雪 原 相 思  … 後



 まだ、空に光の欠片もない明け方前。気付けば風の音は無かった。いつも聞こえる波の音も、木々の葉がすれる微かな音も。

 ギンコはゆっくりと身を起こして、何も纏わぬ体に、いつもの衣服を着ける。傍らに用意した木箱を、右肩に担いで、音を立てないように立ち上がり、そっと化野の方を窺う。

 化野はギンコに背中を向けて、うずくまるようにして眠っていた。淋しげな顔をして、その背を眺め、布団から出ている肩を…そして寝乱れた黒髪を見つめる。

「…じゃあ…な」

 ギンコはそれだけを言って、化野の家を出た。戸を開けると、想像していた通りの一面の白。一晩、音も無く降り続いた雪が、すべてを白に包み込んでいる。

 吹雪いてはいない。雪も今は降っていない。風が出るのは、天詠みが示した通りに今晩からなのだろう。色も音も無い世界に、一歩を踏み出すと、足下で細く雪の鳴く声がして、それを繰り返し聞きながら、ギンコは段々と化野の家を遠ざかった。

「…ギ、ギンコ…っ」

 遠くから声がして振り向けば、白ばかりを映していたギンコの瞳に、必死で走ってくる化野の姿が見える。寝巻きも脱がず、その上にいつもの着物を雑に身に付けただけの恰好で、裸足に、それでも雪駄。

「送りはいらんと言っただろ」
「……」

 言う言葉も見つからず、ただ息を切らして必死の顔で、化野はギンコを見つめている。そんな彼からふい、と視線を逸らし、ギンコはまた歩き出した。

 その覚束ないような足取りは、昨夜から今朝にかけて強いられた、荒い行いのせい。後悔は、後からするものに決っているが、それでも何故、あんな非道いことを、と、化野は無言で自分を責めていた。

「…すまん。夕べは、あんな……」
 
 追いすがるようにして言えば、ギンコはゆっくりと雪を踏みしめながら、歩みと同じ速さで、ぽつり、ぽつり、と呟いた。

「謝られるような…ことじゃぁない…。言えば、ああなると判っていた。それにな」

 ぎゅ、と雪の音を鳴らして、ギンコは一度足を止める。

「旅に出て行く俺を、お前があれほど引き止めたいのかと思えば、それも、俺は嬉しいしな…」

 あんな事をされて、泣き叫んで声を枯らすほどなのに。

 今も足がふら付いて、何度も転びそうになっているのに、それでも、そんなにされるほどの激情が嬉しい。去ると聞いて、理性もかなぐり捨てる、化野のその思いの強さが、目の眩むほど幸福だ。

 思う傍から、膝の力が抜けて、ギンコはその場に転びそうになる。化野はそんな彼に手を差し伸べ、その片手をしっかりと握った。

 そして、自分の家から遠ざかる方向に、彼の手を引いて歩き、その内に海を見下ろせる場所に出る。顔を上げて見つめた視線の先は、いつもならば揺らぎ続ける海なのに、今日は何処までも白く、白く、白いばかりの光景。

 雪の斜面から続けて、そこはまるで、ずっと見渡す限りの大地になってしまったような…。広い海原を多い尽くして立ち上る白い霧。

「…このまま、ずうっと…歩いて行けそうだ。なぁ…ギンコ」


 行けぬ筈の場所に行く願い。
 傍にいたいものの手を、こんなふうに握り、
 そのまま二人、離れずに歩いていけたら、どんなにか…。


「『けあらし』か…」

 あれは海だ。歩いて行ける陸地じゃあない。そうきっぱりと告げるようなギンコの言葉。それは温かな水面が、ぴんと冷えた朝の空気に触れて、濃い霧のように白く蒸発する「けあらし」。

 その証拠に、山の向こうから上ってくる太陽の光が、一気にその白い霧を照らすと「けあらし」は幻のように姿を消してしまうのだ。代わりに銀色に光り輝く、静かな海原が現れる。

