ギンコ、ギンコ。
 寒くないのか? もっとこっちへ。
 こらこら、逃げるな。
 せっかく一緒にいられるのに。
 お前は馬鹿、だなぁ…。


 優しい声がする。高台の、医家の家だ。朝早く、共寝の寝床で、こんなにも甘い、甘い声。あぁ、夢だと思うほど温かで、滅多に会えないけれど、ほんの少ししか傍にはいられないけれど、それでもこんなに幸せで。

 温かなお前のぬくもり。他の何にも替え難い、けして失うことの出来ないもの。もし失くしたらきっと、自分はどうにかなってしまうのだろう。

 お前は俺の、すべてだから…。








「あだ…し…」

 ふ、とギンコの瞼が震えて開いた。間近に見えるのは、化野の、寝顔だった。小さな小さな「化野」の。頬に触れているのも、やっぱり小さな、化野の、柔らかな手のひら。

 開いた目はそのままに、ギンコは目の前の赤子の顔を、じっと見つめていた。赤子は薄っすらと目を開けて、半ば夢うつつのようにとろとろとしながら、それでもギンコの顔を見ている。ギンコは軽く身じろいで、草のしとねに横になったままで、赤子の頬に触れ、体に触れて、こう言った。

「…寒いよな…。大丈夫か? 眠れたか?」

 すべすべとした赤子の頬も、体も、少し冷えている。それほど寒い季節ではないが、朝夕はやはり寒い。

「手ぇ、貸しな、化野」

 自分の頬に触れていた小さな紅葉のような手を、そっと取って、ギンコはその手のひらと手の甲を、自分の両手で包んで撫でる。痛くない様に、優しく何度も撫でて、時折息を吹き掛け、また撫でて。

「…腹ぁ、減ったか? また重湯しかやれねぇけど、いいか…?」

 話し掛けても話し掛けても、赤子はまだ幼すぎて、返事らしい返事などしない。それでもギンコが話しかけると「聞いている」ような顔をして、彼の方をじっと見ているのだ。

「ちょっと、待ってな、いい子、だからな…?」

 そう言って、自分の纏っていた上着を脱いで、ただでも色んな布でぐるぐると包んでいる赤子の体を、ギンコはまたもうひとくるみ。「化野」と名付けた子供を相手に「いい子だ」だなんて、いかにも可笑しくて、くすり、笑う。

「………」

 見ていた夢は、覚えてる。もう何度も見た夢だから、本当にその夢を見ていたのか、繰り返し見ているその夢を、ただうつらうつらしながら思い出していただけなのか分からない。あの淵の傍でこの子を拾い、抱いて眠ったぬくもりに、初めてギンコはその夢を見たのだ。

 夢だなどと思わずに目覚めて、現実を知って、あんまり辛くて声も立てずにぼろぼろと泣いた。

 涙が枯れてしまっても、ただ、ぼうとして、目の前の水の煌めきを眺めていたギンコに、腹を空かした赤子の声が聞こえたのだ。そうでなければ、食べ物のことなんかギンコは思い出さなかっただろう。

 そうしてこの子を拾った日から、もう数日たったのだ。何しろ、子供を育てる知識なんかギンコにはない。そこらの山菜なんか食わせていい筈が無く、結局餓えさせるのかと思っていた時、山中で偶然出会った旅の老夫婦が、神か仏に見えた。

 躊躇する余裕も無くいきなり話しかけ、どうすればいいかを聞き、少量の米までわけてもらった。今、作っている重湯がそれだ。

「もう少し歩いたら、里に出られる筈だからな、化野」

 人里など近くには無い山奥で、ギンコはこの赤子を拾った。急いて動いても里まで二日はかかる場所だったし、子供を抱いていては危険な道は避けなければならない。その上、朝晩の寒さを避けようもない野宿。熱を出した化野を、おろおろと抱いて温めたのは一昨日の事。

 幸い熱は引いたようだが、やっぱり、こんな幼い子供を連れて野宿するのも、ずっと連れ歩くもの無理なのだ。里に出たら、田畑の手伝いでも何でもいいから働いて、代わりに米を少し譲って貰おう。うまく話を持ってって、家の隅にでも寝かせて貰って、できればその里で、無理なら他の里ででもいいから、この子を預かってくれる家を探さなければ。

「ほれ、あぁ、まだ熱いぞ…?」

 小皿にうわずみを移してやって、ふぅふぅと吹いて冷まし、それを口元に寄せてやって啜らせる。ギンコの食べるものは、化野のための粥の残りと、そこらで取った木の実やら山菜やら。空腹を感じないではなかったが、別にそれはいい。

「食べれるだけ食べろよ。なぁ、俺はいらないから。…喰わないでも、多分死にゃしねぇんだ」

 ただ、この赤子の為に、化野のために、自分の出来ることをするのが、今のギンコのしたいことだ。それ以外には何もない、空っぽの頭の中へ、それを満たして息をしている。

「…俺はお前を、放り出したりはしねぇから」

 懸命に重湯を啜る化野の姿を、静かに眺めてギンコは呟いた。

「だから、待っててくれるか? ふらっとお前を置いてどっかへ行って、またふらっと会いにくるような俺でも、許してくれるか?」

 どっかの里にいた、
 お人よしの、
 誰かさんみたいに。
 お前が、俺を、
 待っていてくれるか?

