あがるもの、かえるもの
「おめでとうさん。ほれ、年が明けたよ」
言われ、ぺしぺしと頭をはたかれ、ギンコは目を覚ました。まさに元日の朝、峠の安宿でのことである。むくりと起き上がり、彼は目の前の、禿げ頭の爺さんにこう尋ねた。
「爺さん、どこもどうともないか? 目はちゃんと見えるか? 耳は? 聞き慣れない音がしたりは?」
「んんー? お前さんも仕事熱心だねぇ。儂は大丈夫だよ。…あぁ、そう言やぁ」
「何かあったのか…っ?」
身を乗り出すギンコに、爺さんはのんびりと言葉を継ぐ。
「もうちょっと日が昇ったら、あったかい汁物の振る舞いがあるそうだよ。いい宿屋だねぇ、この宿教えて貰って得をした。ありがとうな」
あぐらをかいた膝の上でなにやら丸い木の欠片を削りながら、そんなふうに言って、爺さんは笑うのだ。削られて出る木の欠片が、ころころと紙の上に零れて、沢山の三日月のようだとギンコは思った。
「あのな爺さん、あんたにゃ蟲が沢山憑いてるんだ。蟲ってもののことは道々何度も教えたろう? 俺も知らない蟲だもんで、何が起こるか起きてみなけりゃわからんが、こんな大量に憑いてるなんざそうは無ぇ。本当は、旅なんかやめて静かにしてた方がいいんだがな」
真摯な声でそう言うも、爺さんはにこにこと笑って、丁寧に木を削るばかり。
「悪いねぇ。そんなでずうっと儂について歩いて貰って、店開きするのはもうあとちょっと先の里だよ。そこに着いたら暫し動かんつもりだから、そこまではなんとか勘弁してくれなぁ」
こりこり、さりさり。木を削る。角ばっていた木片が、段々と綺麗な形になる。くるりくるりと回しながら、やすりもかけていくと、木目が浮き出て美しいほどだ。
「行き先、ってのは?」
「ちいさな里でいいのさ、海里ならねぇ」
言われて、ぎくり、とギンコは目を見開く。正直、危ぶんではいたのだ。この道筋はまさに、あいつの海里へ向かう道だと。あと一日足らずも道なりに進めば、よく見知った風景に行き当たる。そこからさらに数刻行けば、其処はもう。
「…海里でなきゃ、駄目なのかい?」
思わずそう言ってしまい、往生際が悪いな、と自分自身に苦笑する。爺さんは手にしていた木片を、望んでいた形に整え終えて、また別の木片を袋から取り出して削り始めている。
「あぁ、海里がいい。浜は風があるだろう? だから海里じゃないとねぇ」
「ならさ、この峠を北へと下りたとこにある里がいいんじゃないか? 帆を張った渡しなんかもやってた筈だから、きっといい風が吹いてるよ」
「ほぉぉ、お前さん、なんでも良く知ってるねぇ。そんならその里へ行くとするかい」
あっさりと頷かれ、ギンコは肩の力を抜いた。これでいい。北へと下りれば湾の向かいだ。ぎりぎり躱して、行かずに済む。そうと決まったら、急に眠気が襲って来た。老人を庇いながらの雪の道行きは、やはり易くはなかったということだろう。
「じゃ。俺はもうひと眠りするよ。いいかい、爺さん。なんかあったらすぐ起こしてくれよ」
「おう、汁物の振る舞いが始まったら、ちゃんと声掛けるさぁ」
そうじゃぁねぇよ、とギンコは苦笑し、浅い眠りへと落ちるのだった。
同じ日の昼前、爺さんとギンコとは、目指していた海里へと着いた。小さな湾のある静かな里である。疎らな家々を視野に眺めながら、うっすら積もった雪を踏み、海辺へと下りる。爺さんは広い海へと向かい、おぉ、いい海じゃ、と、ひとこと言った。
本当に、静かないい海でいい天気だった。けれど淡い青空に光が満ちていて、こんな日はかえって遠くが見えない。湾の向こうの里の姿は、まるで無いもののように消えて見えた。ギンコは心の中だけで、ひとりごとを言う。
近くまで来てるけどな。
そっちへは行かねぇよ。
お前は今頃、里の人々と一緒に、
餅突いたり雑煮を食ったり、
いい正月ってヤツをやってるんだろう。
俺はまた、
春んなったら顔出すさ。
そしてギンコは、蟲煙草を取り出して一服。爺さんに憑いた蟲達を、こいつで散らそうかと何度目かに考えたが、数が数だけに、暴走されでもしたらことだと、その案はやはり引っ込める。
そういや、爺さん、どこ行った?
