きんいろ を わかつ
「いいですか? 此処に座っていて下さいね。くれぐれも何処にも行かないで下さいよ。坊ちゃんに少しでも何かあったら、俺の首なんか、とっとと切られちまうんですからね」
掛取り役の元吉は、真剣な顔をしてその子供に言い聞かせている。今日の集金は今来ているこの街の、商人の家やら宿屋の主人のところやら、ニ、三あって、その仕事の間、ここから動くな、と元吉は言っているのである。
相手は十にもならぬ子どもだ。元吉の務める金持ち医家の末息子なのだが、たびたび家から抜け出して、使用人やら奉公人のあとを追い、遠くの街まで出て来てしまう。元吉に凄まれても、平気な顔をしている彼だった。
「そう怖い顔しないでよ、元吉。どこも行かないし、消えたりもしないし、ちゃんと此処に座っているから。ここなら街を出入りする旅人が見られて、面白い」
茶屋のおもての長椅子の、日除け布のかげに陣取って、彼はきょろきょろと目を遊ばせている。そうしながら、さぁ行った行った、と大の大人の元吉へ向けて、追い払うように手を振って見せた。
「くれぐれも、くれぐれもですよ、坊ちゃんっ」
「わかってる。ゆっくり見たいから、ゆっくりいってきてよ」
「頼みましたからね! 後生ですよっ」
念押して言いながら、元吉はそこからほど近い数軒へ掛取りにゆく。遠ざかるその背など見ようともせず、子供は右へ左へ、手前へ奥へと、ひっきりなしに流れる人々を見るのに、既に一生懸命だ。
男がいる、女がいる。若者がいて、老人が居て、その間のものもいる。背に大きな荷物を負う商人たち。何処かから何処かを、目指しているのだろうその姿。商いをするものばかりではなく、旅人も実にいろいろで、三味線らしき包みを抱えた女もいれば、文を運ぶ飛脚もいるし、籠も時々通って行った。
身にまとうものを見るのも興味深い、遠くからきたふうのものほど、旅支度に隙が無い。薄着で手持ちの荷も小さいものは、きっとこの街の中だけか、近くの街を行き来するものたちだろう。
そうした多種多様な人々の中に、自分ぐらいの子供はひとりも見えなかったから、その子の姿を見つけた時、妙に彼の視線を惹き付けた。
薄汚れた、貧しい身なりの子供だった。薄汚れている、という言い方が、まだまだ遠慮しているぐらいに。子供は狭い無地に挟まるように立って、ぼう、っと道を見ていたが、その視線は何もない場所で、ゆらゆらとただ揺らめいていた。
「………」
それはいったいどうしてだったろう。一度その子に気付いたら、視線を外せなくなってしまって、ずっと見ていたら、やがて不思議なことに気付いた。
あの子、いったい何を見て?
ずうっと視線が彷徨ってる。
それなのに、あの子の視線の先には、
ずうっと、何もない。
何を見てるんだ?
何が見える?
いったい。
どうしても知りたくなって、茶屋の長椅子から、少年は立ち上がった。その時偶然、通りの向こうの子供も路地からふらりと歩き出し、まるで何かを追いかけるように、人通りの多い広い通りを、斜めに歩いて…。
その時。
「てめぇかっ、うちの商品かっぱらいやがってっっっ」
何処ぞから走ってきた腰前掛けの男が、その子の前に立ちはだかり、子供の華奢な手を乱暴に掴んだのだ。
「この乞食がっ、さっき盗ったものを出せ! 早く!!」
大通りを行き交う沢山の人々が、その子と男の方を見る。なのに誰一人、助けようとするものはない。その子のことをずっと見ていた少年は、どうしていいか分からずに立ち竦み、ついで助けなければと思った。
だって俺は、ずっと見てた。
あの子は、何も盗ってない。
そうして、駆け寄ろうとした彼の視野の、まだ幾ばくか遠くで、その子は男の手を振り払って、逃げたのだ。まるで、悪いことをしたみたいに。
なんで? していないなら、
そう言えばいいじゃないか。
「待てよ…っ」
此処に居て下さいよ。くれぐれも。そう言われたことなんかはもう消し飛んでいる。とにかく彼を捕まえて。そう、捕まえて安全なところへ匿って、そうして、それから、聞くのだ。さっき、お前、何を見て…?