「あ…っと」

 重湯が少し零れて、化野の口元が汚れた。指の腹でそれを拭ってやり、重湯のついたその指を、ギンコは自分の口に運ぶ。また粥を啜らせようとしたら、化野は小皿の縁ではなくて、ギンコの指を小さく吸った。

「こらこら、それは食うもんじゃねぇよ。困ったヤツだな、化野」

 俺には、お前と同じ名前の、大事な男がいたのさ。大事な大事な男が、な。居なくなったら堪えられないような、俺の、魂そのもののようなヤツが。お前はその男に少し似ているよ。ほら、そうやって、真っ直ぐに俺の目を見るところなんかがさ。

「さぁ、行こうか、里へ」





 鍬を土へ振り下ろす音が、何度も野山に響いている。汗を拭く布を差し出してくれながら、恰幅のよい中年の女がギンコに言った。

「悪いねぇ、旅の人にこんな…。忙しい頃だってぇのに、うちの父ちゃん、まだまだ当分、起き上がれないもんだからさぁ。田畑は待っててくれやせんのに」
「いや、俺も助かってるよ」

 見よう見真似で慣れぬこととは言えど、不器用な方ではないし、力もそれなりにあるから、ギンコは中々の働き手と思って貰えたようだった。ここで働かせて貰ってもう三日になる。物置のような部屋でだが、寝泊まりもさせてもらって、本当にありがたい。

 でかい畑の真ん中に、布を敷いて腰を下ろして、女は今、畑仕事の傍ら、赤子に重湯を食べさせてくれている。

「で? まだ聞いてなかったけど、この子の母親はどしたって?」

 問われて思わずギンコは黙った。この聞き方だと多分、父親はギンコだと思っているのだろう。

「……」
「あぁ、悪いこと聞いちまったかい? 事情はあるんだろうけどさ、母親がいるといないとじゃ、してあげられることもちょっと違うだろ?」
「ふ、ふた親は」
「え…?」

 敢えて、母親は、と言わずにそう言い掛けると、女の顔が明らかに怪訝そうな色を浮かべた。まさか攫い子と思ったわけじゃないだろうが、男が一人で、まだ乳離れするかしないかの子供を連れ歩いているのは、確かに不自然だろう。まして自分の子でもないとくれば、もっと。

「…いんだよ、別に、言いたくなかったら」

 女が子供をあやす手つきは流石に堂に入っていて、腹もくちくなった化野は、うつらうつらとし始めている。子供を三人も育て上げたという女の、頼りになる姿だ。

「親、友の…」
「あぁ、あんたの友達の?」
「……忘れ形見、で」

 言った刹那、ちりり、と胸が痛んだ。嘘を吐いた故の痛みではない。死んだ、と言う意味の言葉が、その響きだけでギンコの胸を刺したのだ。込み上げそうになる何かに、一体どんな顔を見せてしまったのか。

「…そうだったのかい…、ごめんよぉ、不躾に聞いちまったよねぇ。似てないとは思ってたんだよ。けど、あんたに随分懐いてるし、もうちょっと育ったら、女手がなくとも育てられるようになるさね。あたしでよかったら力になるから」
「本当に恩に、着る」

 深く頭を下げたギンコに、女は化野を抱いたままで慌てて立ち上がり、竹筒の茶と握り飯を差し出してくれた。情の厚い女だ。体を悪くして家で休んでいる夫も、穏やかで優しげだった。

「あんたも腹、減ったろ? ほら、これ食べな。もう日も傾いたし、今日はこれで終いとしよかね。あとでさ、重湯に滋養のつくもの混ぜるやり方とか教えたげる。あんた自分でやりたいんだろ?」

 可愛がってんだねぇ、と女は言った。その亡くなったって人と、いい友達だったんだろう、分かるよ、とも。涙が零れそうになった。人は優しくされると、脆くなるものらしい。化野を抱いて眠るようになった夜から、温もりに餓えていた自分を気付かされて、ずっと苦しかった。

 冷え切っていって、二度とぬくもりをくれることのない、あの姿が脳裏に過った。手渡された握り飯を有り難く食べ終えて、ギンコはその腕に化野を抱く。優しい温かさが、彼を静かに癒してくれた。

 眠っていた筈の赤子は、ふ、と目を開けて、ギンコの目を見つめ、その白い髪を小さな手で握るのだった。





「しのちゃん、起きたかい?」
「…し…、あぁ…ま、まだ」

 何のことかと、一瞬思って、ギンコは口篭もってしまった。子供の名を最初に問われた時、小声で「あだしの」と言ったので、その後ろ半分だけが聞き取られ、女は化野のことを「しの」という名だと思っている。

「女の子みたいな名だけど、この子は優しい顔をしてるから似合ってるよねえ」

 勘違いをしたまま、女がそう言って笑ったから、言い直すきっかけが作れなかった。化野、という言葉の指す意味を知らぬものも多いだろうが、確かに子供に名付けるにはどうかと思うような名だ。悪くすれば、不吉、と思われてしまうだろう。

