赤 い 実




 晩秋の頃、しんらのところに顔を出した。他の用事で近くまで来たし、どうしているか気になったからだった。
 
 寄ったのは初めてのことではないが、前の時から一年が経っていて、過ぎた分の月日の分だけ、当たり前にしんらは成長した姿で、嬉しそうにギンコを迎え入れた。簾子は前と寸断違わぬ姿で、やっぱりあるがままにしていた。

「変わらないな」

 いつもは言わないことをつい零すと、すうっと澄んだ目になって、簾子は笑んだ。

「変わらないさ。私はな。…でも、お前も大して変わらないな。前とおんなじ白髪頭で」
「ほっといてくれ」

 着いたのは夕刻だったから、夜半まで酒を飲みながら、他愛のない話を幾らもした。隠しごとせず話せる相手は、簾子の他にはギンコぐらいしかおらず、しんらは得意の絵を右手で描いたりしながら、大いに喋り、楽しそうにしている。

「僕ばっかりに描かせておかないで、ギンコさんも何か描いてよ。前に見たけど、巧いじゃないか」
「あ? 俺かね。…蟲ぐらいしか描かんけどな」

 しんらから筆を借り、ギンコは戯れに二人を描いた。写実的にではなくゆるい描き方で、変に愛嬌がある小さな姿。それは随分しんらに気に入られ、簾子もくすりと笑った。気を良くしたギンコは、同じ描き方で自分の姿も描いた。もっともっととせがまれて、その隣に友の姿を描き入れたのだ。

 酒は随分飲んでいた。酔っていたのだろう。そこまで書いて、ギンコはぱたりと筆を投げ、紙の上には無意味な線が短く残された。

「これはギンコだよね。じゃあこっちは?」
「……友人だよ、腐れ縁のな」

 仰向けに横になって、ギンコは目を閉じていた。

「親しい人?」
「んー、まぁな…」
「なんて名前?」
「……別にいいだろ」

 ギンコはそのまま床で眠ってしまう。きっと、とても疲れているのだろうと、しんらは彼を起こさずに、その体に布団を掛けて覆った。

 

 朝、気付いたらギンコはもう居なかったが、外でまだ声がしていた。最初の時から、いつもこんな感じだ。簾子が見送るのもいつものこと。床に散らばった盃や酒徳利や、絵の描かれた紙の類はそのままで、そのひとつに、しんらは手を伸ばす。

 もう、行く。

 外の風と共に、微かに聞こえてくるギンコの声。送り出す簾子の言葉。紙の余白にさらさらと、墨で絵が描かれていく。

「急げ、急げ」

 と、しんらは言った。

 少しして、戻ってきた簾子は、まだ筆を持っているしんらの左手を取り、小さな子供を叱るような顔をした。

「喜ばないと思うぞ、しんら」
「…だって、淋しそうだったんだ。ひとりは淋しいよ、やっぱりさ」
「そうだな…」

 孤独なら、しんらも、簾子も、知っている。早朝の冷たい風が、ひゅうと部屋へと吹き入って、動かない絵の描かれた紙たちを、ほんの一時躍らせた。 




 旅の途中で喉が渇いた。水を飲もうと、背中の木箱を下ろしたギンコは、蓋を開け、抽斗のひとつを引っ張って、ぴた、と動きを止めたのだ。

「…いや、しんら。……お前なぁ」

 言葉にしたのはしんらの名だったが、そこに居るのは自分の描いた友の絵とそっくりの、命あるものだった。描いたのか、しんら、と思う。俺の描いた絵を真似て、左手で? でなければこんなこと、起こり得る筈がない。神の手を持つのはしんらであって、俺じゃない。

「それ」は中指の長さぐらいの小さな体で、ぴょこりと立ち上がり、今にも抽斗から出てきそうな。でも、出てきたりしたら、微かな風にも、ひら、と飛んでしまいそうだった。

「こら、出てくるな」

 思わずそう言って、手を掛けたままだった抽斗を、もう一度、ぐ、と押し込めようとするが、「それ」は其処に立ったまま、じい、とギンコを見ているのだ。

「挟まるっての」

 少しずつ、抽斗は閉まる。隙間が細くなる。でも其処に居る小さな動く絵は薄っぺらくて、隙間が限りなく細くなっても平気でいるのだ。

「ったく」

 だからギンコはもう一方の手で、そいつを抽斗の中へと押し込めようとした。でも手が触れる前に躊躇った。初めてしんらの家を訪ねた時、飛んできた墨の鳥は、あっさりとギンコの手の中で潰されて、ただの墨の汚れになってしまったのだ。

 別に、潰せばいい。
 ただの戯れ絵だ。
 潰したからって、
 なんでもない。

「………」

 出来なかった。ギンコは苦笑して、木箱と向かい合うように腰を下ろすと、そいつが収まっている抽斗を抜き取った。そうして吹いている風から庇い、背中を丸めて腹の辺りに抽斗を引き寄せた。

「しょうがねぇ。…付き合ってやるさ。少しな」

 しんらの悪戯に? 
 それとも、
 ほんの一時命を得た、
 この奇妙な生き物に? 

