閲覧注意。です。
 化野とギンコをお好きな方で、今現在心が弱っている方は、
 お読みにならない方がいいかもしれません。
 あぁ…おどしてごめんなさい…!






刻 の 蝶  トキ ノ チョウ  5






 

 頬に、涙が止め処なく零れ落ちていた。

 その雫はそのままに、ギンコは化野の体に触れ、彼の胸の薄さに息を詰める。ギンコに縋りついた腕はまるで枯れ枝。目の下の隈、乾いた唇、こけた頬。

 別な布団を敷き直し、ギンコは化野の体をそこへ横たえた。あたりに置かれている書を開いて見ようとは思わない。こんなものを集めるために、こんなものを読み解くために、化野がこれほどの無理をしたのだとわかっている。それがどんなに無為だったのか、目の当たりにするのは辛過ぎた。

 やがて目を覚まし、自分へと伸べてくる手を、ギンコは握ってやる。

「いる…な…?」
「……」

 握った指をそのまま口に運んで唇をつけてやると、うっすらと儚げに、化野は笑う。

「怒って…いるか? あんまり、放って置かれたんで、な…。悪いことばかり、考えちまうんだよ。俺に言えなくて、辛い思いしてやせんか、と…なぁ。だから、俺にも出来ることを…と、それだけ…」
「あだし…」
「あぁ、泣いた、ろ…」

 化野は自分の腕を酷く重たそうに、それでも無理して持ち上げて、ギンコの頬に触れるのだ。もう、ギンコの頬は乾いていて、泣いた跡などどこにもないのに、それでも言い当てて。

「泣くことなんぞ、どこにもありやせんよ。また会えて…俺は、うれ…し…。ぐ、ぅ…ッ」

 腹の辺りに手を置いて、化野は急に身を捩らせた。歯を食い縛り、脂汗を滲ませ、必死で背を丸めると、ガクガクと全身を震わせて嗚咽を零す。気付けば、枕の横に丸めた布があって、ギンコはそれへと手を伸ばし、隠されていた内側の色に息を止めた。

 赤黒く汚れた、血の跡。吐血の色だ。腹を押さえて苦しむさま。吐いた血の色。これは臓腑をやられている。何処かから移されるような類の病じゃない。原因は、明らかに、心労と、過労と。

「ぎ、ギン…コ、どこだ…? どこに…」

 目が彷徨って、ほんの少し離れただけで、ギンコの姿を見失っているとわかる。

「なぁ…。ギンコ…? おまえ…、言えば、きっと…怒るとわか…っ、…いたが、あの日…の、あの、蝶…、を」

 ぜぇぜぇ、と化野の喉が鳴っていた。喋るな、とギンコは言ったが、そう告げなくとも、もう声は続かなかった。再び意識を失いかけている化野の体を、少しでも息が楽なように、心臓を上に横向きにさせ、ギンコはそっと彼の腕を撫でる。

「……ぎ…ん…」
「もう…いいよ、今は喋らないでくれ…。頼むから…」
「……」

 ギンコがそう言った時、もう化野には意識がなかった。傍を離れるのを酷く恐ろしく感じたが、ギンコはそれでも化野の家から出て、少し前に外で見たあの医家の住まいを探した。歩いていった方向へと道を進むと、以前はずっと空き家だった家に灯が入っている。戸を叩いて、ギンコはその男に懇願した。

「あいつを…化野を診てやってくれ。このままじゃあ…」

 続ける言葉は言えずにいたのに、戸口へ出て来た医家は、酷く悲しげな顔をしてぽつりと言ったのだ。

「診ては、いる。だが、もう、手の…施しようも…」

 出来ることといえば、痛み止めと滋養の薬を飲ませ、無理をさせないようにするだけ。それで一日でも長く、消えかけているあの命の火を、消させないようにすることしか。そして、化野自身もそれをわかって、それでも人を遠ざけて無理を重ねているのだと。

 勿論、里のものたちに化野の体のことは告げていない。文を届けに来るものに、化野自身が何か話をしては、自分から皆を遠ざけようとばかりしている。

「最初の頃、嫌がるのを無理にでも治療をしていたが、昏睡に陥るたびに、誰かの名を呼ぶのを聞いた。他の里の人も、その声は聞いてるそうだ。あれはきっと、あんたのことだろう…。ギンコ、と。繰り返し繰り返し、壊れたように」

