白踏花 5-8
5
洞窟の外から虫の声が聞こえている。ここは恐らく山中で、随分と涼しいからだろうか、秋の虫が鳴く声だった。
ギンコは腕を背中でひとつに縛られ、両足首もひとまとめに縄で縛られて、シャツ一枚のまま転がされていた。また一度意識を失ってから、少し眠ったのかもしれなかった。重い瞼を開ける前に、ぼんやりと願い事を思い浮かべる。
酷い悪夢が、早く終わってくれるように。
けれども目を開けたそこは、元のままの岩の洞窟。それぞれ離れて、フヨウとクロバエが横になり、休んでいるのが見えていた。全身が、もうバラバラになりそうだ。それよりも心がもうずたずただった。こんな悪夢が続くのならば、いっそ舌を噛んでしまえば。
どういつつもりか、口は塞がれていなかった。目を覚ましたことを気付かれないように、そろり、ギンコは舌を伸ばし、歯の間に挟んでみる。
こんなところで死ぬのか、と思った。何処かの山中で獣か蟲に喰わられて、野垂れ死ぬことくらい、ちゃんと思い描いていたけれど、それでもこんな酷い死にざまは思っても見なかった。
あぁ、さいごにひとめ あいつに…
思い出し掛けてギンコはきつく目を閉じる。今、思い出しただけであいつが穢れる。そんなふうにも、思えて…。
そのまま目を閉じているギンコの腕を、誰かが掴んだ。ぎくりと目を見開き、反射的に抵抗した。フヨウが目の前にいて、小さな注射器をギンコの腕に寄せようとしている。また、いかがわしい薬なのかと、怖気が立つ。
「そんな怯えないでくださいよ。ただの栄養剤なんだから。時間の経過なんんか分からないでしょうが、これで丸二日、あんた飲まず食わずだ。躾の済んだあんたを旦那に渡すとき、ごつごつと骨の浮いた体になっててもらっちゃ、困るんですけどねぇ」
言われれば、何度か差し出された汁物や飯を、拒んだ覚えがあった。栄養剤の注射も、勿論拒む。体を捩じって嫌がれば、フヨウは呆れたように溜息をついた。
「……ま、あんたが従順になるネタならある。出し惜しみはやめて、そろそろ見せましょうか?」
笑う、フヨウの目。暗いよろこびに満ちて、にいやりと。
「向こうに居るシキミさんが描いたものです。凄いですよ。腕のいい絵師が、そのままを映し取ったみたいだ。ゆっくりご覧なさい。さぁ…」
フヨウは紙の束をギンコの前に放り出した。ざっと数十枚の紙が、ばさばさとギンコの前に広がる。ギンコは目を見開き、それを凝視した後、身を焼くような屈辱と嫌悪に苛まれた。描かれているのは彼自身だ。
クロバエの肩の上に抱え上げられている姿。両腕を後ろに縛られ、意識無く転がされている姿。それから、胸に薬を塗られ、或いは性器に塗り付けられて、身を捩っている姿も。
細い棒を、陰茎に出し入れされている最中の絵もあった。広げた足の付け根を、紙いっぱいに大きく描いてある。棒の先端から、精液がとろとろと滴っている様まで。クロバエにしゃぶられている絵も当然あった。イく瞬間、仰け反り震えている姿も。
吐き気を催し、ギンコは体を二つに折った。えづいている最中に、フヨウは淡々と語っている。
「全部シキミさんが描いたもので、これだけでも凄いのに、もっと凄いのはねぇ…。この絵。ある海里に住む人を書いた絵だそうで、実際会ったのはシキミさんだけですけど、穏やかで優しげで、大層いい人だったそうですよ。知ってますかギンコさん」
顔の前に差し出された絵。藍の着物を来て、穏やかに笑う…。それは…。あだし…の…?