彼は走った。あの子を追い掛けて。薄汚れた着物の姿を、一瞬たりとも見失うまいと、必死で目で追いかけて、心臓が口から出そうになるぐらい、一生懸命に走って、そうしながら頭も使って、追いかけているあの男を振り切ることを考えた。
細かくごちゃごちゃと出店の並ぶ場所を見つけ、その先に狭い路地や、戸を開け放った蔵をみた。隠れるのなら此処がいい、と、見当をつけてから、ようやっと追いついた子の腕へと、彼は思い切り手を伸ばし。
「待てったらっっ」
腕を掴みながら抑えた声でそう言ってやる。一瞬その子は激しくもがき、けれど振り向いた目で、相手の顔を見ると、また別の顔をして驚いていた。
「…っ、こっち、来いよっっ。隠れるとこがあるから…ッ」
「誰…っ?」
捕まえに来たんじゃないの?
どうして俺を、助けるんだ?
「誰だって、いいだろっ」
助けたいからだよ、それだけだっ。
強引にその子を引っ張って、出店の並ぶ間をするすると抜け、路地に入り込む。戸の開いている幾つかの蔵の、一番奥の暗く見えるところへ飛び込む。
「よしっ、ここなら…っ。ッわ…っ」
入った途端に、足首で何かを引っ掛けた。あぁ、転ぶ、と、其処まで思ったそのあとで、彼が手を引いていた相手の体までも、同じ方向に倒れ掛かってきて、踏みとどまろうとするも力足りず。
ゴツ…っ。
がしゃぁんッッ。
頭に酷い衝撃がきて、ほぼ同時に派手な音を聞き、あぁ、これじゃ見つかっちまう、と、焦ったところで、彼の意識は途切れたのだった。
まっくら、くらがり、しんのやみ。
黒く、黒く、落ち着く夜の、底の色。
彼はひとりになれる夜が好きで、医家になる勉強から解放され、薬類の本も閉じてよくて、ただただ布団の中で、好き勝手な空想を、どこまでも泳ぐのが好きだった。
この世は本当は果てが無くて、もっときっと、いろんなものがあって。俺はこんなところじゃなくて、もっと広い世界に行きたい。今まで見たこともないものをたくさん見て、知って、毎日、自由で居たいんだ。
だから、街へ出るのが好きなんだ。街を行き交う沢山の人々、ことさら旅人たちを見るのが好きだ。いつか自分も旅をしたい。
それなのに、大きな山に踏み入ったこともない、海も見たことが無い。大きな川一つ、渡ったことが無くて、その何にも無さにいつも失望していたのだ。でも、今、おそらくは夢だろう中で、彼は「川」を見ていた。
金。金色。
金色の何かが沢山。
ひとつひとつがそれぞれに、
命をもって揺らぎ、泳ぐ、
美しい不思議な、流れ。
不思議な、川。
あまりに見事で、あまりに大きくて、あまりに、あまりに美しくて、神々しくて、大きくて。大きくて。大きく、て。もっとよく見ようとして、そちらへ向けて歩き出しながら、夢の中で目を見開いた途端に。
彼の現実の瞼は、開いていた。
「あ…。あ…? れ?」
見開いたその目の前に見えたのは、見知らぬ子ども。彼と同じぐらいか、少し下ぐらいの、汚れたなりをした痩せた子供の、顔と、彼の顔をじっと覗き込む、目。
真っ黒くて深いその目を間近で見て、思わず吸い込まれそうに思って、そうしてやっと、思い出した。
「お、お前っ。にっ、逃げ切れた、か…?」
そうだ、さっき、この子が泥棒と間違われてて、連れて行かれそうで、それで。
「うん、多分」
目の前に居る子供はそう言って、自分の額をすりすりと、痛そうに撫でたのだ。そうか、ぶつけたんだ。だから互いに額が痛い。触ると酷いたんこぶが出来ている。そのせいで少しの間、意識を失っていたのだと分かった。
「だ、大丈夫か。おでこ」
「痛いけど、だいじょうぶ」
「よかった。けどっ、なんで盗ってない、て言わなかったんだ? 盗ってないよな、お前。俺、通りの向かいからずっと見てたけど、ずっとあそこにいたもんな?」
早口で疑問をぶつけると、彼はすうっ、と諦めた顔になって、言った。
「無駄だから。汚れて腹をすかせた子供は、泥棒をするもんだ、ってみんな思ってる」
「そんな、こと…っ…」
