蟲 箱 師 10
あぁ、その目…。
その目…。
そんな目をするお前を、
初めて見ゆう。
この男が好きか。
この男だけを好きか。
九重は両の拳を強く握った。熱い熱い蟲の炎が、更に温度を上げて荒れ狂う。ゆらり、と揺れた九重のその目は、何処か狂気を孕むようで…。その時、出ない声を、無理に搾り出すように、ギンコが言った。
「あだしの…。じゃ…ま…しねぇで、くれ…。俺は、九重に依頼…したんだ、だからこいつを、し…信用、してる…」
「…ギンコ。だ、だが…っ」
「邪魔…を、しねぇで、俺の、傍に…いてくれ」
ギンコは瞳に浮かんだ涙を、ほろりと零す。振り向いて、九重もそれをじっと見ていた。
部屋の真ん中の畳の上に、一糸纏わぬ姿にされ、動かせぬ体でうつ伏せにされて、しかも脚を左右に広げられているギンコ。自分の愛しい恋人が、自分以外の手でそんなふうにされているのだ。そしてこのあと、何をされるのかも判ったものではない。
怒りに体を震わせながら、歯を食い縛って化野は九重を睨み据え、それからギンコの頬に零れている涙を見て…だけれど、化野はこう言っていた。
「…わかった。俺も、あんたを信用する。どうやるのか知らんが、ギンコの体に蟲を憑けるというんだろう。さっさと済ませてくれ…。それと、俺は医家なんでな、あんたのその手も、後で見せろ。火傷をしてる」
「…あんたぁ…、随分、可笑しな、お人よな……」
そう言って、九重は目元だけで微かに笑った。そうして次にはギンコへ向き直ると、横たわっている彼の隣へ行き、畳の上に膝をつく。化野もギンコの眼差しに呼ばれて、なるべく傍へ行って座った。
傍へ寄ると、明らかに空気がおかしいのがわかる。熱い空気と冷えた空気が、まるで意思を持つように、別々の層になって流れているのだ。九重はゆっくりと、上に着ている服を脱いで上半身を曝す。その肌のあちこちに、小さな傷跡が無数にあった。
「それだけ意識を保っとうなら、お前もお前の中の蟲に頼みおれ。ほんの、とおくらいも数を数える間だけ、目ぇん中のトコヤミを、眠らせようてくれればいい」
「わかっ…た、やって、みる…」
「…見えん癖に…気に入らん男よの。あんたがいると、蟲がみるみる、穏やかになりゆう」
そう言って、九重は気にいらなげに口元を歪めた。身のうちであれほど荒れ狂っていた炎も、逃げ惑うていた雪も、豹変したように静かで穏やかで、互いの存在を許している。
「ギンコ、いいと言うまで、目を閉じいておれ。少しう、辛くなりようても蟲箱の為とてな。声は…無理に殺さで零せ。俺とここな先生とで、ようく聞いておりゆうぞ」
「…わ…か…っ。……ん…ぁ…ぁ…」
ギンコは閉じた目を、一瞬開いてしまいそうになる。素裸の体の、九重に近い場所から、何かが体へ降り頻るのが判った。肌の上に、さらさらと何かが零れてくる。目を閉じているのに、その蟲の姿が判る気がした。
これは、花。白い花だ。五枚の花びらを持つ小さな花が、一枚一枚の花弁を散らして、ギンコの肌の上に降る。それが素肌に触れると、なんとも言いようのないような感覚が、染みるように芯へと届いて。
「く…ぅ…」
それがどうしてか、じっとしているのが苦しいほどの、気持ちよさ。しかも、明らかに、性的な。快楽は…。と、九重は低く呟いた。
「快楽は、ヒトや獣、生殖によりて命を繋ぎおるものたちの、もっとも酔いやすい心。体も思いも、そこへと深く沈めようて、溺れようておりいれば、おのれ以外のものを、体へと入れやすいとてな。…男と女も、男同士でもなぁ、それは同じようとて、重々、知っておりゆうが?」
言葉が少し、笑っている。そうして震えて、寂しげだった。
ギンコが目を閉じたまま感じている美しい蟲を。化野が目を開いていても、どうしても見られない蟲を。九重は全身で感じていた。ほんのひと時でも、身に住まわせていた蟲が、身のうちから離れて去ってゆくのは、離別のようで心が痛い。
その痛みを判っているのか、未だ彼の中にある炎来樹と雪花氷種が、慰めるように小さくさざめいた。
ギンコ、お前は蟲の命のようとて、この目の潰れそうに、美しい…。
こうして蟲をお前に憑けゆう折に、
そのたびそうして乱れようで見せる姿が、眩しいとて、
ずっと、ずっといらぬほど酔わせたとてなぁ…。
悪いのは、どこまでも俺よの。
詫びは言わぬが、この蟲ならば、そうしてそこな男なれば、
五年、十年、それより長くも、お前と共に添いてゆかれようぞ。