「そんなら、あんたももうちょっと一緒に寝てていいよ」
「あぁ、いや、もう」

 目を覚まして、空腹を訴え始めた化野を抱いて床から起きていくと、囲炉裏を挟んで、女とその夫が座っている。ギンコがここで働かせて貰うようになってから、そろそろ十日になろうとしていたから、病を患った夫も、漸く起きられるようになったらしい。手伝いはもういい、と言われるかもしれなかった。

 それに、この里にも蟲が寄り始めていて、これ以上の長居は出来そうもないのだ。ギンコは口を開いた。

「頼みが、あるんだが」

 改まったようにそう告げる。腕に抱かれたままギンコの服を握っている、小さな小さな手を、彼は感じていた。

「頼み? 何だねぇ、改まって」
「実は俺は、一つところに長い出来ん身の上で」

 ギンコがそう告げると、夫婦はそれほど驚かずに目で続きを促した。口にできない事情があるのは、言われずとも承知している。女は自分の朝飯もそこそこに、赤子の為の粥を掻き混ぜていた。

「だから、そろそろ…」
「ったって、まだその子を旅に連れ歩くのは無理だろうに。この里を出ちまったら、次の人里までは随分あるんだよ? しのちゃんの為に、半年でも一年でもここに居たら?」
「……有り難いが」
「出来ない、ってんだねぇ?」

 頷くと、夫婦はそっと顔を見交わした。

「なら、預けてったら」

 ギンコは縋るように顔を上げる。願っても無い、その目がはっきりと言っていた。ずっと口数の小さかった夫の方が、ぱし、と膝へ手を置いてこう言った。

「あんたはこの十日がとこ、もう涙の出るほど働いててくれたで。うちが畑の種まきも作付けも、殆どが終えられた。ほんとうに感謝しとるよ。赤ん坊は手のかからねぇ、ええ子だし、あんたさえよかったら、預けてくがえぇよ」
「それがいいよ、そうおしよぉ。実はうちの遠縁の子、ってことにすりゃぁさ、この里にゃ、今、赤子を育ててる女もいるから、乳も吸わせて貰えるかもしれんよ」

 十日も世話して、情も移っていたのだろう。見知らぬ他人の子を置いて行かれる戸惑いも何も、夫婦には無いようだった。ギンコは深く頭を下げて、数か月に一度は必ずここへ戻って、それまでの礼をすると約束したのである。

「いい人に出会えて、お前は幸せだな…」

 化野の頭を撫でながら、ギンコが言うと、女はおおらかな笑みを見せてこう言った。

「大事そうに、この子を眺めるあんたの目ぇ見といて、その上、あんなに頑張る姿を見てさぁ。それでも知らぬ振りができるもんなんか、そうそうおるかねぇ。そりゃあ…人徳、ってやつだよ」

 人徳。

 その言葉を聞いて、ギンコは、ふ、と笑った。人徳だそうだぜ? 化野、俺にゃあそんなもんはねぇからな、多分、お前の人徳だろうよ。

 酷く儚げに笑ったその顔を見て、夫婦は一瞬、言葉を忘れた。まだ若いこの男の中に、途切れぬ孤独を見た気がして…。






13/03/20 





2 ↓










輪 廻  続・刻の蝶  2  



 さわさわと、風が木々を鳴らしている。それをじっと聞きながら、ギンコは自分の身が今も「この世」に包まれているのを感じていた。あの日、自分ははっきりと、別の「もの」に変えられてしまったけれど、それでも変わらず、化野の生きたこの世界に生きている。

 風は、優しいなぁ、化野。

 ぽつり、心で呟く。さわさわと木々が鳴る。山から山へと渡っていく空気が、静かにギンコの髪を揺らしていた。

 お前の里が、恋しいよ。

 あの、潮の香り満ちる里。海鳴りがいつも聞こえていて、気のいい里人達が住んでいて、優しさと穏やかさに包まれたような、化野の里。けれど、もう、化野が居なくなってしまった里だ。ギンコが恋しがっているのは、彼のいる里なのに。

「こんなに早くに、もう発つのか」

 振り向くと、もうすっかり病を治して、起き上がれるようになったおやじさんが立っていた。ギンコはそちらに向き直って、はっきりと頷いて見せる。

「最後にもういっぺん、抱いてやらんでいいのかい?」

 化野はまだ温かな布団の中で眠っていた。気遣って、そんなふうに言ってくれる男と、すぐ目の前に立つギンコとの間に、半ば透き通った体をした蟲が、すぅ、と通り過ぎていく。無論それはギンコにしか見えていない。彼が長居していたせいで、見知らぬ蟲が随分増えてしまっている。もうとうに限界だった。

 人ならざるものになってさえ、蟲たちはギンコに吸い寄せられて集まるのだ。

「…決心が、鈍るんで」
「そうかい…」

 と、その時、家の中から何やら男の事を呼ぶ声がした。

「あんたぁ、ちょいと手ぇ貸しとくれよぉ」
「…持たせてやる弁当ができたようだ。持ってくるからな」

 貧乏暮らしだというのに、女がせめても餞別代わりに、出来るだけの弁当を作って渡すと言っていたのだ。有り難い。本当に温かな人たちに巡り合えたと、その幸運を噛み締める。ここになら、安心して化野を託して行けると…。