ない、と言いたかったが言えなかった。そうかもしれないと思ったから。だから、ただ、急に引っ張り回したことを一言詫びて、それから彼は聞いたのだ。聞きたいと思っていたことを。
「お前、さっき、何見てたんだ。ずっと。見てたろ。何もないように見えるとこ。それで、見えない何かを、追い掛けようとしてたろ?」
問えば、子供は彼の顔を、じっと見て。
「見てない、何も」
「見てないことないっ。教えろよ、どうしてどうやったら見えるのか、教えてくれっ。俺も見たいんだ。お前の見てたもの…っ」
どうしても見たかった。綺麗で不思議なものに違いないと、理由もないのに思っていたのだ。だから必死に詰め寄ってそう言ってやれば、ひとつ息を吐いて、あっさりと彼は弁を覆す。
「…じゃあ、見てた。けど、俺が見てたのは"無い"ものだから、お前には見えないし、本当は"無い"んだ。ただ"無い"ものを見てる俺がどこか、おかし…」
「馬鹿だなっ、無いもんかっ。少なくともお前が見てるなら、ちゃんとあるに決まってるだろっっ」
「………」
子供は目を見開いて、不思議なものに出会った顔をして、強く真っ直ぐに彼を見た。その目が揺れて、もしかして泣くんだろうかと思ったのだ。
「そ、そうだ、お前、名前なんていうんだ? ここらにはよく来るのか? そのっ、俺はさぁ」
捲し立てて、怖かっただろうか、と、そう思ったから。だから互いのことを少しでも話して、友達になれないだろうかと、彼は思った。酷く汚れたその子の身なりと、上等の布地の着物の自分と。だから、身分が違うのは分っていたが、それでも。
「俺の名前、ちょっと変わってるんだけど、あだし…」
そう言いかけた時、子供は何かを聞いたように、はっ、と顔を上げた。そうして耳を欹てた。化野もつられてそうしたら、路地の外から、細い女の声がして、どうやらその声は、彼を呼んでいるようで。
「かあさ…」
「あ、お母さんと来てたのか? えっと…」
それでももう少し、話そうとして。また会いたいと言おうとして。でも、徹底的な邪魔が入ったのは、その時。
「坊ちゃんっ。あぁ、こんなところに居た! まったくっ、だからあれほどっ!!」
用事を終えた元吉が、茶屋に居ない化野のことを焦って探して、散々聞きまわって、とうとうここを探しに来たのだ。
「元吉。…あ……」
くらり、その時、奇妙な眩暈がした。頭の奥にあるものに、細い糸が繋がっていて、その糸を外からするすると引っ張られるような。そのせいで、何かが頭の中から逃げていきそうで、化野は必死で抗った。何をどうしていいか分からないままで、祈るような気持ちになった。
いやだ。
いやだいやだっ。
盗らないでくれ。
あぁ、持って行かないでくれ。
どうか、お願いだ。
これはきっと俺の、
"大切なもの"
なんだよ…
酷い眩暈は続いて、だんだん気が遠くなる。くらくらと揺れる視野の遠く、あの子供が、母親らしき細い姿に、手を惹かれ、もっと遠くなっていくのが見えた。
最後に一瞬、振り向いて、くれただろうか。
分からない。
分からない…。
「勉強を怠けて裏の山の木に登って、落ちて頭を打って伸びていだなど、何をやっているんだ、お前は! 山には狼だっているのに、元吉が通りすがらなかったらどうなっていたことか…!」
目を覚ました途端に、父親が頭ごなしに怒鳴っているのが聞こえた。怒り顔の父の後ろで、元吉が身振りで言っている。
後生だから、そういうことにしといてください。そうでなけりゃ、俺がお叱りを受けちまう。元はと言えば、勝手にふらふらしてた坊ちゃんが悪い。
その雄弁な身振りと表情に、つい笑いそうになってそれをこらえて、化野は父親に向けて、せいぜい反省した顔をして見せ、反省した声色で詫びて、ついでにまだ具合の悪い振りをし、まんまとうまくひとりにしてもらい…。
そして、頭の中からほどんど消えかけている、あの色を思い出そうとした。なのに、殆ど思い出せない。美しかったあの色。あの不思議な、広い美しい川の流れ。
本当は"無い"んだ。
