夢 1
化野は夢を見ていた。夢の中で彼は飛翔する鳥になっていて、風吹く空の上から、一人の旅人を見下ろしていた。そこは険しい山脈、疎らだが木が生えていて、時折その陰になり見えなくなる旅人を、視野に収めるよう鳥は時に旋回する。
低木の下で旅人が休めば、そうやって円を描きながらも高度を下げてゆき、狂おしいほど執拗に、その姿を求めた。
居なくならないでくれ、消えないでくれ。
見失ってしまったら、もしかして二度と。
夢だと朧に分っているのに、その焦燥感は消えてなくならない。近付き過ぎるのはどうしてか怖くて、それでも姿の見えないのが恐ろしくて、とうとう鳥は、その常緑の木の枝の上に降り立った。
ばさりと大きな翼の音に、旅人は頭上を見上げる。白い息と、白い煙を吐きながら、見上げた枝の上にいる見たこともない大きな鳥。
「どうして、俺を追うんだ…?」
旅人は言った。また白い息が広がった。白い髪の色に重なって"彼"が今にも消えそうに、鳥には思えた。鳥は墜落するように、彼の腕の中へと舞い降りる。
けれども。
その手のひらに触れた途端、鳥の体こそが、解けて消えてしまうのである。
「…化野…!」
叫ぶと同時に飛び起きて、その途端に両肩を布団へと押し戻される。あっさりと仰向けに横たわり、ギンコは霞む視野のなか、化野の顔を間近に見た。
「俺なら此処だ。無理に起きるなよ、まだしんどいだろう」
温かい化野の手に、その穏やかな声に、なにかが芯までほつれる程の安堵。見ていた夢の残像が、薄紙を重ねた向こうに霞んでいる。
「…鳥、だった」
「ん? 何が?」
唐突な呟きにやんわりと答えてくれながら、化野は桶で絞った手拭いを、ギンコの額にそうっと。
「鳥が居たんだよ。険しい山脈を行く俺を、どこまでもずっと追いかけて」
「へぇ? 鳥。歩いて?」
「……は…?」
みょうちきりんな問い掛けが来て、ギンコは思わず目を丸くした。鳥だと言っているのに、何故歩いてだ。飛んでいるのに決まって。
「あぁ、鳥だものな。空を飛んで、空の上からお前を見ていたのか、そりゃその鳥も、切なかろうなぁ」
「は、はは…。なんだよ、そりゃぁ」
己の言葉が的外れであったことに、化野はちゃんと自分で気付いて言い直すも、またその言葉の後半には、奇妙な言葉が付け足させていた。数日続けて熱があり、旅の疲れもあったから、ギンコはすっかり寝込んでしまって居たのだが、そろそろ笑う元気も戻ってきた。
ギンコが笑ったので、化野も穏やかに笑っている。
「いや、なに。その鳥が本当に俺ならば、険しい山をお前だけが歩いて、自分は歩くことをせずに高みから見下ろしていて、切ないだろうと思ったんだ。俺が鳥になれたなら、きっとお前の傍らを歩く」
だから足の長い鳥がいいか、などと、化野は思案顔で首を傾げている。
「うーん、そうだなぁ、鷺とか鶴とかああいうのだ。それならば歩幅大きくお前についても行けそうだし、お前がそうと望むなら、これからゆく道を空から確かめたりも出来るだろう。危険の無いようになぁ。川や湖で魚を捕ってやれるかもしれんしな」
そんな彼の言葉を聞いて、ギンコはついさっきのことを思い出した。夢の中で消えてしまった白い鳥を、ギンコは"化野"と呼んだのだ。
「なぁ?」
「ん」
「お前も、夢を見ていたのか…?」
「夢を? いや、今日は見ておらんぞ? なにやら眠気が来なくて、寝ていないからな」
「じゃあ寝ろ、俺のことばかり気にして、ろくに寝ていないだろう。俺が起きていて、何かあったら起こしてやるから」
額の手拭いを退けて、身を起こしながらギンコは自身で熱の有無を診る。もうとうに下がっている。ただ不自由な旅をしているから、ひいた風邪をこじらせた。そのせいで熱は中々引かなかったが、あとは鈍った体を慣らさなければと思う。
やむを得ず動けなくなって長居をしても、この里に居る時なら、遠くの蟲まで呼んだりはしない。それが偶然の土地の利なのだしても、七日居て近場の蟲が寄っているだけなのは、本当に幸いだった。
「木箱、俺の木箱は? それから、杖と」
「杖はな。随分傷んでいたから、今、新しいのを作って貰っている」
不要になった手拭いと桶を、部屋の隅へと押しやりながら、化野はギンコを見ずに言った。ギンコの眼差しが、背中へと刺さるのを彼は感じる。
「傷んでいてもいい。返してくれ」
「なるべく似た風に作って貰うから、職人に預けているんだよ。縁側に出るのか? なら肩を貸す」
「…そうかい。すまんな」
