蟲 箱 師 11
いい男だな。
そんなふうに言われた化野は、どんな顔をしていいのか判らなかった。ギンコは違うと言ったが、彼には九重がギンコを好いているのが、痛いほどよく判るのだ。どう言っていいかも判らず、結局化野はこう聞いていた。
「…あんたは、ギンコを好きなんだろう」
零れた言葉に自分自身でぎょっとしてしまう。言われた九重は起き上がり、顔を上げて、まっすぐに前を見ながら暫し黙っている。彼の視野には美しい自然がある。木々の隙間から見える海の青が、きらきらと輝いて綺麗だ。
「あぁ、好きだ。もう随分前からになりようとて、いつからどんなふうにか、思い出せんほどよなぁ…」
やっぱりか、と化野は思いながら、それ以上何を言っていいか判らなくなる。盗み見るように九重の姿を見れば、彼は酷く清々しいような様子をして、まとめていてもまだざんばらの髪を、さよ風に揺らしてうっすらと笑っていた。
「見て判ろうが、俺は世捨て人よな。生み落された時よりて、蟲にばかり好かれおり、同じ種の筈の人にはことごとく嫌われゆう…。親にすら疎まれ里を追われ、石つぶてや棒っ切れの痛みくらいしか、幼き頃の思い出も無きこととてなぁ」
「……あぁ、判る。背中とか肩とか、後ろ首の怪我の跡が…酷いな」
ぽつり、化野はそう言った。九重は小さく苦笑して、包帯だらけの手のひらで、首の後ろを軽く撫でる。
「仕方ないことよな、ヒトは皆、異形には怖れを抱きようとて。…その上、追われて里を捨てゆく時には、あの地の蟲を根こそぎ連れ行きおりて…。風の噂に、あの里は一、二年にて滅びたと聞きゆう。生きておれば、さぞや皆、恨んでおりようと、思う…」
そうして九重は言葉を切って、ギンコの居る方向へ視線を流して言うのだ。
「ギンコは優しう男よな。頼るものとて何一つない親無し子。幼き頃から流離って、ヒトの冷たさも非道さも、繰り返し繰り返し知っとうくせに、一度信じると決めた相手のことなれば、身を削りとうとて心を離さん。こんな俺のことをさえ…。俺は、まるでその逆よの。憎いと思えば死ぬまで恨みおりて…今も親が憎い。とうに滅びたあの里が憎い」
くく…っ、と、小さく自嘲するように笑い、九重は両方の手のひらをじっと見下ろした。白い包帯が眩しい。こんなふうに優しくされたのは、ギンコを相手に以外、初めてだ、とそう思う。いや、本当はもう一人だけ覚えがあるが、それは…。
どさ、と音を立てて九重はまた仰向けになった。まだ微かな熱を持っている手のひらで、そっと顔を覆うと、その温みが酷く心地いい。
畳に付いた背中に、何かが、触れて落ちた。
ぽつん、ぽつんと力なく。
悲しく、苦しげに、ひとつ、ふたつ。
「九重」
「ん? …なんだ」
「俺にとってはこの世で一番好きなものと、憎いものが一緒だよ。あんたを連れてうちに来たギンコのことが、どんだけ腹立たしかったか、あんたに教えてやりたいね」
九重は何も言わない。化野は一度立って、縁側に足を投げ出すように座わり直し、自分の患者に病の説明をするような気持ちで言った。
「心は確かに自分の自由にゃならないが、ヒトなんてのは、案外単純なもんでな。…あんたが嫌いだ嫌いだっていうたんびに、よく判るよ。あんたはさ、自分の里が好きだったんだよ。親のことが好きだったんだ。今も変わらず憎いと思っているのなら、それは今も、それだけ好きだということさ」
「は、知ったような、ことを言いゆう…」
ぽつん、ぽつん、と背中に触れた何かは、
ころころと足元に落ちて転がった。
それは母の投げた石だ。
ほんの親指の先ほどの、小さな小さな石っころ。
彼の背に、ようやっと届いたのは、ただの一つか二つ。
過去から来た石つぶての記憶に、
嗚咽が一つ、せりあがった。
たった二つ、覚えている母親の顔は、滅多にない甘い菓子を、こっそり陰で自分に差し出している笑顔と、最後に見た泣き顔。地面に這って、彼に放る石つぶてを探している顔だ。なるべく小さくて軽い石、ぶつかっても痛くない石を、泣きながら探している顔。
