聲 戀 し こえ こいし 7
ヤドリノシロバナ
老木を好んで憑く。
幼生は膿んだ瘡蓋のように見えて醜く嫌われ、
やがては白い花に似た姿に成長する。
誰にでも見える蟲だが、無理に払われたあとなど、
身を守るために、暫し見えにくい性質に変化する。
憑いていた木の葉や皮などで、光を遮ってやり、
動かさずに暫し置けば、また白花の姿に戻る。
人に害はなく、木を枯らすこともないため、
払わずそのままにして、後の姿を愛でるも良し。
小さな紙片に書かれた雨月の文字を、ギンコは何度も何度も読んだ。害は無い、と見て、瓶のまま化野が愛でるのに任せ、書いてあった蟲払いの代金も、指図どおりの抽斗の底に確かにあるのを検めた。
きっちり、ギンコがあの里人に望んだ代金だ。びた一文とて減ってはいない。行き倒れたギンコを介抱するのに、少なからずの金を使ったろうに、それはやはり雨月の懐から出たのだ。その上、数日数夜、付きっ切り看病まで。ぽつん、とギンコは化野に聞いた。
「雨月、どっちへ行った?」
「ええっと、海の方から来て、こう、こっちの山道を選んで行ったようだが…。どうしてだ?」
「いや、ちゃんと礼を言ってない気がして」
「……まさか今すぐ追いかけるとか、そんなこと言い出すまいな?!」
怒ったように目を吊り上げて、化野がギンコに詰め寄る。雨月はギンコを救ってくれた恩人でもあるが、それとは別に、病で弱っている彼に不埒な行いをした男でもあるのだ。また会うとすれば、化野は穏やかではいられない。
「別に、そういうわけじゃないが…。ほら、その蟲も山に放ってやらなきゃならんし」
「それとあいつの行った方角と、何か関係があるのか?」
「…いや、ないよ」
「なら、あいつの行った方へなんか行くな!」
化野はついガラス瓶を畳の上に放り出した。角瓶とは言えど、ごろりごろりとそれは転がり、段差のある縁側への板の間へ落ちてしまった。慌てて拾ったギンコの見ている前で、蟲は見る間に姿を薄れさせて消えていく。
「粗末に扱うなよ、化野! 生き物なんだぞ!」
「あ、わ…、す、すまん、悪かった」
「…医家のお前が、蟲とは言え命のあるものを、そんな乱暴に」
「悪かったよ、ギンコ」
ギンコは化野が放り出した瓶を、雨月がそうしていたのと同じように、ぴったりとその外側を件の葉で覆い、紙糸を丁寧に巻いてから油紙で元のように包んだ。化野に背中を向けて木箱の奥にしまい込んでいると、そうやって背を向けた姿をどう思ったか、化野の萎れ切った声が聞こえてくる。
「…その蟲、暫し置けば、また見えるようになるんだろう? 後でもう一度見せてはくれんか? お前と共に見られる蟲なんて、そうは居ない。一緒に見たいんだ。その為にも、すぐ発つとか言わず、せめてもう一夜なりと…」
「すぐ発つなんて言ってないだろ」
ぼそりとそう返事してやれば、少しは安堵した化野が、後ろからギンコの背中に触れながら身を寄せてくる。暖かな温もりが心地よくて、ギンコもじっと動かずにいた。
「見え易い蟲だけじゃなくて、どんな蟲もお前と同じに、ちゃんと見えたらなぁ…」
「……」
「そしたら、俺ももっと文献とか取り寄せたり、旅の蟲師に話聞いたりして蟲のことを学んで、お前の助けになれるだろうに…」
「何言ってんだ」
素っ気無い振りして、ギンコは背中を揺すった。身をくっつけた化野は、それでも離れずにギンコの鼓動を聞いていた。詳しい話など、雨月からもギンコからも聞いていないが、それでも彼には分かるのだ。
多分、ギンコが行き倒れたのは、ただの疲れや風邪をこじらせたなどではないだろう。蟲払いに関わって何かがあって、その出来事がギンコを苦しめたのではないかと、そのくらいは想像ができる。そうして、化野の知らぬ間にそんなギンコを助けたのは、ギンコと同じ旅人の同じ蟲師のあの男なのだ。
俺は、なんて頼りにならぬ恋人か。その上、嫉妬や、役にも立たぬ心配なんかで、蟲を粗末にして叱られて。なんて情けない馬鹿な男か、俺は。
「お前は、ちゃんと俺の助けになってるよ」
どこまで化野の想いが分かったのか、ギンコはやっとそれだけを言った。振り向いて化野の顔を見れば、お義理で言ってもらったとでも思っているのか、大の男が拗ねたような顔。しょうがねぇな、とギンコは思う。
「ちょっとばかし似てたあいつの声だけで、お前と思って安心しちまった俺に、これ以上なんか言わせる気か? あんな奴よか…俺はお前がいいんだとか…そういう、その…、そういう…。あー…」