「……あ…」

 おやじさんが大きな弁当の包みを持って、その後ろに隠れるようにして、ついてきた女の腕には、化野が抱かれていたのだ。

「ほれ、こいつが弁当、そいから」
「あんたの大事な大事な宝もんをね。やっぱりちゃあんと、声掛けていかにゃ駄目だよ、いっくら小さい赤ん坊だって、何でも聞いているんだからさ」

 化野は目を覚ましていて、女の腕の中にいるままで、小さな両手を必死に伸ばしていた。

 あぁ、だから…。
 だから、もう、最後にもうひと目なんて、
 思わずいようと思っていたのに。

 胸が詰まって、ギンコは何も言えなくなった。浮かぶ涙が零れない様に、必死で堪えていたけど、それでもぼんやり、赤子の顔が滲んで見えて、その代わりに自分を見つめる化野の顔が見えてくる。

「…あだしの……」

 ぽつん、と、ギンコが言った言葉に、赤子を抱いている女が、不思議そうに首を傾げた。この子の名前は、しのじゃあなかったのかと。けれど何も言わずに、女はもう少しギンコの傍に近付いて、撫でておあげよ、とそう言った。

「撫でておあげよ、それから言っても分からないなんて思わずに、少しだけでも言っておあげな。あんたの気持ちをねぇ」

 ギンコはそうっと手を伸ばして、化野の髪に指を触れた。それから滑らかな頬に触れて、それだけで離れようとした。その袖を、化野は急いで掴んで、小さな手で指で握って、離そうとしなかった。

「…いくな、って言ってんだねぇ」

 女が言った。ギンコは首を微かに左右に振って、化野の指を、丁寧に、痛くない様に気をつけながら、一本一本ゆっくりと外した。そうしながら、ぽつん、ぽつんと彼は言う。

「いなくなるんじゃねぇから…。ちっとばかり、遠くを旅してくるだけだから。ちゃんとお前に会いに来るから…。化野…。そうしなゃきゃあな。だって…俺は…」

 指のお終いの一つを外し終えて、ギンコはすぐに背を向けた。もう一言ぐらい、この夫婦に重ねて頼んで行くべきだったが、それもできなかった。

 これ以上心をあらわにして、放っておいては貰えないほど取り乱し、小さな子供に依存している姿を、見せるわけにはいかなかった。堪え続けた涙が、ひと雫、ふた雫と、頬にこぼれてしまったから。

 追いかけるように、女が言う言葉が、もう遠くなったギンコの背中に届いていた。

「大事に大事に預かるからねぇ…っ、あだしのちゃんのことは、なんにも心配しないでいい。だから気をつけてお行きよ、待ってるからねぇ…」

 もう、あの夫婦と化野の姿が見えない。それがはっきり分かるところまで来てから、ギンコはそっと振り向いた。連なり幾つも折り重なる、山々の尾根が、少しずつ色の違う美しい青色に霞んでいて、それに胸打たれたように、彼は息を付く。

 だって、俺は、そのために、
 こうして、生きてるようなものだから。

 死ねもせず、老いることも出来ず、胸が裂けるような記憶も、いっそ狂わせてくれと思うような事実も、消せずに全部心に抱いて、この先、どこまで生きねばならないのか、わかりもしない。

「……そうだ、稼がにゃぁ、な」

 お前の為に。人一人育て上げるために、どれだけの金が要るのかもわかりゃしねぇが、そうすることが、今の俺にはこの上も無く幸せだ。

 ギンコはまず、遠くへ遠くへと目指して歩いた。布を被り、髪を隠すようになった。正直、自分をよく知るものには会いたくなかったのだ。それでも蟲煙草や、蟲を散らす薬はそろそろ買い求めねばならず、蟲師を生業うための品々も、傷んだものだの失くしたものだの買い足す必要がある。

 種類を決めずに金になる仕事を常にしながら、蟲が寄らぬように転々とし、求められれば当然蟲師の仕事もして暮らす。そうやってぐるりと巡るように旅をして、数月後に、戻ってこようと決めた。

「また一人旅、か…」

 長い旅になる。そう思った。距離のことではない。寧ろ、続いて行く時を思うのだ。

 自分のこれからのことはおぼろげに考えつつも、死なぬ自分の命の長さと、赤子の化野の命の長さを、比べる事だけはしなかった。狂いたくても狂えずに慟哭した、まだ生々しいあの日々を、再現するように思えたから。

「いいさ、本当に一人な訳じゃ、ない…」

 お前がいる。傍には居なくとも、この世に。この同じ空の下に。同じ時の中に「化野」が。俺を待っていてくれるお前が、いるのだ。




「あんたもしかして、髪、白いのかい?」

 あれからひと月ほど後のこと、蟲師の道具を買い求める寄った何件目かの店で、ギンコはそんなことを言われた。頭を覆っている布へと、焦ったように手を置いてから、店のオヤジの目が、自分の片目を見ていることに気付いた。

「…なんで、そんなことを聞くんだ?」

 問い返すと、男は軽く肩をすくめて、ギンコの頼んだ薬草や蟲払いの草を、無造作に差し出す。

「いや、別に…金になる話じゃなかったから、いんだけどな、どっちでも。緑の片目に白い髪の、若い蟲師を探してる男がいたんだよ。見たらどっちへ行ったか教えてくれ、ってな」
「どんな…ヤツだった?」

