真白の日





 山一つを、分厚い雪雲がゆっくりと、乗り越えていくのが見えた。その向こうに隠れた太陽の姿は、不思議とはっきり透けていて、山野も里も明るいままである。旅の男はそれを見上げて、白い白い息を吐く。

「まだ、若いな、先は長そうだ…」

 背中の木箱を揺すり上げ、蟲師は歩みを速める。高い空の上に居る蟲に、何一つ手出しは出来ないが、それでも、あれはこういうものだと、これから災を受ける里に告げに行く。中々に難儀だが、それが蟲師の仕事ということだ。

 進むギンコの後ろに、ぽつぽつと雪の靴跡が、途切れずに伸びている。




「ん、ん~。随分と薄暗いな、まだ夜明け前か…?」

 元日の朝である。寒さに身を縮めながら、医家は布団に身を起こした。寝乱れた襟を掻き合わせ、綿入れに腕を通してから縁側に出て、何気なく雨戸に手を掛けた。だが。

「あ? おっ? く…ッ」

 ぴたりと閉じた雨戸が、どれだけ力を込めても開かないのである。

「こ、んっ、のぉぉぉーーーっっッ」

 寝起きで出せる限りの渾身の力を込めたがピクリともしない。何か引っかかっているのかと、よくよく確かめたが、そういうわけでもないようだ。

「なんでだ? 昨日まではなんてことなくするすると。誰か向こうで押さえているわけではあるまいな?」

 まさかそんなと思いつつ、一応外へ出てみようとしたのだ。でもその引き戸も開かなかった。まったく、少しも、動かない。凍えるような寒さの中、汗がにじむほどにひとりで奮闘し、そのあとやっと化野は、戸が開かない理由に思い当たった。確かめるために、今度は小窓をひとつ開けてみる。簡単に開いた。そしてそこから覗き見た外の風景は。

 白、白、白一色。

「……なるほどな、開かないわけだ」

 どのくらい積もっているのかは、小窓から見ただけでは分からない。白い色しか見えないから、より一層不明瞭だが、少なくとも、腰まで来るほど、ではあるようだ。

 雪は毎年積もる。冬になれば、それは当然のこと。でも、それほど雪の多い土地柄ではなく、大抵は足首ほどまでなのだ。雪のせいで戸が開かないなどということは、知る限り一度もなかった。

「理由はわかった。…で、どうするんだ」

 と、化野は一人呟いた。当然自分だけではなく、里のすべての家で同じことが起こっている。冬の最中は漁も殆どしないし、田畑の世話もほぼないから、外へ出なくてもそれほど問題はないか。いや、でも、本当に? 

 化野はひとまず囲炉裏の残り火を熾す。土間の隅に積んだ薪を見れば、今日、明日ぐらいはどうやらもちそうだ。食べ物も水も家の中に貯えがあり、外へ出ずとも困らない。でも、他の家はどうだろうか。囲炉裏で燃える火の傍で、化野は出来得る限り思い出してみた。

 若い夫婦もの、男一人の家、子供のいる家族、老夫婦だけの家もあるし、赤子の居る家、家畜のあるもの、様々だ。けれど、それら一軒一軒の家の中に、どれだけの貯えがあるかなど、流石に把握してはいない。

 仮にどの家も、二、三日は家の中だけで大丈夫としよう。でも、この状況が数日で解消されるかどうかは分からないし、もしも病人や怪我人が出たら、雪に阻まれ家から出られないままで、いったいどうするのか。

「…やはり、籠っていればいい、とは言ってられんな」

 今でさえ戸が開かないほど積もっているが、これからまださらに降るのかもしれない。であるならば、今のうちになんとかすべきだろう。とにかく外へ出るのだ。自分一人が通れる分だけ、戸を、壊す。内側から、斧で、壊すのだ。

 幸いにして、土間の隅に手斧を置いてあった。そうすると決めた以上、もうあとは一分の躊躇いも無く、化野は出入口の一枚戸に向けて斧を振り下ろす。戸はそれほど苦もなく壊れた。木くずを散らしながら、板数枚が砕けて落ちて、ついさっき想像したのとほぼ変わらない積雪を、化野は目の当たりにした。