勢い余って言い過ぎて、ギンコの頬が染まってくる。化野は勿論、そんなギンコの顔を見ながら、嬉し過ぎて満面の笑顔だ。傍に居るとお互いに、なにやら気持ちが緩むらしい。
「好きだぞ、ギンコ。……っ!」
化野は小さくそう言って、言った途端に、たまたま庭の向こうからこっちを見ている、近所の子供の顔を見つけて、うろたえたのだった。
なんか、鼻がムズムズしやがるな
内心ではそんなことを呟いて、くしゃみが出そうで出ない不快感に雨月は難しい顔をしていた。その時、彼の目の前に居た里人は、おのれの後ろめたい事情と相俟って、機嫌の悪そうに見える雨月の顔を、おそるおそる見ては顔を伏せたり上げたりしている。
「で、その、あの若い蟲師のお人とは…?」
「勿論、ちゃんと会えたとも。それであんたらのとんでもない非礼を、俺が代わりにしっかりと詫びて、約束の代金と詫び料も手渡したし、なんとか斟酌してしてくれるように言っといてやったがな」
「あぁ、恩に着ます! 蟲師の旦那!」
腰を直角以上に曲げて頭を下げたのは、そこの里長の息子と、その後ろで待っていた里人ら数人だった。
「ま、なんとかなってよかったが、よく知りもせんものを、蟲師の見立て違いだのなんだの難癖つけて、金も払わず追っ払うなんてぇ、愚かな真似は二度とするもんじゃねぇぞ。蟲払いを頼んどいて、報酬を踏み倒して追っ払う里だなんて話が広がったら、あんたら今後何があったって、どの蟲師も助けてはくれんからな。俺が通りがかって事情を聞かなきゃ、どうなっていたものか」
蟲師ってのは、一人で行動してるように見えて、しっかり横の繋がりがあるんだ!
などと、当然のように続けたのは勿論、ハッタリもいいところで。ギンコに渡したと告げた詫び料は、しっかりちゃっかり雨月の懐に…一度は入れたのだが、当のギンコの薬代だのなんだのに殆ど消えたのだ。ばれぬ嘘でもやたらとつくもんじゃない、ということだろうか。
「それとは別に、これはあんたへの礼金だが、受け取ってくれるだろうか? それでなにとぞ、また悪い蟲が出た時には、うまく払ってもらえると…」
腰を低くしたまま差し出した礼金の袋を、ちょっと迷ってから、雨月はしっかりと受け取った。中々重い。このくらい貰っといても、構わんだろう。誰が見ているわけでなし。
ま、今度ギンコに会ったときとか、あの医家のとこを訪ねる時なんかに、土産「話」の一つとして、今日の話をしてやるさ。勿論、受け取った報酬やなんかの話は、言わずに伏せたままでおく。
そうしてきちりと告げるのは、里人が間違いを認めて、お前に悪かったと言ってたことや、自分たちからちゃんと金を払いたいと言ったということなんかかな。多少事実と違っても。
また鼻がムズムズして、今度こそ大きなクシャミが出た。凄みを利かせていたせいか、クシャミひとつにも震え上がる里人らに、雨月は必死で笑いを堪えた。
ほら見ろ。こんな根無し草の生き様だって、こうして面白いこともある。いつでもふらふらと野に生きていても、俺の人生は、意外に悪くない人生だ。
雨月は、自分を恋人と間違えて、甘えてきたギンコの顔や姿を思い出していた。赤の他人の傍で安心し切って、あんな顔して見せられる人生は、悪い人生なんかである筈がない。
気付いてるかどうだか知らんが、
お前の人生だって、中々いい人生だろう?
羨ましいくらいだよ、なぁ、ギンコ。
里人らに背を向けて、雨月は歩き出した。懐の重たい袋の中身で、今夜はいい酒の一つも飲んで、久々に屋根のあるとこへ泊まるのもいい。満ち足りて居すぎないことが、些細ないいことを楽しむ秘訣なんだと、お前はもう知っているだろうか。
ギンコの持つのとそっくり同じな木箱を背負い、雨月の姿は日の当たる林の中を、ゆっくり歩いていくのだった。
終
あ、執筆する順番間違えた。まぁ、いいや。なんとなく奇妙な話になりましたが、この雨月さんという人は気に入りました。また別の話に出てきたりなんかしたら、ああ!あの!とか思い出してやってもらえると、きっと彼当人も喜びます。
払わんでいい綺麗な蟲を払っちゃったりしている、うっかり間違いのギンコも、たまにはいいかしら…とか思ったりしていますが、蟲の設定が完全に後付けなので、こういう羽目になったという事実は、しーっ、内緒ですよっ。←オイ
随分鼻がムズムズしている雨月ですが、ギンコと化野はどんな話を蒸し返しているやら、ですね。ではでは、読んでくださりありがとうございましたっ。明日もきっとなんか書く、かも。
12/01/02