つがい の とり ・ 3





 海辺。

化野の見ている前で、蒼の鷺は飛び立った。そうしてそこから見える高い木の上にとまり、じっとある方向を見ている。もう何度もあの鷺を見たが、鷺はいつも同じ行動をするのだ。毎日毎日、決められてあることのように。

 だから今日も、山の木々の向こうから現れ、海辺でしばし佇み、そうして木の上で南の方を眺め、夕には山の中へと消える。何をしているんだろう。何を見ているんだろう。何かを、待って、いるのだろうか。

 あぁ、まるで、俺のようじゃあないか。
 いつ来るか判らないギンコを、ただ黙って待っている俺。

 今日は淡い海風に髪をなぶらせて、じっと鷺を見ていた化野は、鷺が少し奇妙な行動をとっているのに気付いた。木の上にいるままで彼の方を向いて、綺麗な灰色の首を小さく前へ曲げて。

 くるる、るる る

 美しい声が零れた。そうして鳴きながら、まるで願いを聞いて欲しがるように、また首を前へ。

「なんだ…? ついて来いと、言っているのか?」

 化野が呟くと、鷺にその声が聞こえ、さらに意味まで判っているように、大きな翼を羽ばたかせる。

「うん。やっぱりそうか。いいぞ、少しなら付き合おう。ギンコが来るかも知れんから、そう長々と家を留守には出来ん。ほんの少しだけでいいならな」

 鳥と会話しているつもりになって、化野は歩き出した。鷺は木の枝からゆっくりと飛び立ち、いつも飛んでいくのとは逆の方向へ、南の方へと飛んでいく。空をゆく鷺と、山の中を進む化野。普通ならついていけるはずも無いが、鳥はそれまで判っているふうに、時折枝にとまり、地面に舞い降りて、化野が追いついてくるのを待った。

 ふぅはぁ、と、うっすら汗までかいて息を切らして、化野は一心に鷺の後をついていく。そうして半時もたった頃だろうか。唐突に、木々の向こう側の視野が開けた。化野は立ち尽くし、言葉を失ってその風景に見惚れてしまう。

 まるで大きな鏡が、そこにあるようだった。ほんの少しの揺らぎさえない、美しい沼。もう一つの天空をそのままそこに広げたように、雲が、光が、空のすべてが映し出されている。その空を縁取って、ぐるりと白樺の白い幹や枝が映っていて、そこにあの鷺が、ゆっくりと羽ばたきながら舞い降りていく。

 波紋がそこから広がって、映っている空や木々の姿は揺らぐ、と、そう思ったのに、水はひとつも揺らがない。そして鷺の姿も、水には映っていなかった。

「これは…どういうことだ……。俺は夢を、見ているのか?」

 思わず呟いた化野は、小さな羽ばたきを聞いて顔を上げる。そろそろ夕に差し掛かる淡く青い空の遠くから、真っ白な、雪のように真っ白な一羽の鷺が、こちらへ向かって飛んでくるのだ。

「……ギンコ」

 言ってしまってから苦笑する。ギンコな筈が無いじゃないか。あんなに白くて綺麗でも、あれは鷺だ。人ではなくて鳥なのだ。だからこの蒼の鷺が待つ相手だったとしても、俺の待ってるあいつじゃない。

 蒼の鷺はそちらへ向けて首を高くもたげ、今までとは違う声で、酷く慕わしげに、ひとつ、鳴き声をあげる。

「そうか…。お前、あの白い鷺を待ってたのか? よかったなぁ。ずっと待ってたんだものな。本当によかったなぁ…」

 しんみりと言って、化野は傍らの繁みの中の、一個の岩の上に腰を下ろす。白い鷺は、真っ直ぐに蒼鷺を目指して飛んできて、同じように沼へと降り立った。やはり波紋は生まれない。水面に姿も映らない。まるで命のありかたが違っているように。

 ほぅ…と、静かに溜息ついて、化野は対の鳥たちの姿に見惚れた。

 今や「ふたり」は寄り添うように、そっと華奢なその形を近付けている。蒼の鷺がひとつ鳴けば、白の鷺は、小さな黒い瞳を閉じて嘴を微かに開き、まるで悦びに震えているように見えるのだ。そうして白の鷺が、その美しい首をもう「ひとり」の首へとすり寄せれば、蒼鷺が片翼を広げてそれを受け止めるような仕草をする。 

