… さめぬよう、さめぬよう …
「よおっし、こう、こうだな」
着込んだ綿入れの袖を伸ばして、まだ手で触れられぬほどに熱い鍋の取っ手を、化野はしっかりと両側から掴む。そのまま雪の積もる外へ出て、行儀が悪いと承知の上で、足で戸を閉めようと四苦八苦。
「うおっ、とっ、と、あっちぃ…ッ」
よろめいて更に足を滑らせ、鍋の中味を少し零した。木の蓋を被せてあっても、斜めに傾げば汁物は簡単に零れてしまう。ましてや運んでいきたい先は、滑りやすくて雪の深い斜面の向こう。
「駄目、かぁ。せっかく作ったものを」
たった今、湯気の上がっている料理。仮に零さず運んで行けたとしても、着くころにはすっかり冷えている。
がっかりして、寒い寒い縁側に腰を下ろし、はらはらと降る雪を見上げながら、鍋を脇に置いている化野を、近所の気のいいかあさんが見つけて声をかけた。
「あんれま、何しとるの、化野せんせ」
「んん? いや、なぁ? あったかいもんを届けてやりたくて、でも中々難しくてな」
白い息を吐きながら呟く化野の横の、鍋の蓋を取って中を見たかあさんが、まぁるく目を見開いてから笑い出した。
「なぁんだ、相談してくれりゃよかったよ。汁物だったら、やりようはあるさぁ。いいかい、せんせ」
そう言って、かあさんは面白げに教えてくれた。聞いた化野は、ぽん、と膝を打って、あぁそりゃあいい、やってみるよと嬉しげだった。
そして翌朝。
きん、と空気まで凍るような、冬の朝の厳しい寒さ。まだまだ暗い時分に、化野はがたり、と土間の戸を開く。外の雪は昨日よりも更に深い。細かな雪片が一晩中降り続いたものか、一歩踏み出せば、足首までも埋まってしまう。
彼はおもむろに雪靴を出し、すぽりすぽりと両足を入れると、土間の、一番戸に近い場所に置いたものを、大事そうに見下ろした。被せた薄い布を退けると、そこにあったのは昨日と同じ鍋。蓋を取ろうとしたら、なんとまぁ開かない。
凍っているのだ、朝の冷えは土間など外と同じにさせる。苦心してそれでも一度は蓋を取って、中味を確かめると、化野は満足そうに頷いた。これを忘れてはいかん、と、別に用意していたものを紙にくるんで、袂に幾つかずつ入れて、上に綿入れを着てしっかりと前を合わせた。
「よぉし、準備は万全。あとは行くだけだなっ」
すぽりすぽりと足を通した雪靴で、すぽりすぽりと雪に穴をあけてゆく。これほど歩き難い道もないなと、今日は笑う余裕もあった。でもなるべくなら転びたくはない。傾いでも零れない工夫はしたが、もしもひっくり返ってどうなるかは未知数。
「大事、大事だ。転ばない、転ばない。気は急くが、ゆっくり行けばいい。逃げやせんのだ。もうずっと、なぁ」
言葉にするとほくほくと、胸が心が温まる。だけれど浮かれると足元が疎かだ。二、三度滑って危うくて、気を引き締めてしっかりゆっくり、進んで行く。高台の自分の家よりも、もっと高い場所にある家へ。
歩きにくいせいもあって、辿り着きたい先が見えたのは、たっぷり半刻も経ったころだった。頬も鼻も真っ赤になり、鍋の取っ手は元々冷たいものを、既に氷のようになっている。それでも真っ白い息を吐けば吐くほど、化野は楽しみで楽しみで仕方ない。
あいつはどんな顔をする。あぁ、きっと、飽きれたような顔をする。転んだりはしておらんが、降る雪にまみれて、白くなったこの姿を見て、何やってんだと呆れるのだ。
楽しみだ。
あぁ、楽しみだ。
「おぅい、おぅい。開けてくれ」
鍋を持ったままの両手。肘で戸を叩いて、化野は言った。未だ閉じたままの戸の内が、外よりずっと暖かなのが分かる。戸越しでも伝わるように思うのは、体が冷え切っているからだろうが、そんなものは何でもない。
「おぅい、まさかまだ寝てるとかあるまいよ。開けてくれ」
「あぁ、今開ける」
声がした。化野はそれだけで、芯まで温まる気がするほどだった。
つっかえ棒を外す気配と音がして、そういや戸の立て付けが悪くなっていて、風の強い日や、屋根に雪の積もった重みで、隙間が空くのだと言っていたか。春になったら治してやらねば。まだずっと暮らすのだから。
「なんだ、こんな朝っぱらから。しかも今日は」
「あぁ、新年だ。おめでとう、ギンコ」