急に聞こえた声。誰の声だったろう。あぁ、あの子の声だ。名前も聞けなかった。顔ももう、よく思い出せない。どうして、どうしてだ…? 忘れたくないのに…。思い出せ。思い出せ。そして忘れるな、ほんのひと欠片でも、いい、から…。
あぁ、
俺の"大切なもの"
消えるな、忘れるな。
どうしても、
忘れてしまうというなら、
思い出せ。
いつか、いつか。
きっと。
庭で小鳥が鳴いている。その小さな囀りの向こうに、聞き慣れた海の音がする。目を開けて身を起こし、鳥の声と海の音と、自分との間にいる男の姿を、彼は見た。
「ギンコ」
と、化野は言う。大事な書き物をしていて、うっかり文机に突っ伏して寝てしまった彼を、布団に寝かせてくれたのだろう、優しい男の名を、彼は呼んだのだ。
「ん? あぁ、起きたのか。随分根を詰めていたな」
「忘れてはならんものは、ちゃんと忘れないようせねばならんからなぁ。夕べはある医学書を読んで、それで思いついた覚書をな。でも書き終えてから寝落ちたようだ」
「そりゃよかった」
昨日の夜遅く、訪れた彼は寝たのかどうなのか。せっかくひさびさ訪ねてきたというのに、家主は今夜のうちにやっておきたい書き物とやらに夢中で、ろくに彼の方を向きもしないで。
そんなことは本当に珍しいから、余程大事なことなのだろうとさせておいてくれた。
「…ギンコ」
と、また化野はギンコを呼んだ。何処かがいつもとは違う声。いつもとは違う眼差しをしている。
目覚める前に見ていた夢を、彼が思っているからだった。その夢の端に、まだ今ならば手が届く。遠い遠い、忘れていた記憶を、手繰り寄せてしまえるかもしれない。だから今のうちにと、そう思い。
「ギンコ、その、な。お前…」
「んん? なんださっきから」
「いや、その。子供の、頃の、お前の。もしかしたら、ヨ…」
あの時に、ほんの微かに聞こえていた。あの子供の母が、あの子を呼んだ声を、今になって。夢で聞いて、思い出した。やっと、ちゃんと聞こえた。そんな気がして。
「……ヨ…」
「よ…?」
ごぉぉぉぉぉぉぉ。
まるで邪魔をするように、その時重ねて聞こえてきたのは、あの流れの音、だった。化野は眩暈のするように、目を暫し閉じていて、それからようやく目を開けて、こう言った。
「ギンコ。また"光脈"の話をしてくれるか?」
彼は笑んでいた。消えていく夢の情景、消えていく過去の大切な記憶から、ゆるり、手を離しながら。
「金色に光る川の話を、聞きたいんだ」
「あ? またかい? もう随分何度も話したろうに? 飽きねぇな。まぁ、構わんけどな」
光脈の話をねだった化野は、その時どこか、眩しそうな顔をしている。美しい光をまさに今見ているような、そんな顔。
忘れても、
もう二度と思い出せないとしても。
それは掛け替えのない、
俺の"記憶"
俺の"大切なもの"
あれがもしも、夢じゃないとしたならば、
ギンコ、お前の中のどこかにも、
同じ"記憶"があるのだろう。
頭の中のどこかから、心の奥のどこかから、記憶の底にどこかから。海なりに似た音がする。永劫に、命の流れる、音がする。
終
本日2019年2月26日は、当サイトLEAVESの13周年ですっ。13周年。十三周年、ですか。そんなに経つんだなぁ、って。お話を書く私が居るからこのサイトは続いているんですけど、同時に訪れてくれる人がいなければ、今こうしてはいないかもしれないと思うと、来てくれた方々に感謝なのです。
本当に、ありがとうございます。
今日は無理かもしれませんが、近いうちにちょろっとだけ、13周年を迎えた気持ち何かを書いてブログに載せたりしようかな、って思ったりしていますよ。このお話についても、そこに書くかもしれない。
でも今日のところは、多くを語らずに、このお話を此処に置いておきます。今まで何度も書こうと思ってきたけど、何故か書いていなかったこういうストーリー。節目のこの日に飾ることが出来て、とても嬉しく思っています。
ここまで読んでくださった方にも、お辞儀をする気持ちでございます。ではでは、また。別のお話の執筆後コメントで、お会いしましょう。
2019.02.26
惑い星