見回すと、爺さんは浜に居る漁師に声を掛けていた。ここらの漁師は、漁師であって、渡し舟の船頭でもある。中型の舟に帆をかけ、風を読み、湾内を滑るように舟客を運ぶのだ。
「湾の向こうに、今から行って貰えるんかねぇ」
「おぅ、ちょいと今凪いでるが、おらが舟は浜を離れりゃ、すぐに帆で風を捕まえて走れるから、乗んなよ、早速初客たぁ、縁起がいいや。特別こんだけでいいよ」
聞こえてきたやりとりに、一瞬、声も出なかった。行かないで済むと思ったのに、なんで。どうして。己のその慄きに、こんなにも囚われているんだと、酷いぐらいに突き付けられる。
あぁ、まるで、願掛けでもしているみたいだ。
冬の間の、もっとも恋しい時には近寄らないから、
それ以外の時は、きっと、必ず、会えるようにと。
「爺さん…っ、目的地は此処にしたんじゃなかったのか? なんでわざわざ湾の向こうなんかに行くってんだっ?!」
「だって風が無いからのぅ。向かいっ側なら丁度よく吹いてるさ、風向きで分かるよ。お前さん、そんなに嫌ならここで待っててくれりゃあ」
嫌、なんかじゃねぇよ。
むしろ、本心では。
ほんとうは、俺は…。
「…で、出来るかよっ、此処までずっとついて来たってのにっ」
砂を蹴立てて走って、波打ち際では波を踏み拉き、既に浜を離れつつあった帆掛け船に、ギンコは無理でも齧りついた。船頭と爺さんに腕を肩を掴まれて、なんとか舟に転がり込む。ゴツン、ガタンと大きな音がして、背中で木箱の軋む音もした。
「おうおう、お客さん、無茶はやめてくんなぁ。んん? そういやあんた、何度かここらで見てるよなぁ、湾の向こうが故郷なのかい?」
「…違う。縁も所縁もありゃしねぇよ」
背から木箱を下ろし、中身が無事か確かめている横で、爺さんも自分の荷を広げていた。此処までよくぞ持ってきたと思うような、大きな大きな荷。取り出して広げた風呂敷の上に、次々と並べられるのは、色とりどりの…。
達磨落しに、紙風船、独楽に、お手玉、羽子板と羽根までも。
「おっ、こりゃ凄いな。爺さん、なんだい。あんた、おもちゃを生業ってんのかい?」
「そんなようなもんじゃ。儂と妻とで作って、儂が持ち歩くんじゃよ。どれかひとつ、欲しいのをとってくれてもいいぞ」
「ひとつかぁ、うちにはガキが二人いるからなぁ」
「なら二つ取りゃいい、そのぶん舟賃を引いとくれ」
「はっはっ、抜け目ねぇなぁ」
船頭は帆を上手に操りながら、首だけ伸ばして玩具に見入っている。爺さんは舟の揺れるのもものともせずに、あざやかな色のついた独楽に紐を巻いたり、羽子板と揃いの羽根の向きを整えたりだ。船尾の方へ離れて、明後日の方を向き、たった今出てきた浜の方を見ているギンコにも、爺さんは話し掛けた。
「お前さんも、ひとつどうだい。世話んなったからなぁ、大きいのでもいいよ。これなんかどうだい? 福笑い」
「……いや、いらねぇし」
どうしろってんだ、
旅を住まいの根無し草が、
ひとりでそんなの遊べってか。
そういうのは、
あいつなら、
喜びそうだけどな。
ふと浮かんだ顔の本物に、あともう少しで会えてしまう。どうしているか。それよか、どんな顔して俺を見るか。そんなことを考えると、今だって逃げ出したくて堪らない。喜ぶ顔が、何より怖いぐらいなのに。