 ギンコが問うと、男はにいやりと笑って、手の平を上へと向けた片手を、ぐいを前に差し出した。

「こっちゃ薬草やなんかと同時に、情報も売る店なんでねぇ。ただでは言わねぇよ…?」
「まぁ、そりゃ、そうだよな」

 ギンコは軽く溜息を吐いて、やや分かり切ったようなその答えを、幾ばくかの金と引き換えに聞いたのだ。ワタリだ、と、聞いた。俺と同じ年くらいの、ワタリの男が、お前を探していた、と。店を出て、まち旅の道へと戻りながら、ギンコは小さく苦笑した。

 知ってて俺を探してんのかい?
 それとも別の用事でかい?
 すまんが俺は、会いたくねぇよ。

 …イサザ。






2013/03/31





3 ↓











輪 廻  続・刻の蝶  3  




 手にできたマメが、また一つ破れた。

 血があるからなのか、松の葉を茶色くしたような、先の尖った小さな蟲が、その傷に寄り集まろうとする。こいつは赤い色に寄る蟲で、傷に刺さると痛いし膿むかもしれないから、ギンコは蟲煙草を取り出し、火を灯してそれらを散らす。

 残りの煙草はほんの四、五本だから、買い求めなければならない。あれからもう二か月半が過ぎ、あの里に向けて道を折り返したところなのだ。蟲を引き連れて向かいたくなどない。木箱の中身をざっと改めて、他に必要なものがあるかどうか確かめながら、ギンコは懐にある金を思った。
 
 昨日までは、埋まった水路を掘り起こす仕事を手伝っていた。その前は、脚を折った男の代わりに、荷車を延々と押し続けて長い距離も歩いた。蟲患いに罹り、困り果てていた子供を助けたのはその前で、その仕事は少し長く掛かった。

 金を使う用など、どうしても仕事に必要な事だけで、だからギンコの懐は、今までにないほど潤っている。煙草と蟲払いの草は多く買い求めるつもりだ。地図を見て店の場所を確かめてから、ギンコは山を一つ歩き越す。

 そして辿り付いた店の入口をくぐり、欲しい品を眺めていたら、店番の男がひょいと眉を上げたのだ。

「…あぁ! お前さんだね、さっきの」
「? 何の話だ」

 どういう意味かと訝しんでいるギンコの体を、ぐい、と横へ押しのけて、外へ出るなり店番は大声で誰かを呼んだ。

「おぉい、兄さん待ちなよぉ、あんたの探してる人が丁度、今」

 店の裏手の道を、少し先まで歩いて行っていた若い男が、その声に急いで振り向く。使い込んだ茶色の蓑を肩に、随分と山野を歩き慣れた風情。ワタリである。ワタリの、イサザ。

 イサザは駆け戻ってきて、男が指さした店内へと入った、が、そこには誰もいない。

「どこにっ」
「あれぇ? っかしいなぁ、確かに今、緑の目ぇして木箱背負ったヤツが来て」
「髪はっ?」
「だって布巻いてたもんよ、見えなかったけど、それ以外はあんたの言った身なりだったぜ? あんな珍しい服なんか、そうは」

 店番の言う通りだ。髪の色が白かどうか分からなくても、十中十までギンコだったのだろうと、イサザは思う。らしい男を見掛けたって話も、この近くで聞いていたのだ。礼の意味で、店番の胸へと小銭を放り、イサザは道を走り出す。

 一本道だ、捕まえられる。ギンコは来た道を戻っただけだろう。九十九折のこの山道を、どうやって追えばいいのかも、イサザには分かっていた。

 そのまま少し走って、山の地形を浮かべながら、途中で思い切って道を逸れる。枝や根っこに邪魔されつつも、顔を腕で庇うようにして更に走った。曲がりくねった道を二度三度と横切り、自分と同じような方法で、振り切ろうとしている白い頭の男を、とうとう視野に捕えた。

「ギンコ…ッ」

 名を呼んだ。ギンコはほんの一瞬振り向いた。横顔が見え、それからさらに大きく振り向いた顔が、その表情が見えた。怯えたような、目。怯えて、というより寧ろ、怒りと懇願を浮かべているような、顔。

 どうして逃げるんだ。
 どうしてそんな目を。
 ギンコ、どうして。

「なんでだよっ、ギンコ、なんでっ」

 言った途端に、ギンコの目に、恨むような色が確かに揺れたのだ。まだ遠かったが、それだけははっきりと分かった。どうせ、お前には、分からないだろ。ギンコの眼差しがそう言っていた。放っといてくれと、関係ないだろう、と。

 ざ…ッ…!

