しろねず草
唐突に、足首の力が抜けて、ギンコはその場に座り込みそうになった。踵から膝へ向けて、鋭い痛みが走ったのだ。そうして今も、そこは少し痺れている。
「…う、痛ぇ。ひねった、か…?」
恐る恐る歩いてみると、痛みは軽いが足全体から力が抜けるようで、片脚を引き摺るようにしか歩けない。そうなると背中の木箱は酷く重く感じられて、仕方なくギンコはそこに腰を下ろした。
靴をはいたままで、片膝の上に痛む足をのせ、指で踵や足首をもんでみる。それから立ち上がると、痛みは薄れていて歩けたが、さらに一時間も行ったら、またさっきと同じ痛み。座って、足首と踵を揉んで、彼はまた立ち上がって歩く。
立ち止まって休むわけにはいかない。日のあるうちは歩き続けて、居場所を変え続けなければ、彼に付いた蟲が、その場に散ってそこで激しい繁殖を始めてしまうからだ。
白鼠草(しろねずくさ)というその蟲は、見た目はシロツメクサに似ていて可愛らしい。だが、山だの森だの草わらだの、植物の育ちやすい環境にひとたび居座ると、短時間で異常に増え続け、一晩でそこを埋め尽くしてしまう。そうしてそこに元々あった草花を枯らせてしまうのだ。
人についている間は増えないが、その人間が、半日も一箇所にい続けると、その体から離れて大地へと居付く。
だから、ギンコはもう三ヶ月、一つところにいられずに、移動し続けて疲れ切っているのだ。夜は横になって休むが、それもあまりゆっくりは寝られない。白鼠草が自分から離れて、土に散ってしまわないよう、夜明け前に起きて歩き出す。
「まずい…。が、脚を止めるわけにもいかんか」
足からまた力が抜ける。よろめいて傍らの木の幹に肩をぶつけ、その痛みに眉をしかめながらも、足の方の痛みも騙し騙し、またギンコは歩き出す。
蟲に因る害を食い止める。もしくはその害を最小限にする為に行動する。それが彼の仕事だ、辛くとも。
あだしの…。
ふと、顔が思い浮かんだ。
そういえば、この先をいけばあいつのいる里だったな。
海の傍だから草も木も無い岩場があるな。
そこでなら少し、休める…か。
甘えだな、と判ってはいるが、痛む足は化野の住む里へと既に方向を決めている。そこまで行くには緩い斜面の山が一つ。休まず行けば、夕までにはつける。
ギンコは気持ちを励まして、一つ、膝や足首をさすると、いつも以上に重く感じる木箱を背負い直し、一心に歩き続けるのだった。
*** *** ***
また足首から力が抜けた。もう何度目か覚えてもいない。よろ、と足がもつれて、傍らの岩に手を置いたまま、ギンコはその場に座り込んでしまった。
くそ、もう少しだってのに。
ついつい、悪態が言葉になる。その言葉を潮風がさらっていく。もう少し歩ければ…。里を横切って、なんとかあの坂を登れば、化野の顔が見られるのに。声が聞けるのに。抱き締めて、もらえる…のに…。
ギンコ、お前、怪我してんのか…っ!と、あいつは言うだろう。怒ったような声を出し、叱るような言葉で、それでも優しい腕で、支えてくれるだろうに。
「ギンコ…っ!」
そうそう、こういうふうにだ。
「お前、どうしたんだ。怪我してんのかっ!?」
怒ったように。
「まったくお前はっ、また無茶したんだろう…っ、この馬鹿が!」
叱るような言葉で。…え?
