得難く貴重な宝 … Under The Tree …






「先生? 何をご覧になっているんです?」

 病院二階のカフェテリアで、ひとりランチをしていた化野は、若い看護士にそう話し掛けられた。食事制限のない患者や患者の身内、医者や看護士、出入り業者でも誰でも利用できる広い広いカフェの、中庭の見えるカウンター席だ。化野は視線をそのままに、当たり障りのない返答をする。

「いや、春だなぁ、と思ってね」
「そうですねぇ、もう三月になりますもんね。冬の間は随分雪が降って、大変でしたけど、もうそんな名残りも何処にも…。あっ、私そろそろ戻らないと…っ」
「あぁ、お疲れさん」

 パタパタと、遠ざかっていく足音も化野は聞いていない。食べ終えたランチのトレイを横にずらし、まだ湯気の上がるコーヒーカップを両手で包みながら両肘をついて、彼はじっと中庭を見ている。

 中庭は解放されていて、いつもならもっと沢山の人が散歩したり、日向で休んでいたりするものだが、今日は少し風が強いためか、出ている人の姿はあまりない。せいぜいが五、六人と言ったところか。そうでなければ、化野は"彼"に気付かずいたかも知れなかった。

 あれは…。

 二十代半ばほど、つまり化野と同じぐらいの歳の若い男が、一人で中庭を歩いていた。帽子を目深にかぶっていて、あまりよくは見えなかったが、片目を覆うほど長い髪は、確かに、白く。生まれつき、髪の白いものはいる。今では脱色したり染めたりで、後天的にその姿のものだっているのだから、珍しいと思うほどではない。

 けれど、化野はその男に視線を強く引き寄せられた。開襟のシャツに、地味な色のコートを羽織り、春らしさには程遠く、洒落ているわけでも何でもない。そんな野暮ったい姿だというのに、一度目が行ったら、あとはそのまま追い駆けて。

「あ…」

 中庭でも一際立派な、太い欅の木の幹の向こうに隠れて、その男の姿が見えなくなった。またすぐ見えるだろうと、化野はじっと見ていたが、三分経っても、五分経っても、一向に現れない。

「…………」

 化野はガタリと音を立てて椅子を引いて、カフェテリアの外へ出た。トレイを返却棚に返すのも忘れたままだった。脱いでいた白衣の上は辛うじて忘れず引っ掴み、走ってはならない廊下を走りのスピードで歩き、人の居ない階段は駆け下りて。

 中庭へ向けて、ガラスの扉を押すと、春の匂いがした。萌え出たばかりの草の香をのせた、心地良い春風。まだ少し冷たさを残すそれを浴びながら、ついさっき上から見ていた欅の木の向こうへと化野は走る。

 そして彼は立ち止まった。

「あぁ…居た」

 髪の白い青年は、欅の木の幹に背を寄り掛けて、帽子をますます深くかぶって、眠っていたのである。化野は彼の姿を暫し見つめてから、ゆっくりその場に膝をついた。もっとよく顔が見たかった。出来れば目を覚まして、自分を見て欲しかった。

「……」
 
 何分ぐらいそうしていただろう。風が吹いて、一枚の枯れ葉が飛んできて、化野の顔にびたりとぶつかった。

「…っぶ…ッ」

 驚いて、妙な声が出て、その声のせいで白い髪の青年は目を覚ました。前髪に隠れていない右の目が、白い睫毛に縁取られながらゆっくりと開く。翡翠の色の瞳が、二度瞬きして化野を見た。でも、少しも驚くことは無く。

「…お医者の先生、あんた随分目立ってるぜ…?」

 気付いたら、遠くから近くから、沢山の視線が彼らを見ていた。中庭に眠る白い髪の男の顔を、四つん這いの恰好で白衣の医者が凝視しているだなんて、確かに注目されて当然の奇妙なワンカットだった。

「あ、あー…」
「取り敢えず立ちなよ。で? 俺に何か用事かい?」

 言いながら彼自身も立って、尻についた枯葉の欠片を払う。白髪の青年は、傍らに転がしてあった荷物を、片手でひょいと肩に背負い、軽く首を傾げて化野を見た。登山家のそれよりはさすがに小さいが、随分と大きなリュック。

 身なりとそのリュックを見ただけで、彼が旅行者なのだと分かる。だから化野は少し焦って、その焦りを隠す余裕もなく言った。

「二階のカフェで、コーヒーでもどうだろうか…っ」
「…カフェ、って。あそこだろ? 今行ったらすげぇ注目されると思うけど?」

 くい、と顎をやる仕草につられて、ついさっきまで自分がいたカフェの窓を見ると、ざっと十人分はあろうかという視線が、今も彼らに降り注いでいた。それも勿論、中庭で長々と、四つん這いになったりしていた化野のせいだろう

