雪 灯 籠





 この里では晦日の夜、近所同士が呼び合って、それぞれ手に手に提灯を持ち、一軒一軒の家を周る。取って置きの酒を携え、作りたての馳走を持ち歩くもの達。

 そして、そのように出歩かぬものは、戸口に赤々と火を灯し、それらのものが来るのを待って、やっぱり取って置きの酒、出来る限りの馳走を並べているのだ。

 里外れの高台にある化野の家は、皆が訪ねてくるのを持つ家の一つ。

 けれど人々はそうして家々を訪ねながらではなく、訪ねてくれる人々を待ちながらではなく、年の終わりの最期の刻には、それぞれがそれぞれ自分の家へと戻り、何より誰より大事にしたい自分の家で、自分の家のものとだけ年を越す。

 そういうわけで、化野の家も四半時ほど前には、最後の客に酒と馳走を振る舞って、今は化野ひとりが縁側に座っていた。道をゆく提灯の灯りも、とうとう一つも見えなくなって、化野は銚子を一つと猪口を二つ、ひとりの縁側に綺麗に並べる。

 取って置きの酒の最後の少しを、二つの盃にそれぞれ注ぐと、一つを手にして、もう一つへそれをかちりと当てた。

「……良い年をな…」

 小声で言うと、寂しさがしんしんと、冬の夜の寒さのように胸に染みる。年越しを共に、と願ったことはある。もっと長く傍にいてくれと、勝手を言ったこともある。そんなことは出来ないと、そのたびに言うギンコの顔は、心を押し隠して辛そうだった。だから二度とは言うまいと、唇に、心に封じたのだ。

 いつもの年と同じように、この暮れも里は雪に覆われて、どこもかしこも白の有様。吐く息までも白くて、皆の持ち歩いていた提灯の灯りが、あたりの雪に滲んで美しく映えたのだ。

「おや、まだあんなところに…」

 ぽつん、と遠くの里外れに、その灯りが見えた。提灯のそれだろう、みっつ、よっつ、いつつと揺れて、橙のそれが並んで動いている。あんなところに家なぞあっただろうか、と、化野は思って腰を浮かせた。

 だが、よくよく見るとその灯りは変なのだ。ずっとついているのではなくて、消えたりついたり。それが、道をゆくのとは違って、変に左右前後に揺れて見える。夢中になって立ち上がり、縁側の隅まで行って、素足で冷たい床を踏みながら、化野はその不思議な灯りに見惚れていた。

「化野先生」
「え…?」

 名を呼ばれ、どきりと心臓が跳ねた。先生、となど付けてはいるが、どの里人の声でもない。

「何してんだ、化野」

 もう一度呼ばれる。体が、手足が、きんと冷えた空気に凍り付いてしまったかのようで、中々振り向くことができない。やっと強張りが解けて、化野が振り向いた庭に、見慣れても見慣れても、どうしても胸の痛むその姿が立っていた。

「…ギンコ」
「よぉ…。凄い雪だな、おい。道は踏み固められてて歩き易かったがな」

 それはこの里の人々の暮れの習慣のせいで、だとか。それはよかった、だとか。そんな言葉が頭の中でぐるぐると回り、結局は化野はいつも通りの言葉を言った。

「…よく来たな…ギンコ」
「あぁ」

 ギンコはほんの少しだけ笑顔になって、庭を横切り縁側へと辿り付く。体を少し斜めにして、背中や肩の雪を落としてから、長い重たげな上着のままで、よっこらしょ、と腰を下ろす。

「頼みがあって来たよ」
「え? 頼み?」
「うん。来た早々で悪いんだが、お前のもってる翡翠の玉。あれを暫く貸してくれ。次に来た時に忘れずちゃんと返すから」
「…そ、それだけで来たのか?」

 じゃあ、それを渡したらもう行ってしまうのか? やっと会えたのに。今日という特別な日に、新しい年を迎える年に一度きりの日に、その刻に、寄り添うていられると思ったのに。

