ことづて  

ギンコ

今冬の訪れは遅かったが
降り始めたら
里は一息に真っ白になったよ 
年越しにお前は来ないのかと
この頃皆に問われるんだ
俺は言葉を濁してばかりいる

冬は旅には厳しい季節だから
心身を大事に過ごしてくれ
どうかくれぐれも気を付けて


化野




 とうに届いていた紙片をカサリと開いて、こうして眺めるのは何度目になるだろう。女々しいことだと笑う顔は、このふみを書いた化野にだろうか。それとも、飽きがくるほど繰り返し読んでいる、自分を笑うのだろうか。

 どうか、との言葉の下に、墨が落ちたとも思えない小さな「点」。何を書きかけてやめたのだろうと、つい考える自分さえも愚かしかった。

 くれぐれも気を付けて

 来てくれ

 …か?


 花の咲き乱れる春も、海風が心地良い夏も、紅葉が美しい秋も、そして寒さを凌ぐためにと、冬にも。化野ははっきりと俺を誘うことは無い。無いのにそれらが滲むような目をする。言葉を放った後の息に、縁側で見送る眼差しの奥に、そしてこうしたふみの余白にまでも。

「でもこれは、ちょっと、わかりやす過ぎ、だぜ…?」

 ふう、っと吐き出す息には、白い煙と白い息が混じっている。もうあと数日で、年の暮。

 急に舞い込んだ仕事を一つ片付けたら、いったい何の悪戯か、そこは化野の里にほど近い山間だった。もしも足の向くままに、俺が暮れに顔を出したなら、あいつはどんな顔をするだろう。知らずに零れる、苦笑を一つ。

 どうする? 行くか。
 まるで、魔でも差したような、
 この偶然に背を押され…。

 と、その時、背なの木箱で、カタカタと音が鳴った。ふみを持った手が、一瞬だけ焦るように震えた。

「……あぁ、ふみ、か」

 ギンコは深く笑むように、伏目勝ちになる。まあ、そんなもんだろう、とまた白い息を吐き、古い馴染みの相手からだったふみを、破かないよう広げて目を通す。光脈がずれた後の、とある谷里のその後を、確かめて様子を知らせて欲しいとの内容。

 急ぐなどと何処にも書いてない。今からすぐにとも書いてない。それでもこうしてふみまで来るからには、のんびりしたものでもないのだと思える。ふみに名は無いが、簡易な言葉や、紙片に微かに滲んだ草の匂いで、相手が分った。

「請け負った」

 と、一言だけのふみを書いた。そしてギンコは大きく行く方向を変える。藁靴の底に憑いた雪が、そろそろ落とさねば重い、と、急にそう思えた。 
 

 



 ここは海里。小さな漁師町だ。がやがやわいわいと、煩いほどの年夜の賑わいが、まだいくつかの家々から零れている。新しい年が明けてもう何刻も経つというのに、人がたくさん集まった里長宅では特に、一向お開きになる様子が無い。

 しきりと皆から酒をすすめられ、どうにも全部は断れず、気付けば少し酔ってしまっていたから、化野はその酔いを少しでも醒まそうと、表へ一人で出てきていた。

 夕からはらはらと散っていた雪は、今はぴたりと止んでいる。身を屈めて、手のひらにひとすくいの雪をすくうと、それを両手でひたりと顔に押し当てた。

「つめ、た…っ…」

 その冷たさに酔いは醒めて、濡れた瞼で忙しくまばたきすると、東の空の遠くに、ほんの少しだけ明るみが差していることに気付いた。あぁ、黎明、だ。その光は見る間に強くなり、金の淡い色を混ぜ込みながら、もうじき真新しい太陽を連れ…。

 そのうつくしい色を。
 まるで命のともるような、
 とうとい色を。

 たった一人でぼうっと眺めて、化野の足は知らぬ間に歩き出していた。きっと、美事な年の初めの明け空が見られる。そう思ったら、それをどうしても見たくなった。止めようもない、不思議な衝動だった。

 はぁ…っ、はぁ…っ。

 懸命に雪の丘を登りながら、白い息をひっきりなしに吐く。着物に、綿入れを羽織っただけのなりだ。いつまでもあたたかく居られるほどの酒は、医家としてさすがに飲んではいない。昨日大雪が降ったばかりだから、藁靴で来ていたのがせめてもの幸い。

 身の内に滲み、容赦なく芯へと染み入ってくるような寒さを、意思だけで、これでもかこれでもかと押し退けては凌いだ。幾度か転びそうになり、更に息をあげながら、ようやっと丘の頂まで辿り着く。もう、空は随分明るい。日の昇ってくる方向にはあまり雲は無かった。

 誰も居ない、冷えた空気と雪と、明けかけの光だけのそこで、雪の降るようにしんしんと。化野は胸の中に積っている想いを声にする。

「…ギンコ……」

 そこには居ないものの名が、化野の唇から零れた。乾いた喉が辛くて、また雪をすくって、ほんの僅かに口内を湿し、少しずつ息を整えながら、もう一度。

「ギンコ…。なぁ…」


 お前は、俺の送ったふみは、
 もう、読んでしまっただろうな。
 悪かったよ。
 無理を叶えて欲しがるような、
 そんな我が儘を、
 つい、書いてしまった。

 
 我が儘なんて叶えて貰わなくても、俺は十分に幸せなのに。お前と出会えて、時折お前が会いに来てくれて、それだけでもう、他には何一つ…。

「…は、ぁ…」

 詰めていた息を、もう一度だけ強く吐いて、あとはゆっくりと呼吸を沈めて、昇ってくる日の出をここで見られたら、もう戻ろう。新年早々、里に一人の医家が風邪で寝込んでしまうなんて、そんな無様はしていられない。

 ぎゅ、と、雪を踏む微かな音を、その時化野は聞いた気がした。どちらから聞こえたのかわかって振り向く前に、その足音の相手が、化野のすぐ隣に立つ。

「こんなとこで、一人で日の出を待ってるのかい?」

 ギンコが、来てくれたのかもしれないと、そう期待した自分が滑稽で、酷く悲しくもあって、顔も向けずに化野は言った。

「…悪いか、イサザ」
「悪かないよ。一緒に見たい誰かさんと居られなくて、淋しいだろうな、って思ったけどね。それはまぁ、正直俺のせいだし」

 そう言われて隠しようもなく険しい顔になり、化野はイサザを振り向く。何度か見た時と同じく、古びた蓑を肩に、他の季節と然程変わらないようななりをして、笑った顔のイサザが、平気で化野の視線を受け止めた。

「せっかくこの近くにいたギンコに、逆方向へ行く仕事を渡して、あんたの傍から俺が遠ざけたんだよ」
「なん…っ」
「わざとじゃあないけどね。何処に居るかなんて、知らなかった。でも…。」

 わざとじゃないけど、
 結果的にそうなったってわかって、
 俺、結構すっとしたし。
 性格悪いなって、
 これでも今、自己嫌悪。

 向けられている顔が、とても自己嫌悪の顔には見えない。笑って…。笑っているんだ。目が、唇が。く、っと顎を斜めに引いて、いっそ挑むような、イサザのその眼差し。

 化野は切れるほど唇を噛んで、細かく震えて、やがてはやっと噛み殺した言葉の代わりに、酷く力の抜けた声でぽつりと言った。

「どうせ」

わざとじゃないものを、怒るほど愚かじゃないつもりだ。でも、震えた心はすぐになど消せやしない。

「…どうせ、俺は…負けているんだろうさ」

 腹を立てるのは馬鹿でその上、お門違いだ。ただ、俺があいつの中であんまりちっぽけだったと、新年早々思い知らされて、それが痛い、だけのこと。

 きっとギンコはどんなに近くに居たとしたって、俺の我が儘なんか叶えやしないし、どんな遠くにいたって、お前の頼みごとなら聞くんだろうよ。それだけ深い繋がりだって、今にわかったことじゃない。今までだって、幾年も見せられてきたよ。

「……」

 勝ち誇った顔でもされると思ったのに、イサザは一瞬、驚いたように目を瞬いて、そして一瞬後には、さっきまでとは別の形に笑った。

「はっ、はは…っ、ばっか、じゃないか、先生…っ」

 言い終えてもまだ笑っているイサザの、肩が笑いの為に震えている。項垂れていて顔は見えなくとも、喉の奥でいつまでも彼はくつくつと笑って、やがては笑いを含んだ声で言ったのだ。

「何の根拠か知らないけど、いいよ。先生の思ってる通りなら、次にギンコが会いにくるのも俺だろうから、先生、お前がきてくれなくて、色々とボロボロで可哀想だったよ、って言っといてやるよ。他に伝言とか、あるならそれも」
「イ…」

 煽るように言われ、目の前が一瞬ちかりとするほどの激情。短気な方じゃなくたって、これは、平気で聞けるものじゃぁ、ない。じわり、理性が脳で焼き切れていく。

「イサザ、おまっ、え……。え…?」

 その時、化野の方からイサザの肩を掴もうしたのだ。だが、実際には何が起こったのか、分かったのは数秒の後だった。唐突に距離を詰められ、刺さるほど強くイサザに胸ぐらを掴まれたと思ったら、間違えようもなくはっきりと、唇を塞がれていた。それも、深く、強く。

「な…っ、なッ、い、今、何…し…っ」

 化野はイサザの体を渾身の力で突き飛ばそうとしたが、それより一瞬早く飛び退かれていて、化野の手は彼の体に触れることも出来なかった。つんのめって、雪の中に激しく突っ込んだ化野が、雪まみれの顔をあげると、イサザが吹き出す寸前みたいな顔で彼を見下ろしていた。

「何って。『ことづて』受け取ったんだ。すっごいな。そんなにかい? そんなに…会いたい…? ちゃんと伝えるからさ。そしたらきっとギンコは先生に会いに来るさ。これだけ思われてるんだったらね」

 ぺろり、と唇を舐める舌先まで見せてから、イサザは化野に背を向けて、雪と木々の中にあっと言う間に見えなくなる。特に張ったわけでもない声が、不思議と雪原の上を渡って、化野の耳に届いた。

「もう家帰って、あったかくしてなよ、化野せんせ」

 偶然に過ぎないだろうが、そのあと急に風が吹いて、木の枝の上に積もった雪の塊が、化野の上に落ちてきた。全身粉をまぶしたように、冷たい冷たい雪にまみれて、ガタガタと震えながら、化野は里長の家に戻るしかない。美しい初日の出なんか、眺めている余裕はなかった。

 何をどうしたらそうなるのかと、里の皆に散々笑われたが、言言い訳など出来る筈もなく、酔ってたらしくて記憶が無い、と、そう言って誤魔化すより仕方なかった。

「とんだ年明けだねぇ、先生」

 張って貰った湯に目元近くまで沈みながら、芯まですっかり温もるまで、湯船から出しては貰えない、そんな化野の一年の始まりである。

「まったく、とんだ年明けだよ」

 会えなくとも十分幸せだなどと、嘯いた罰にしても、酷いものだ、と。

「なぁ、酷いだろう、ギンコ…」



 

 悪者役なんて慣れっこだ。でもだからって、先生が風邪ひいたのまで俺のせいにされたら、堪らない。何しろギンコは、あの先生のこととなったら、過保護だし、大事過ぎるんだかなんだか、笑えるくらい、なんだから。

 イサザは少し見晴らしのいい山道の途中で立ち止まって、ようやっと昇ってきた朝日を眺めていた。それ自体光を放つような空の表に、白と金と橙を、ほんの僅かずつ混ぜたような、見事に美しい明けの昇りが訪れる。

 目を細めて眩しそうにして、そんな光を浴びながら、イサザは懐から、小さな小さな紙片を取り出す。何度も何度も畳んでは開いて、畳んでは開いてを繰り返したことが、ひと目でわかる紙だった。

 虚繭に入れる紙だから、極々小さいものを、そこへびっしりと小さな字で書き込まれた墨の文字。文字は上半分だけに書かれており、紙片の残り半分は、書こうとして無理に書きやめたような空白に思えた。

 宛名はギンコ、書いたのは化野。それでもイサザは、その文面を読んだ。何の変哲もない近況のようで、これほど一途で、これほど想いを込めた恋文も、そうはあるまいと…思った。そしてそれを受け取って、持っていたギンコも想いも。

「読んでる時に俺からの仕事の依頼が届いて、焦ったんだか何だか知らないけどさ。これを俺宛ての返事と一緒に、間違って送って寄越す、とかね。ギンコ、お前も…」

 大概、酷い、だろ。

「だから、これは、返してやらない。何処へやったかと、せいぜい焦って探すといいんだ」

 先生の言葉が、想いが欲しかったら、とっとと仕事を終えて、とっとと会いにいきゃあいい。俺への仕事の報告なんか、味も素っ気も甘い想いなんかもない、紙ぺら一枚の、ふみでいい。それを俺は丁寧に畳んで、しばらくは身に付けて持っているから。

 そう、お前を真似て、
 お前が先生のふみをそうしてるように、
 大事に、大事にしてやるから。
  
「あぁ、きれいだな…」

 もう随分と昇ってしまった真新しい太陽は、それでもまだ美しかった。僅かの風で、木の枝からちらちらと舞い落ちる雪も、金に光って美しい。

「ふ…っ、くくっ。それにしても、さっきの先生の顔ったら…くく、くくくっ」

 雪まみれで、目を白黒させていた化野の顔。また隙があったら、奪ってやってもいい。ギンコの大事なものを、腹いせにかすめ取るようで、悪くないと、そんな風にも思った。

 性格悪くたってなんだって、
 自己嫌悪なんて、しなくていいか。
 一番割を食ってるのは、どうしたって、

 …俺だしね。







  






 


 新年だから初日の出…が出てくる話…って。新年らしいとは思えない話のような気がしましたが、結構楽しく書けましたっ。楽しいことはいいことです。

 別にイサザが故意に二人を引き離したわけじゃないし、結局のところ、化野とギンコは相愛(両片思い??)で、イサザはおそらく、ギンコにとって恋愛の対象は入っていない形での、古馴染みで大事な友な「だけ」なんですから。

 あ、作中にあるお年夜、ってのは実は北海道(どの地域だけかとかは知らない)の風習で、大晦日の夜に御馳走食べましょうってやつです。私の家ではずっとやってるので、土地は違うだろうと思いながら取り入れてみましたよ。

 そうそう、この話のギンコは結局、イサザにふみで仕事の報告をしたら、折り返し届いたイサザからのふみで茶々を入れられ、化野先生のところに真っ直ぐいくのかと思われます。まだ松の内にギンコが現れて、先生は喜ぶことでしょう。そんな後日談を想像して貰えたら嬉しいです。

 では、これにて新年のノベルと致しますね。ありがとうございました。では、こんなところに書きますが今年もどうぞよろしくお願いします(^^)v



2016/01/01