「…お前、もう戻って寝なおせよ。そんな半端な恰好できちまって、風邪をひくだろう」

 子供に言うようにそう告げて、ギンコの方から繋がれた手をもぎ離そうとする。化野は意地になったように指に力を入れ、その手を自分の方に引っ張って、彼の右手の親指の付け根に噛み付いた。

 噛み跡がつくほど噛んでから、するりとほどけた彼の手の温もりが、痛いほどに熱い。

「今度、いつ来るんだ…?」
「…まぁ…そのうちにな」

 そんな言葉を最後にして、向けられた背中は、呆気ないほどすぐに遠くなる。踏み締められて、足跡が新しく付くたびに、雪は、細い声で鳴いていた。

 一つ足が進むごと、鳴き続ける雪。ぽつり、ぽつりと残される足跡。化野は、一人分だけ続いていくその足跡を、じっと眺めて、やがては自分も帰路についた。

 家へ戻る道を、来たのと同じに辿って戻ると、足元には自分とギンコの足跡が残っている。傍らでそれを眺めるようにして、一歩、一歩、歩いていく。ギンコが歩いていくのと同じに、やはり雪は鳴き声を上げた。

 鳴いているのは雪。ならば、心で泣いているのは自分だと、化野は淡々と思う。昨日、あんなに肌を重ねたのに、その温もりを思い出すことが出来ない。

 その代わりに、ついさっき告げられたギンコの言葉は、胸の奥でまだ熱かった。
  
  旅に出て行く俺を、
  お前があれほど引き止めたいのかと思えば、
  俺は嬉しい…

 翌朝には発つといきなり言われて、俺があんなに辛かったのに、そんな俺の態度を喜んでいただなんて、酷過ぎるだろうが…お前。

 泣き笑いの顔で見つめる、二人分の足跡が、ふいにくしゃりと乱れて揺れた。項垂れた化野の瞳からは、涙の雫が幾つも零れていた。


*** *** ***


 そうしてその頃、ギンコは歩きながら、上着のポケットから天詠みの入った瓶を取り出して空にかざす。蓋を開け、勾玉の形のその蟲を手のひらに転がし、無造作に空へと放る。

 ちかり、と光って、それは何処かへと消え失せた。

「手ぇ貸して貰って、すまんな…」

 呟いた言葉は、天詠みに向けて告げられた侘び。瓶に閉じ込めて持ち運んでまで、化野の家に持っていき、天気の荒れる日でも先読みしなければ、春まででも居座りたくなると判っていたから。

 寒さの厳しい冬は、いつもよりずっと、あの男の傍を離れ難くて困る。ならば春を待ってからいけばいいものを、会いたい思いは、遠い春など待てなくさせるのだ。

 ギンコは自分のつけた一筋の足跡を振り返って、化野がつけた手のひらの噛み跡に、そっと唇を寄せた。

「痛ぇ…」

 夕べのような非道い所業も、さっきこの手に付けた噛み跡も、想えばこそと知っているから、叫んでも泣いても、例え血が流れても、それでも甘く優しいと、ギンコには思えるのだった。

 そしてギンコは、果てのない旅の中へと、また歩き出す。化野と出会い、時折帰るあたたかな場所を得て、さらに厳しく辛くなった旅。襟に巻いた布を、きっちりと掻き合わせて、ギンコは一人の道を行く。

 足跡が増えるごと、その足の下では雪が鳴いている。

 心の奥では、去りたくないと、ギンコの魂が泣いている…。



                                 終
 









  
 実はこのノベル、キーワード「真っ白な雪に残る足跡を見て」で、書いて見ましたが…。えぇーーっ。そんなん、雪の足跡なんてっ、ラスト近くにしか出てないじゃんっ。お前なぁ!

 す、すみません。せめて自分で突っ込んでみました…。

 頂いたキーワードの事を考えて考えて考えて出来たストーリーなのに、なんでこうなるのかって…惑い星がダメダメだからであって、しくしく。

 はーい! これはもこ様の51000キリ番リクエストのノベルでございますので、どっか欠片の方、隅っこの方の一文なりと、気に入って貰えるところがあれば嬉しいです。

 キリ番、踏んでくださり、ありがとうございましたー。深々とぺこり。


07/03/21
.