「あ、あれか…。そう…どこにしまったっけな」

 それで化野はついそう言った。視線を泳がせ、探す振りをして部屋を見回しながら、後ろめたさに顔も見られずに、それでも切なる願いを込めた。

「探すから、とりあえず上がって囲炉裏にあたれよ。この雪なのだし、寒かったろう。そうだ。茶を入れようか、熱くして。それとも酒や、年越しの馳走の残りなんかも…」
「そっちじゃない。ここだろ」

 ギンコは靴を脱いで部屋へ上がると、化野がいつも寝ている部屋の、いつもの文机へと近付いた。その机にいつも置いてある、綺麗なビイドロの器の蓋を開けると、待っていたように中で翡翠が輝いている。

「いつもお前、寝る前に眺めていると言ってたじゃないか」
「……そう、だったな…」

 そうだよ。お前を思って眺めているんだ。お前だと思って話しかけて、最後に、おやすみと囁いてから寝るのだ。そんなことまで打ち明けてやいないが、判るだろうと恨みたくなる。

「じゃあ、借りるぜ」

 と、ギンコは言って、すぐに裏の山へと入っていく。行ってしまったかと座り込めば、呆けている間にギンコは庭へと戻ってきた。片手に細い木の枝を持って、その先に結んだ短い紐。短い紐の先には、化野の翡翠。

「化野。蟲ってのは、人と同じ時の刻みを理解してると思うか?」

 唐突に、ギンコはそう聞いた。

「朝昼晩だの、夜明けだの、そんなことは判っているかもしれんが、年の暮れだのなんだの、人の勝手に決めた暦まで判っていると思うか?」
「…知らんよ、そんなのは」
「怒るな」

 短く、雄弁にそう言って、ギンコは化野に背を向けた。

 木箱を背負った後姿を、白い風景の中に見せながら、彼はまるで独り言のように呟くのだ。雪の日は、特にしんしんと風も無く降り頻る日は、人の立てる物音も声も、その白が吸い寄せるように思う。風の音すらしないのに、言葉は途切れ途切れになって聞こえた。

「 年の  れの、雪の夜にな。 … が、いるのさ。
 どうやらこの … を好むようで、実は難儀しているんだよ」

「何だって? よく聞こえないぞ」

「『ゆ … ろう』だ」

「ギンコ…」

「もう、集まっ … のか…
 …じゃぁな…。行っ … くる。
 かぜを … なよ、…だしの…」
 
「聞こえない…っ!」

 叫ぶように、化野は言った。けれどその言葉が終わる前に、ギンコの姿は不意に消えていた。枝先の紐に結わえた翡翠の色が、最後にちかり、と光って見えた気がした。

「ギン…コ…?」

 吸い込んだ空気は、喉を切るように冷たかった。縁側にも、いつの間にか雪がつもり、裸足でいる化野の足の指の上で、甲の上で、次々と雪が溶けていた。幻だったのだろうか、と、化野は思った。ならば、それほど会いたいのだと、切なく思った。

 冷えた頬に涙が一筋伝って、それを冷えた袖で拭い、幻でも夢でもいいから、もう一度見えやしないものかと、そこから見える里の風景を見渡した。見えたのは、降り続いている雪と、深い夜にうっすらと染められているいつもの庭と…。

 もう会えないわけじゃないのに、春になればまた会いに来てくれると判っているのに、これほど苦しいと思う心を、化野自身どうしようもない。本当に愚かだと、化野は思うのだ。

 さっきの幻に出てきた翡翠。ギンコの瞳の色と似ていると、あまりに高価なのも構わず買ったあの翡翠を、今夜は手に握り締めて寝ようかと、そう思って化野は冷えた足で奥の部屋へと入っていく。文机の前に膝をつき、手を伸ばし、けれど。

 翡翠は、そこには無かった。

「…ギンコ、幻じゃあ…ないのか…?」

 化野は慌てて縁側へと戻る。降り続く雪の下に、今にも隠されようとしてはいるが、ギンコの靴の足跡がちゃんと見えた。そうして高台のその場所から、目を凝らしてよく見渡せば、ギンコが現れる前に、化野が見ていたあの光がまた、里のあちこちに、ぽつん、ぽつん、と揺れている。


