夏を喰う蟲
「う、あ…ッ」
草原を並んで歩んでいたら、化野が唐突に呻いた。ほんのわずか、先を歩いていたギンコは、眉を寄せて迷惑そうに、だけれど心配そうに振り向いて、すぐに化野の足元に膝を付く。
「そら、言わんこっちゃない。風に住む風歯子がいるから、着いてくれば怪我をすると、そう言っただろうが。もう戻れ。どうせずっと着いてこられるわけじゃなし」
「…うぅ、い、嫌だ」
着物の裾を捲くり上げて見れば、化野は左の足首を片手で押さえている。その指の隙間から、じわりと滲み出る血の色。『風歯子』は、広い場所を歩んでいる生き物の体に、風にのって飛びながら齧り付く厄介な蟲だ。
ただし、一度噛んだ相手には、二度とは噛み付かないし、それほど深い傷を負わせることもない。だが、もう噛まれない、と教えれば化野はますます、もう少し着いていく、と駄々をこねるだろう。
「次は歩けなくなるほど強く噛まれるかも知れんぞ?」
「…なぁ、もしもそうなったら、お前は俺を、ここに置き去りにしていくのか…?」
唐突に告げられた問いに、ギンコは強く化野の目を見た。真摯な、そして怒ったような目をして、ギンコは暫し黙り、それから、ふい…と視線を逸らして言う。
「置いてくさ。もとより、一つところに居られん俺だ。判ってるだろう」
「…あぁ、判ってる。じゃあ、お前にそんな辛い思いさせないように、そろそろ戻る。悪かったな、何だか今回はお前と、どうしてももう少し一緒に居たかったんだが、それもただの我が侭だ」
痛みを堪えて化野が立ち上がる。足首から手を離すと、彼の手のひらと、くるぶしの辺りは滲んだ血で真っ赤だった。ち、と小さく舌打ちして、ギンコは背中の木箱を下す。素早く後ろの蓋を開け、抽斗の一つを取り出すと、中から薬と茶渋色の布切れを何枚か取り出した。
「動くな」
手際の良い仕草で血を拭き取り、軟膏を塗り付け、そこに布を貼り付けて、傷に障らないように、逆側のくるぶしの上で布の端を縛る。それを黙って眺めて、化野は弱々しく笑った。
「なんだよ、俺よか手馴れてるみたいじゃないか」
寂しげに言った言葉に、ギンコは返事もせずに立ち上がり、木箱を背負うと、まだまだ遠くへと続く草原の向こうを見ている。
今までに何度か、ギンコは怪我をして転がり込んできたことがあった。そのたび、殆ど放ったらかしの傷口を見せられ、叱り飛ばしながら手当てしてやったが、それへ無防備に体を預け、安心したように寝入ってしまったこともあったのだ。
なのに、こんな慣れた手際を見せられると、今までのあれは、何だったのかと思う。医家としてギンコの体を気遣い、怪我も病も俺が診るのだと、そう…実は少し誇らしく嬉しく思っていたのに。
「はぁ…。なんだか、お前が」
わからない…。と、続くはずの言葉を飲み込んで、化野は風に揺れるギンコの白い髪を見上げる。遠くを見ている彼の翡翠の瞳に、心を吸われて切なくなる。こんなに好きなのに、俺はいったい、お前の何なのか。
ガツ…っ
その時、草の中から異様な音がした。さっきも似た音を聞いた気がするが、もしやこれが、蟲の。
「…って!」
ギンコがゆっくりと化野の傍に膝を付く。靴を脱いでズボンを捲れば、そこには化野のそれと同じように、噛まれて血の滲む傷があった。
「くっそ、俺もやられちまった…ッ」
木箱をもう一度下し、さっきと同じように軟膏を取り出し、茶渋色の布きれを数枚取り出し…。ギンコはその布きれの一枚以外を、もう一度抽斗に片付けてしまった。そうして血を拭きもせず、乱暴に薬を塗ろうとする。
「こ、こらっ、血を拭くぐらいしろ。さっき俺のをそうしたみたいに、なんでしないんだッ」
「…勿体ねぇし、今、何枚も使ったら、無くなるからな」
「だ、だからって…っ」
呆れてギンコの顔を見つめてから、化野は自分の着物の袖を裂く。その布で、すぐ傍らにいるギンコの足首の血を拭い、軟膏の器を引っさらって、出来るだけ丁寧に手当てしてやった。ギンコが化野の足にしたよりも、薬の付け方が手馴れていて、布の縛り方も綺麗だった。
「さすが、本職だね」
「…褒めるな。このくらい、医家なら出来て当然だ」
「はーぁ、痛ぇなこりゃ。しばらく動けねぇ」
「えっ、二人でこんなところにいたら、また噛まれ…っ」
「一度噛まれたら、二度と噛まれねぇよ」
「さ、さっき言ってたことと、違うぞっ」
うるせぇなぁ、とでも言いたげに、ギンコはゆらゆらと片手を振り、そのまま草はらに寝転がる。風が吹くと、さらさらさらさら、草の触れ合う音がした。それを聞きながら、化野もギンコの隣に横になり、揺れる草の葉の間から見える、ギンコの姿を見つめた。
「なぁ、ギンコ」
「なんだよ」
「お前、この風歯子とかいう蟲、見えるんだろう?」
「見えるからどうしたって?」
「見えてるなら、よけられなかったのか?」
「…別にいいだろ、どうだって」
草と草の合間に見えるギンコの顔に、ちょっとバツが悪そうな表情が浮かぶ。そのあと、ギンコはうっすらと笑った。
「気付いたからって、そういうこと、口に出して一々聞くのやめろ、お前」
「…あぁ、まぁ、覚えてたら次はそうするよ」
なあんだ、そうか。と、化野は思う。冷えかけた心が、少しばかりほっこりとした。風が冷たくとも、心はそれほど寒くない。化野はギンコを見つめている。
緑の草、緑の草、ギンコの白い髪。
緑の草、ギンコの翠の瞳、見上げれば遠い蒼い空。
風に混じる汐の匂い。
汐の匂いの風に揺れる緑の草、緑の草、化野の蒼い着物の色。
風に混じって飛び交う、白い白い不思議な生物。
小さくて白い、獣の「あぎと」に似た蟲、風歯子。
飛び交う風歯子の姿が消えた頃、山は一斉に色付くのだ。名残の夏を喰う蟲、と風歯子を呼ぶものもあるという。その日の風は既に、ひいやりと冷たく澄んだ秋の風なのだった。
終
突発。前にいくつも考えた蟲名を、自分では使ってないじゃないのっ、と思い出し、使い難そうなのをあえてチョイス。頑張ってみた…ら、またしてもラブラブになったけどね。でも、べったりラブラブじゃなくて、さらーりラブラブになった気がする。
ひっひー。こういうのもいいんじゃね? ひっひー。
親愛なる○○○さま、早く元気な貴方になってね。とかとか、私信を書いてみたりして。
08/10/10