 辛そうに視線を逸らし、その医家は言った。

「傍に戻った方がいい。少しでも長く居てやることだ。あんたは旅の身の上だろうが、今、離れたら…」


 ……もう二度とは、会えないよ…

 


 
 あまりにも苦しいとき、人の心は麻痺してしまうのだと、聞いたことがあった。これがそうだろうか、とギンコは思っていた。涙も出ず、叫び出すこともせず、ギンコは静かにそこにいる。化野の傍らで、瞬きすら出来ずに彼を見つめ、浅い眠りを妨げぬように、それでもそっと体に触れた。

 指に伝わる温もりが愛しくて、その愛しさだけで、胸が詰まる。唇が震える。


 これは、なんの冗談だろう。
 誰がこんな、酷い悪戯を仕掛けているんだろう。
 化野に? 会えなくなる? どうして? 
 自分がこの里に踏み入りさえすれば、
 いつだってここに居てくれたのに、
 そんな筈はないだろう?


 ふ、と化野の目が開いた。その目がぼんやりとギンコを見て、少し笑うと、殆ど聞き取れないような、息だけの声で彼は言った。

「ほ…ん…。読ん…だ、か?」
「…あぁ、読んだよ。随分集めたなぁ、化野。中々、興味深いものも中にはあったよ…」
「そう、か? どれ…が?」

 どの本に書かれた蝶のことが、ギンコのためになったのかと、化野は聞きたがる。ギンコは顔を歪めてしまいそうになりながら、幾つも積みあがっている中から一つを取って、化野に見えるようにかざした。本当は、どの本にだって触れてもいなかった。

「これとか…」
「…ど、れ? 見え…ないんだ…、ギ…」
「あぁ…これ、な…。蟲記す書、って、やつだ」

 やめてくれ、と、そう言いたかった。残り少ない灯を、そんなことばかり思って費やすのは、もうやめてくれ…。

「ほか…には…? 読ん…」
「あ…、あだし…」

 震えてしまう声を、もう隠せてはいなかった。化野はギンコの声のする方へ、布団の上に手を這わせ、そこに微かに爪を立てる。最期なのだと、もう自分が知っていたように、ギンコもわかっているのだと、彼は気付いたのだ。

「は…は…、ばか、だなぁ…。ギン…コ…は」

 そうして彼の唇へと、耳を寄せたギンコの心に、ぽつん、ぽつん、と一言ずつ、化野は囁いた。長い長い時間を掛けて、途切れながらも彼は言ったのだ。


 泣くなよ、ギンコ。

 お前に会えて、幸せだ。
 お前を好いて、幸せだ。
 お前も俺を好いてくれて、
 なんの未練が、あると思う?

 なんて幸せな生の終わりかと、
 俺は本気で、思っているのに。

 
 堪えていた涙を、ぼろぼろとギンコは零した。顔を歪め、息を殺し、嗚咽の一つも洩らさずに、息遣いだけで続いている化野の、最期の言葉を彼は聞く。


 あぁ、ずっと、言いたかった…
 今言うのじゃ変だが、な…



 ギン…コ…  お、かえ…
 
 
  
 
 時間が、止まる。

 最期のその言葉、残りのたった一つを、終わりまで言わせてもくれないで、誰が…この、いっそ非道いほどに優しい男から、命の灯を奪っていったのか。

 止まったその時間の中で、ギンコは叫んでいた。喉が裂けて、血が迸るような、そんな叫びが里の闇夜を裂いていった。



 ぅあ、ぁあ゛ ぁああああ…ぁ…ッ… !





 続
 


11/08/15



↓6へ続く

















刻 の 蝶  トキ ノ チョウ  6


 あ、引き続き閲覧注意。です。
 化野とギンコをお好きな方で、今現在心が弱っている方は、
 お読みにならない方が…。







 その朝の空は、いっそ、怖くなるほどに高く、高く澄んで。


 まだ早い時間に、化野の、隣家の家の雨戸が、ごと、と音立てて開く。中から顔を覗かせた女の顔は、酷く青い。表の戸口から出てきた男の顔もまた青ざめて、眠れぬ夜を過ごした証に、目の下には隈が見えた。

 二人の顔が、辛そうに歪みながら化野の家の方を見る。夕べ遅く、闇に響いたギンコの声を、二人は聞いて、そしてその理由を思っていたのだ。

 とうとう…。あぁ、とうとう…。

 やっと来てくれたのに、と男は思った。
 間に合わなかっのだ、と女は思っていた。


 その同じ日の朝のうちに、何人もの里人が、里を横切る彼の姿を見た。目にした途端、声を掛けようとするものがある。遠くから見て、すぐに駆け寄ってこようとするものもあった。実際に傍まで来て、名を呼ぼうと息を吸い込んだ子供は、けれどそのまま黙り込んだ。