 壊れた戸の向こうに、みっしりと、白い雪の壁。高さは腰よりやや下か。積もったこの上を歩けるだろうかと思ったが、それは不可能であるようだ。簡単には退けられない密度と重さがある癖に、上を歩いて平気なほどの強さは無く、下手すると自重で埋まってしまいそうな感じがした。

「……思ったより、厄介だな」

 化野は一度奥の部屋に行き、着物の上に綿入れなどを重ね着する。薬草畑の手入れなどの時に使う手袋をしっかりとはめ、脱げないように手首部分を紐で縛った。

「頼りないなりだが、仕方ない。これで挑むとしよう」

 庭の土を掘る犬を、見たことがある。あの要領だ、と化野は思い、さっき破壊した玄関戸から外の雪壁に挑む。身を屈め、右手と左手で、交互に雪の壁を掻く。どんどん崩れてくる雪は自分の体の後ろへとまわし、そのまま前へ前へ、遅々として進んでいく。

 ずっと下を向いたままそうやって奮闘し、やや暫くして顔を上げたが、あまりの成果の無さにへこたれそうになった。 玄関を出て、やっと三歩分程度、前へ進んだだけだった。でも後ろにも自分の崩した雪があって、いったん家の中に戻るのも、簡単ではなさそうだ。

「…頑張れ、化野、お前は里にひとりの医家だ。いつ何時でも、里の人々の身を案じて、皆の体を守れなくてはいかん!」

 我ながら医家の鑑ではないかと、自分で自分を褒めながら、果敢にもまた雪壁へと挑戦する。今度は五歩分ほど進んだようで、やっと庭の外へ出た。すると一番近い隣家の前で、同じように雪に戦いを挑んでいる里人の姿が見えた。

「おぉーいっ、大丈夫かーっ」
「あっ、先生っ。いやぁ、ひでぇ雪になったなぁ」
「ほんとうだな、参った。お前さん、どうやって出た?」
「窓からさぁ」

 隣家の男は物置小屋に薪を取りに行こうとしているらしい。家の中に貯えが足りず、夜には火が消えそうだと。

「他の家の様子は分るかっ?」
「あぁ、隣んちのねぇさんとはさっき話をしたよ。窓から顔を出してるのが見えたんだ。戸は開かないけど、一日二日ならなんとかなるって。でもそのもうひとつ隣の家は、仔牛に餌をやらんといかんと言ってたと」
「三太んとこか。なんとか他の家の様子も知りたいし、手伝いたいがな…」

 それから一刻半ほど、なんとかして家を出る必要のあるものは、それぞれで踏ん張っていた。その途中、化野は急に思い立ち、道であるはずの場所を進むのをやめて、蔵の方へと進路を変えた。

「蔵に、古い雨戸がある」

 確か二枚ある筈だ。
 立て付けが悪くなって取り替えたのを、
 壊さずにとってあった。
 あれを使えば。
 きっと雪の上を、歩ける。

「なぁっ、お前さんとこの物置にも何か板が無いか? 出来れば畳一枚ぐらいの大きさがあれば」
「おぅ、あるあるっ。確か一枚っ」
「それを貸してくれっ」

 浮かんだ案は、まさに妙案であった。複数の板を雪の上に置き、交互にずらしながらそのうえを歩けば、重くて大量の雪を掘ることもどかすこともせず、雪の上を歩くことが出来た。時間はかかるが、掘って進むよりもずっと早い。
 
 叫べば声の届く隣家から隣家へと、伝達をして貰いながらのろのろと進み、化野や若い男衆が、借りられる板をあちこちから、一枚また一枚と借りていく。それでもっていくつかの方向へと進む。なんなら上に乗った里人の体の重みで、板の上から雪を押しつぶし、軽いものが歩いても、ぎりぎり沈まない状態にすることも出来た。

 段々と人手が増えた後は、戸は壊さずに外から必死に雪をどかして、開けることもやった。大層難儀だが、里人たちは知らず知らずみんな笑っていた。皆で力を合わせ、降り過ぎた雪に挑み、ことを為していくのが楽しくて仕方なくなっていた。

 それで夕方前にはすべての家を周り、無事を確かめ、必要なものを分け合って、どの家も数日は飢えることなく、凍えることなく過ごせるよう確信が持てた。やむを得ず壊した戸も、風や雪が吹き込まないように、急ごしらえで塞ぎ終える。

