流滴の言(るてきのげん)





 りろん
      ろろん
             りろろろろ……ん…



 夢の音だろうか。耳に微かに音色が響く。
 あぁ、そうだ。
 これは、いつかどこかで聞いた水禽窟の音だろう。
 どこでだったか、覚えていないが…。



 化野が目覚めると、傍らにはもうギンコはいなかった。身を起こして、隣の部屋へ視線をやり、やっとその姿を見つける。木箱を傍らに引き寄せて、小さくまとめた上着を横に置き、旅に発つ前の最後の支度なのだろう。

「ギンコ…」
「…ん? 目が覚めたのか?」
「なぁ、もう一晩くらい、いいだろう」
「……駄目だ、予定通りに発つ」

 どうしたことか、化野の心に、ふと、苛立ちがくる。

 お前、本当はなんとも想っていないんじゃないのか、俺のことなんか。もしも俺がお前なら、年に何度かしか会えない暮らしは、辛くて辛くてどうしようもないよ。それくらい想っているよ。
 
 沈む心で化野がそう考えれば、心が聞こえたわけではないだろうに、ギンコは目をこちらへ向けて、少し怒ったような顔をする。

「お前、発つと告げた前の晩に、しつこいのは何とかならんもんかね。歩くのも辛いぞ、こんなんじゃぁ」

 本当に、攻めるようなその言い方に、化野の方も言葉に棘が出来る。

「会えなくなると思えば、しつこくしたくもなる。判らないのか、俺の気持ちが」
「判りたくもないが」
「…なに…っ?」

 気付けば、化野はギンコの体に圧し掛かっていた。火の無い囲炉裏の傍、硬い板の張られた床で、彼の着ている服の襟を、乱暴な仕草で押し開く。驚いて、目を見開いたギンコが、口づけも愛撫も拒む仕草で、体と体の間に腕を置いて抗った。

「お前、本当は俺なぞ嫌いなんじゃないのか。いつもいつも、悲鳴上げるほど攻められて、嫌がったって許してもくれず…」

 声が震えている。ギンコの声が。その唇も、抗う指も。

「…男が、な、男に抱かれて、毎度毎度、女のようによがって泣いて、悲鳴上げてイかされて…。どんな気分か、考えたこと、一度くらいあるのか?!」

 心に、鋭い何かが刺さるようだ。
 ギンコ、お前、そんな、ふうに…思っていたのか…? 

 化野は愕然とし、組み強いていたギンコの上から、ゆっくりと退いた。それじゃあ、嫌でしかなかったということか。抗いながらも許すから、てっきり想いは通じているかと、ずっとそう思っていた。


 りろろん
       りろん
             りろろろろ……ん…ん…

 
 あぁ、耳の奥で、夢の音が響いている。こんな時になんでそんなことを思い出すんだ。大事なのはギンコで、こんな、よく判らない夢の音なんかである筈が無いのに。

 それをまるでギンコも聞いたように、彼は天井をふい、と見上げ、
 
「あ、『るてきのげん』…か? これは」

 唐突にギンコがそう言って、慌てたように自分の目元を擦った。見れば彼は、その綺麗な色の目を潤ませていて、それを隠すように項垂れる。

「まっ、待て。待て待て、化野。今の言葉は…蟲の、せいだ」
「…なんだって?」

 はぁ、とギンコは短く嘆息し、それから化野の着物の袖を掴まえて引き寄せ、軽く唇に唇を押し付けた。

「いや、その…。本心は本心だが、随分とまぁ、大袈裟になっちまってた。そういう蟲なんだ。…驚くな、ったく。音だけはもしかして聞こえてなかったか? なにやら涼しげで、反響する水の雫のような音だ」

 言いながら、ギンコはもう一度、そうっと天井の方を見る。明け方少し前の、まだ薄暗い視野に、目を凝らしてやっと見える程度の、綺麗な輪が、りろろん…という音と共に、生まれては消え、生まれては消え。