弾かれたように顔を上げたギンコの前に、また数枚の紙が差し出された。ギンコは目を見開き、それを凝視した。目が逸らせなかった。描かれているのは、紛れもない化野の姿。それが着物を肌蹴られ、その上から縄を巻かれ、転がされ、裾を大きくまくられて。
嘘だろう。
まさか。
こんなことを、
あいつに ま で …。
息さえ付けなくなったギンコに、フヨウは優しくこう言ったのだ。汗に乱れた白い髪を、変に優しく撫でながら…。
「あぁ…安心して下さい。これはあくまで、想像で描いただけのものですよ。シキミさんは随分器用な人でねぇ。それこそ絵師顔負けというヤツですか。一度会ってじっくり眺めさえすれば、後は想像で、どんな絵でも描けるそうです。あ、また一枚仕上がったみたいですね」
フヨウが受け取り、ギンコへと差し出した絵は、化野が全裸に剥かれ、白い素肌に無数の傷を負っている姿だった。薄く開かれた口からは唾液を零し、死んでいるようにすら、見える。
ギンコはそれを見た瞬間、また激しく目を逸らし、けれどもう一度怯えた目で見た。そして消えそうな声で、言ったのだ。
「あいつには、手ぇ、出さないでくれ。俺は何されてもいい…。何でも、言うことを聞く…から…」
絵を映したままの目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちていた。フヨウの後ろで聞いていたクロバエが、にやにやと笑いながら、ギンコの口へと握り飯を差し出す。虚ろな目でそれを見て、ギンコはそれを齧った。味などしない。もう吐き気すらもしなかった。
「…可哀想に。嫌がったり逃げたりしたら、そのせいで大事な人がこんな目に会う。そりゃあ逃げられやしませんよねぇ」
手足の縄は一度解かれた。でもその代わりに、棒を一本差し出され、足を広げているように言われた。ギンコは従順に従って、裂けるほど大きく足を開き、両の足首を棒の両端に縛られた。
「シキミさん。ずっと絵を描くばっかりで、そろそろ待ちくたびれてた頃でしょう?」
フヨウが言ってギンコの前を退くと、ずっと筆をとっていた男が岩からゆらりと立ち上がり、ゆっくりと近付いてきた。蟲煙草の匂いに、片手に下げた木箱。変に無表情な男だった。聞き取り難い声が、こう呟く。
「待ちくたびれてるのは、俺よりも、俺の飼ってる蟲どもだな」
続
6
逃げることも抗うことも、舌を噛んで死ぬことも、もう出来ない。彼を欲しいと言う見も知らぬ誰かが、好きなようにギンコを弄び、やがては飽きて捨てる。その時を待つしかないのだと、朧な頭でギンコは悟った。
それまで生きていられても、死ぬのだとしても、ギンコにはもうどうでもいい。何より大事に思っているものが、無事ならば。
ぐったりと身を投げ出し、視線すら動かさなくなったギンコを、男たちは洞窟の外へと運ぶ。最初から見当をつけてあったのか、枝ぶりの良い一本の木にギンコの体を縛り付けた。脚は開いて固定され、まだ着せたままのシャツは、わざわざ胸の上までたくし上げ、その上に縄をかける。
全裸よりもあられもないその姿を、クロバエとフヨウは遠巻きに眺めていて、残る一人、シキミと呼ばれた男だけが、ギンコの前に近付いた。酷く擦れてくぐもった、聞き取りづらい声。
「見るか? 元々この国には居ない珍しい種だ」
懐から取り出した小さな果実。そこには穴が開いていて、その内側に、血のような色をして蠢く何か。
「蛭に似ているが、蟲さ」
穴へと指を入れて、シキミはその赤い蟲を一匹だけ摘まみ出す。いきなり掴み出され、蟲はうねうねと身を捩り、白い汁を出しながらのたうった。
「醜い蟲だ。蟲の中には綺麗なものもあるが、この見目じゃあ厭われるばかりだよ。可哀想だと思うだろう? だから、たまにはいい目をみせてやりたいんだ。…これを、どうすると思う?」
「…………はぁ…はぁ…」
ギンコは何も答えなかったが、虚ろだった目には感情が宿り、呼吸が浅く速くなる。体は細かく、震えていた。シキミの指に抓まれたまま、蟲はまるで呪詛するように暴れ、口、と思しき場所から黄色い繊毛を伸ばし、それが途中で枝分かれして、尚も奇怪な姿になっていく。