寝床に居るまま片腕を差し出す姿は、ここ一年でもう見慣れた。慣れた仕草とコツとでうまく起こして立たせてやり、縁側に座らせてから、奥の間において布を被せておいた木箱を持ってくる。
その重たさが、化野は嫌いだ。
なんでこんなに重いんだ。疲れた体に鞭打つようなものじゃないか。こんなものを背負って無茶しているから、あんなことにもなったろうに。正直、庭石にでも投げ付けて壊してしまいたい。杖もそうだ。お前を無理に歩かせる。
何より一番嫌いなのは蟲だ。見えもせぬ癖、あいつに寄り付き、あいつが休む間さえろくに与えない。本当は随分前から、蟲など嫌いだ。蟲を嫌う俺に、きっとお前は悲しむから、今も好きなふりをしているだけだ。
「もう、随分寄ったのか」
「いいや。まだそんなには。山ほど寄ってたら、こんなのんびりしてないさ」
「のんびり、しているのかい? それで」
「あぁ」
言いながら、ギンコは木箱の抽斗から取り出した胡桃を二つ、手の中に握り込んで鍛錬している。そうしながら煙草をくゆらし、少しでも蟲を散らすように気遣ってもいる。
化野は彼の隣に腰を下ろして、少し前のめりになり、縁側の下へと、ぷらり、ギンコが下ろしている左の脚を見た。服の上からでもわかる。右と比べて細くて、筋肉がない。彼の左膝は、一年前から殆ど動かない。
「診てやろう」
化野は言った。手の中で胡桃をごりごりと言わせていて返事をしない。動かない片脚の代わりに、鍛えられる部分を鍛えるのだと前に言っていた。返事がなくとも勝手に脚を診始めた化野に、ギンコはまた夢の話をし始めた。
「鳥の夢は、本当のことを言えば良く見るんだ。前はもっと、違う鳥の夢を見た。鷲とか、鷹とかな。その鳥も俺をずっと追ってきてな。休んでいると、時々、その鳥は俺の傍まで下りてきて…。俺の…」
「うん、お前の?」
俺の脚を、狙うのさ。
「いや。最近の夢じゃないから、細かいところは忘れたが」
「夢は、いつまでも頭の中に残っていなくて、大抵気付いたら消えているからなぁ」
「そうだな」
今朝見ていた夢の鳥を、俺は化野と呼んだ。以前見ていた夢の中でも、俺はその鳥を、化野だと思っていたのだ。大きな翼を持ち、何処までも、俺についていきたいと願う白い鳥。或いは、鋭い嘴と爪を持って、俺の脚を害しようとする荒々しい鳥。
どちらも、俺のことを想う、化野の心だ。そして、そのことを恐れる俺自身の心をも投影している。
鳥の鋭い嘴で、膝の肉を毟られる夢を、何度か繰り返し見ていた頃、ギンコは岩山で脚を踏み外し、怪我を負った。腱を傷つける酷い怪我で、治療が遅れたせいもあり、彼の脚は簡単には治らなくなった。
ギンコの脚を治療したのは化野だった。他所より近い医家だから、と、彼が運び込まれた時、その歪んだ脚を見た化野の、悪夢を見たような目。化野が医家の理性に縋りながらも、ぶるぶると震えていたのを覚えている。その紙のように白い顔も、上手く口のきけなくなった声も。
「…治りそうかい?」
と、ギンコは聞いたが、内心では、治したくないかい、と聞いていた。あの時も。そして今も。
「時間はかかるが、もっとずっと動くようになるさ」
努めて明るく言いながら、治ったらまたどんな無茶をするのかと、化野は思っている。
「なぁ、ギンコ。言いにくいが。こんな脚でいるうちは、どのみち遠くまでは行けんのだろう? 蟲が寄るのでずっと此処にとはいかんだろうが、寄った蟲を散らすためだけに、然程遠くはない近場を巡るだけならば、主治医として、俺もついていくぞ」
「馬鹿言うな。この里はどうするんだ」
「いや、どこか他所から医家を呼ぶことは可能だ。一つの里に何人も医家のいる土地は多い。この里へ来てくれる医家を探せば」
膝を見ている化野の顔を見下ろせば、ギンコの目の前で、彼の目が懇願していた。
うん、と言ってくれ。
こんなお前をまた、
独りで旅に送り出すなど、
辛くてこの身が裂けそうだ。
「じゃあ、ひとつ、聞いてもいいか…?」
すぐさま拒否するだろう筈のギンコが、こんなふうに聞き返すなんて、化野は考えてもいなかったから。
「なんだっ?! なんでも…っ」
「化野、お前。夢で俺の足を、喰ったかい?」
化野の時間が、たっぷり数秒は止まった。不可解なことを言われた故ではないと、その顔を見ただけでギンコには分った。
夢を現実に持ち出す蟲は、実は幾種も存在する。あまりに強い願望は、蟲に吸われて夢へと解けて、夢の中から現実へ、じわりじわりと滲み出し。
「な、にを…言っ…」
ギンコは薄く笑った。優しい顔だ。化野の動揺で、何があらわになっていようと、彼を責める気などない。此処に居て欲しい、なぞ、言葉で仕草で眼差しで、何度言われたか数えられもしなくて、化野の願いはわかっていた。