 里人は、何ヶ月もギンコを待っていた。見るからに一日一日痩せ細っていく化野のことを、知らなかったものはいない。自分の代わりの医家を呼び寄せた彼に、理由を聞いたものもあった。

 その都度、化野は言ったのだ。

 少し体調がすぐれないのだ、と。
 それから、どうしても調べたいことがあって、今は医家の勤めをちゃんと果せそうに無い。我侭なことで、本当にすまん、と。

 集めていた書は蟲に関するものばかり、そして書を読む手を止めるごと、縁側から遠く風景を見て、彼は待つ顔をしていた。だから、里人は皆、思っていたのだ。願いを込め、その願いを託すように、ずっと皆で思っていた。

 先生はきっと「蟲患い」なのに違いない、だから自分でも調べながら、毎日あの人を待っているのだろう。そしてあの人はきっと先生のことをちゃんとわかっていて、助けるためにこそ、中々これないでいるのだろう、と。

 早く。先生のために、一日も早く来てくれ。先生はろくに養生もせず、日々痩せていくばかりだ。どうか早くきてくれ。来て、先生を助けてくれ、と。

 人々はだから、ギンコの姿を見て、歓喜した。やっと来てくれたと思った。だけれどその姿をよく見た途端に誰もが思った。

 あぁ… 間に合わなかったのだ…。

 誰も、ギンコに声を掛けるものはいない。表情のない彼が、里を横切るのを、ただ項垂れて見送り、その姿が視野から消えると、皆、涙を零した。掛け替えの無い人を失った心の痛みを、少しずつでも癒すために…。

 そしてギンコは、あの医家の家へ行って、無言で小さな包みを差し出した。今、彼が持っている僅かばかりの金を全部入れた包みだった。そうして彼はたった一言、ぽつりとこう言った。

「…弔いに… 使って くれれば…」

 医家はくしゃりと顔を歪めて、零れそうになった言葉を飲み込んだ。

 いい人だった、と言い掛けたのだ。
 惜しい人を、と言おうとした。
 
 その言葉すら残酷だと、言う前に気付いて、わかった。とだけ呟くと、ギンコの差し出した包みを受け取った。彼が顔を上げて見たギンコの顔は、まるで蝋で出来た人形のようだ。瞳は変わらず翡翠の色だが、何も映してはいなかった。

 ギンコは最後に一度、小さく頭を下げて、速くもなく、遅くも無い足取りで里を出て行ったのだった。




 ギンコは歩いていた。

 無心に、ただ歩いていた。夜も、朝も、昼も、歩いていた。歩き続けていた。行き先など考えてはいなかった。道を、ただ歩いていた。眠った覚えもないし、喰った覚えもないのに、それでも歩いていた。どれだけ時間がたったのかもわからないまま、彼はただ歩いていたのだ。

 心の奥に繰り返し流れているのは、あの夜のこと。

 あいつが、あの、優しい言葉を、告げてくれたあの夜のことだけ。獣のように叫んだ声が、自分のものだなんて思っていなかった。伸ばした手で触れた体が、ゆっくりと冷えて、つめたく、固くなって…。

 それを、どうしてだろう、と思っていた。

 のろのろと手を動かし、着物の前を開け、冷たい胸に耳を付けた。鼓動がなかった。冷たい唇に、唇をそっとのせたが、零れてくる息を感じなかった。頬、首、胸、腹へと撫でて、どこもかしこも、すべてが冷えていて…。

「……ぅ…」

 ただの一度、叫んだだけの喉は、どうしてかもう枯れていて、声も出ない。瞬きを忘れたギンコの目からは、涙も零れず、ただただ、その姿を焼き付けるかのように、じっと朝まで見つめていた。…そう、その時のことが、淡々と、淡々と、心の奥で繰り返されている。