がらり、ようやっと開いた戸のうちに、ギンコがとっくりを着たなりで立っていた。いつものなりだ。足は裸足で寒そうに見え、早く食わせてやらねばと化野は思う。
「あー…。そう、さな。おめ、でとう、さん」
不慣れそうにそう返す言葉。照れ隠しのように向けられた横顔。丁度その時、白樺だの柏だのの雑多に並ぶ斜面の、遠く向こうの海から、真新しい陽が昇る。眩しくて、ギンコが目を細めている間に、雪靴を片方ずつ雑に脱ぎ飛ばし、化野が彼の横をすり抜けた。
「あがるぞ、囲炉裏になんか掛けてるか。これあっためてくれ」
「何を持ってきたんだ? な、鍋? 汁物かよ、よく零さずここまで」
「おう、それがな。秘策を授かってな」
にっこり笑って、一度置いた鍋の蓋を取る化野。そうしたら、中味は茶色く、そしてかちこちに凍っているのが見えた。ところどころに顔を出して見える、具であるらしきもの達が、ぎっしり。
「…なんだ? それ」
「雑煮だ。雑煮。決まっているだろう。今日をなんだと思ってるんだ。正月だぞ。夕べのうちに俺が作って、凍らせたのさ」
「こ、凍っ…? あぁー、なるほど」
ぱちぱちと勢いよく火が爆ぜる囲炉裏に、化野は遠慮なく鍋を掛ける。あっという間に茶色の凍っていたのが解けて、野菜の沢山入った汁になる。化野は綿入れを乱暴に脱ぎ捨てて、体に積もっていた雪も頭に積もっていた雪も、みんなあたりに散らしながら、着物の袂に秘めていた餅を投げ入れた。
「俺の頭の雪なんざどうでもいい、すぐ乾く。いいから器を出せ、器を。前にやった揃いのどんぶりがあったろう、あれがいい。箸もな」
「あぁ、もう出した。お、いい匂いがしてきたなぁ」
「だろう。なぁ、よかったろう、ギンコ」
唐突に言われた言葉に、ギンコは顔をあげて、鍋の中味から化野へと視線を移す。そしてまた鍋の中へと視線を。
「…なに、が?」
「なぁ、お前も此処に住んで、よかったろう?」
「…………あぁ…」
返事がやたらと遅くなって、化野は鍋の中だけを見たまま、切なく目を細めた。顔を見ている時に、だったら、それはきっとなんとも切ない。
頼むよ。
後生だ。
後生だから、もう少し。
もう少し、このまま。
居させてくれ。
どうか。
あぁ、どうか。
「ほら、もういいだろう。よそえよそえ。山盛りにしろ」
「まだ餅が煮えてなくないか」
「そんなことはない、早くよそえ、早く。俺のは後でいい。お前が一口食ってからでいいんだ、だから」
だからそれまで。
覚めるな。
夢よ。
木の匙でギンコが雑煮を器によそう。そうしてはふはふと熱そうにしながら、良く煮えた野菜を、柔らかくなった餅を、口に入れる。湯気が真っ白くて。まるで外の寒い中で食べているような様で、あまりに白いその湯気の向こう、ギンコの姿が。
消え…。
「…うまかっ、た…」
姿は先に消え、言葉は少し後まで、残っていてくれた。聞こえない言葉も、聞こえたような。
ありがとうよ。
あだしの。
あったまった。
たとえ、
うつつじゃ、
なく、ても。
「あぁ…!」
化野は、自分の声で目を覚ました。目を開けた途端に、涙がどっと溢れて頬を伝って、耳の中に沢山流れ込んで、びっくりして起き上がった。そうしてもう一度、化野は、あぁ、と言った。
「…あぁ、あぁ、いいものを見たなぁ…」
ギンコ。お前は、どんな、夢を見た? どんな夢を見たい…? 今、寒くはないか。あたたかくしているか。そんな分かりようがない、もどかしさも、いつものまま。けれど。
「いい夢、だった」
布団から出て、少し寝乱れた寝間を整えて、化野が雨戸を開けると、そこは美しい、銀色の世界。また、お前を待つばかりの年が明けたよ、と化野は静かに、笑うのだ。それもまた、何よりの幸せに違いはないのだ、と。
真っ新の太陽が、昇ってくる。光を引き連れて、昇ってくるのだ。何にも屈することなく、うつくしく、つよく。
終
令和3年の年が明けました。無事でこの時を迎えられたことを感謝いたします。遠く離れた二人にとっては「次」は約束されたものではないのだと思う。だから夢を見る。だから相手を、自分を、大事にする。そんなことを「見習わなくては」と思いながら書きました。
どうか新しいこの年が、良い年になりますように。
2021.01.01