残  響







 耳の奥で、何かが鳴り響いている。 
 耳の奥で鳴り響く音を、俺はずっと聞いている。
 残響、と言う、そのままの名前の蟲がいる。
 そのものの心の奥に、いつまでも残っている音の記憶を、
 そのままの音にして、耳奥で聞かせる蟲なのだ。

 何の害もない。
 ただ、いつ去るのかも判らない。
 



 もう、二年も前のことになる。ある海沿いの里で、化野、という名の医家と知り合った。その里に蟲患いのものがいると噂で聞いて、それを直すために、ギンコは行ったのだ。

 一ヶ月ほどの間、その医家の住まいに滞在し、その後も、患者らの経過を見に二度ほど足を運んだのだが、都度、その家に数日厄介になった。最後にその家に足を踏み入れてから、もう、一年になるのだ。ふと思い出して、それが酷く昔のことような気がした。


 あいつ、今頃、どうしているんだかねぇ…


 蟲煙草の煙を、青い空に燻らせながら、ギンコはそう思ってみる。褪せた藍色の着物、男にしては少しばかり細い姿をして、それでいて案外と手は大きかったっけ。

 自分とほとんど同じ背格好の患者を、多少よろめきながらも抱きかかえて、あの家の中へと運び入れるのを見たときは、へぇ、と少なからず感心したもんだ。仕事をしている時、つまり患者らの面倒を見ている時の顔が、それ以外の時のやんわりとした様子と一変して、きりりと引き締まって見えたっけ。

 それが…。その普段の顔とも、きりりとした顔とも違う顔をして、あいつが俺を見ると、ある時に気付いたのだった。

 
 妙な男だよ。なんで俺なんかを、そんな目ぇしてみるんだか。


 行くのか、と、あいつはそう言ったんだ。暫しは来るまいと心に決めて、木箱の背負い紐に手を掛けた俺の背へ。俺が気付いたということを、あいつも気が付いたんだろうと思う。

 あぁ、行くよ、と。俺は言ったのだ。少し振り向いて、あいつの顔を見て、それ以上は何も言わずに背を向けた。あいつは何も言わなかった。引き止められるかもしれないと思っていたから、ほんの少し…、少しだけ意外に思った。


 残響が聞こえる。
 耳の奥の、遠くで。
 それは静かな穏やかな音で、
 他の何かを妨げるようなものではない。
 
 ただ、残響が聞こえる。
 ひと時も鳴り止まずに、ずっと、
 聞こえ続けている。
 

 その音が、なんの音なのか気付いたとき、俺は進路をゆっくりと変えた。ゆっくりと、だ。真っ直ぐにわき目も振らず行こうだなどと、思ってはいない。蟲師の生業の妨げにはせず、ただ、何も用のない時は、自然に波が浜へ打ち寄せるように、向かおうと決めた。

 随分と離れた土地にいる今、ここから、どれだけ時を掛ければ辿り付くのかも判らなかったが、それでも浜辺へ波が寄せられるように。


 残響が、聞こえている。

 あいたいよ
 あいたいよ
 お前に


 あいつの声が、それに被さる。あの家では一度として聞かなかった言葉なのに、耳に残る記憶のように、その声が聞こえるのだ。残響の波の音に重なるそれは、もしかして眠っている間にでも、耳元に聞かされていたのかもしれないと思うほどに、情感込めてはっきりと聞こえる。

 あぁ、そうだ。これは波の音だよ。あの家にいる間。特に夜具を借りて横になり、眠りに落ちる寸前にいつも気付いて聞いていた、あの優しい波の音だ。

 他のどの音でもない、俺のこの心の奥に、いつまでも残っている音の記憶は、あの家で、隣の夜具で眠っている、あの男の寝息と共に聞いていた、あの里の波の音…。

 
 残響の波音が、俺の心を洗う。

 他に色々と、抱き込んでいた胸の奥の、 
 それ以外のものを少しずつ洗い落として、
 それを、とうとう剥き出しにさせてしまった。

 あいたいよ
 あいたいよ
 お前に


 それは今度は、俺の声だった。






 辿り付いたのは秋の初め。まだ暖かな日差しの注ぐ天気のいい日のこと。久々の上り坂を登るとき、ギンコは誰にも会わなかった。それをどうしてか幸い、と思いながら、自分自身のこの存在で、再び訪れた、と言うことを知らせたかった。