疲れ切っていて、
一日でも滞在が延びると嬉しがったお前。
怪我して訪れた時はいつも
心配しながらどこかで嬉々として、
手間のかかる薬を調合したりもしたな。
その願望が、夢では残酷なほど膨れ上がる。膨れ上がった夢を蟲が吸って、捩じり歪めながら現実に持ち出すのだ。それでも岩場で足を踏み外したのはギンコだし、いつだって助けの無い独り旅だったのも、彼自身の都合だ。
「おかしなことを言っちまった。夢とごちゃ混ぜになってしまったんだろう。すまんな。忘れてくれ。お前の手当てと薬のお陰で、前よりいくらか膝は動くよ」
治したくなどない癖に。
でも辛そうな姿を見れば、
早く治してやりたいと願う。
それも化野の本心だ。
分かっている、痛いほど。
「妙なことを聞いた詫びに、ひとつ教えるが、俺も前からよく、酷い夢を見るよ」
「ど…どん…な…?」
「そりゃ、酷過ぎて言いにくい。それでも、聞くかい?」
化野はごくり、と息を飲んで、ギンコの顔をじっと見て、それから視線を逸らした。
「また、今度に、するかな」
「それがいい」
お前と言う存在が、実はこの世に居なくて、
最初から俺の夢だった、っていう、そういう夢さ。
夢でよかった、っていつも、そう思うよ。
夢に見るのは恐れていること。
夢に見るのは願っていること。
夢喰い蟲は、餌食にした相手の夢だけは滅多に喰わないのだ。だからギンコのこれは、現実には恐らく成り得ない。あぁ、本当に幸いだ。足の一本失っても、本当に良かった。本当に。
化野はギンコの膝を優しく揉み、手のひらの熱を移そうとするかのように、そうっと包みながら彼の足元へ向けて言っている。
「…腱を傷めてしまった体の部位を、元通りに治す治療法が、あるんだそうだ。湯でじっくり温め膏薬を塗って、後は患部に負担をかけない歩き方とか、動き方とか。長年研究した腕のいい医家の手記の写しを、今取り寄せているんだよ、ギンコ」
「あぁ、知ってる。それを催促する手紙の書き損じ、丸めたやつが其処の文机の影に一つ、転がってるよ」
「え、あ、そ、そうか」
人が人を欲する心は、絡まった糸のように複雑だ。だからこそ容易くそれは歪んで、酷い願いもこの世に生まれる。けれどどれほど醜く歪んでしまおうと、それは元は真っ直ぐで、綺麗で、純粋な願いだったのだ。
ふと、ギンコが顔を上げると、庭の垣根の向こうに、旅姿をした男が立っていた。ギンコはまるで、真昼の夢でも見たように、半ば呆けてその姿を眺めた。その男は片手には杖を持っていて、垣根を跨ぎ越えつつ、それをギンコに差し出した。
「もう、行くかい?」
そう言ったのはギンコだ。
「化野せんせ」
名を呼ばれつつ、彼はギンコの木箱を代わりに背負う。びっくりするほど、慣れた仕草で淀みなく。
「行こうか、無理せずゆっくりな」
「主治医が居るから、多少の無理も大丈夫さ」
「おい」
化野はギンコと並んで歩きながら、怖い顔などして見せた。一人旅をやめた、洋装の白い髪の蟲師は、医家を伴い歩いている。
これは夢だろうか。何処からが夢だろうか。もしかしたらどちらもなのか。その夢はいつか覚めるだろうか。覚めたいのか、覚めたくないのかさえ朧だった。
蟲のせいかな、とギンコは苦笑する。こんな夢を現実に持ち出したのは、いったいどの蟲だろう。
けれども、あぁ、いつだって。
夢に見るのは願っていること。
夢に見るのは、恐れて、いること。
終
夢、という言葉には大きく二つの意味がある。ひとつは眠りながら見るもののこと、もう一つは叶えたい願いのこと。そのことを思い浮かべながらこんな話を書いてしまいました。お祝いの為のものにしては、暗いかもしれない…。でもそれも私らしいかなと。
え? て思う部分が作中にひとつやふたつあると思いますが、それも夢の故の不確かさ。夢だからこそ説明ができないし、理路整然としていないのです。ふわふわと夢の断片を引き寄せるように、読んで貰えたらと思います。
さて2020年2月26日は「LEAVES」の誕生日。14回目になるようです。ええっと、何回目だっけ?ってなるようになりました。年と同じだww ともあれ「LEAVES」はコツコツと育ててきた私の大事な宝、これからも大事にして参ります。
遊びに来て下さる方、読んでくださる方、ほんとうにいつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
2020.02.26