そろそろ日も昇る。朝の光が降り注ぎ、清らかな声で鳥も鳴くだろう。木漏れ日がきらきらと地面に揺れ、平穏で、美しい自然の只中。そこだけべっとりと、穢れを塗り広げるかにように、ギンコはここで、蟲の餌となるのだ。
感情の無い声で、にこりともせずに、シキミはこう言った。
「あんたは今日一日、蟲たちの贄だよ。可愛いこいつらに、喰らわれてやってくれ」
シキミは蟲を掴んだままの手を、広げられたままのギンコの足の付け根に近寄せる。紅い蟲は繊毛をざわつかせ、醜い体を伸ばして、そこにある穴を見つけた。さわさわと、細い繊毛で綴じた襞をなぞり、確かめ、そして蟲は、そこへと入っていく。
「い…いや、だ…。ぁあ…、ぁあ…っ」
どれほど身を捩ろうと、広げられ固定された脚を閉じ合わせることは出来ない。尻穴を窄めても無駄だ。蟲は自在に体をくねらせ、蠕動と、細い繊毛の動きで、ギンコの中へ、中へと入って行く。見開いた目に、二匹目の蟲を掴んだシキミの手が映る。彼はそれを、ギンコの陰茎の根元にくっ付けた。
蟲はそこに吸い付き、穴を探して這いまわる。三匹目は陰嚢の裏側に付けられた。そして四匹目は、陰茎のもっとも先端に。
蟲の体から滲み出す白い汁が、激しい痒みを引き起こした。指で掻き毟りたいほどの痒みだった。足と同様に、両手も木に固定され、為す統べは無い。痒い部分に蟲が這うだけで、ほんの僅かだけ痒みが癒され、その気持ち良さに性器はすぐに反応した。
ヒクヒクと蠢く鈴口を、四匹目の蟲が繊毛で弄り、抉じ開け、そこに侵入する。痒みを引き起こす汁を垂れ流しながら、内へ内へと。ギンコはすぐに絶頂を越えた。
「…ひぁ、ぁあ…ッ」
けれども入り込んだ蟲のせいで、精液は陰茎の中で暴れただけだ。ガクガクと腰を揺らしながら、放てない絶頂が、何度も、何度も。紅い蟲はギンコの尿道と、後穴の奥で散々に暴れて、一刻程が過ぎた後、やっと静かになった。
あまりのことに、目を開けたまま失神していたギンコの髪を、フヨウが乱暴に掴んで上を向かせる。口元に刺しつけられた器を、無意識に嫌がったら、薄笑いの染みた声がギンコを追い詰めた。
「嫌がったりして、いいのかい? お医者の先生が、あんたの代わりに贄になっても…」
「…ぁ、嫌だ。わかったから、飲むから」
「飲みますか。これが何だかわかりもせずに?」
そう言われ、ギンコが怯えて目を見開く。それでも選択肢などなくて、ギンコは喉に流し込まれたそれを飲み込んだ。
「これはね、薄めた蟲下しですよ」
フヨウがそう言い終えた後、ギンコの中であの蟲が暴れた。殺すほどの強さもなく、下すほどの強さもない蟲下しのせいで、蟲はただ苦しがり、ギンコの中で滅茶苦茶に暴れる。もう何度も絶頂を越えたのに、ギンコはまた射精出来ないままで、性器をビクビクと震わせた。
「苦しそうですねぇ、その蟲、早く出て行ってほしいでしょうね?」
「…出て行って貰うさ、今度はこの蟲の番だ」
シキミがそう言った時、ギンコの足元の土から、みょこり、と、白い蛇に似たものが這い出てくる。それでいて、その蟲は植物にもどこか似ていた。
続
7
「や、め…触るな、触るな…」
今度はどんな酷いことをされるのかと思って、ギンコは身を強張らせていたのだ。まさか体内の蟲を、何かで掻き出されるのかと。けれど与えられたモノは、ある意味どんな仕打ちよりも残酷だった。
シキミはギンコの前に近付き、その両手を差し伸べて、まるで慈しむように彼へと触れたのだ、纏ったままのシャツへの内へと、ゆっくり手を滑り込ませ、浮き出た肋骨をなぞるように、そうしてギンコの乳首を探り当てると、きつく捩じることも、押し潰すことさえなく、やんわりと形をなぞる。
どっぷりと快楽に犯されたギンコの体は、どんな愛撫にも酷く素直で、四肢の縄を軋ませながら震えた。たったそれだけの刺激にも、芯に甘い痺れが走り、陰茎は内側から収縮する。放つことも出来ず、身の内に溜まっている精液が、じんわりと掻き混ぜられるような気がした。
