









「う、わ…っ」
雨気など、何も感じていなかったのに、ギンコは突然通り雨に飲まれた。一瞬にして視野が奪われ、見ていた筈の山野が消え失せたのだ。目を見開けば、それでも両脇が緑、真正面が土色。道が消えたわけではないと悟り、雨を凌げる場所を求めて彼は速足になる。
けれど、ギンコはほんの僅か行って、息を飲んだ。普通の雨ではないと悟ったのだ。土砂降りの中見回す視界は、ほんの数歩先で酷く明るい。飲まれているのは彼だけ。雨が降っているのは、ギンコの身にだけなのだ。
まずい…。これは、幻雨…だ。
とすれば、今更逃げようと意味はない。呆然と立ったままで四半時。僅かに冷たい雨の中、滝の向こうから見るような風景を、ギンコはぼんやりと見ているのだった。
癖のように蟲煙草を燻らせながら、ギンコは明るい日差しの中を、いつも通りの態で歩いている。擦れ違う旅人は、怪訝そうに辺りを見回し、鼻をかすめた煙の匂いに、しきりと首を傾げて遠ざかっていく。
岩に座って休んでみれば、市の帰りらしい娘が、重たげな包みをギンコの膝にのせようとする。慌ててその身をそこから退けて、頭を掻きつつ、元の旅路を歩き出すしかない。
ギンコの姿は、出会う誰にも見えていないのだ。
『 参ったね 』
声にするも、その言葉は誰にも聞こえない。自棄になったかのように、真っ青な空を仰ぎ、常には出さぬような声音で言った。
『 どうすりゃいんだか、いったい 』
彼の気持ちなど知るわけもなく、田畑に屈む人々は、嬉しげにお天道様を見上げている。青々と茂る実りの葉は、そよと吹く微風に揺れて、同じその風はギンコの髪を揺らしていた。
「おぉ、いい陽気だ。ここんとこずうっとどんより曇ってたから、こりゃありがたいや」
「いやまったくだ。田畑の恵みも、お天道様のお蔭さね」
口々に言う畑仕事の人らの脇、数人の子供が草の葉を手に手に、はしゃぎながら駆け抜けていく。笑い声上げるそれぞれの頬にも日差し。
「こぉら、お前たちっ、そんな駆けまわって、田んぼに落ちたらどうすんだいっ」
咎める声さえ浮き立って、ギンコは誰の視野にも入らぬまま、目を細めて微かに笑う。誰も自分を見ない、誰も自分に気付かない。擦れ違った途端に振り向かれることもないし、人と目を合せないから、合った視線をよけられることもない。
『 ま、たまにゃこういうのも、悪くねぇか 』
聞き咎められることのない声でそう言って、ギンコは足元を見下ろした。常から蟲は見えるが、今の彼にはいつも以上にくっきりと見える。それをゆっくり、見ることが出来る。
緑と青の斑をした、にょろにょろと蛇のような蟲。右と左の翅の色が正反対の不思議な蝶。頭よりも高いところに広がっては消える、渦のようなもの。どれもこれも、生き生きと。
『 さて、と。これからどうするかな 』
丁度馴染みの里に向かう途中だったのだ。このまま言ってもどうせ相手にゃ分かるまいが、顔だけでも見たいような。誰の目にも見えない姿でいるせいか、変に素直にそう思った。
そうして彼は、足の覚えた道をゆく。
二日歩いて海へ出て、見覚えのある里人たちが、逃げた鶏を追い駆けてたり、浜で昆布をほどいてたり、庭で洗濯物をはたいていたりするのを、眺めながらその里を横切る。道はゆっくり斜面になって、家々の間を抜けて、どんどん上へと昇って行けば、見慣れた医家の家が見えてくる。
『 ……どうしてるかね 』
立ち止まり、ギンコはそう呟いた。そうしてまた、歩き出そうとするのだが、どうしたことか足が上がらない。里の子供と親とが、数え歌を歌いながらギンコの前から来て、通り過ぎていく。
勿論、化野も同じだ。そうと分かってここへ来た。なのに、そうだろうと、もう一度思った途端、心に風が吹き込むような心地がする。何故なのかなど、知らない。
『 またに、するか 』
この蟲が離れてから、改めてくればいいだけのことだ。そう思うのに、もう視野に見えている化野の家に、背中を向けることも出来ない。
『 やっぱり、顔だけ 』
体を前へ倒すような気持ちで、ギンコはやっと歩き出した。みるみる家は近付いて、垣根の向こうの縁側に、化野が座っているのが見えてくる。小さな子供が三人、その母親らも居て、随分と賑やかだ。
「先生、また世話ぁかけちまってすみませんねぇ」
「んん? いやまぁ、大した怪我じゃなくてよかった」
「ほんとにねぇ。下手すりゃ打ち身程度じゃすまなかったんだよ、分かってんのかいっ、このやんちゃ坊主っ」
