「兄さん、何処まで登るんだい? この先を行っちゃあ宿もねぇよ」
速足の旅人に、別の旅人が不思議そうに声を掛ける。声掛けられた男は、ざふざふと雪を踏みながら、山頂までさ、と気軽く答えた。すぐそこに頃合いの安い宿はあるし、その割に広々景色が見渡せて、この時期いつも賑わういい宿だ。だから皆、そこに足止め休むのに、珍しい人もいるものだ、気ぃつけなよ、と見送られる。
この先何時間も歩き通しで、昇れるとこまで漸く登っても、その先の道の無い山。行き着いても戻るより無い雪の中を、いったい何しに、と誰もが思うのだ。
白い息を吐き、重たげな木箱を揺すり上げながら、珍しい洋装のその男は歩いていく。誰かと擦れ違うたびに、同じようなことを聞かれて、変わってんなと首傾げられながら、それでも歩を緩めることなく、歩いていく。
擦れ違う誰かの姿もなくなり、白い息と共に、男は無音で言った。聞くもののない、声にもしないひとり言。
つれない、冷たい、酷いヤツ。
秋に会うごと、お前は声に、そんな詰りを滲ませてくる。
どうせ、次は春なんだろう。
一度たりとて、明けの陽を、
共に見てなどくれないんだな。
そうかい? でもなぁ俺だって、何とも思ってないわけじゃない。
ざふざふと、深い雪を踏み締めて、誰もこの先行かない道を、ひとり黙々男は進む。見上げた先に、まだ山頂は見えすらしない。背に負うた荷の中で、飲み水すら凍りそうな、冷たい風を浴びながら、淡々と、黙々と、心の中では物言って。
つれない、冷たい、酷いヤツでも、俺なり随分、ほだされてるよ。
高台の医家の家は、海から昇る朝日が真っ先に見える。
先生が来る前っから、ここでみんなで初日の出を拝むのが、この里の年越しでなぁ。酔った赤ら顔して、最初にそう教えてくれたのは誰だったのか、もう化野も覚えていない。料理や酒を持ち寄り、この時ばかりは狭苦しく思える部屋から、溢れかえって楽しげに笑い合う里人たち。
もう、さんざ騒いで飲み食いし、男衆は気持ちよく酔っ払い、女たちは、慣れた顔して入れ違いに、台所で片付けを済ませてゆく。
「おお…っ」
一人が気付いて声を上げると、待ち兼ねていた皆は縁側やら庭の表へ出て、昇ってくるご来迎を拝む。これまで一年、無事に来られた感謝をし、これから先の一年の、伴侶や家族、仲間たちの幸せと無事を祈った。
「また、無事に年が明けたねぇ」
「皆とこうして一緒に見れてなぁ」
「ありがたいことだよ、ありがたい」
「きっと今年も、いい年になる」
口々に言い顔見交わし合って、皆は家へと帰る。
「じゃぁ先生。一番いいお酒と、そっちに煮物やなんか、残ったのであれだけど、置いてあるからさ」
隣家のおかみも、化野ひとりを置いて帰るのを、気にしいしい、家族と共に帰って行った。幾ら誘っても化野が頷かないのを、もうよく分かっている。
残されると、途端に家が広くなった。きちんと片付いてしまっている部屋の真ん中、所在なさげにぽつんと立って、化野はそこから、もう一度朝日を眺める。随分と昇って、海に滲んだ光の道も、滲んだように広がっていた。
「皆と一緒に、か…」
ぽつり、言葉が零れて、その先は言ってはならないことと、化野は唇を結んだ。いつもより少しは多く酒を飲んだ体が、今も冷めずに火照っている。綿入れを羽織って草履をつっかけ、酔い覚ましのつもりで化野は外へと出た。
どちらへ行くかも決めずにふらりと歩くと、人家の無い方へと足が向く。深く積もった雪に覆われ、一面真っ白な原へ。化野の目に映る雪原は、白と言うよりも淡い青に見えた。穢れの無い雪は、青く見えるのだと聞いたことがあるが。
「これ、は…?」
寒さに白い息を吐きながらも、化野は異変に気付いていた。青い雪原は美しかったが、もう空には日が昇っていて、本当ならもっと白く、眩しいほどに照らされているはず。
「それとも、まだ早朝で光が足りないせいか…?」
酔っているから、何でもないことが不思議に思えるだけなのかもしれない。そう、おかしなものを見たとでもギンコに言えば、途端に笑い飛ばされてしまうような。