「な? だから自販のコーヒーでいいよ。院内に入ったすぐのベンチのとこに、あるだろ?」




 湯気の立つ紙コップのブラックコーヒーを、ベンチで待つ彼に差し出して、化野も同じものを手に隣に座る。青年がコーヒーを一口啜るのを待ってから、化野は言葉も選ばずにこう聞いた。

「君は、誰なんだ?」

 問われた男は、流石に少しあっけに取られて、熱いコーヒーをもうひと啜り。初対面相手にいきなり放つ問いとは思えないし、まず自分の方から名乗る礼儀もすっ飛ばしている。けれど彼は答えたのだ。

「俺か? 俺はギンコ、ってんだ」

 この出会いはこのままここで終りにはならない。それは理由も根拠もない直感だった。各地を旅暮らし、出会いと別れを無数に繰り返し生きてきた彼の、酷く性能のいい、直感。

「それで? あんたはこの病院に勤める医者の、アダシノ…って、読んで合ってるのかい? それ」

 白衣の胸にぶらさがるネームを、空いている左手で掴んでギンコは言った。『アダシノ』と、たった四文字。無造作に名前を呼ばれたその響きに、コーヒーを飲む余裕すらなくなって、彼は言ったのだ。

「ギンコ君。俺は君を知っているよ。俺は君のことを、前にもこの病院で見たことがある。俺はまだ十二かそこらだったし、君もそのくらいに見えた。あの日は確か、忘れものを届けに此処に来てたんだ。父がこの病院に勤める医者だったから」

 化野は前を向いたまま、ギンコの返事を待たずに続きを言った。少しばかり気が急いていた。昼休憩はそろそろ終わりだ。彼の傍を離れ、仕事に戻らなければならない。この出会いをこのままに終わらせない為に、なんとかして彼と自分とを繋ぐ何かを、此処に残していきたいと願っていた。

「…俺が君を見たのは、東棟М病室の外扉の前だった。患者の身内でも入れないМ病室から、君は一人で出てきたんだ。Мは『無菌』のМってことになってるけど、本当は違う、ってことを今は俺も知ってる。君も知ってるんじゃないか? あのМは…」

「蟲」

 ぽつん、と一言でギンコは言った。コーヒーを飲み終えた紙コップを半端に潰しながら、薄い笑みを口許に。

「…あんときの患者は、助けられなかったんだ。まだ俺も知らないことばっかりでな。『蟲師』は本当に数が少ないから、どうしても猶予が無けりゃ、俺みたいなガキに診させることもある。担当の医者も悔しそうだったっけ……。けど、今回は大丈夫だと思うぜ? 処方した薬はよく効いてるって、今日データを見せて貰ったよ」

 もう足運ばなくて済みそうだ。と、呟かれたギンコの言葉を聞いて、化野の中で何かの堰が切れた。時間がない。焦りで口調が速くなる。

「そっ、その時の担当の医者は俺の父だ。悔しがってたのは、君が患者を助けられなかったからじゃない。父自身が、自分の患者を助けられなかったからだ」

 ギンコの手が、まだ潰した紙コップを弄っている。プリントされた文字を無意味に読み。潰れた形をやや元に戻しては、また潰し。化野はそんな彼の仕草を見ながら、腕時計のアラームがほんの小さな音で鳴るのを聞いた。

「父は君に感謝してた。お前と同じ年ぐらいなのに、末期患者の症状や死とも向き合って、立派だったって俺に話した。お前も医者を目指すなら、そんなふうになってくれ、って、何度もそう言ったよ。だから、その…ええと…」

 ポケットから取り出した紙片。五センチ四方ぐらいの、ごく小さな。ただのメモ用の紙で、用が済んだらすぐ捨てるようなその紙片に、化野はボールペンで、自分の電話番号を書いた。

「これ、俺の番号だから。君のも、よかったら教えてくれないか」
「………」

 ギンコは暫しその紙片を見下ろし、化野が手にしたままのボールペンを勝手に取ると、番号の上に『化野』と書いた。それをコートのポケットに捩じ入れて、ペンを返す仕草と同じ流れの中で、あっさりと背中を向ける。