 歩きながら、何も思っていないようでいて、本当はギンコはずっと思っていたのだ。

 狂え …      

  狂え 狂え 狂え

   狂え 狂え 狂え 狂え 

 でも、狂ってしまうことは出来なくて…。どれだけたったかわからないままで、ふと、ギンコは思った。そうか、死んでしまえば…いいんだ…。

 お前は優しいから…そんな形の償いでも、きっと許して、くれるだろ? なぁ、そうだろう? 化野…。

 心の奥で、ぽつり、と、名前を呼んだ途端に、悲しみが、激流のように彼へと押し寄せる。さらに痛みが押し寄せて、最後には淋しさが、彼の心をへし折ったのだ。

 亡くした悲しみよりも、痛みよりも、もう会えない淋しさが、何より大きくて、ギンコは一度立ち止まった。ずっと見えていなかった風景を見渡し、そこがどこなのか確かめると、ギンコは道を逸れ、木々を掻き分けながら山の奥へと入っていく。

 なりふり構わないせいで、すぐにギンコの体は傷だらけになった。

 尖った枝で腕や頬を切り、沢で脚を滑らせてずぶ濡れになった。水で濡れたのが乾いたのに、片足がいつまでも濡れていて、ふと見下ろすと、右足の膝から下は赤く染まっていた。たぶん、川底の岩で皮膚を切ったのだろう。痛いとは思わなかった。

 点々と、岩に血の跡を残しながら、彼は激流の川の傍を登り、やがてはそこに辿り付いていた。瀑布の轟きも、耳を裂くほどに激しい、滝。


 違うさ

 死んだら会える、なんて、

 都合のいいこと、思ってやしねぇよ。

 ただ、俺は、逃げるんだ。

 この痛みから、逃げるんだ…。

 
 非道いな、と一度は思った。あんなにまでして思ってもらったのに、その命をこれから自分は捨てるのだ。哀しげに項垂れて、ギンコはその手に、小刀を握った。






11/08/21




↓7へ続く














刻 の 蝶  トキ ノ チョウ  7








 赤い、赤い、飛沫が跳ねた。同じ色に濡れた刃物を、滝壷の中に放り投げて、俺もそのまま身を投げたのだ。斬った途端に意識が途切れそうなものを、いつまでもだらだらと「心」があって、俺はぼんやり、過去を思う。

 あぁ、寒いよ。冷たいよ。だけど俺の心の中は温かい。こんなに狭い心しか持たない俺なのに、そこには「お前」の存在が幾らでもあって、笑ってたり心配してたり、怒ってたり焦ってたり、悲しんでたり泣いてたり、幸せそうに、していたり…。

 あぁ、あぁ、俺を見るお前の顔が、記憶の中で何度も何度も、あぁ、本当に何度でも、幸せそうに、綻んで…。
 
 そうだよ。だからそう言ったじゃないか。
 出会えただけで、満足なんだ。
 幸せすぎて、いつも怖いくらいだった。
 臆病で、言いたい言葉も言えなかった…。

 でも、お前に出会えてから、たった今までの短い時間の中に、俺はどんなに掛け替えの無いものを貰ったのだろう。その思い出を抱いたまま逝けるなんて、こんなに幸せなことはないんだ。

 なぁ、化野。

 おかえり…。って、言ったのか? あの時。いつも何も言わなかった俺が、ずっと焦がれて欲しかったものを、どうしてお前は知っていたんだ?
 ただいま、もうそんな言葉を放つだけの力もないし、俺はこうして今、水の底。ただ泡が散るばかりで、ちゃんと返事が出来なくて、ほんとうにすまない。どちらにしても、お前は…もういないんだ…。

 お前も最期には、俺との思い出を見たのか? いつも代わり映えのしない無表情ばっかりで、何にも面白くなんかないだろ? すまんな、もっともっとお前みたいに、俺も笑っていればよかったな。

 すまん…、俺のせいで、お前は…。 

 あぁ、ほぅら、不思議だ…。見ろよ、化野。なんだか綺麗だと思わないか? 俺の喉から赤い紐が、いつまでもいつまでも伸びていくみたいだ。俺の血が水の中で、布を広げるように水を染めていく。何、別に痛くなんかないよ。そんな顔すんなって。

 あぁ、そろそろきっと、眠れるから…。
 じゃあな、化野…。
 お前と同じ場所には、いけそうにないけどな。

 だけど幾百回も、幾千回も、魂の輪廻は続いていくのだそうだ。その、幾万回ものずっと先で、同じ時の中で生まれて出会えたら、いいな。だけどその時は、お互い何も知らないのかもな。淋しいけど、辛いけど、な。


 あだしの

 俺と 出会ってくれて

 ありがとう

 どんなに くるしくても

 俺は またお前に会える

 人生が 欲し…
 

 深い深い滝つぼで、激しい激しい水流に、彼の体は水の底へと押しやられ…。血を流したまま、息もせぬまま…薄っすらと目を開いて、心の中の何かを見つめ、幸せそうに笑っていた。