 庭の前に立って、小さな垣根を跨ぎこそうかどうしようか迷い、門の方へと向かって、そこを通り抜ける。わざわざそうしたというのに、表の入り口から出入りしたことなど、殆どなかったのを思い出して、ギンコは改めて庭へ回った。

 縁側の見える庭からは、奥の部屋にいる化野の姿がすぐに見えた。

 ほんの少し開けられてある襖の向こうの部屋で、何かを手にとって熱心に眺めている。また何か「珍品」とやらを買ったのか、と小さく苦笑しながら、ギンコは声を掛けようとして、喉に言葉が詰まるように、何も言えなくなってしまっている。

「…あ……」
「ギ、ギンコ……」

 言い掛けた言葉が、届いたとも思えないのに、化野が不意にこちらを見て、ぽつりとギンコの名を呼んだ。大声で呼んで、駆け寄ってくるかと思っていたから、また意外な思いがする。

「あ、あっ。今、茶を入れる。上がって待っててくれ…!」
「…あぁ」

 と、言いながらギンコはまた苦笑する。足元にあった何かの箱を蹴飛ばして転がして、慌てている姿が、あまりに前のままだったから。

 転がした箱の中身は、なんだかわからない白い沢山の石ころだった。それを慌てて拾い集め、どこかへ飛んでしまった蓋を、きょろきょろとしながら探し、やっと箱を元通りにして。それから、何をするつもりだったか忘れたのか、しばしただギンコを見て。

「…茶だ。そうだ、茶を入れるんだったな」
「なぁ、化野…」

 ギンコは縁側に腰を下ろし、傍らに木箱を置いて、向けられた背中にぽつりと言った。そうだ、言ったのだ。言おうと決心していたわけでもないのに、零れるように、その言葉を…。

「お前を好きだよ」


 あぁ、残響が聞こえる。
 耳の奥のいつまでも残っていた響きで。

 いいや違う。
 これは残響ではない。
 本当の音だ。
 たった今、ギンコが耳に
 確かに聞いている波の音だ。


「俺は、お前を好きだよ、化野」


 もう一度言ったのに、化野は中々振り返らなかった。あと、一歩、二歩と前へ進んで、部屋の出口の柱に手を触れて、少し、よろめいたようだった。言ってしまったので、ギンコは酷く満足な心地がして、化野の姿から視線を逸らし、目の前に広がっている海の風景を眺めた。


 あぁ、いい音だなぁ、波の音は。
 そんなことは出来ないけれど、毎日毎日ここへ座って、
 毎日毎日化野の横で、聞いていたいほどに
 この波の音が、俺は好きだ。
 化野という、男のことが、俺は…。


 こと、と音を立てて、湯気の上がる茶碗が傍らに置かれた。もう一つ、揃いの茶碗がその隣に置かれ、化野はギンコのしているのと同じように、縁側の外へと足を出してそこへ座った。

「何だ。その顔」
「…赤くなって悪いか」

 化野の顔は、可笑しいくらいに真っ赤に染まっていて、不思議と泣きたくなり、それと同時に笑い出したくなって困った。



 あぁ、残響と同じ波の音が、
 心の奥に響いている…。















 突発? 数日前に、書きたいと思ったネタですから、突発とは言えないかもしれない。ギンコの耳の奥に、波の音が響く、というのを書きたくて、ストーリーを捻り出しました。にょろー。

 最近、新しくファンになった方とお話する機会も増えて、なんというか、初心に帰った?気持ちで書いた、ような? 何にもない話で、詰まらなかったりしないといいのですが。

 とにかく、蟲師大好きですのよ!



10/11/21