「はぁ、やれやれ。なんとかなったなぁ先生っ」
「戸板がこんなに役立つとはね、戸板様様だぁ」
「疲れたなぁ、茶でも一杯飲んで、ひとまず休もうや」
「あぁ、そうしよう」

 首に掛けた借り物の手拭いで、額の汗を拭いながら、化野は気付いた。沢山の戸板を、ずらっと並べてある坂の上から、白い頭の男が、じりじりとこちらへ向かってくるのだ。その一番端の戸板に、今まさによじ登り、目を丸くしている。

「…びっくりを通り越して、ちょっと感心したぜ、化野せんせ」

 戸板の上を歩き、目の前まで来た友は、雪まみれでよれよれの姿をして笑った。

「この方法を誰が考えた?」
「俺だ。たまたま思いついた」
「へぇ、大したもんだ。こういう方法もある、ってわざわざ伝えに来たんだがな。あと、何刻も経たずにこの雪、殆ど消える、ってこととかな」
「大したもんだろうっ、もっと褒め…。えっ??」

 化野だけでなく、その場にいた里人全員が、ぽかんと口を開いて居る。ギンコは体や頭の雪を払い落し、その場にどっかと腰を下ろすと、まずは一杯の熱い茶を所望した。

 此処まで来るのは大変だった。この里ほどじゃなくとも、膝上までの雪が、そこの山すそからずっと積もっていた。それを踏み固めながら進むしかなかったんだ。生憎戸板の持ち合わせがなくってな。と、ギンコは如何にも疲れたふうに肩を落として見せるのだ。

 湯のみを両手で包み、手を温めながらギンコは言う。



 ましろおばけ、っていう子供がつけたような名の蟲がいる。
 冬に雪雲の中に入って、ゆっくり成長しながら空を渡る蟲だ。
 その蟲が潜んだ雪雲は、例えどれだけ分厚くとも、
 太陽の光を透かした、明るい姿をしているのが特徴でな。
 俺はそいつを見掛けてずっと追いかけてきた。

 まさかこの里に来ちまうとは思わなかったけどな。

 この蟲は、雪の降るのと一緒に空から地面へと落ちてくるんだ。
 元々は姿の無い、空気みたいな存在だが、
 雪と共に降ってきて積もる時だけ、その雪に擬態する。
 然程害がないようで、案外難儀な蟲さ。



 ずず、と啜る湯飲みの茶の湯気が、触れれば感触がありそうなほどに白い。話を聞いた皆が、それぞれで驚いたり感心したりしている中、里人の一人がギンコにこう問い掛けた。

「家から出られなくなったり、道が道で無くなったりする以外に、何か良くないことがあるのかい、ギンコさん」
「そりゃあ、あるとも。これだけの雪がどれほど重いか考えてみたらいい。規模が大ききゃ雪の量もますます増える。家が潰れたり、橋が落ちたりも珍しくはない」
「い、家が…?」

 ぎょっとして、里人みなは自分たちの家の屋根の上を見た。地面に積もったのと同じ高さの雪が、屋根の上にも当然あった。

「た、た、大変だっ、すぐ家から出るよう、みんなにっ」

 それを化野がすぐさま止める。

「いや、大丈夫だ。その恐れもあると気付いたんで、雪の中に穴を掘ったり。除けた雪を集めてかまくらを作ったりして、その中にいるようふれてある。三太んとこの家畜小屋だけは屋根の雪下ろしをして、年寄りとか幼子の避難場所にした。牛の傍にいりゃあったかいしな」
「あぁ、その様子も、そこの山から里に入る前に見えた。益々大したもんだ、先生」

 褒められて、化野は落ち着かない気分になる。

「…そ、そんなにも褒めても何も出んぞ? ギンコ」

 ギンコは深く笑った。

「いいや、もう貰ったさ。いいものをな」

 寿ぐはずの年の初めに、蟲のせいで命を落とす誰かの姿など、見たいはずがない。それが見知った里ならば尚のこと。知恵を出し、力を出し合い、皆で楽しそうに笑うまでして、ひとりの犠牲も出さずにいてくれたこと。それがギンコにとっての、変えがたい幸であった。

