※思いっきり死にネタとなってます
どうