言 一 片   koto hito hira






「あ」

 書棚の高いところの埃を払い落としていて、少し奥まったところへ寄せて立てられているそれへと、化野の目が留まる。目はそれへと置いたまま、棚を拭いていた乾いた白布巾を、無意味に広げまた折り畳み。


 あぁ、

 と、化野は思ったのだ。

 そうだ、そろそろ、

 あの日、だった。


 手を伸べ、他の本を落とさぬように気を付けながら、そろりとそれを手に取る。自身で綴った小さな冊子だ。濃い色の和紙を貼って、表紙の紙を少しは強くし、すぐにはよれてしまわぬようにと作ってある。

 色は微かに碧がかった、藍。この色を選んだ気持ちも覚えている。自分の着物の色に似ていて、そこにほんのりと「彼」の色。たとえ常は傍に居ずとも、遠く離れていようとも、想う心はいつも俺の上にあるから「自身」に「彼」の重なる色を。

 くすん、と化野は笑う。少々その…若い娘のようじゃあないか? 伝えぬまでもこの気持ちを、と。この想いを、と。こんなにも此処へ重ねて、ずっと大事に、しようだなんて。

 そう、
 初めてお前を、初めてお前に。
 恋しているのだと、認めた日。 

 布巾を置いて、それまで踏んでいた台に腰を下ろし、化野はその冊子をそうっと開く。表紙一枚をゆっくり捲ると、その言葉は勿論、書いたときと変わらずに其処にある。


 某年

 三月二十五日

 もう、逃げるのはやめた。
 認めることにした。
 何故とかどうしてとか、
 そんな筈はないとか、
 考えるのも、もうやめた。

 そうなのだから、
 しようがない。
 どうやらお前は、

 俺の 唯一。
 

「……ふぅーー…」

 目でなぞって、化野は詰めていた息を吐く。自分の言葉だというのに、緊張が凄い。書いた時の気持ちがこう、迫ってくるようだ。覚悟とか、そういうのが、今もこの小さな冊子のこの上に、きちりと正座をして座っている気がする。

「やれ」

 額に汗でも滲んだ気がして、傍らの布を取り、拭こうとして気付く。これはさっき棚の埃を拭いていた布巾じゃないか。慌てて布から手を離し、その勢いにのせたまま、さらに冊子を捲る。袋とじにしてあるから、なかなか厚みがある。

 きっちり、一年後の言葉が、其処にあった。


 某年

 三月二十五日

 春はいい。
 
 庭に咲く花の種類を、
 ひとつひとつ数えながら、
 他愛なく楽しむ。

 蕗の薹、福寿草、片栗。
 猫目草、一花草、二輪草。
 延齢草、踊子草、蓮華草。
 どの花もお前と見たい。

 待ち遠しいから、
 数えるのをやめだ。
 
 いつも通りで、
 お前を待つ。


 浮かれているのか。そろそろ会えると、常に思っているのが分る。どうしたって面映ゆく感じながら、次を見る。書かれているのは長く、少し重苦しいような言葉たちだった。其処にはこう在った。一年後の同じ日。



 某年

 三月二十五日

 あれからまた一年。
 気持ちは変わらぬ。
 少しも変わらぬ。

 もっと育っているなぞと、
 気のせいだろう。

 会いたさだって、
 変わらない。

 はず。

 雪はとうに解けたぞ。
 桜も咲き始めているぞ。
 空の色が美しい。

 早く来ないかと思う。
 気持ちは変わらぬ。

 けして変わらぬ
 増えてなどいない。
 
 変わらぬ。

 変わらぬ。

  
 たまらず化野は、一度冊子を閉じた。変わらぬ変わらぬ、と、変わっているのが手に取るようだ。もしかしたら少し「認めたこと」を後悔していたか? 自分のことだというのに、この日の「自分」は何処か朧だ。

 化野は踏み台の上で尻をずらして、開け放った縁側の方へ背中を向けるように座り直した。手元が陰って、もう一度開いた冊子もいくらか陰になる。また一枚捲る。


 某年

 三月二十五日

 書こうとしていたら、
 お前が来た。
 焦って妙な態度になった。

 そうか。
 これは隠すべきことか。
 隠すべきなのは、
 つまり、
 後ろめたいということか。
 
 いいや。
 違うぞ。
 違う。

 ただ、お前に迷惑だったら、と。
 そう思うだけなのだ。

 迷惑、

 だろうか。

 ただ、想うだけでも。
  
 
「………」

 化野は項垂れて、その文字を何度も目でなぞった。丸四年目か。告げたくなっているんだな、と、静かに思った。年にほんの三度か多くて四度。長くとも三日ほどしか滞在しない彼が、いつ、ふつっと来なくなるのかと、怖くなっていたのだ。

 文字は少し小さくて、並びも少し乱れていた。あぁ、そうだ。此処は確か、隣室にお前の居る時に書いた。呼べば声の届くところにいるお前に、感情が届いてしまいそうで、恐ろしかったのを覚えている。
 