シキミはギンコの大事な相手に一度は会い、その所作を見、声を聞いた男だった。
「…気持ちいいか? ギンコ…」
「……ぁ…」
「可哀想に、こんな目にあわされて」
「よ、せ…」
似てなどいない。声も違う。こんなことを、一度として想像したこともないのに、それでも、それは。
「もう大丈夫だぞ、安心しろ」
「やめ…ろ…嫌だ…」
「何が? つれないな、ギンコ。お前は俺と、こういうことを願っていたじゃないか。知ってたよ。だから」
幻覚。幻聴。それでしかありえないと分かっている。似ても似つかぬ声が似て聞こえ、居る筈の無い人が目の前に見えてくる。あの遠い穏やかな海里で、いつもいつも彼を出迎えてくれた、掛け替えの無い、ただ一人の…。
「…嫌だ、いやだ、イヤ…。ひ…ぁあ…」
やんわりと握られた。優しい温かな手で。潮の香りがした気がして、薬湯の匂いがした気がして、もがいていた体から力が抜ける。そのまま擦られて、見開いた目に涙が滲んだ。弛緩したギンコの体の、後穴から、鈴口からも、小さく縮んだ紅い蛭がどろどろと溶けるように抜け出してくる。
幻覚を見せたのはその蟲だ。危険を感じると、体から滲み出す体液で得物を酔わせ、夢を見させて逃げていく。紅いその蟲と共に、ずっと溜まっていた濁った精液が、酷いぐらい大量に溢れて、地面に零れ落ち、ギンコの大腿を滑り落ち、膝から足首を通り、そこからも土に染みた。
精液と共に蟲の体液も流れ落ち、幻覚は薄れて消えていく。目のない眼窩からさえ涙をこぼして、ギンコは声無き声で哀願した。
もう殺せ、と、こんなのは嫌だ、と。
きっともう二度と会えないのに、会えるとしても会ってはならないのに、最後に目に映したあいつを、こんな酷い形で自分が穢したのだ。舌を噛みたかった。でもそれも、出来ない。何もかも、どうしようもない。
「可哀想に」
笑いながらそう言ったのはフヨウの声だったが、化野の声も重なって聞こえて、ギンコは泣きながら首を左右に振っていた。
「ころ、して…く…」
「でも、死ぬなんて駄目だよ、あんたのこと、楽しみに待ってる人がいるんだから」
奴隷として、淫らな玩具として、両手を広げて待つものの手の内に、落とされる運命。
白い蟲がざわざわと地面から這い出し、零れ落ちた精液を辿って、ギンコの両脚に絡み付いていた。生暖かいその蟲の、蛇の体とも植物ともつかない感触が、そのまま自分の喉まで這い上り、この首を落としてれればいいのに。
叶わない願いを思って、ギンコは薄く笑った。けれど、まるでその願いを聞き届けたかのように、蟲が本当にギンコの喉に絡み付く。あぁ、死ねる。変に美しいその笑みに、そこにいたものは皆、一瞬目を奪われた。
シキミは幾分焦って、土に蟲避けの薬を撒く。白い蟲はすぐにも溶けるように消え落ち、気を失ったギンコの喉には、紅い跡が残った。
酷い悪夢は、その三日間だけではなかったが、ギンコはその後、ずっと麻薬のようなものに酔って、そこから先は夢現だった。栄養剤を注射され体を綺麗に清められ、絹の着物を纏わされて、一日休まされている間も、袋に入れられどこかへ運ばれた後も。
ギンコにご執心の旦那、とやらは、随分と慎重な男のようで、ギンコは薬物で目を見えなくされ、耳も詰め物で塞がれた。そうして縛られるか、複数の手で抑え付けられるかして、体を好きなように弄られた。
男は特にいかがわしい薬を使うでもなく、勿論蟲を使うでもなく、ただ、べたべたとギンコに触れて、些細な愛撫でも喘いで放ってしまうその体を、酷く気に入って昼夜を問わず弄ぶ。
でもそれは、たったの丸二日の事で、もうその男はギンコを放り出したのだ。朧に聞こえてきたのは、もうコレには飽きたから、金髪で碧い目の異国の女が次は欲しい、と、誰かに命じている声。畏まりました、と従者らしき声がいい、まるで物のようにギンコを部屋から運び出した。
殺してくれ。
ギンコの枯れた喉は、たったのそれだけの言葉もろくには言えなかった。その時彼の傍に居たのは、多分、命じられたことをただ淡々とするだけの、下男か何かだったのだろうが、ギンコのかすれ声が聞こえたらしくて、嫌だ、とそう言った。