 細い白樺の木の枝が、イサザの頭上で激しく揺れた。イサザ自身の右手が、まだ若いその木の幹を掴んだからだった。走って走って、どうしてもギンコを捕まえようと、彼の脚はまだ走りたがっていたけれど、イサザの心は一瞬でその思いを打ち消していたのである。

 あぁ…。馬鹿だ。俺。

 会って、どうするつもりだったんだろうな。…俺さぁ。そりゃあギンコは辛いだろ。喚いて泣きたいぐらいで、苦しくて。だけどさ、それをに俺なんかに言ったってさぁ。どっこも平気になんかならない。起こってしまったことは、何にも変わりゃしない。

 居なくなった人は、
 もう、
 戻らないのに。

 屈んで、足元の草を一つ千切って、イサザは高く草笛を鳴らした。ギンコはこの音を覚えているだろうか。昔、彼がワタリと一緒に歩いていて、とうとうそれも出来なくなって、蟲師に引き取られて離れていくとき、イサザはこの草を鳴らしたのだ。

 達者でいろよ、怪我すんなよ、病にも気ぃつけて。
 俺はずっとお前を思っているよ。
 会えなくても、ずっとずっと思っているから。

 もの悲しい草笛の音を、幾度も山に木霊させながら、ギンコの代わりにそうするのだと言うように、イサザはいつしか泣いていた。

 そして草笛の音は、ギンコの耳にずっと響いていた。懐かしい音だと思った。音の鳴る草はギンコの足元に生えていたし、相手の思いが届いた証に、自分も鳴らし返すのが礼儀。それはワタリの決め事でもあったけれど、ギンコは何もしなかった。

 ぴたりと足を止めて、ずっとこっちを見ているイサザの姿を、一度、木々の間に見たきりで、振り向くことさえそれ以上しなかった。逃げながら、分かってくれた、とは思った。悪かった。もう追わない、探さない、だから安心してくれよ、と、多分イサザは言っていたのだ。

 でも、遠くからこっちを見ているイサザの、優しいような、苦しいような目を見た時、ギンコは自分の孤独を再び思い知った。イサザが何を知ったのか、それでどうおもったのか、考えたくなくても考えてしまうからだ。
 
 あの里の、医家の化野が死んだらしくて。
 それがどうやら、ギンコの寄せた蟲に関わることで。 
 だったらギンコは、どんなにか、自分を責めているだろう。

 可哀想に、辛いだろう、苦しいだろう。
 でも、お前のせいじゃないよ、ギンコ…。
 たぶん、優しいイサザはそんなふうに。

 無茶な下山をしていた足を、ギンコもそろそろと止めた。傍らの木に手を添えて、その場にゆっくりと屈んで、地図を広げた。指が震えて、地図の紙ががさがさ言った。別の店を探さなきゃならないからだ。

 早く、蟲煙草や蟲を散らす草を買って、早く、あの里へ戻りたかった。化野に、会いたくて堪らなかった。

 

 

「すいません、すいません、旅の方ですか。どうかこれを」

 旅人がたくさん歩いている大きな街道で、若い夫婦が何やら紙を配っていた。

「すいません、お急ぎでしょうけれど、これを見てください」

 泣きはらしたような悲しげな顔で、女が紙をギンコにも差し出す。夫らしき男も、疲れ切った顔でギンコを見ていた。

「どうか、見掛けたら教えて下さい。私たちの子供が、いなくなったんです」

 受け取ろうとして伸ばしたギンコの手が、びく、と強張った。逃げ出したいような心地が、した。子供が? 子供が居なくなった、って? それは、見つかったら探しに行くと言うことで。取り戻すと言うことで…。

「攫われたんだと思います。まだ一才になってないんです、どうか、どこかで見掛けたら。この子なんです、この子」

 思考することを放棄した脳裏で、それでもギンコの目が勝手に、その紙切れに視線を落とした。書かれていたのは、確かにまだ小さな…。でも、髪をきちんと肩のところで切り揃えた、女の子の顔、だった。

「……ぁ、あ…」

 眩暈でもしたように、小さくよろめいて顔を顰めたギンコに、夫婦は一瞬で縋るような顔になる。どこかで見たのかと思ったに違いなかった。ギンコはすぐに言った。

「わかった、覚えて、おくよ…」
「…お願いします。あぁ、そちらの方も、どうぞこの紙を見てやって下さい。私たちの大事な娘なんです、探しているんです、お願いします」

 道行く沢山の人に、繰り返し声を掛ける夫婦の声が、耳に酷く辛かった。もしもこの絵の顔が、俺の小さな「化野」の顔だったら、きっと俺は、この似顔絵のことを、記憶から消し去ろうとするのだろう。そういう確信が、あった。ギンコは切れるほど唇を噛んで、道をさらに急いだ。

 そうしてそれから五日の後。とうとうギンコは化野のいる里へと入った。

 真っ直ぐにあの家に向かって、あの畑の傍を通ったら畑仕事をする女の姿が、風景の真ん中に見えたのだ。こんもりと丸い形をした背中には、確かに赤子が負ぶわれている。


 ギンコ…!
 あぁ、よく来たなぁ…。


 幻聴が、耳に届く。幻だけれど、どこにもやりたくなくて、ギンコは自分の片耳を、そうっと手のひらで覆った。風が吹いている。青々とした作物の緑が揺れて、その中で女が振り向き、女はギンコの顔を見てにっこりと笑った。

 背中から赤子を下ろしながら、畑の間を歩いてきて、彼女は何かを言う前に、赤子をギンコの胸に抱かせたのだ。四か月と少しの月日が過ぎていて、大きくはなったけれど、それでもまだ小さな小さな化野は、じいっとギンコの顔を見る。そして…

