さびしがりやの花     後



 子供らを後ろに引き連れ、壊れた垣根を跨ぎ越しながら、ギンコは化野に聞いた。

「ところでお前は、診たことあるのか? いや、当ててみせるが、ここのじいさんとやらの事、見たことすらないだろう」
「…あぁ、まあ。年老いたじいさん一人住んでるって聞いて、訪ねてきてみたこともあるんだが、どういうわけか来る度留守でな」

 それで来るのをやめてしまった自分を悔いてか、化野の声の元気が薄れて行く。ギンコは笑って、さっきまで自分がされいてたように、ほんの一瞬だけ化野の手首を掴んで引いた。

 庭へ入って行くと、その広くなった真ん中に、女がひとり、ぽつんと立って家を見ていた。彼女の記憶の中の家よりもずっと、今、目の前に見える家は朽ちている。まるで十年もの時が、知らぬ間に立っていたとでも言うようだ。

 そんな母親を守るように、二人の小さな子供は、彼女の両脇にぴたりと身を寄せる。

「お前たち…あぁ、飴貰ったのかい。よかったねぇ」

 しゃがんで子供らを抱き寄せ、そのままの恰好で母親は化野に頭を下げた。

「先生にも、お礼を言いに行こうと思ってたんです。いろいろと、私も子供らもお世話になって…。ありがとうございました」
「いや、何。俺は何度かしか診てないよ。三人とも、大病一つしなかったろう。だが、ここのじいさんには…毎日子供ら見ててもらってたんだって…?」

 化野が言うと、女はさらに項垂れて。

「そうなんです。なのに、私、まだ一言のお礼も…お別れも…」
「お別れ…? どこかへ、行かれるんですか」

 ギンコがそう聞く。顔を上げて、彼女は隣の里へ越すことを、一言二言で言った。それを聞き終えて、ギンコは庭のぐるりを見渡して、そうして何も無さそうな一点に目をとめる。

「あぁ、あそこにいる…。やはり、蟲だな」
「蟲……」

 ギンコの視線の先を、化野も母親も子供らも見るが、そこには壊れた垣根があるばかり。ギンコはそこへ行って膝をついて、色あせた竹垣を両手で掻き分け…。

 そこには、小さな白い花が咲いていた。花だけではなく、茎も葉も、透き通るように白い美しい花だった。幾重にも花弁を重ねて、その一枚ずつが、白くて、一瞬青いのかと思うほど、本当に真っ白くて、見ている者は皆息を飲む。

「…こりゃぁ、綺麗だ。余程いい思い出を重ねたらしい…」

 でも、もう寿命は過ぎてる。と、ギンコは口の中でだけそう言った。長くて三年程度の命の筈を、五年、六年と、この蟲は生きてきた。きっとこの庭で、毎日朝な夕なに、子供らと母親の声を聞きながら。

 気付けばそろそろ夕暮れ時、ギンコの目の前で、その花は白い花弁に、そっと夕暮れの赤色を重ねていく。

「もしや、今時分、あんたは子供ら迎えにきてたのかい?」

 ギンコは静かに問う。母親が頷くと、ギンコは子供の鞠を借りて、それを、ぽぉんと庭の真ん中へ放った。

「そら、お前ら、今日は日が沈むまで遊ぶといい。今日でこの庭とも、じいさんともお別れなんだしな」

 子供は無邪気に駆け出していって、鞠を蹴ったり放ったり。ギンコと化野と若い母親は、夕暮れの赤色を浴びながら、楽しそうな子供の赤い頬を眺めていた。

 その風景の向こう。古びて朽ちそうな縁側に、いつの間にか小さな、人の良さそうな、白髪に白い髭の老人の姿。いつもと同じ場所に、ほんの少しも違わない恰好で腰を下ろして。

 あぁ…。

 と、母親は息をつき、言葉も無く深く頭を下げ、それから震える声で、やっと、こう言った。

 ありがとう ございました
 私も 子供らも 忘れません
 おじいさんも ずっと お元気で

 深く下げた頭を、母親が上げたとき、山の向こうに日が隠れていった。名残の夕焼けも消えて行く中、縁側の老人の姿も薄れて消えて行く。子供らのはしゃいだ笑い声は、まだ庭に響いている。

 そうして、ギンコの傍らの花も、ゆっくりと揺らいで…消えた。


 *** *** ***


「あんな蟲も、いるんだな…」

 家へと並んで歩きながら、化野はギンコにそう聞いた。

「あぁ…。結構珍しいけどな。それに、あんなに長生きなのは俺も初めて見たよ」

 想われ、必要とされて、毎日朝な夕な、声を掛けられて、だからあんなに生きたのだ、とギンコは嬉しそうに笑って言う。もう消えたが、さぞ満足だったろう、とさらに笑みを深める。

 化野はそれを聞いて、じっとギンコの手を眺める。歩いているので、前に後ろにと、ゆらゆら揺れている右の手を。

「俺も、ギンコ」
「…ん?」
「毎日、朝な夕なに想ってるぞ、だから、長生きしてくれ」

 決まった寿命なんぞあるか知らんが、あるならそれの倍も、三倍も生きておれ、と無茶を言い、彼はギンコの右手を捕まえる。人を年寄りのように言うな、と怒りながら、ギンコは化野の手を振り解かずに、そのままいつもの坂を上った。

 空にはそろそろ、星が瞬き出している。もうじき月も見えるだろう。

「腹が減ったぞ」

 ギンコが言うと、化野は困ったように笑って言った。

「だろうな。何も用意してないけどな」




                                    終







 こんな話が出ました。衝動書き、というやつか。連載の続きはどうした? すいません後日…。拍手ノベルの続きはどうした? すいません、それも後日…。どうしても、今日これ書きたかったんです。

 いつもきてくださる皆様へ、惑い星より愛込めて!


2008/3/10