「なんで俺が、旦那様のご趣味の後始末に、人殺しまでせにゃならねんだ。嫌なこったよ、死ぬなら自分で死にな」
自分で死ぬほど動けない
殺してくれよ、殺して
「なら死ねるまで生きな、俺は知らねぇ。…あんた海と山とどっちが好きだえ?」
どういう意味の問いか分からなかったが、考える前に口が勝手に動いてしまった。
うみ…。
「好きなもんがあって、良かったね」
違う。海だなんて。あいつを思わせることを此処で口にするなんて、許さされやしないのに、もう声が出ない。唇が震えて、何も言えない。下男はギンコの体を元の洋装に着替えさせ、ちゃんと荷物の木箱も持ってきて、彼の体を何処かへ運んだ。そうして夜の夜中に、それへとのせたのだ。
そうやって、まだろくに目も見えないままで、ギンコは解放された。三人の男に捕まってから、六日と経っていなかったが、10年もの時が流れてしまったような気がした。
続
8
目覚めれば、真っ黒な闇。時間が経ってようやく見えてくる、光の強い星から順に。耳はずっと水の音を聞いていた。体はゆらゆら揺すられて、鼻孔には潮の匂い。朽ちかけた空舟に、荷と身ひとつを放られて、何日も何日も。
雨の日のあった。波の荒れた日もあった。起き上がりもせずに、ただ身を任せ、飢え死にしかけた頃、辿り着いた。
こんな夜更けに浜へ出ようなどと、何故思ったのか自分でもわからない。見覚えのない舟を、無人の波打ち際に見て、化野はそれへと段々近付いた。腐れかけたような舟だ、当然人など乗っている筈がないと、そう、思って。
化野は手に、提げていた提灯を、落とす。
「…ギ、ギンコ…!」
見間違いなんかじゃない、紛れもなくそれはギンコだ。手を伸べ抱き起し、纏う服越しの感触に鼓動が跳ね上がった。手にごつごつと痛いほど、痩せた、体。でもしっかりと、息はある。
「い、いったい」
誰か人を呼んで、ここから近い家にひとまず、と、そう思い掛けた思考が止まる。抱き起したギンコの体、その手首が見えたからだ。釦のかけられていない襟元からは、首筋が首筋が。薄くだが、どちらにも縄目のような跡が見えた。
「どう…いう…」
だから、化野は一人でギンコを背負った。人目を避けるようにして、なんとか家へ連れ帰り、少し前まで自分の寝ていた布団に、そっと寝かせる。
あまりのことに、がくがくと震える両手。ぎゅっ、と握り締めて震えを止めるようにしながら、医家としての自分であれるよう、化野はゆっくりと息を吸い、息を吐いた。まずは大きな怪我がないか確かめ、それから、出来る限りの手当てを。それから滋養の薬を、喉に流し込んででも。
隈なく調べたが、どうやら死ぬような怪我はない。痩せ衰えてはいるものの、多分長い間食べずにいたからだろう。遭難して海を彷徨い、ここに流れ着いただけじゃないことは、至る所になんらかの跡を残した体を見れば明らかだが、それでもきっと、大丈夫だ。大丈夫。
そうして、化野がいったんそこを立ち、薬を用意して戻った時、ギンコは丁度、目を開けるところだった。
「気付いたのか、ギンコ」
そう言った途端、ギンコは信じられないようなものを見たように、目を見開き、こう言った。
「…く、来るな…!」
「何言ってっ」
「来ないでくれ! 俺に、触ったのか…? あだし…」
その、怯えた目。青ざめた顔。
「何言ってるんだ、勿論」
「…あぁ…あぁ…っ、早く、体を清めてくれ、腐り落ちちまうよ、お前…」
「ギンコ!!」
手にしていた薬を放り出し、逃げようともがくギンコを化野は捕まえた。手が触れた途端にギンコは半狂乱になり、暴れる。目が、普通じゃなかった。狂ったような、何処かここじゃない世界を見据えているような。
「やめ、やめろっ、や…だッ、嫌だ、触るな、さわ、るな…。俺は、汚い、んだ…だから、お願……、だから…」
「馬鹿を言うな! 馬鹿を!」
何があった、などとは聞けない。聞けやしない。彼の体を確かめて、おぞましい想像が出来てしまうだけに、考えないようにしていたぐらいだ。でも。
「汚くなどない!」
「…違う、俺は、き、きたな…」