「ぎ、ぎ…ぅ…」

 空耳ではない、確かにそう言った。勿論、ちゃんと喋れてなどいないが、化野は、ギンコの名前を呼ぼうとしたのだ。

「ぁ…あ…っ…」

 腕の力を必死に抜こうとしながら、ギンコは、彼の小さな化野を、腕の中にしっかりと抱き締めた。髪を握られ。上着を握られしながら、しゃくり上げないようにするだけで、精一杯だった。







13/04/13



4 ↓















輪 廻  続・刻の蝶  4  





「すいません、本当に。どうも…」

 囲炉裏の傍に座ったままで、ギンコは首の痛むほど横を向いていた。ちゅ、ちゅ、と子供が乳を吸う音を、さっきからずっと聞いている。ギンコは片腕を妙な塩梅に伸ばして浮かせ、その手首のあたりの袖を、小さな手に握られていた。

「そんなに気にしないでいいわよ」
「あぁ、まぁ…。でも」

 まさか、平気でそちらを向くわけには。

 そう思っているのに、袖を握る化野の手が、時折強く彼を引き寄せようとする。乳飲み子を持つこの里の女が、今、化野にも乳を分けてくれているところだった。腹を空かせた子供のこと、そんな時にはギンコなどより、乳に夢中になりそうなものを、化野の指はしっかりとギンコを掴んで離さないから。

 首が痛くなるほど、というよりも、もう随分と痛くて、目をきつく閉じる代わりに、ギンコは少しばかりそちらへ顔を向ける。乳を分けてくれている女が、困ったようにこう言った。

「そうねぇ、乳飲み子と女なんてのは、元々変な目で見るもんでもないけど。そうは言っても、じろじろ眺めるわけにもいかないか」

 そう言って、女はからからと気軽に笑う。明るくて、細かいことを気にしない女で、今までもずっと、二日に一度は化野に乳をくれていたという。この里の人間はいい人ばかりだ。ギンコは用意してきた金子の幾らかを、礼として女にも渡そうと思った。

 自分からではなく、この家のお母さんからの方がいいかもしれない。ギンコのことも化野のことも、遠くから頼ってきた縁者、と言ってくれているようだ。

「おやおや、吸い終わった途端におねむみたいだよ。あんたのとこへ戻りたいとさ」

 そう言われ、化野の手に引っ張られるまま、ギンコがそちらへ目をやったら、女はまだ乳房をしまってはいなかった。しまった、と思ったが、懸命に差し伸べてくる小さな両手を、握ってやることの方が大事で、気付かなかった振りをする。

 大切そうに腕に抱き取って、教わっていた通りに背中をとん、とん、と叩いてやって。それから改めて、やんわりと胸の前に抱いて顔を覗き込む。

「満腹か…? 良かったな、化野」

 重ねて礼を言われつつ、女は笑顔で帰っていき、それと入れ違いにこの家の親父さんが帰ってきた。近隣の里まで野菜を売りに行っていて、数日掛かって戻ったのである。迎えに出ていたお母さんも一緒だった。

「おぉ、ギンコさん、元気そうで本当に何よりだで。戻るまで随分と掛かったなぁ。大変だったかい、旅先じゃあ」

 満面の笑みで男はそう言って、とっておきの酒を出してくるように言っている。ギンコはそれを目で押し留め、化野を腕に抱いたままで、可能な限り深く頭を下げた。

「何か月も戻らない間、化野をこんなに大事にして下さって、ありがとうございます」

 かしこまった挨拶に、女は慌てて頭を上げさせようとする。化野を彼女に一度預け、ギンコは木箱の中から布の包みを取り出した。包んだそのまま、それを床に置き、ぐい、と男の方へと差し出す。

「これはお礼と、化野を預かる為にかかった金子の払い分です。この子を安心して預けていけた心強さを考えれば、まだまだ足りないくらいですが、ひとまず今あるこれだけを納めて下さい」

 随分と大きなその包みに、男は驚いたように息を飲み、それでも手に取ってしかと確かめた。そして随分呆れたらしく、溜息を吐きながら、自分とギンコの間にそれを戻して言ったのだ。

「どんな無茶をしてきたか知らんが、こんな大金、到底受け取れやせん。正直、その子はもう俺らが孫も同然に思えとる。そうさな、もう季節も変わったで、新しい着物を用意した分だけ、払ろうてもろうたら十分…」
「そんなわけには行きません、まだこの先も、暫くお願いすることになる。それも含めて、どうか…。それに、化野に乳を吸わせてくれていた方にも、お母さんからお礼を渡して貰えたらと」

 ますます深く頭を下げるギンコに、男も女も、また深い溜息を吐いた。短い沈黙の後、男がもう一度包みを手に取りながら、どこか諭すような口調になる。

「のぅ、思うておったんだが。あんたにゃ…随分深く悔いてる事があるんだろなぁ。必死んなって、とにかく何かに償おうとしてるようにしか見えやせんでな。いくら親友の忘れ形見だろうとよ、この子にこんなに尽くすのも、同じ気持ちからかい?」

 男の声が、悲しげに微かな笑いを帯びた。

「そんならなぁ、いつかそうと知った時、この子はあんたに裏切られたような、淋しい思いをするだろよ…」

 聞いたギンコはゆっくり顔を上げた。眼差しは前へと向けられていたが、その目には、現実のものなど何も映ってはいなかった。そのことを思ってもみなかった、訳ではない。身代りなのだと分かっていた。似ているなどと、錯覚でしかないことも。