俺はもう、いらぬとてなぁ…。
この蟲は雪のようだ。ギンコの髪の色のようだ。そう、九重は思って、おのれの胸から放たれていく花弁を見ていた。それが、すう、と吸い込まれるように、ギンコの肌の中へと消えてゆく。
九重は片手を傍らへ伸ばして、横にあった包みの中から、何枚かの板を取り出した。幅広の革の紐もある。それを留めるためのものらしい、木で出来た釘も。彼がそれらを一つずつ手に取ると、見えない花弁の姿の蟲が、確かめるようにそれへ纏いついて、やがては吸い込まれて消えてゆくのだ。
淡々と作業している九重の見ている前で、殆ど無意識のように手を差し伸べあって、ギンコと化野が片手のひらを重ねていた。
どさ、と重たい音を立てて、九重の体が前のめりに倒れる。ギンコは目を閉じて、化野は見開いた目でギンコを見ていたが、ふたりはその音と振動に、ぎくりと顔を上げていた。
「こっ、九…重ッ」
「お、おいっ、どうしたんだっ」
「気を失ったんだ。…化野、少し危険かも知れんが、か、介抱してくれるか?」
「そりゃ、無論だ。医家だぞ、俺はッ」
慌てて化野は立ち上がり、九重の体を抱きかかえようとした。体温が異常なのがすぐに判る。両腕が熱を持っていて、その癖、胴はどこもひいやりとしていのるだ。青ざめる化野に、なんとか自力で身を起こしたギンコが言った。
「さ、触れるようなら…多分、それほど心配…ない筈だ。無理に冷やしたり…温めたりとかは、しなくてい…か…ら」
そういうギンコも息切れがしていたが、気分は悪くはなかった。ただし、起こした体のその下、丁度、体の真ん中あたりが触れていた畳が、酷く濡れていて、動揺する。なんで濡れているのか、判りすぎるほどわかって、傍らにある脱がされた自分のシャツで、ごし、と擦った。
化野の目が、ちらりと自分を見たので、いたたまれない気持ちになりながら詫びる。
「すまん、汚した」
「…いや…、その俺も多少。…まいったな、あの香。俺まで」
「香…」
「…なんでもない。それにしても、どこも傷だらけだな、この男」
話を逸らすように言った声にも、ちゃんと感情が篭っている。特に肩や背中、後ろ首に怪我が多いのは、どういう意味なのか察した。これは、「ヒト」に攻められての傷以外にないのだと。古い傷。多分、大人になる前の。
「随分と、辛い暮らしを…」
「ギンコ」
意識が無いと思っていた九重が、急に声を発したので化野は驚いた。介抱と言っても、辛くないように服を緩める程度しかしていない化野を、九重は微かに笑んだ顔で見てから、ギンコへとこう言った。
「お前は暫し、先生の部屋の外の縁側に、座り居ておれ。お前のつけた蟲の仲間が、今もあそこで群れておりゆうでな。半分を連れゆきて去るお前も、ちゃんと詫びゆうて、違えぬ約束をしおれ。大事に、大事にするとて誓いてこい」
「わかった。…化野、九重を頼む」
そう言って、ギンコがなんとか服を身につけ、あちこちに掴まりながら部屋を出て行く。残された化野は、手元に医具の用意もないのに、どう頼まれればいいのか困った。そもそも、それが蟲だろうと、生き物を体内で飼っている九重に、普通の処方でいいのかも判らない。
せめて火傷の手当てを、と、化野は庭の井戸まで行き、冷えた水と手布と軟膏、そして包帯を持ってきて、再び九重の傍に膝をつく。
「さ、手を見せてくれ。冷やすのと、軟膏くらいは構わんだろう」
「軟膏は構わんが、冷やすのはいらん。蟲に触る」
「え? いや、だが…」
「あんたがもしも炎なら、水をかけて冷やされたいとてか? ここには炎の蟲がおりゆうで」
ぐうの音も出ずに、化野は軟膏を九重の両手に塗り、手際よく包帯を巻く。それだけでもうやることがなくなって、酷く居心地が悪くなった。
「あんたぁ…、いい男だな…」
不意に九重がそう言った。包帯を巻かれた両手を顔に乗せて、仰向けのままでの言葉だった。
続
やはり先生はライバル?も認めるいい男なのです。それはさておき、九重が、あれ以上のことをしなくてよかった。よね? それとも? ふふ。やはり先生が可哀相だし、ギンコも覚えているんなら…ねぇ?
今までだって、あそこまでのことはしてないと思いますよ。手で体を撫でるくらいで。そりゃ、あの怪しげな香は使っていたと思います。あれはまぁ、報酬の一部? ←マジか!?
というわけで、次回か、さららにその次でラストとなります。よろしくー。読んでくださりありがとうでした。
10/09/05