「ギンコ…」
ごくり、と化野は息を飲んだ。そうして彼は、もううまく抗う事も出来ないほど、弱ったギンコの体を抱いた。包むように、柔らかく、すっぽりと。
「何がだ? どこが汚い? お前だけじゃないよ。この世に生きているもののすべては、どんな命だって全部、汚くなんてない。例え…どんなことがその身に起ころうと、すべては洗い流してしまえるものだ。だから、そこらの草木がそうであるように、お前もきれいだ。汚くなんかない。汚くなんか、ないよ」
「…は、離…っ」
「今抗えば! 逃げようとすれば…俺は、お前を閉じ込めるぞ。あの蔵に鍵をかけて、ずっと、ずっと」
何を、言っているのかと思った。化野が自分自身で。荒く息を吐きながら、決して強くはなく、けれど縛るようにギンコを抱いたままで、けれど言い止むことも出来ない。
「蟲が寄るだとか、知るものか。今逃がしたら二度とお前は来ないんだろう。だったら俺は、お前を、離さない」
恐る恐る、ギンコを見たら、ギンコはその目を見開いていた。首をがくりと仰のいて、黒い洞の眼窩も露わなままで、壊れた人形のようで、恐ろしい。
「聞いて、いるのか? ギンコ…?」
そう問えば、脈絡もなくギンコは言った。
「 とらわれ たんだ 」
「え…?」
「 それから な。 すてられ たんだ よ 」
「……」
その後はもう、ギンコは何も言わない。だから化野は、長い長い静けさの後で、そう言うしかなかった。
「なら、俺が、お前を拾った。だから、もう俺のものだ、ギンコ。お前は…俺のだ」
化野の腕の中で、急にギンコの体がぐったりと力を失う。意識を飛ばしたのかと思ったが、そうではなかった。しなを作るようなと、言えばいいのか。その体に化野は触れた。素肌を撫でるように、触れた。
「辛かったら、言うがいいよ」
すべてを脱がせた。初めてだ。それは勿論。ギンコはたまに訪れる、友でしかなかったのだから。なのにたゆみなく、化野はギンコを全裸にし、その体を愛した。
何処に触れようと喘ぐ。何処を撫でようと身を捩らせる。あられもなく体を開いて、淫らな声を上げ、快楽に溺れながら、ギンコはずっと、泣いていた。何故泣くのか、その答えなど分からなかったが、化野は何度も何度も、言い聞かせるように言ったのだ。
そんなに
汚くなったと言うのなら、
俺がきれいにしてやる。
隅々を清めてやる。
元の通りのお前になるまで、
ずうっとこうして、
触れてやるよ。
俺の大事な、大事なお前。
俺の。
俺のだ。
俺のものだ。
お前は、俺の。
いつ、眠ったかなど覚えがなかった。けれど眠ってしまったらしい。開け放ったままの雨戸の向こう、昇ってくる月の、銀色の明かりに身を縁どられ、ギンコがそこに座っていたのだ。
よく見たように片膝立て、傍らに置いた木箱に肘をのせて寄り掛かり、服越しでも酷く細くなってしまった体で、けれど、何度も見たのと同じ姿だった。
「あだしの」
声が聞こえて、化野はゆっくりと布団に身を起こした。
「あだし…の」
「…起きてるよ、ギンコ、お前」
「おまえ は すげぇ な」
「何」
振り向いたその顔の、酷く澄んだような、眼差し。あぁ、いつものギンコだと、根拠もなく思った。そうして化野は言ったのだ。
「よく、来たな、ギンコ…」
「んん? ぁあ。みやげも、ねぇけど」
「…土産なら」
言い掛けてやめた。その代わりに立って、近付いて、縁側の外に下りて、ギンコの体を抱き締めた。
「お前は俺のものだぞ」
抱かれたままで、ギンコはふるりと震え、それからようやっと、言葉になったかのような声で、言った。
「…うん」
ゆらゆら、ゆらゆらと、いつまでも水に浮かんでいるような、薄紅色の花弁。その身はとうに透けるほどで、向こうが見えてしまうようで、けれども今も、うつつよにある。
ギンコは時々、化野に問い掛ける。
おれは、おまえのかい…?
勿論だとも 俺のものだ
そうか ならしかたない な
ゆらゆら、ゆらゆら、狂喜の手前。あやういままで旅をしている。生きているのだ、優しい優しい檻の中。目には見えない、けれど確かな枷をつけて。
終