そうやって、一瞬、ギンコの顔を浮かべたその時、化野の後ろから、はっきりと日が差した。思い違いなんかじゃない。変わらず太陽は目の前の空にかかり、ゆっくり昇って行くところだというのに、彼の影が、長く長く伸びて雪原に映ったのだ。
「いったい、何が」
驚いて、数回瞬いたきりそのまま動けず、化野はもう一つの影が、少し離れた遠くに表れるのを確かに見た。ゆらゆらと輪郭を作りながら、それは段々と濃く映し出され、彼の見知った形になっていく。
長い上着を来て。
構い付けない髪をして。
その片手がゆら、と上がって。
煙草を、吸い…。
そう、髪の形まで分かるほど、吐いた煙の揺らぎが見えるほど、はっきりと、彼の姿となり。
「ギ、ギンコ、お前なのか…?」
影は答えない。勿論、化野の声が聞こえた風でもなかった。近付こうとして、一歩を踏み出し、それはやめた。きっとこれは何か、普通では理解の出来ない現象なのだろう。たった一歩を動いただけで、化野の影は薄れ、ギンコの影もゆらり揺らめく。
「其処に、いるのか?」
其処とは何処だ? そんなことは分かりようがない。影だけの姿が、嬉しいのに切なくて、会いたさが倍増しになって心に迫ってくる。
「ギンコ…」
化野の見ている前で、ギンコの影が動く。煙草を指に挟んだままで、すい、と、その片手を体から離し、多分、文字を…書い、て…?
「馬、鹿…。読めるか、そんな…っ」
言いながら化野は必死で見つめて、迷って。ギンコがこんな時言いそうな言葉を、読み取った。多分、五文字、これは…。
じ
き
は
る
だ
「じき、春だ、と?」
そうして影は、青い雪原に薄っすらと灰色の姿で、手を一度、振った。それを最後に、名残を惜しむ間もなく、ふっ、と消えてしまったのだ。
「春になったら行くから、待っていろと、そういう意味か? こ、このひとでなしめ、言われずとも待っているだろうが、こうして…!」
膝からかくりと力が抜けて、化野は雪の上に座り込んだ。雪の冷たさがしんしんと身に迫る。風の冷たさは着物を通して身を凍らせるようだった。酔いなどもうすっかり醒めている。
くしゃん、と一つくしゃみをして、化野は綿入れの前を掻き合せた。このままでは風邪をひく。新年から医家が風邪で寝込むなど、あってはならんに決まっていた。
雪を踏んで家へと駆け戻りながら、化野は知らずに少し笑んでいる。あぁ、皆の言う通りだ、どうやらいい年になりそうだ。変わらず、ここでギンコを待っていられる、最良の年が、明けたんだ。
「うぅ、さむ。…お前も風邪をひくなよ、ギンコ」
びゅうびゅうと風の吹き荒ぶ山頂。一時は止んでいた風に、また上着の裾をばたつかせながら、ギンコはまた煙草をひと吸いする。千切り取られるように、煙はあっという間に見えなくなって、指もぽきりと折れそうに冷たい。
「こりゃ、寒すぎだろ」
らしくねぇことしちまった。
見えたのかどうか、
伝わったかどうかもわからんことを、
こんな寒い思いして。
「まぁ、でも、な。どっちにしたって、あいつは今年もちゃんと、待っててくれるんだしな」
呟いた言葉が、また自分らしくなく、ギンコは、く、と苦笑した。今がどんなに寒かろうと、じき春だ。お前に会える春はくる。
終
皆さま、明けましておめでとうございます。「御来迎」のお話を、年越し&新年ノベルとして書きましたです。毎年こうして新年をネタに化ギンを書いておりますが……。
いい加減ネタ切れるっっっっ。
そんなこんなで数日前はうんうん唸っていた私です。とにかく書けて良かったですっ。読んで下さった方、ありがとうございます。そして、今年一年の感謝も込められております、が、うん、その割淋しい話だけど、私らしいってことで、勘弁してねv
では、改めまして。
2014年は蟲師豊作の年で、本当に沢山の方にお世話になり、遊んで貰い、言葉を交わし、そして沢山の方に作品を読んで頂きました。心より感謝しています。ただいま、画面の前で深々とお辞儀しました。
そして2015年も、蟲師っ蟲師っ蟲師っっっ、で、惑い星(=零々)は進んで参りますので、どうぞよろしくお願いします。
2015/01/01