けれど、ギンコの気持ちなどとは関係なく、舟はどんどん近付いた。見慣れた山野の形が見えてきて、田畑にうっすら積もった雪。家々の屋根の雪なども見えてくる。そうして、近付いてくる浜辺で、子供らと一緒になって遊んでいる、あの姿は、まさに。
化野。
あぁ、元気そうだ。
人の気も知らねぇでって、
腹が立っちまうほど。
浜に、帆の舟は辿り着く。やや傾いだ舟の上から、船頭に手を貸されて下りる爺さん。爺さんは風呂敷に包んだおもちゃを、惜しげもなく浜に広げ、寄り集まる子供らのひとりひとりに手渡している。金をとってる様子は無い。きっと道楽なのだろう。
赤い独楽、赤い達磨、綺麗な絵の羽子板と、綺麗な色の羽根。紙風船を、ふう、とふくらまして飛ばすと、歓声を上げて受け取ろうとやっきになる子供、子供。そんな中に混じって、ガキみたいに目をきらきらさせている大人一人が、気付かなきゃいいものを、舟に一人残ってじっとしている人影に気付く。
「……ギ…っ、ぎっ、ギンコ…っっ!!」
あぁ、なんて大声を。
まったく、
なんて声を出してんだ。
「お、お前っ、なんで…っ、ギンコっ!」
騒ぐ化野の後ろから、ひょいと顔を出して爺さんが言う。
「おんや、お前さん、ギンコっていうのかい? お前さんの心配事、今から空へ飛ばしてやるから、そんな顔、もうやめたがいいよ」
「…何、言って」
「蟲が儂に悪さするかと、案じていてくれたんじゃろう? だがな、何度か言ったと思うが、なんの心配もいりゃあせんのさ。今時期とくりゃあ、毎度のことじゃからのぅ」
爺さんは荷を背から下ろし、その中から長さの違うやや太い竹ひごを取り出した。そして同じように取り出したのは糸。まさにそれは凧糸だ。広げた風呂敷の上、躊躇いの無い手付きでもって、爺さんは器用に枠を組み、糊で白い紙を貼る。あっというまに凧の原型の完成だった。
「おお、そうじゃ、礼代りにと言ってはなんじゃが、お前さんに絵を描かしてやろ。そっちのあんたも、どうじゃな?」
筆と墨汁が取り出され、さぁ描けとばかりに、まずはギンコに差し出されるが、ギンコはそれを受け取る気がない。仕方なしに化野が受け取って、砂に膝付き、うむぅ、と唸った。
「何を描こうか」
「何でもいい。決まりはないでな。思い付いたもの。好きなものを描きゃあいい」
「好きな…? そうか、わかった。よし」
太い筆で、ぐるりと丸。それから半分より上に、罅のようなギザギザを入れ。下の方へはへの字を書き。そのへの字の真ん中ら辺から、ぐい、と斜め下へ、短い線を引く。
へったくそだな何を描いて、と訝るギンコの顔を、化野はちらりと見たのだ。そして、罅のギザギザの少し隙間のあいたところへ、目、らしきものをひとつ。
「んんーん、我ながら中々の出来だ」
独楽や紙風船、羽子板で遊ぶ子らの笑い声の下に、隠れてしまいそうな声なのに、続いた言葉が、変に良く聞こえてきた。
好きなもの、と、くれば、これしか。
そして化野は、にっ、と笑い、お前の顔だ似ているだろう、これは煙草を咥えているんだ、と、ご満悦だ。ギンコは怒ったらいいのか、呆れたらいいのか、迷いに迷って、化野からその筆をひったくり、もうひとつ出来上がっていた無地の凧に、何やらぐりぐりと描き始める。
「絵ってのはな、こうやるんだ、見とけ!」
そうしてすぐあとには、化野の描いたのと似たり寄ったりな、下手な絵が完成し、集まってきた子供らに、変だ変だと囃された。二つの凧には、爺さんの手で貼り糸と足が足され、長い糸を付けられて、いい塩梅の風を待つ。
