「手繰る痛み」





 

 子供だったのだと、そう思う。

 一つところに捕らわれず、霧の色を読んでは流れていく彼らの生活が、気ままで楽しいものに思え、そう出来ない自分と彼らの差が、不公平にすら思えていたのだ。

 大人になった今は、彼らの暮らしの辛さも想像できるし、深く考えずに羨んでいた子供の自分が、ただ無知だったのだ。

 一つところから動けず、そのまま一生を送ったとしても、そこにはちゃんと、そこに合う幸福がある。現に今、体の弱い子らを救う手立てを得て安堵もしたし、この里で家族と共に、穏やかで幸せな日々を送っていけるだろう。


 けれども

    胸が軋んだ。


 その男が来たとき。
 その姿を見たとき。
 言葉を交わしているうちに。


 心が十数年前の、あの頃に戻ってしまったのだ。どれだけ目を凝らして山を見つめようと、霧はもう色付かない。移っていってしまった光脈は、この同じ場所に戻ることはないのだろう。。

 時はもう戻るはずがないのに、心だけがあのときの想いへと、すとん、と落ちて行くようだった…。


「なぁ…」

 沢はぽつりと言って、目の前の男を見つめる。白い髪に碧い瞳の、忘れようがない姿…。

 あの頃、時折見た、珍しい碧の霧を思い出して、だから彼の心は、過ぎていった過去に戻ったのかもしれなかった。一晩中降り続いた雨のあとなどに、深い緑の山を撫でるように揺れていた淡い翡翠の色の霧。

 そんな髪と瞳を持つ男が、今、沢の目の前にいる。

 あぁ…この男はあれから先、イサザと同じように、流れて流れて生きてきたのだろうか。心一つで歩む道を変え、誰かに指図されることも、縛られることもなく、歩いてきたのだろうか。


「なぁ、あんた…そっちは覚えてないようだが…」

 声が震えた。茶碗を持った指も震えて、注ぎ過ぎた茶が一滴、二滴、畳に零れた。

「俺は、あんたに、会った事がある」
「…へぇ? 悪ぃな、なんだったか」

 覚えていないか。そりゃそうだろう。こんな何処にでもありそうな里一つの、何処にでもいそうな山主の子供だった俺のことなんか。

「…イサザのことは、覚えているか」
「ああ、あんたイサザの知り合いか? あいつなら今も馴染みだぜ」

 今度は間を置かず、明瞭な答え。言い終えてから、その男はゆるりと笑みを深くして、付け足すように言葉を並べた。

「ここの事もあいつに聞いて来たんだよ。そろそろ薬の必要な時期だろう…ってな」

 流れ、流れていくもの同士、彼らは時折会うこともあるのだろう。けれど、イサザはこの里の事を覚えていて、気にしてくれてはいても、立ち寄ったことなど一度もない。

 ここには光脈は、もう無くなってしまったからだ。光脈のない土地に、ワタリは来ない。沢がいても、くる事はない。懐かしいとすら思ってくれていないのか。この蟲師を差し向けたのも、ワタリの仕事でしかないのだろう。

 
 その時、一瞬にして、沢の脳裏にいくつもの記憶が流れる。

 釣り糸をたれた彼に、初めてイサザが話しかけてくれたこと。そのあと、光脈のことを話してくれながら、並んで魚を待ったこと。喧嘩したこと。次の年にはまた山であって、こだわりなく話せたこと。

 そうして、連れて行けと我が侭を言った自分。
 置いていかれた自分…。


 そうだ。今ならば判る。

 連れていって欲しかったのだ。こんなところから連れ出してくれと叫びたかった。お前たちの傍にいさせてくれと。お前たちと共にいたいのだと。俺はそう、イサザに言いたかった…。

 お前と共に、いたいのだと。

 形にもならなかった想いが、こんなにも年月がたった、今になって判るなんて。


 蟲師はぽつりと言った。

「……今も変わらず、やってるよ」
「…そうか」

 言いながら、沢は項垂れた。目が痛むほど熱い涙が、両の瞳に滲んで零れそうだった。涙を堪えながら、息遣いだけになってしまう声で、彼は言った。

「ならいい…それでいい……」

 そうして今度は言いながら顔を上げて、沢はそこから見える山を見つめる。見つめるその目には、もう涙はなく、彼は薄っすらと笑っているようだった。

 過去の思い出の中に、深く、深く、埋めておいたその心。置いていかれた痛みと共に、それは揺さぶり出され、そうしてまた、穏やかな彼の日々の中に、ゆっくりと沈んでいくのだろう。

 遠い過去の事。遠い過去の想い。遠い過去から零れ出てきた、これは、遠い痛みだ。今の痛みじゃない。今の想いじゃない。沢はもう一度心の奥で、同じ言葉を静かに呟いた。

 ……それで、いい…。

  
 蟲師は目を赤くした沢の前で、何も言わず、何も聞かず、淡々と茶をすすり、彼の視線を追うように自分も山へと視線を向けた。白髪の蟲師と、彼との視野いっぱいに、緑濃い山々が横たわる。

涼やかな風が<二人の間へと、柔らかに吹き降ろされていた。

 

 終






確か2007年月、ある企画に参加した時の作品です。
随分昔のものなので、そろそろ自分のサイトにも飾っていいかな、と
そう思ってみたり。
それにしても、なんか恥ずかしい////


07/05/30執筆
11/11/13UP