 それは、なんとも不思議な道中の始まりだった。酔いの回った手で適当に描いた、雑でちっぽけな絵。それを描いたせいで生まれた「あだしの」と、ギンコとの。

 奇妙なことに、動く絵のあだしのは、随分化野らしかった。ギンコが手で持っている抽斗の中で、正座しているような格好に脚を折り、両手らしきもので抽斗の縁に捕まって、きょろきょろしている。 

 指は無い。手の指も、足の指も勿論ない。そこまで丁寧に描かなかった。左目と左眉と片眼鏡は描いたが、右目右眉は描かなかったから、歪な丸い形のものが、右っ側にちょんと乗っている、そんな顔だ。鼻は無くて口は一本線。でもその一本線の口と、左目と眉だけで、案外多彩な表情をする。

 夜になり抽斗を木箱に収めようとすると、拗ねたような顔をして、それから少し淋しそうな顔をする。一本線の口だからか物は言わない。その線は言葉を発しないが、への字になったり笑った形になったりする。

「……あだしの」

 小声でギンコが名を呼んでやると、いっそう嬉しそうな顔になって、抽斗の中から這い出し、彼の腕をよじ登ろうとした。

「やめろ、抽斗の中に入ってろ。ちょろちょろすんな。お前、墨で出来てるんだから、夜だと見失っちまうよ」

 そう言い聞かせてやると、まるで言葉の分かったように、もそもそと抽斗の中に自分で戻っていく。狭い居場所で、今度はあぐらをかき、着物の袖、であるらしき場所に手を仕舞い腕を組んでいる。あの縁側で化野がよくそうしている姿が、ギンコの目に浮かぶ。

 翌朝、ギンコは抽斗を開けると、そこでむっくりと身を起こした墨絵のあだしのを相手に、こんなふうに話しかけた。

「…なあ、聞けよ。お前は、そのうち動かない絵に戻る。しんらの力が未だに及んでいるのが不思議なぐらいなんだ。そうでなくとも、墨で描いたただの絵だ。薄れて消えるか、何かに擦れて消えるかどうかして、無くなっちまうんだからな。…だから、その、抽斗の中から出て、あっちこっち行ったりするな。居る間は、連れてってやるから」

 あだしのは、小さな点で描かれた目で、二度瞬きをした。そうして、ギンコの顔をじいっと見ながら、にこにこすると、ぴょくん、とひとつ頷いた。

「わかりゃあ、いい」

 動く小さなあだしのが、ただの絵に戻るか、それとも絵ですらいられなくなるかを、どこかで慄きながらギンコはそいつと旅をする。ほんの数日で、時は晩秋から初冬になった。ちらちらと雪が舞い落ちて来て、あだしのは抽斗の中からそれを珍しそうに見ていた。

 ギンコはあだしのが濡れないように、洋燈のガラス板を一枚はずし、抽斗の上に乗せて覆いにしてやった。その向こうであだしのは大人しく膝を抱え、頭が閊えないように首を斜めにしてなるべく小さくなり、降る雪や、ギンコの顔を見上げていた。

 しんらがギンコの絵を真似して描いた、単純な線だけの姿だけど、ギンコと一緒に雪を見上げて、あだしのはえらく嬉しそうだった。ギンコもそんな姿を見て、じわじわと心が温かくなっている。

「そうだなぁ。雪は、きれいだよな。本当のお前と一緒には、殆ど見たことがなかったな。俺が、冬を、避けているからな」

 満ち足りたような気持ちになって、ギンコはますます冬の風景になっていく景色を見ていた。ちらほらだった雪はどんどん増えて、見る間に眼前が白くなる。そんな風景の隅っこに、ナナカマドの実が落ちているのを見つけて、ギンコはそれを拾いに行った。そして戻ってきて、あだしのに差し出してやるのだ。