気付けば、幻ではなく、本当の化野が自分を抱かかえてくれている。ずっと恋しくて、浅く眠るたびに見続けた夢ではなくて。
「あ、あだしの…?」
「ん? 疲れてるのか…? もう大丈夫だぞ。さ、力を抜け。俺が支えてるから、な?」
優しい声を耳朶に直接注がれて、ギンコは言われるまま力を抜いた。肩で寄りかかるようにして、黙って項垂れて、気付けば痛む方の足の、靴を脱がされている。
「…汚い、だろ…」
当然、風呂上りというわけじゃない。歩き通してきて、体を拭いてもいない。汗だくで、服も埃まみれ、靴なんか泥やら何やら付いたままだ。
「気にすんな」
「いや、そう言われても…ほんとに…」
「どうだって、お前は汚くなんかないよ」
ギンコは腫れた足首を撫でさすられ、念入りに診られて。往診帰りの化野は、医療道具の入った箱から、布きれを取り出し、そこに何か軟膏を塗りつけて、ギンコの足首にそっと当ててくれる。ひいやりとして、気持ちがいい。このまま、目を閉じていたくなる。
そうだよな…。
自分は…疲れているんだ、とても。
そう思ってさらに体の力を抜くが、はた、と蟲の事を思い出してギンコは慌てる。
「…あ、白鼠草…っ」
「なんだ? 蟲か? なら俺には見えんか」
ギンコの上着のポケットから、零れ落ちそうになっている、数本の白い花。シロツメクサそっくりの、小さくて可愛い花。それがギンコの見ている前で、薄紅に、アカツメクサに似た色に染まって、枯れ落ちて、ぱらぱらと岩の上に零れた。
潮風で弱ったのか、それとも丁度、寿命が来たのか。それは判らないけれど、とりあえず、ギンコはこのまま歩き通しでいなくていい、という事だ。
「化野…」
「ん? 眠そうだな…。眠りたいか? 疲れているんだろ?」
「…あぁ、少し、眠り…たい」
「あー…。うん。ま、いいさ」
もしや、誰かに見られるかも、しれんがな。
化野はちょっと困ったように笑って、それでもギンコのもう片方の靴を脱がせ、木箱を下ろさせて、その体を自分の胸へと抱き寄せた。もう夕暮れも終り、夜が来る。漁師らも、畑仕事の里人らも、暗くなればあまり出歩かない。
だから、まぁ、いいさ、ギンコ。抱いててやるから、少し眠るといい。
きっとまたシロネズクサとやらの為に、疲れ切っているのだろ。
それがお前の仕事と、判っちゃいるが、
時々その、お前の厄介な辛い生業が、どうしようもなく
腹立たしいがな、俺は。
化野は岩の上に散った、薄赤い花弁が、その蟲であるのだろう欠片が、潮風に崩れて消え去るのを見た気がした。
吹いている潮風は、ささやかで優しい。涼しいが寒くはなくて。波音も静かで穏やかだ。やがてはきらきらと星が空に瞬くだろう。そんなのも時には悪くない。
そうだ。二人して、もしも風邪でもひいたなら、並べて布団でも敷いて横になり、お前のしてくれる蟲話を聞いて、お前の寝顔を飽きるほど見るさ。それも珍しくて一興だ。そんな逢瀬も、いいだろう。
ざざん、とすぐ傍で波が鳴った。ひゅるり、と海風が波の上を撫でている。空が段々と暗くなり、一番星を見つけた。続いて二番星も、三番目の星も。誰も通らない。誰も二人の邪魔をしない。
満月でなくて良かった。
そっと口づけて、化野は思うのだ。
細い月の方が、眩しくなくて、お前もゆっくり眠れるからな。
終
ギンコの足の痛み方が、ちょっとリアル。何しろ、私の昨日の状況と少しだけ似せて書いたからねぇ。笑。そうです。ちょっと肩もぶつけました。あ、でもここまで辛くはないですよっ。
足痛くなっても、それを利用してノベル書く惑い星です。私はそりゃ、化野先生には癒して貰えなかったけどー。でも整体の○○先生にはマッサージしてもらったし。
惑い星、作中ではギンコになったつもり。そして愛する化野先生に、心込めて治療して貰えたつもりー。なごみなごーみー。あっ、今日は私の足は痛まなかったですっ。昨日の整体がよかったかしらー。
蟲の名前は白鼠草。鼠のように繁殖力が凄い蟲だってのと、シロツメクサからもじった名前でした。安直ぅ〜。わはは。
08/09/07