「いてっ。かあちゃん、そこ怪我したとこだよぉ」
「あはははは…っ。ぶたれてやんのっ」
わいわいと。その随分賑やかな様子も、笑う声も。ギンコが庭の外から眺めても、一向に途切れない。
「笑ってないでっ、お前もちょっとは気ぃつけなさいっ」
「はぁーいっ」
「ま、元気なのはいいが、小さい子たちには真似させるんじゃないぞ? それから、その傷がちゃんと塞がるまでは、海には入ったらいかんからな」
自分もガキみたいなくせして。いっぱしの医家みてぇに、とギンコは思った。元気そうじゃねぇか、とも。けれど、子供の顔を眺め、親たちに頷き掛ける眼差しが、自分の上だけ通り過ぎるのかと思ったら、もう去りたくなった。
『 じゃあ、な 』
ぽつり、そう言った、その途端。化野の顔がこちらへと向いた。素通りされると覚悟して、きゅ、とギンコは唇を噛み。それが。
「ギンコっ」
『 …っ 』
一瞬、何が起こったのか分からなかった。いつの間にか蟲か落ちて、自分の姿は皆に見えているのかと。もしそうだったら、声も掛けずぼうっと見ていた姿は、さぞや奇妙に見えるだろう。だが、どうやらそうではなかった。
「なんだ来ていたのかっ」
「先生?」
「蟲師さん来たのっ? どこぉ?」
子供も、親も、きょろきょろと見回し、垣根のすぐ外にいるギンコの姿は、やはり見えていないのだ。
「何言ってる、そこにいるだろうっ」
ギンコは動転しかかるも、急いで口を塞ぐ仕草をし、黙るようにと化野に示した。化野も一瞬遅れて異変に気付いたらしい。だが、そのままゆっくりと、ギンコが背を向けた時、彼はまた大声で呼んだのだ。
「ギンコ…っ!」
『 ば、馬鹿か…っ、黙れって! 』
「………」
焦って足を止めたギンコを見据えてから、それでも化野はどうするべきかを理解したらしい。母子はまだきょろきょろと、ギンコの姿を探していたが、それへ照れたように笑って見せて、化野はずっと遠くを指差した。
「いや見間違いだ。遠くの、白い布の干してあるのを間違えた」
「えぇ? 嫌だよ先生、疲れてんじゃないのかい?」
「あぁ、そうかもしれん。明け方まで書物を読んでいたからな。今日はもう休むから、悪いが」
まだ夕前だと言うのに、そんなことを言って、やや強引に皆を帰らせ、庭の外へ立ったままのギンコを、真っ直ぐに見て近付いた。その強い眼差しが、ギンコの足元から体へ、顔へと凝視し、そうしながら彼は見る間に青ざめていく。
「…どういうことだ」
『 どうって…。俺の姿は今、人の目には映らない筈なんだが 』
「人の目に…見えない、だと?」
化野は震えた。顔色の変わった彼の表情を見ながら、ギンコもまた自分の言った言葉を、己自身で反芻している。そういうつもりはなかったが、化野がどんなふうに思ったかが分かったのだ。
『 化野 』
「それは、境の向こうにいると、いうことか…?」
『 そうじゃねぇ 』
「どう違うんだっ。此処にいるように見えて、お前のいる場所は此処じゃないのか? それとも何か蟲の影響を受けて、どこかへ彷徨っていこうというのか? お前は、消えるのか…?」
簾子のことを、化野は思い出している。吹のことを、あるいはいおのことを。それが分かっていて、伸ばされる化野の腕から、ギンコは一歩下がった。逃げたかったわけじゃない。けれども今は、触れられてはならない。気付かれてはならないと。
「どうして逃げる…?」
化野はそこを突いて来た。そして逃げ切れないことを、ギンコも瞬時に悟ったのだ。
『 逃げてなんか、ねぇよ、化野 』
もう一度腕が伸ばされて、伸べた化野の手がギンコの体を、
すり抜けた。
「…っ、お前…」
『 違う。落ち着け、化野。分かったから。ちゃんと話すから 』
「あぁ…。だが落ち着いてなどいられん俺の気持ちも、分かれ」
震えて、上擦って。そんな化野の声を、ギンコは初めて聞いたと思った。
その様を見ていると、鼓動が随分と速くなる。まさかこんなこととは思っていなかった。化野は気の合う友で、上得意でもあり、それだけの筈。なのに今目の前にいるこの男の、震える様、あまりにもな動揺。
「…消えないと言え」
『 消えやしねぇよ 』
「居なくならんと言え」
『 だから、 』
「まずは言え…っ。頷けっ」
『 …化野 』
夕の光の差す中で、わなわなと揺れている腕、伸ばされかけては怯えて止まる。擦り抜けた、何も無い感触を、思い出していると分かる。