凧を持つのは子供たち、凧を引くのは化野とギンコ。船頭と他の子供らに見守られ、爺さんに合図を送られて、まるでガキのように、ギンコと化野は同じ方向に走った。砂を蹴立てて、競うように、抜いたり抜かれたりしながら。
気付けば凧は二つとも、高い空の上に昇っていた。
「おぉ、上手くいったっ、やったぞっ、ギンコっ」
「…………」
ギンコは、言葉もない。彼と、実は爺さんにも見えている「それ」を、彼はその時、見ていたのだ。今までずっと気配だけで、姿を見せなかった異様な数の蟲達。彼らは今、美しい白い翅の小さな小さな蟲として姿を見せて、凧の糸を辿る様に、高い空へと向けて羽ばたいている。
たまたまだろうが、化野の引く糸を蟲の群は辿り、途中で二つに分かれて、半分はギンコの引く凧の糸を辿っていく。蟲達はすぐにも凧まで届き、そこを越えてさらに高く、高くへ…。そして、見えなくなった。
「…蟲ども、これが目当てだったのか……」
ぽつりと言った言葉は、どうやら誰にも聞こえなかったようだが、まるで聞こえていたように、爺さんはにこにこ笑って、頷いていた。高い空へと昇る、上昇気流。そこへ道筋と目印をつけるような、凧の糸と凧そのもの。毎年の今、爺さんがこうすることを知っていて?
蟲にそんなことが分る道理があるか、と一蹴するのは簡単だが、今まさに、目の前で起こったことで、この目で見たことに、偽りはないのだ。
「おう、若いの。ぼんやりしてねぇで、ちゃんと糸ひけー、落ちちまうぞ、あんたの凧がーっ」
船頭がそう言ってギンコをからかう。見れば化野は器用に糸を操って、ギンコの顔の描かれた凧を、ずっと高いところまで上げていた。
「どこまで高く上がろうと、遠くに、行こうともなぁ」
急に言い出した、その言葉の先が、ギンコには分かる気がする。分るからこそ、逃げたくて堪らなくて、でも凧の糸から手を離したくはない。落ちたら悔しいからだ。ただそれだけだ。化野の声は続いている。
「見えないところまでいこうと、こうして繋がっているのならいいんだ。ちゃんと俺のところへと、お前が帰ってきてくれるんなら、それが俺は、嬉しいのさ」
動揺してギンコの持つ凧の糸が緩む。風向きも丁度難しくなったか、化野の顔は遥か遠くでぐるぐると回り出す。
「あっ、馬鹿っ、目が回るだろうがっ」
回ってるのは凧なのに、そんな奇妙なことを言うお前。だけれど。
目が回るなんてのは、
こっちの言い分だよ。
まったく、お前ときたら。
「化野…」
「ん? んんっ?」
自分の凧の糸を引きながら、ギンコのもなんとかしてやろうと手を伸べて奮闘しつつ、化野はその声を聞いたのだ。
「今年も。いや…その先も、よろしくな」
良く晴れて、高い空が美しい、とある元日のことである。
「あっ、あぁ、そうだ。そういやぁ、ギンコ。あけまして、おめでとう」
終
あけましておめでとうございます。2018年が明けまして、一作目の小説をこうして飾ることが出来ました。昨年中「LEAVES」に来て下さった方、小説を読んで下さった方、ありがとうございます。応援して下さった方も、ありがとうございます。
去年と特に変わりの無い活動をしていくかと思いますが、今年もどうぞよろしくお願いします。これからも毎年が蟲師年、惑い星でございました。
2018/01/01