 それから。日付はないが、次の年の同じ日に。何を書いたのかも、忘れていない。忘れるはずがない。




 好きだ。

 消そうとするなど。

 愚かだったな。



 
 余白だらけのその一枚。白が殆どの行間には、それまでよりもずっと、ずっと、想いが詰まっている。その想いは止めどなく溢れて、その次も、さらにその次も、捲った先を見えない言葉で埋めていたのかもしれない。

 その次は、覚えていた通りに、まっさらの白紙。さらにその次も、次も真っ白いただの空白になる。何も書かれていない。そうだ、五年目のこの日を最後に、書くのをやめた。だからこの先には何もないのだ。

 息を吐いた。深く深く。そのまま、ぱたり、閉じようとして、残りの白をなぞるだけのつもりで、ぱらら、と…。

「…?…。今、何か……」

 それ以後白紙のはずの何処か、何かが化野の目に映った。記憶では、この先はもう書かなかった筈。それなのに、何が…? 化野は息を詰めてもう一度、たった今、何かが見えた場所を開いた。そうしたら。


 はらり … と。


 乾いた薄い、花弁が、落ちた。たった一枚のそれは、おそらくは桜の花弁。何故、と思った。自分で挟めた覚えはない。もう水分もすっかりなくなった薄茶のその一片は、きっと去年か、もっと前の桜。知らぬ間に挟まったのか? それとも誰かが?

 誰、が…?

 誰…。
 
 まさか。

 化野の脳裏に、一年前のことが、ゆっくりと浮かび上がった。去年の桜は少し早かった。今日のこの日は風も強くて、何処かから桜の花びらがはらはらと舞い、丁度庭へと訪れた彼の髪に、薄紅の幾片か。

 でも、それだけだ。その花弁の内の一枚が、これだなんて、そんなことがある筈が。でももし万が一そうだとしたら、お前は一年前の今日、これを開いて見たと、いう…。

 いや、まさかだ。
 そんなことは…。

「はは…。いったい、何を。ははは」

 そうやって化野は笑って。その冊子をぴたりと閉じた。桜の花弁は拾って、挟まっていた場所にもう一度挟めた。そして元の場所に冊子を戻さず、いつも使っている薬棚の隅の方に置いた。

 何故そうしたのか、自分でも理由は分からない。怯え切ったように奥へと隠すこと。そういう自分の気持ちに、気付かぬふりをしたかったのかもしれない。



 その数日後、彼が来た。

 三月二十五日の丁度その日だった。化野の家の薬棚の隅に、あの冊子は置いたままだ。其処にそれがあることに、化野は胸が騒いで仕方がなかった。

 でも彼は常の通りに「友」に接する。茶を出し、夕餉や風呂を用意してやり、とっておきの酒を酌み交わす。旅の話を聞きたいとねだって、珍しい品は無いのかと我儘を言って、そうして夜も更けて、布団を敷いてそれぞれで横になり。

 彼が寝たあと、その寝息を聞きながら、化野はむくりと起き上がった。そうして件の冊子の傍へ行き、手を伸べ、開いた。

「………」

 最初から数えて七枚目の、何も書かれていないところに、それはあった。数日前のあの花弁と同じように、けれど同じそれではなくて、まだしっとりと水を含む、散ったばかりのような、桜の花弁の一枚。

 心臓の鼓動が、眠る友に届いてしまいそうなほど、大きく速く鳴り響いて、化野は焦って冊子を閉じた。そうしてそれを棚の上に戻して、布団に潜り込み、無理でもなんでも眠ってしまった。

 その翌朝、友は起き出し顔を洗い、海の方を向いてゆったりと縁側に座ると、こう言った。

「桜、ここへ来る途中、もう咲いている場所があったぜ」

 それだけだ。それだけで黙って、彼はじっと向こうを向いている。だから化野は薬棚の上の冊子を手に取り、開いて、七枚目の其処に目を落とした。宵に見たのと同じくそこにある、薄くれないの花弁。何も言わない、一枚。

 その花弁に触れぬよう、小筆で一筆、したためた。



 
 まだ、好きだ。

 お前が知ろうと、
 
 知るまいと。

 




 終







 惑い星はおしゃべりな方なので、言えずに秘めていること、なんてのは本当に難しくてね。嬉しいこととか、感謝とか、すーぐ相手に伝えてしまうんですけど。それでもきっと私の中にも「言葉にならないけど本当にね」と思っていることがあるんじゃないかなって。そんなことを思って綴ってみました。

 私自身にも、ふわっとしかわかっていないことなので、伝わらないかもしれないけれども、あなたがいて、気持ちが動くことが沢山あります。分け合いたいと思うこと。一緒に、と思うこと。だから、拙いけれど、此処に感謝を込めて。



2019.03.25

惑い星