「生憎、ケータイは持ってないんだ。というか、院内でナンパかよ? 化野せんせ」
「ギ、ギン…っ…」

 呼びかけた言葉を、院内の呼び出しが遮った。

  『外科の化野先生。外科の化野先生。
   外来患者の方々が、午後の診療をお待ちです。
   急ぎお戻りください。
   繰り返します。外科の……』

「あーっ、あと五分くらい、待ってくれたって…っ」
 
 文句を言いながら、化野は自分の外科棟へと急ぎ足になる。遠ざかるギンコの背に視線をやらなかったのは、仕事に身が入らなくなる危うさを思ったからだし、紙片を受け取って貰えたことへの安堵からだ。

 ひらひらと翻る彼の白衣の裾からは、一枚の葉が零れて舞った。




 荷の中で、繭がカタカタと鳴っていた。いや、繭が鳴らす音ではなく、その中にいるある生き物の鳴らす音だ。手紙を運ぶ、蟲。

 人の少ないローカル線の駅のホーム。隅の方のベンチで、それを面倒くさそうに取り出して、小さく綴られた手紙の内容へと、ギンコは目を通していた。蟲師は通信機器を持たない。薄っぺらくて小さな密閉空間には、電波を喰う蟲が簡単に入り込む。その都度修理不能な壊れ方をするので、持っても意味が無いからだ。

 手紙の内容は、大したものじゃなかった。数少ない同業者から、蟲煙草が安く手に入ったから、欲しかったら連絡を寄越せ、とか、そんな内容だった。

 読み終えた手紙を、くしゃりと潰す時、コートのポケットの別の紙片のことを思い出す。ギンコはそれを今一度開いて、小さく苦笑を零してしまう。特に『化野』とわざわざ自分が書いた文字に笑えた。どういうつもりだったのだろう。彼は静かに目を伏せると、さっきの紙と一緒にそれを丸めて、ベンチの横のゴミ籠へと放った。


 電話しようたって、する用がない。
 だったら、こんな紙片なんか要らない。

 そんなのものはなくとも、縁があるなら、
 きっとまた会うさ、そういう予感がする。

 会えなかったら、それはそれだけのこと。


 ホームへと電車が入ってきた。空いている。ギンコは座席で眠りを引き寄せ、すぐにも眠ってしまおうとしていた。それなのに、たった二度見た11桁の数字の並びが、ちらちらと脳裏を横切って、どうにも眠れる気がしない。

「…あーー。ったく。そんなもの無くたって、きっとまた会うって言ってるだろが」

 そう言い捨てつつも手帳を取り出すと、まだ脳裏で踊っている数字の羅列を、今日の日付のページに書き付けた。挟んであった一枚の欅の葉を、親指の腹で押さえて、落として無くさないようにしている自分の感情が、まだ自分で理解できていない。

 ギンコは閉じた手帳をポケットに戻す。すると今度はすんなりと、睡魔が彼を捕まえた。電車の揺れも心地いい。ゆっくりと落ちた夢の中で、ギンコは思うのだ。

 何年後だろうか? また会えるのは。

 次に会ったらお前のことは知人と呼ぼう。その次にも会えたら心の中で友とでも呼ぼうか。人と蟲の世の狭間を漂う、こんな俺にも友人が? もしも、もう会えなかったら、胸の片隅に淋しく思おう。
 
 その淋しささえも俺にはきっと、得難く貴重な、宝だろう。
















 今日、2018年2月26日は、このサイト「LEAVES」の12回目の記念日です。節目の十周年記念から既に二年。月日の経つのは本当に早いものですね。不調だったり好調だったり、凄いペースだったり、ちょっとペースが落ちたりしながらも、書き止むことなくこの日を無事に迎えられて、ほっとしてい…たりはしませんね…!

 なんか、惑い星が蟲師を書き止めているわけないだろう、って感じなので、はいw なので、きっと来年もこんなふうに記念日を迎えられることと信じて、いつも通りに書いていくだけなのであります。

 いつも読んで下さる方、時々覗いて下さる方にも、惑い星は感謝しています。そういう方からの沢山の言葉や、ほんの一言が、このサイトを支えています。のでっ。心より「ありがとうございます」と、申し上げつつ、何卒これからもよろしくお願い致します。

 さて「得難く貴重な宝 … Under The Tree …」ですが。

 はじまりの話、ですね。今までだっていくつも書いてきたんですけど、改めて、二人が出会って、ここから彼らの物語が始まる、っていうお話を、今日の日のために書きたくなった。現パロですけども、去年は原作蟲師そのままのお話を書いて記念としたので、あえて。色んな視点で、色んな世界で、いろんな時代で、色んな形で、これからも惑い星は書くよ。書けるよ。って思うのです。

 ともあれ、ここまで読んで下さり、ありがとうございました。



2018.02.26 
惑い星