   『ゆきどうろう』だ…


 さっきは聞こえなかったギンコの言葉が、今更のように化野の耳に響く。『雪灯籠』と、書くのだろうか。それが蟲の名だろうか。あぁ、本当に灯籠のようだ。ゆらゆら、ゆらゆらと揺れて、雪で作った灯籠の中に、淡い灯をともしてあるように…。

 体が冷えていくのも気付かず、肩や髪に雪が積もるのも構わず、化野はその光をずっと見ていた。光は少しずつ数を増やし、ひとつへと集まって、大くても明るさの変わらない、不思議な優しい灯りになって、今度はだんだんとこちらへ近付いてくる。 
 
 その光がとうとう、化野の庭へと入ってきて、彼は息をするのも、鼓動をするのも忘れそうな心地で、それをじっと見つめていた。


 そろそろ か … 


 ぽつり、それだけ聞こえた声は、ギンコの声。化野が息を飲む前で、灯火は一斉に、空へ向け、揺れながら昇っていき、地上から遠ざかって、最後には降り続く雪の中へと、溶けるように見えなくなった。

「晦日の雪の夜に、この色を求めて集まる蟲でな。玉が無いと、俺の目に集まるんで、いつも困るんだ。…そら、返す」

 いつもの調子でそう言い、ギンコは紐の先に下がっている翡翠を口元に持っていって、結んだ糸を歯で切ると、無造作に化野へ差し出す。化野はその手が差し出されたとき、何故かほんの少し後ろへと体を揺らした。

 自分の胸へと差し出されたギンコの手。その指も手も、腕も肩も、髪のひとすじさえも、ついさっきまで彼をすっぽりと包んでいた、淡い橙の光を纏ったままでいる。淡く光るようなそんな姿は、いつものギンコには見えなくて。

「…化野?」
「お、おま…え…」
「どうしたんだ?」
「いや…触れたら、お前、き…消えそうで」

 それを聞いて、ギンコは暫し黙っていた。雪がまだ続く中で、彼が少し項垂れると、髪から雪が零れる。ぱた、ぱた、と手で肩の雪を払い、髪の雪を落とし、どこか寂しそうな顔で、ギンコは化野に聞いた。

「…上がっていいか。さすがに寒ぃ」
「あ、あぁ、そりゃ、勿論…」
「この光なら、残光みてぇなもんだ。すぐ…消えるから」

 そう言ったのに、化野は何も答えなかった。ギンコが自分の横を通って家に上がるとき、また少し、逃げるように体が揺れていた。ギンコは靴を脱いで家へと上がったのに、囲炉裏の傍へ近付く前に、もう一度縁側へと戻って靴を履いた。

「いや、やっぱり、もう行くよ…。冬に来るのは、らしくねぇしな…」
「なんで……」
「…なんでだろうな」
 
 雪を踏み締めるかすかな音が鳴る。庭から出て行くギンコを見たとき、化野は酷い後悔に襲われた。ギンコがさっき言ったように、あの淡い光は既に消えている。あんなのはただの名残の色で、ギンコはいつものギンコなのに。愛しい愛しい、ただ一人の男だというのに。
 
「行くな…。嫌だ、ギンコ、行くな…ッ」

 やっとそう言った。言うことが出来たのに、振り向いたギンコの顔は、少し前に見た顔よりも、もっとずっと寂しそうに見えた。


 * ** ***** ** *


「…温かい……」

 化野はギンコの胸に触れて、目を閉じた彼の顔を見ながらそう言った。その手が左胸へとなぞり、手のひらに響く鼓動を感じながら、彼はギンコの首筋に顔を埋める。

「悪かった」
「謝るようなことなんか、何もねぇだろ…」
「…ある。俺はさっき、お前を」

 喉を仰け反らせ、ギンコは熱い息を吐きながら、化野の背中を抱いた。その腕には力が籠もり、指先は震えていた。うっすらと開いた左目を隠すように、彼は不自然に顔を傾ける。