 

 
 やがて…

 季節は秋を見送り、冬を経て、次の春が訪れた。その滝つぼに水を落とす川は、ずっと上流の土砂崩れで塞き止められて、今は穏やかに水を流すばかりだ。

 随分静かになってしまった滝の水が、浅く広く溜まって揺らぐ岸辺に、少し前から続いている泣き声。赤子の声だ。弱弱しく途切れたり、また泣き始めたり、途切れたり…。泣き声の在り処には、半分水に落ち掛けた小さなたらい。その中に敷き詰められていた布ごと、その赤子をそっと抱き上げて、小さくあやす様に…揺する。

「……捨てられたのか…?」

 男の声がそう言った。涼やかな風に髪が揺れ、そこにある一つきりの目で、彼は赤子を見つめていた。すると赤子は泣き止んで、じっと彼の瞳を見つめ、小さな小さな手を、触れたそうにその顔へと伸ばした。

「こらこら、お前、誰かみたいだな。そんなに好きか、この目が。そうか…。ならやろうか、お前に。目ぇ一つだけじゃなくて、俺のすべてを、お前にやろうか…」

 もう命なんて、俺はいらないのにな、と彼は笑った。捨てようったって、捨てられねぇんだよ、と。見上げた空は春にしては高くて、過ぎ去ったあの日を思い出させた。心の大半を、ごっそりと失ってしまったというのに、それでも暫くぶりに見る世界は、広く広く美しく…命に満ち…。

「あだしの…」

 ぽつり、と彼は赤子に向けて呟く。

「お前、そんな名、嫌か?」

 じっと見つめて、男は言った。

「俺はギンコっていうんだ。なぁ、お前、いつか俺の名、呼んでくれるか。あいつみたいに…呼んでくれるか…?」

 似ている、と、そう思ったのはきっと錯覚。こんな小さな赤子の姿、似ているも何も無い。泣き声まで、あの声に似ているだなどと、愚かしい空耳に決まっている。だけれど、ギンコは赤子を見つめていた。

 この子供は、このままここに置き捨てられていたら、死んでしまう。獣に喰われるか、夜の寒さに負けてしまうか、それとも餓えて、痩せ細ったあげく…。ギンコは顔を歪め、思い出したあの姿に唇を噛む。

 この子を助けたい、と、そう思った心は、清くなどないと自分で分かって、それでもギンコは赤子を抱く腕を優しく揺らした。

「よし、よし…化野…」

 そうして彼は、風雨になぶられたままでも壊れなかった木箱を、生い茂った草木の中から引っ張り出す。開きにくい引出を開けて、湿って黴臭い着替えを、辛うじて見つけ出して纏う。赤子の体を包んでいたのが、継ぎあてだらけの古びた綿入れだったから、満足そうに笑ってそれへも腕を通した。

「酷いなりだが、まぁしょうがねぇさ。さてと、人里はどこかね…。お前、腹が減ってるだろう?」

 ギンコは随分暫くぶりに、日の光に目を細めた。そうして心に染みている誰かの面影に、泣きそうな顔でそれでも少し笑った。


 ギンコ。
 死ねないなら、生きろ…
 しっかりと、生きろ…


 あぁ、酷いことを言うもんだ…。水底で、何度も聞こえた幻のような声を思い出して、ギンコは小さく悪態をついた。いつか数え切れない輪廻の先、もしも、万が一奇跡のように、お前ともう一度出会えたら、酷ぇ奴だ、と一言罵ってやる。

「じゃ、ぼちぼち行こうか。なぁ…?」

 彼の腕の中で、誰かによく似た目が彼を見上げた。いかにもあの男が言いそうな言葉が、ギンコの心に響いてきた。



 おぉ、そうか。
 これからお前と、ずうっと旅か。
 そりゃあ、楽しみだよ、ギンコ…!
















これで救いのあるラスト、だなんて思っておりません!

そりゃあギンコが死んで、化野も先に死んでてってのより、いいのかも知れませんが。あの…あれですね「想像を絶する修羅」? けれどギンコが腕に抱いたあの赤子は、本当に「化野先生」ですから! 急いで成長してくれたらいいな、と思うのですーっっ。

 続き? ええ書きますとも、そのうちに! その時は読んでやって貰えると嬉しいです! ありがとうございましたーっ。



11/08/30