 互いに幾度かずつ交互に鳴いて、翼を広げ合い、細い綺麗な脚で舞うように波紋のない水面を歩き、少し離れてはまた近寄り、嬉しそうに視線を絡め…。

 満ち足りて、一生のうちの、一番幸せな時を「ふたり」が生きているように、化野には思えた。羨ましさに、少し涙ぐんでしまう。

 ギンコ ギンコ… 何処にいるんだ、俺のお前よ。

「ギンコ…」

 無意識に呟いた声を、その名前の主が聞いているとは、化野も知らなかった。そうしてまたギンコも、自分の名を呼ぶものが、そこにいるとは知らなかった。

「あ、化野…。…っ…」

 ガサ、とすぐ傍で草が揺れた。視線をやると、そこには待ち望んだ姿がある。化野は繁みの中で立ち上がり、大声でギンコの名を呼びそうになってしまう。

「ギ…!」
「…し…ッ。駄目だ、今は黙っててくれ。ツガイドリが」

 ツガイドリ、とギンコは言う。懐かしい声で。半年ももう、化野が聞いていなかった声で。もう聞けないんじゃないかと、そう思い始めていた、その声で。

「…邪魔しないようにしてくれ。ツガイドリが、やっと対の相手に会えたんだ」

 ツガイドリ。鷺じゃないのか…?と、化野は思い、それでもギンコが自分の傍に身を屈めて、肩が触れるほど傍にいてくれるのが嬉しかった。肩だけじゃなく、髪のひとすじひとすじが見えるほど。息遣いの一つずつが判るほど。少し大きなその鼓動が、聞こえてくるほどに。

「ツガイドリ…って、いうのか…?」
「…あぁ、そうだ。鷺そっくりだが、あれは蟲だよ。でも、あれらは…もう」
「…もう…?」
「見ていていれば、判る。…ほら」

 ギンコはずっと真っ直ぐに、鳥たちを見つめている。自分の方は見ずにいるのを、少し寂しく思いながら、化野も鷺へと視線を戻した。あたりの空気が少し白い気がする。霧が出てきている、とそう思ったのだが、そうではなかった。

 真白の鷺と、蒼の鷺と、そのどちらもが、淡く、淡く姿を滲ませていたのだ。寄り添い合い首をすり寄せ、互いの体を抱くようにゆっくりと翼をはばたかせ「ふたり」は…「つがい」は、どちらも微かに上を向き。嘴をすこぅし、開いた、その時、だった。

 美しい、つがいの姿が、不意に、ほどけた。

 消えたのではない。砕けたのでもない。ほどけた、というのが一番似合う。二人が見ていたその美しい沼に、もう、鷺たちの姿は無かった。波紋が、ひとつ、ふたつ生まれたが、それは沼に住む魚のせいだろう。

 ただ、その波紋が大きく、大きく広がって、やがては消えてしまった時、空がその、沼の大鏡に映し出された。空はいつの間にか、淡い赤に染まる夕の色。そこに広がる、美しい優しい紅色の雲は、一対の、翼の形をしていたのだ。

「ど、どこへ行ったんだ、鷺たちは」
「鷺じゃない。蟲だと言っただろう…」
「じゃあ、その蟲は? 『ツガイドリ』は、どこへ…?」

 もう、判っているだろう?と、そう言いたげに、ギンコは視線を上へと上げた。化野はさっきも見ていた空を見上げ、その空いっぱいに広々と、のびやかに広がった夕雲を見た。

「雲になった、と言ってもいいが。消えたんだ。二羽はもう会えたから、寿命が尽きた。元々、そういう蟲なんだよ。出会うために、最北と最南に離れて生まれ、出会う為に一生涯、旅を続ける。そうして出会ってすぐに、死んでしまう」