上り込みいつもと同じに、火の無い囲炉裏の傍に座っていても、いつもとは違う化野の声が、ギンコの中を通ってゆく。
「ギンコ…俺は…」
『 なんだよ 』
「知らなかったんだ」
『 ……そうかい… 』
俺だってだ、そうギンコも言いたかった。お前がそんなに強い想いを、こんな俺へと向けているなんて。そうして俺も、俺自身を知らなかった。誰の眼差しが自分を擦り抜けるより、お前のそれが、何より嫌だった。擦り抜けなかった瞬間、そうと悟った。
誰にも見えない筈のこの身が、お前にだけ見える。その事に、何かが揺れている。揺れて…
『 ギンコ 』
「……」
自分を呼んだ化野の声が、急に遠くなったように思った。身の内に、ざわざわと雨を感じた。来たのだと、分かった。
俺を飲み込んだ…あの雨の。
「化野」
ギンコは畳に片手を置いて、もう一方の手を化野へと伸ばした。触れるとこは出来ない。きっと擦り抜けてしまう。けれども「蟲」のことなんか、まだ分からないことの方が多い。あるいはこれでもう、と、思わないでもなかったから。
「びっくり、すんなよ…?」
『 …な…… 』
髪に、触られたのだろうか。ギンコの指が触れたのだろうか。化野は動けずに、少しずつ近付いてくるギンコを見ていた。片方きりの美しい碧は、まるで水に沈めた翡翠のようだ。
近付いてくる、手。指。あぁ、やはりそれは化野を擦り抜ける。左の肩から内へと入り、なんの感触もさせずに胸へ。ほんの一呼吸の間、そこに在ったギンコの右手は、ゆっくりと彼自身の方へ引かれて遠ざかって行った。
錯覚かもしれない。それでもそれは、彼の手だと思った。触れられた。常なら触れるなど、出来る筈のない"もの"を。
また、な。
と、そう唇の形だけで。ギンコは木箱を背負い、縁側に立ち遠くを見渡した。化野はずっと、ギンコの姿だけを見ていたかったが、どうしてか視線が、ギンコの見ている同じ方へと引き寄せられた。
海の向こうの山の上に、黒い雨雲がかかっている。あちらは雨か。そんなことは今、どうでもいい筈なのにそう思った。その遠い雨の影から、雲を置き去りに何かがこちらへ向かってくるのだ。通り雨か、あれは。なんという大きさか。視野がそれで埋まる。
ギンコがぽつりと言うのが聞こえた。
さーーーーーーーーー、
降りながら近寄る雨の音に紛れて。
まぁ、随分とでかく。
あれは迎えだ。
俺の内に置き忘れた「雨」を連れに来た。
あの中に、飲まれてやらなきゃならん。
『 い、行くな…ッ! ギンコっ 』
必死に呼んだその声は、耳ではなくてギンコの心へと通った。通り抜けてしまわないように、雨を見たまま彼は笑んだ。雨の欠片は返してやるが、お前の言葉は返しやしない。
あだ し の …
ざぁーーーーーーーーーーーーー。
雨は里を通り抜けた。家の中さえも通った気がする。ひいやりと冷たい風が過ぎ去った時、ギンコの姿は
…消えていた。
「嘘、だろう」
化野は言った。へたり込み、立ち上がれなかった。視野に映した夕空は、雨の通ったことなど、忘れ去ったようにもう一度紅い。
「嘘じゃ、ない」
触れてきたのは、紛いようのない"お前"だった筈。
見れば庭の草木も土も、一様に濡れて、そこを通った雨の姿を、はっきりと残している。夕を映して光る雫が、美しく。
化野は縁側から里を臨む。いつも通りの里の姿。その中に遠く、こちらへと近付いてくる白い人影が見える気がした。陽炎のように揺らぐ。
「ギンコ…」
あれはきっと、これから先のいつかの風景。
終
『雨の姿』というタイトルを先に決めてこのお話を書きました。惑い星、雨が大好きです。ですからこれを是非共に、と私から月さんにお願いしましたのです。
「同じこのお題で、お話を書きましょう!」
この話がここに載せられるのと同じタイミングで、coolmoon様、つまり月さんのサイトに小説が一本載せられる。私もその作品をまだ読ませて頂いていません。私のこの「雨の姿」も、まだお見せしていません。なんとワクワクすることでしょう!
雨、という現象が、月さんの中を通って、どのようなお話となったのかが、本当に楽しみでなりません。月さんありがとうございます。そして、ここにこうして載せましたが、私の書いた「雨の姿」は月さんに捧げさせて頂きたく思います。
なお、ここに綴るには少し長いので「雨の姿」を書く為に、書いていた時に…といういろいろ、を、明日あたりブログに綴っておきますね。
14/07/26