 化野は…「化野」ではない。
 忘れ形見だなどと、そこからして嘘だ。
 あんなに愛したあの男も、
 あの男の血を引くものでさえ、
 この世の何処にも、存在、しない。

 償うことも出来ない果てへと、
 それを、消し去ったのは……。


 上げていた顔を、今度はゆっくりとギンコは下ろした。この後に及んで、それでも思っているのは自分の痛みばかりだ。小さな赤子を、勝手に自分のものにした罪は、いつ、どんなふうに裁かれるのだろう。お前がいたら、きっと酷く、叱られるよなぁ…。

 板の間の床を、ただただ見つめ、ギンコは小さな嗚咽を、ぽつりと一つ。

「あんた…っ…」

 女が夫を、短く叱責する声が聞こえた。男が狼狽する気配も感じた。いや、ギンコは聞こえても感じてもいない。それを遠くに聞きながら、既に意識はそれよりも遥かに、遠のいていた…。
 

 


 おやすみ おやすみ うつつの傍で
 お腹が空いたら 目をお開け 
 おやすみ おやすみ この腕の中
 名前をよんだら お戻りよ

 夢は夢だよ 忘れちゃならぬ
 うつつと向こうの その境
 夢は夢だよ 溺れちゃならぬ
 とうやかあやへ お戻りよ
 

 何か温かなものが、ギンコの腕の中にあった。ゆぅらりゆぅらりと、揺蕩うようで、その温もりが嬉しくて、目が覚めそうなのを忘れたがっていた。横たわった頭が、何か柔らかなものの上にあって、その柔らかなものが、ずっとゆらゆら揺れているのだ。

「まだ…起きねぇのかい…?」

 誰か、男の声が聞こえた。

「うん、そうさねぇ。疲れているんだろうよ。あんたも言ってたけど、随分と無茶をしてきたようだねぇ。この細いお腹を見てごらんよ。いったいさぁ、ちゃんとご飯は食べてたんだろか。一銭たりと減らさない様に、貯めて持ってきたんだろうよねぇ…」

 とろとろと、さらに眠りを誘うような、おっとりと柔らかな女の声がする。

「悪かったよ」

 また男の声。そして女が。

「責めてなんかないよぉ、あたしゃ。だって思ってたもの、あたしもさぁ。この人、何を背負ってるんだろか。って、ねぇ…」

 でも、と女は言うのだ。

「子供は大人と違って、困るくらいに真っ直ぐだからさ、それがどんな中身だろうと、愛されてりゃあ分かるもんだ。ごらんよ、ほれ、この子の目をさ」

 ギンコは眠っている。胸の上に化野を乗せて、自分の頭は板の間に座った女の膝の上。ゆらり、ゆらりと優しく揺すられながら、女はさっきまで子守唄を歌っていたが、化野は眠ってなどいなかった。その目でずっと、瞬きさえろくにせず、じっとギンコの寝顔を眺め、ギンコの服の胸のあたりにしがみ付いている。

「あだしのちゃんは、しっかりものだよ。ギンコさんが辛いのをちゃんと分かってるんだ。それで小さいなりに、こんなに一生懸命になって、支えようとしてる。癒したげようとしてるんだよ」

 だからもっと大きくなって、何かを知る時がこようとも、こんなに強い絆は、切れることもなく、縒れることもありゃしない、と、ゆらり、ゆらり、揺り籠になって、女は思っていた。



 
 ギンコは丸一日、眠っていた。気付いた時にも、化野が傍らにいて、まっすぐに彼を見つめていた。化野を抱き上げて起き出していって、ギンコが親父さんの顔を見た途端に、彼は怒ったようにそっぽを向いて言った。

「このあばら家の北側の壁をな、ちょいと直すことにしたで。それから布団の綿の打ち直しを頼んだ。冬んなったら、その子が寒いといかんしな」
「…えぇ、ありがとう、ございます」

 金を受け取ってくれると、そういうふうに聞こえた。改めて頭を下げると、男は嫌そうに顔を顰める。

「余った分は預かっとくでな! あんたの要り様の時は、いつでも返す。それからっ、その…畏まった物言いはよして貰おうかの。耳慣れんで、なんぞ痒くなるでな」
「はい…。いや、わかったよ、親父さん」

 笑顔を見せると、男はようやっと嬉しそうな顔になった。土間の方から女がギンコを呼んだ。

「起きたのかい? よぉく寝たねぇ。大きくなったから、あだしのちゃんの食べるもん、随分変わったんだよ、作り方、覚えたいだろ? こっち来てあたしの手元やっておくれなぁ」

 寄って行くと、温かな湯気が頬にふわりと当たった。






 

 


  

  
 なんと言いますか、化野とギンコだけの話じゃないようだ。どうも、二人だけ、っていうのが書けなくなってるようで、ちょっと微妙な…。でも親父さんとお母さんも、お乳をくれた女の人も、本当にいい人だと思うんですよ。うん、人徳さね。

 それにしても、親父さんのひとこと、かなりきつかったです。悪気は勿論ないんですがね。それにしてもきつい…。



13/04/29


刻の蝶というお話の続きです。
でもそっちを読み返すときは
内容にご注意ください。
心的負担がデカいですよー。

輪 廻  続・刻の蝶  1