「ギンコ」

 化野はギンコの髪を撫でて、その白い色をいつくしむように口付けした。そうして少し強引に彼の頭を抱いて、閉じた左の瞼にもゆっくりと口付けしようとした。ギンコはそれを嫌がって、もがく腕で目を隠した。

「好きなんだ、ギンコ。好きだ…」
「あぁ…。何度も聞いたさ」
「…ギンコ」

 化野の声は震えている。

「春まで、いられないか…?」
「何言ってんだ」
「離れたくない。ここに、傍に…いてくれ。怖いんだ…」
「…俺のことがか?」

 吐く息だけのような小さな声で、ギンコはそう聞き返したのだ。化野はギンコの体をきつく抱いて、抱き締めたままで、激しく首を振る。

「そうじゃない…っ、俺は、俺が怖いんだ。こんなにお前を好きなのに…ッ。こんなに、こんなに好きで堪らないのに、いつだって傍にいて欲しいのに、なんで俺は…っ」

 ギンコは化野の髪をそっと撫でた。それから裸の肩や背中を撫でた。何度も撫でて、それからぱたり、と両手を布団の上に投げ出し、ぼんやりと天井を見上げて呟いた。

「……お前がいつもは、蟲の見えねぇ人間で、よかったよ…」
「どういう…意味…」
「そのまんまの意味さ」

 化野はそれ以上、何も言わなかった。ギンコは生き方を変えられない。どんなに願おうと変えられない。どれほど辛くとも、悲しくとも、変えられないのだ。それならば自分が変わればいいのだと、化野は思った。今更のように、答えを得たと思った。


 そうだ。もっと強くなればいい、何も恐れずいられるほどに。
 もっと愛すればいい、ギンコがどんなに『人』と違っても。
 いつか不意に目の前から、消えてしまいそうに思えても。


「待ってて、くれるか、ギンコ」
「……」

 唐突にさえ思える言葉に、ギンコは天井を見ていた目を見開く。ギンコのそんな表情を、泣き笑いのような顔をして見つめて、化野は彼の唇に自分の唇を押し付けた。

「…強く、なるから」

 口付けの後に告げられた言葉を、ギンコはじっと胸に染み込ませる。酷く静かに化野の目を見つめ返し、それから拗ねたように、ギンコは小さく視線を逸らした。

「なるべく、早くな…」
「あぁ、わかった」

 言葉の少ないやり取りで、酷く大切なことを約束した。

 それから化野は、ギンコに何度も口付けする。口付けしていない場所がなくなるほど、あちこちに唇を押し付け、舌を這わせ、ギンコの体の熱や、快楽に揺れるさまを感じた。何も変わらないのだと確かめて、放つ瞬間の震えをすら、愛しいと思った。

 やがてはギンコが疲れて眠ってしまうと、化野は彼の髪を撫で、閉じた左の瞼に、今度こそそっと口付けをした。

 それから目を閉じて、ゆっくりと思い出した風景の中。雪灯籠の名残の色に、淡く染まったギンコの姿は、少しも恐ろしくはなかった。ただただ綺麗で、綺麗で、もう一度見たいと、化野は思ったのだった。
















 なんと言いますか、その…。初心に還ったように気持ちで書いた気が致します。今年はあらたに蟲師にはまられた方とお知り合いになれまして、それがまた特別大切なことのような気がするのですよ。

 このお話の先生は「おぃぃーっ」て言いたいくらい、頼りないっていうか、ギンコが可哀想なくらい、先生が心弱くてですね。だけどもやっぱり、人は自分の知らなかったことや、見たことも無かったことを、恐れてしまう生き物だというのも、また事実かと思うのでした。

 好きだけど、怖いと思うこともある。そんなところでまだモタモタしている先生ってのも、いいかなーと。そうして恐れられながらも、そしてそのことに傷つきながらも、会いに来ることを止められないくらい、先生に惚れてしまっているギンコとか、いいかなーと。

 ま、そんな話。

 新春ノベルっていうか、年越しノベルなのにね。あと二日早く書きやがれっ、て思ったんだけど、惑い星っ、頑張ったので、楽しんでいただけると嬉しいです。えへv


2011/01/02