 赤い実を見て、嬉しそうにしたあだしのの姿は、その時、不意に、すうっと薄れて、崩れるように消えて行った。見ていたギンコは、それに気付いても何も出来ず、何もせず、ただただ消えていく様を、瞬きを堪えて見つめていた。

 あぁ、お前。
 もう消えてしまうのか。
 
 居なくなるのか。

 あだしの…。

 すっかり「彼」が消えてしまったあと、ガラスの覆いを外してみると、抽斗の中は濡れていた。雪の解けた雫が少しずつ中へと入り、墨で出来たあだしのを、解かしてしまったのだとわかった。

 何もなくなった抽斗を、逆さにしてそっと降ると、薄墨色に染まった雫が、積もっている雪の白に、一滴、二滴と色を付けた。その雪を手に掬い上げて、ギンコは切なく目をつぶる。雪の中、彼は仰向けに寝転がって、うっすら開いた目で、降り頻る灰色の雪を、暫くの間ひとりで見ていた。




「おい、いるか」

 縁側からそんな声が聞こえて、化野は啜っていた茶を放り出すところだった。今は冬の最中だ。しかも今日は元日だ。あいつが来るはずの無い季節。でも声は、聞こえてきたのだ。空耳だろうと、半分より余計に想いながら、それでもそろそろと障子を開くと、雪の風景の庭に、彼は立っていた。

 ギンコは長い上着の腹の辺りに、左右の手をすぽりと入れて、襟巻を巻いて首と口元を覆って、頭をちょいと傾げている。そして彼は、隠れている口の辺りから、白い息をほぉ、っと広げた。

「ぎ、ぎん…こ…っ? ほ、ほんとうに、ギンコか」
「…あぁ、来ちまった。入れてくれよ」

 また、白い息が吐かれてすぐ消える。化野は焦ってガタガタと音立てて障子を大きく開き、彼を招き入れる。

「は、入れ入れ…っ! 寒かったろう。今年は随分冷えているんだ。ことに晦日の夜から、きん、っと冷えて、今朝など勝手の引き戸が凍り付いていたぐらいなんだ。ほら、ほら、早く入って火にあたれ。茶を入れてやろう、風呂も今沸かして」
「いやいや、そんなしねぇでいいよ。庭に入っただけで、なんかあったかかったぐらいなんだ。……山に比べたら里はぬくい、のかね」

 言いながら、それは心がぬくかったのだとギンコは気付いてしまった。いつ来ても喜んでくれる化野が、来るはずの無い冬に自分の来たことで、こんなに嬉しそうにして、歓迎してくれて、今にも心がほろほろと崩れそうなぐらいだとギンコは思っていた。

「化野」
「ん、んんっ? 待て、今、茶を入れて」
「おめでとうさん」

 そう言ったギンコの声に、化野は随分目を見開いて、うっかり顔から片眼鏡を落っことしてお手玉している。いつもの片眼鏡のなくなった化野の左の目元に、墨で描いたらしい「〇」が、薄く残っているのが見えた。

「…ぶふ…っ、なんだよ、その顔」
「あ? あぁーまだ残ってるか? 朝っぱらから子供らと羽根つきして、負けたんだ。一回だけだぞ、空振りしたのは。あとは勝って、全員の顔に色々書いてやったさぁ」
「がきども相手に、何を自慢げに」

 墨で描かれた歪んだ「〇」が、ギンコに何かを思い出させた。彼を此処に来させた、小さな命。

「化野」
「うん?」
「おめでとうさん、って言ったんだぜ、俺は」
「…あ…、あぁ!」

 もう一度言ってやれば、化野は顔全体を輝かせるように笑って、こう返した。

「明けましておめでとうっ、ギンコっ。今年も此処でいつでもお前を待ってるから、なるべく沢山、会いに来てくれ!」
「おう」

 化野の家の床の間に、飾られていた南天の実。彼が「あだしの」に見せてやったナナカマドとよく似たそれが、ギンコの目に、酷くあざやかに映えたのだった。












 明けましておめでとうございます。

 毎年毎年、ネタに迷う年越し蟲師ノベル。今回はストレートに会いに行かせてみましたっ。正直30日まで何も浮かばず困っていたんだけど、久しぶりに「緑の座」観たら一発だった。原作(アニメ)の威力の凄さを思い知ったぞ。

 というわけで、少し淋しいシーンもありますが、無事に年越しが出来ました。各方面に深く感謝をしたいと思います。今年もどうぞよろしくお願いします。



2023.01.01  惑い星