九重が包帯を巻いたその手で顔を覆うと、隠した目に熱いものが溢れ、白い布に涙が染みた。
あぁ、判っていたさ。異形を呼ぶ子を産んだと、村人にさんざ責められて、自分から我が子に石を投げなければ、重くて大きな石を投げさせられる。太い重たい棒っ切れで我が子を殴れと言われてしまう。
殴り殺される我が子を見るくらいなら、里を離れさせてやった方が、まだ生きる道は開かれると…。最後に手を振ることも許されなかった、母親の目が、どうか達者でと、自分に語りかけていたことも。
「あんたぁ… 嫌な、男よな…」
九重はそう言い直した。そうして彼は仰向けに横たわったまま、片手を上げて、その手で化野を傍から追い払った。暫くぶりに流す涙は、きっと中々止まらない。他人に見られるのは真っ平だった。
* ** ***** ** *
化野がギンコの傍に行くと、ギンコは九重と同じように、縁側に仰向けに横になっていた。具合が悪いのかと駆け寄っていくと、ギンコは赤い目をして彼を見上げた。
「あー…。蟲の感情が判る…ってのも、なんとも厄介だ」
「なんだって?」
「…いや。九重ほどじゃないと思うが、今さっき自分の中に入ってきた蟲たちがな、ここにいる同種の仲間と離れたくないと思ってんのが、なんとなく判っちまうんだ。なんだろな、九重が近くにいるせいかも知れんが、こういうのがいつも聞こえたら、確かに蟲を愛しく思うこともあるだろなぁ」
はぁ、と溜息ついて黙り込み、次に口を開いた時、ギンコは化野に詫びていた。
「化野、すまん」
「何に詫びてんだか、判らんが」
「…お前の言うとおりだった、と思ってさ」
ほんの僅か、ギンコの首筋が染まっていた。今まで記憶に残らなかった九重とのことが、今回は全部判る。これまでも、大なり小なりあんなことをされていたと判ったし、同時に九重が自分の事を、友に対するのとは違う気持ちで思っていたのも判ってしまっていた。はぁ…とまた深いため息をついて、ギンコは身を起こしてから項垂れる。
「なんで俺のことなんか」
「聞き捨てならんぞ、ギンコ。出会ってからずっとお前に惚れてる俺の前で言うか」
うぅ、と今度は短く呻いたギンコは、後ろ髪をいきなり掴まれ、次の瞬間には唇を塞がれていた。
「ん、ん…っ?!」
押し戻そうとする腕が、すぐに力を失い、ギンコは化野の胸に手を触れる。手のひらから鼓動が伝わって、そのドキドキと煩い音が、かえってギンコを安心させた。飽きるほど口を吸い合って、縁側の板の床の上で抱き締めあって、そうしながら視野の端で蟲が流れるのを見た。
こんな近くでこんなことをしていたら、九重には全部筒抜けかもなと思う。だけど今更隠しても仕方ない。友以上と想うのは化野一人なのだ。そのせいで蟲箱師の知人と疎遠になるとしても、親しい友人を一人失うとしても、引き換えにできることではないと判っている。
「九重は…?」
「んー。今は、一人にしといて欲しい感じだったぞ」
「………」
「…今、自惚れたこと思ってるだろ。違う意味だ」
そう言って軽い口調で言いながら、化野は酷く優しい顔をしていた。
「里を離れた人間てぇのは、誰でも淋しいもんなんだなぁ」
* ** ***** ** *
「も、もう発つのかっ、九重」
「…昼飯くらい、食っていけばいいと思うがな」
二人並んでそう言ったが、九重は背中を向けて履物を整えるばかりだ。その傍らに置かれた蟲箱は、すっかり元の形に戻っていて、ぐい、とギンコの足元に押しやられる。
「払いは次の時でいいとてな。五年か…うまくすりゃあ十年は、保てよう。年に三度か、四度はこの里に足ぃ運びて、仲間の蟲と語らわせてやりゆう。出来ような? ギンコ」
「…あぁ、判った。だが、心配だからな。俺に付いた蟲のこともだが、お前が心配だと言ってんだ。だからお前とも何年かに一度会う。居場所変えるときゃ、ウロ守の綾に文を出せ」
やっと微かに振り向いて、九重はギンコの言葉を小さく笑った。
「生憎、俺はウロなんぞ、持たんとてな」
「この…。じゃあ、これを持っとけ、俺のウロ繭だ。綾にはそうと告げておくし、俺は別の繭を貰うから問題ない」