「…聞こえてた。夢で、水禽窟の音を聞いたように思ってたが」
「す、水禽窟か、またこりゃあ、風雅だな、化野。どこで見たんだ、そんなの」

 笑って言って、ギンコは実は逃げようとしていた。そろりと化野の傍から離れ、言いかけてしまった蟲の説明を、うやむやにしてしまいたい彼だった。

 何しろ「流滴の言」は、本音をちょいと大袈裟に、言葉にさせてしまう蟲だから、聞かせるつもりの無い本心を二人は見事にぼろぼろと、互いに零してしまっている。

 誤魔化しきれるものでもないが。

 化野が今度はギンコの襟元を掴み、返すように、ちゅ、と口を吸ってから、畳み掛けるように質問をする。

「で? どう本心なんだ、今のは。そんなに俺に抱かれるのが嫌だったのか」
「…ち、違う違う。そうじゃなく。いや、そう…でもあるが、じゃなくて…」
「本心を言え。俺も…言うから」
「あー…。判った判ったっ!」

 化野が顔で詰め寄ると、ギンコはいきなり木箱を突き転がした。

 大事な荷物に、こんな乱暴をする彼を見たのは初めてで、化野は驚いて目を丸くする。それほど恥ずかしいということだが、木箱に狼藉働いたって、逃げられることでもない。

 ギンコはずりずり、と壁まで下がっていき、そこに寄りかかって脚を床に投げ出し、観念したように息をついた。

「別に…どうでも逃げようとすれば出来なくはないものを、嫌がりながらも毎晩お前に抱かれて、他の誰にも見せない姿を…散々曝してるんだぞ、俺は。男としてどうかと思うような、そんな恥ずかしいこと、相手のことが随分と気に入ってなきゃ、出来んだろう…っ」

 言い終えて、ギンコは両手で頭を抱える。その顔は勿論、耳も首筋も真っ赤だった。

「…それくらい、言わなくても判れっ、この馬鹿っ。そのうえ、あんまり攻めるから、もしや嫌がらせされてるかと、つい思っちまう…っ」

 最後に叫ぶようにそう言って、ギンコはずるりと背中を壁で滑らせ、横倒しになってしまった。唖然としたまま化野は聞き終え、それから目をぱちぱちと数回しばたかせる。

「…さぁ、お前の本心とやらも聞かせてもらおうか、化野」

 本当は嫌いだ、とか、もう鬱陶しい、とか言われたら、どうしようかとギンコは、心の隅でちらりと思い。聞くんじゃなかった、などと、心臓を騒がせる。でも本当に本当は、いつもちっとも隠さない化野の気持ちなんぞ、判り過ぎるほどの。

「誰より大事だ」
「…それはいつも聞いてるけどな」
「死ぬまででも。死んでもずっとな。…もっと聞くか…?」
「いらんいらん。…知ってるからな」
「お前、俺に時々しか会えなくて、辛くないのか?」
「…そんなの、聞いてどうすんだ。言ったって、どんなに辛くたって、この暮らしを変えられんものを」

 そうだな。と、

 言葉にせずに化野は思って、そうっと微笑んだ。立ち上がり、彼は横倒しになったままのギンコの傍で、横倒しになったままの木箱の上に腰を下した。

「まぁ、もう一晩泊まれ、とは言わん。せめて昼頃までいろ。うん、と言わなきゃここを退かんから」

 子供のようなその言いように、ギンコはくすりと笑って見せた。畳の上に、彼の白い髪が、乱れて触れていて、それだけのことが妙に色っぽい。

 もう夜明けだが、それに随分と空も明るくなったが、この尻を木箱からどかしたら、ちょいともう一戦、どうだろうか、と化野は思っていた。何しろ、随分と、自分はギンコに気に入られているようだから。

 そんなにも恥ずかしいことを、毎度毎夜、嫌がりながらも、許されるほどに気に入られて、それが唯一、俺相手だけだとか思えば、手ぇ出さんわけにもいかんだろ。
 
 りろろん ろろん

 と、音色はもうしない。天井にも、淡い水色の波紋が見えない。蟲も二人にあてられて、とうに逃げて行ったようだった。




 終 

 


 突発!です。凹み中惑い星は、何人かの方から励ましの言葉を頂きまして、妄想脳のみ激しく元気! 疲れているせいか、こんなヘタレな文ですが、ここんとこずっと蟲師書いてないから、こんなのでもアップする失礼を、どうぞご容赦くださいますよう。

 夢も
 愛も
 喜びも
 嬉しさも
 疲れていたって感じられるはず。
 疲れていたって「へぼ」だって、
 それでも好きなら書ける筈。

 書かなきゃ生きてられん自分を、
 意識するべし、遂行するべし、
 好きですよ、読んで下さる皆様方ーっv

 ありがとうございます。

 


08/09/02