 笑う皆の顔を眺めて、ギンコは小さく言ったのだ。

「新年だな、化野。おめでとうさん」
「あっ、あぁ、そういや今日は元日だったなぁ」

 いつの間にか雪雲はどこかに消え去って、明るい青空が見えていた。その場にいるみんなで、思い出したように新年のあいさつを言い交す。とんだことだったが、誰も怪我など無くてよかった。いい年明けだったと、皆の笑顔が言っている。

「さて、そろそろこの風景は見納めだ。中々見事なものだから、今一度、しっかり見ておいた方がいいと思うぜ?」

 ギンコの言葉に、面々は不思議そうにあたりを見回し、やっと気付いて息を飲んだのだ。雪は少し降っても沢山降っても、白の風景は変わらないと思っていたが、これほど降れば訳が違うのだと、人々は気付いた。
 
 どこまでもどこまでも、白い風景。葉の落ちた落葉樹は、その枝の一本一本の、細い先までに雪が積もっている。針葉樹は、分厚い白布を掛けたような様になって、重さで枝が下がり幹が見えない。家々の壁も吹き溜まった雪で隠されて、見回しても、見回しても、すべてが白かった。そして、雪に覆われた風景は、ほんの少しも鋭角な部分がない。

 まさに、別世界。

「驚いた。気付かなかった。…綺麗なもんだな」
「だろう? 自然の生み出す風景は、どれもが美しいものだが、こういう時の姿は、また格別なのさ。見れて良かったろう、先生。お、どうやらそろそろだ、気をつけてくれ、みんな」
「…うっ、わッ!!」

 何でもないことのようにギンコが一声添えた、その時であった。皆で乗っている戸板の幾つもが、急に、ぐっと沈んだのだ。あんまりいきなりだったから、転げ落ちたものもいる。
 
 地面に積もっている雪も、家の屋根の上の雪も、木々の上のそれも、その殆どが、急になくなった、ということであるらしい。

「ましろおばけが擬態を解いたんだ。そもそもは空気みたいなもんだから。大丈夫か?」

 転げ落ち、殆ど平らな雪の上で体を打った化野が、腰をさすりながら立ち上がる。

「びっ、くりしただろうがっ、早く言えっ」
「さっき言ったろ、消えるって」
「そうだが!」

 化野は少々怒っていたが、他の里人は笑っている。

「いや、蟲ってやつぁ面白いなぁ」
「教えに来てくれて、ありがとうよ、ギンコさん」
「俺は俺の仕事をしただけさ。茶が美味かったよ。ごちそうさん」

 今にも踵を返して、去っていきそうなギンコの上着を、化野がはっしと捕まえた。

「離せよ、化野」
「冬だぞ! しかも正月だ。馳走もあるし酒もあるっ。泊って行け! ギンコ」
「いいから離せって。今回は端からそのつもりだよ、蟲の影響が残っていないか心配だし、何より疲れた。泊めてくれ」
「そうかっ」

 ぱっと手を放して、化野は満面の笑みになっている。そのあと、歩きやすくなった道をギンコと歩きながら、化野は上機嫌だ。

「蟲に感謝だなぁ、よくぞギンコを連れて来てくれたっ」
「馬鹿を言うな。大事に至らなかったからいいようなものの」
「分かってるっ。でも、蟲のお陰で知り合えた。蟲が居なければ、きっと俺とお前の接点は無かった。感謝しかないさ。これだから好きでいるのをやめられんのだ」

 好きとか、蟲の話だ。俺のことじゃない筈だ。声に出さずに何度か唱えたあと、呆れたように溜息を吐いて、ギンコは言うのだった。

「お前の蟲好きは、俺に合う前からだろ、あほう」

 



 終







 明けましておめでとうございます。なんと二か月以上ぶりの小説執筆になります。毎年のことで、この時期多忙であることにプラスして、いろいろございまして。なのでリハビリがわりのような、稚拙なお話になっている気がします。

 それでも書き方をすっかり忘れていなくてよかったなぁ、と思いつつ、こちらを年越しnovelと致します。ありがとうございました。今年もどうぞよろしくお願いします。家族と自分を大事にしつつ、無理しない範囲で頑張るのが今年の目標っ。




惑い星



2025.01.01