懐から出した竹筒を、ギンコは強引に九重の懐の中に捻じ込んだ。傍らに膝をついて、肩を掴んだギンコの顔を、九重はまじまじと見た。
「これまで二度も、知らん間に何されてたか判っとうのか、お前」
「さあな、意識がなかったから知らんけどな。それがどうだって? まぁ、次からは普通のやり方にしといてくれ。じゃないとあいつが暴れそうだから」
ちら、とギンコが化野を見ると、化野は自分の腰に手を当てて、堂々と言い放った。
「別に問題ないぞ。ただし、これからは二人ともこの家に来て、俺の見てる前でやってくれ。来なけりゃ見てないとこでよろしくやってると了解するから、そのつもりでな、ギンコ」
目の前で、幾分青ざめたギンコの顔を見て、九重は満面の笑みになる。初めてみる顔で、逆にギンコが驚いた。化野は縁側に膝をついて、懐から真新しい包帯と軟膏を差し出して言う。
「九重、あんたも充分いい男だよ。ギンコを好いたんなら俺とは気が合うということだしな。新しい友人として覚えておくぞ。あんたも俺を忘れんでくれ。…達者で行けよ」
差し出されたものを受け取って、九重は立ち上がった。ギンコの目には彼に纏いつく蟲たちが見える。偏屈でも世捨て人でも、生き物は結局、生き物に優しい相手を見抜くのだ。蟲に好かれる九重にも自分にも、どこかいいところがあると、そう信じていればいい。
「戻るのか」
「いや…炎来樹と雪花氷種の落ち着けよう先を、探しゆうことには戻れんとてな。いつ棲家に戻りおれるか、判らん」
そう言って、九重は腰を上げて、そのまま歩き出した。
「なら、旅先から文を書け! ヒトの友がいるのを忘れるなよ、九重!」
「一つ聞き忘れてた」
突然、ギンコの隣で化野が言って、彼は下駄を突っかけて、遠ざかりつつある九重を捕まえに行った。驚いているギンコの耳に、珍しくも九重の笑う声が響く。不満げな顔で化野は一人戻ってきて、今度はギンコが化野に聞いた。
「何を聞きに行ったんだ?」
「いやぁ、ずっと気になっていたんでな。その訛りはどこの土地のもんなのかと…。そしたらお前に聞けと言われたぞ? どこのだ?」
「……俺が知ってると言ったのか、あいつ」
聞き返されて化野は首を傾げた。九重は『ギンコなら判るかもしれん』と言ったのだ。そう告げると、ギンコは縁側に腰を下ろしてこう言った。
「…あぁ…。なら言うが、当たっているかどうかは知らんぞ。俺には…どこの訛りもないだろう? 一つところにいないから、土地特有のものに染まれないのさ」
でもなぁ、化野
どこにも染まれないのは淋しいことだ。
だからあいつは、
きっと放浪している間、いくつも耳にした訛を、
自分の言葉に纏わせた。
この世のどこにも自分の故郷は無いが、
同時にこの世のどこだろうと、自分の故郷。
死ねばどの土地でも、屍は土に還れるのだと、
そう思っているのかもしれねぇな。
生き物はどれも、
ひとりであって、ひとりではない。
そう思わねば、日々を生きてもいけない。
そんなふうにどんな生き物も、
脆い心で生きてゆく。
終
全十一話終わりましたー。
書き直し前から数えると、どんだけ長くかかった連載ですか。
さすがに私も、九話まで書いて総ボツにしたのは初めてですっ。
だけど前よりもずっとずっと好きな作品になりました。
呆れず読んできてくださった皆様、本当にありがとうございます。
この最終話で、九重が母親のことを思い出すシーンでは、
泣けていました。いや、本当に涙が出たよ。
いや、お恥ずかしい。でも、そういうのって好きなんで、
満足でした。涙拭きながらノベル書くとか、
もう最高ですが、何か?
あ、ひとつ後悔というか、がっかりな点ですが、
ラストで触れられている九重の訛りのこと。
やはりどこのものでもないごちゃ混ぜの方言なんてのは
書くにもとっても難しくて、始めの方からラストまで
どんどん変貌してますよね。ま、気にしない方向でー。
ってことでした。
ではでは、ありがとうございましたー。
10/09/20