帰っておいで
「おおぉっ、ギンコかぁ」
皺深い顔をくしゃくしゃにして、老人は嬉しそうに笑った。古い家の縁側から腰を上げ、こっちゃ来いこっちゃ来い、と犬の子でも呼ぶように手招きしている。呼ばれるままギンコはその庭に招かれて、一杯の茶を差し出された。
「変わりは無いかい」
そう言って、立ったままで茶をひと口貰い、背の木箱を下ろそうと肩をゆすっている彼に、今度は別の声がかかる。
「ギンコじゃないかぇ、久々だのぅ」
「おう、婆さん。元気そうだな」
振り返れば、総白髪の老女が曲がった背を伸ばそうとしながらにこにこしていた。
「勿論元気じゃとも、みんな元気じゃ、お前さんのお蔭でのぅ。美味しい水飴があるから、うちにも来ておくれ」
「あぁ」
「お、この匂いは…ギンコか? んん? ギンコが来とるのか? 怪我しとらんか? 大丈夫か?」
また、別の老人が目と鼻の先の道を通り、蟲煙草の匂いに気付いて足を止めると、杖をつきながら垣根の際まで寄ってくる。茶を振る舞ってくれた爺さんの妻も、前掛けで手を拭きながら家の裏から出てくるなり、喜んで目を細めた。
「お爺さんったら、ギンコが来ているんなら言ってくれなくちゃぁ。とっといた干菓子があるんですよ」
「いや、そんなみんなして。そう構わんでも」
やんわりと返しながら、ギンコは其処から見える里の様子を、ゆっくと見渡した。
浜へ向けての極緩い斜面。潮風を避ける並木が、途中で途切れながら二、三の列になって続いており、その合間にはカワラヨモギやスイカズラの小さな畑。広くは無い砂浜の向こうには、穏やかな海が広がって、小規模ながら海苔漁の網が見える。
畑や海辺で働く里人は、髪の白い老人や老女、少し背の曲がったもの、足腰の弱ってきたもの。杖を片手のものもいるし、目が悪くなってしまっているものや、耳の遠いものたちも。どれも、全部。一人残らず老人だった。
此処は、波の無い湾に添う、小さな小さな海里。年老いたものだけで寄り添い暮らす、集落である。
「ねぇ、ギンコ、これ。着てみておくれでないかね。倅のだけども、他にも箪笥の底に沢山あるんだよ」
「それだったら、うちとこには草履や蓑がある。ギンコに使って欲しいねぇ。あんまり使ってないんだが、儂や妻じゃ大きいし」
「ギンコや、今晩はうちへおいでよ。夕餉の後、お酒を飲まないかい? ちょいと強い酒だもんで、あたしら年寄りじゃあ飲めないんだよ。ギンコが飲んでくれたら、嬉しいねぇ」
皆がギンコを呼びたがる。彼に何かをしてやりたがる。家に居て欲しがる。少しでも長く自分らの傍で、この里で、くつろいで行って欲しいと、言葉や態度の下に透かせている。
「ギンコや。ギンコ、こっち来ぉ」
「今から煮物を作るのよ」
「うちでは味噌汁を作るで」
「ご飯をちょっと炊き過ぎてねぇ」
「お酒を」
「酒の肴を」
「干菓子があるの」
「お布団干したばかり」
あぁ、うん、そうだなぁ、と。曖昧な返事ばかりで、ギンコはずっと笑んでいた。そうして、中天を横切ったお天道様が、すこうし足を速めて、海へと向けて傾く頃、彼は腰を上げるのだ。
「そろそろ、行くよ」
「…………」
ギンコの言葉を聞き、彼が腰を上げたのを見ると、年老いた人々は皆して縋る顔になる。
「……も、もう?」
「あぁ」
この里の人々は、みんなしてギンコを歓迎する。遠くを旅していた自分の子供が、久々に帰ってきたみたいな顔をして、喜んで、あれもこれもと、してくれたがる。ギンコはずっと笑顔で居ながら、本当は困って、心底困って、いつも、ほんの数刻ですぐに発つのだ。
「またお出で。遠慮なんか、せんでなぁ」
老人がそう言った。
「ほんとのほんとに、皆で待っとるよ」
老女がそう言った。
そうして、誰が言ったものか、こんな声が聞こえたのだ。
「ちゃあんと、此処に、帰っといでね」
「………」
ギンコは無言で、木箱を背負った。そしてみんなに背中を向ける。此処は狭い里だから、ちょっと歩けばすぐに抜けてしまう。里外れの丘を項垂れて登り切って、潮風を浴びながら振り向くと、丘一面に、ぽつんぽつん、と沢山の岩が並んで立ててあった。
それらはすべて、墓だった。
蟲患いで、ある年齢より年若いものが、ひとり残らず死んでいった。それは、ギンコが救えなかった人々なのだ。幾人も、幾人もの男や女や、子供たち。知識不足で薬も作れず、対処が遅れ、殆ど何も出来なかった。あれからもう、十何年もが過ぎている。
なのに、あぁ。また。
濁りも、くすみも無い声で、みんな笑顔で。まったく、どうしてあんなふうで居られるのか。ギンコにとっては、胸に刺さるような、残酷な。けれども甘くて、柔らかな。それは、大事だった自分の息子や娘や孫たちに、向ける想いである筈なのに。
「…痛ぇこと、言ってくれやがるよなぁ」
ギンコは咥えていた蟲煙草を指へと移して、息だけの声でそう言って、しみるように目を細めるのだった。
終
執筆後コメントは、本文に比べて少し長くなっちゃったので、今日のブログの方へ転記しちゃいましたっ。
2017/05/07