 旅をするものに力を借りて、白鷺は北を、蒼鷺は南を目指す。もしも別の方角へ進めば、その姿は崩れて消えてしまうというが、もう一つ、別の答えがある。

 ある昔の蟲師が、ツガイドリの一羽を捕らえて閉じ込めたという。

 その鳥はすぐに死んでしまうかと思ったが、そうではなく、そのまま大きな籠の中で、何年も生きていたというのだ。ただしその鳥は項垂れて、ずっと自分の足元ばかりを見てすごし、澄んだ声で鳴くことも、美しい翼ではばたくことも、二度とはなかったと。

 死んだあとは崩れて黒く濁った砂になり、その砂は、見ている前ですぐに消えてしまったということだ。

 それでも、そんな不自由な命でも。出会う為に生まれ、出会ってしまえば満ち足りて…。ギンコはもう一度、ツガイドリのことを考えて、やはり思った。羨ましい、俺は化野と対の、ツガイドリになりたい。

「あぁ、消えちまったのか…。そうか、儚いなぁ。…でも」

 綺麗だったと、言うのだろうか。もっと見ていたかったと、言う気だろうか。短い沈黙のあと、化野は変に揺らぐ声で言ったのだ。

「でも、あの雲、幸せそうな形じゃあないか。寄り添って、抱き合って、そのまま空に融けていくんだろう。俺はこの里で、蒼い鷺をずっと見ていたが、白鷲を待つ間のあんな目を、俺もきっと、いつもしてるんだ。そうして今は、あのつがいの鳥たちのように、幸せだ」

 お前をいつも、待っていて、今は傍にこうして、お前がいるんだから。

「俺は…っ…」

 言おうとした言葉は、怖くてどうしても、言えなかった。ギンコは化野の傍らで、じっと空を見上げ、その視野の隅に化野の顔を見て、言えなかった言葉を心で呟いた。



 俺はいつか、お前の里を滅ぼすかも知れん。

   … それは困るな。でも、滅ぼさないかもしれんだろ?

 寄せた蟲のせいで、お前を死なすかも知れんぞ。

   … そうかもなぁ。でも、ふたり寄り添ったせいでなら、本望だ。

 こんな俺を、お前はきっと嫌になるだろう。

   … 馬鹿を言え。運命の絆に結ばれた相手を、俺がどうして。

 でも、俺はお前を死なせたくない。

   … お前に会えなくなるくらいなら、死ぬ方が楽だぞ。

 なのに、こんなにお前のことが、好きなんだ。

   … 知ってるさ。俺もそうなんだが、知ってたか?


 
 言えない言葉たち。そうしてただの想像の中の、化野からの返事。だけれどそれが、彼の本心だと、不思議と判る。怖いくらいの確信もある。

「あだし…っ…。ん…」

 抱き寄せられて、唇の自由が無くなった。中々戻らないその自由を、やっと返してもらった頃、空の一番星が、もう沼の上に一つぽつりと、映っていた。勿論もう、あの鷺の姿の蟲たちの、名残の翼の雲は消えている。

「約束してくれ」

 そう、化野は言った。暗がりでじっと空を見上げたまま、澄んだ目をして短く、だけれど怖いほど饒舌な声で。

「俺に会いたい気持ちが、お前に欠片でもあるのなら、これから先もずっとここに、会いに来るということを」
「…そんなのは」
「でないと、蔵に閉じ込めちまうぞ」
 手枷をつけて、あの蔵の柱に繋いでしまいたい。それほど好きで、好きで、本当にお前のことを、好きだから。

 ギンコは返事をしなかった。声が出なくて、何も言えなかったのだ。それでも化野には何かが聞こえたのだろう。彼は間近で、にこり、と笑い、短く一言

「そうか」

 と、言って、今度は首筋に口づけをする。もう消えてしまったツガイドリたちの、あの幸せそうな羽ばたきの音が、どこからか聞こえている気がした。
















予想していた通りに、三話で終わりましたが、内容は随分予想と違っていたような…。でもまぁ、そんなこともいつもどおり! 多忙のゆえか、書きながらちょっと気が散りましたが、好きな出来上がりになって、満足でございますよー。

 J様、ありがとうございます。最近も鷺さまの写真を拝ませて頂いてて、うっとりしている私でしたー。ありがとうございますっ。ありがとうございますっっ。あー、年内、あと一つくらい何か書けるかなぁ。とか呟きつつ…。


08/12/08