどんな石なのか、聞きたくねぇのか?」

 礼を言われるのが苦手なのは知っているから、溢れるほど言いたい詫びと感謝の言葉を引っ込めて、俺はいつもの、蟲に興味津々の自分に戻った。
 
「聞きたいとも! さぁ話せ、朝まででも聞くぞっ」

 ギンコはずっと、魂御石を額に押し当てながら来たのだという。魂喰蟲を追い出すには、本当は体の不調などひとつも無いと、宿主が自分で知って気付くことだ。それを伝えるのに魂御石を使うが、あいにくこの石に込められるのは言葉ではなく、目に映るものだ。

 それならどうする。変わりもので珍しもの好きな男が、体の不調など一瞬で忘れるもの。例え目が見えなかろうと、音が聞こえなかろうと、死にかけていようと、それらが全部吹き飛ぶようなもの。この世できっと一番に美しい、もの。

 そんなものは、ひとつしかない。
 迷う余地すらないほどに、
 この男は、それが見たい筈だ。

 それを魂御石に込められるだけ込めながらやっと辿り着いて、最後の最後、駄目押しに。

「お前の額に石をのっけて、俺の額でこう、ごちんっ、と。その勢いで、せっかく込めたものが、三割かそこらどっかに飛んだけどな」
「えぇ…。も、勿体ない…」
「でも、見えたろ?」

 残念がる俺をもう一度睨んでから、まだ少し赤い自分の額を指で撫でさすり。

「まぁ、あれだ」

 ギンコはにやりと笑って言ったのだ。

「お前が変わり者の蟲好きでよかった。俺が、ちゃんと伝えられる、唯一だ」






 


 いろいろあって、一日遅れでマイホームページのお祝い作品が書けましたーっ。ていうか、いつ書けるかなって思うような状況だったんですが、お祝いを届けて頂いて、今日ネタ考えて今日書き始めて今日書きあがり、なんとかやれるかもって力が出てきました。ありがとうございました。

 19周年ですって。ぇええー、びっくりですね!

 記念日らしいお話にはならなかったのですが、書けてホッとしました。これからも無理しすぎず、続けて行けたらと思っていますので、よろしくお願いします。



2025.02.26

のお祝いーっ。

2025.02.27


惑い星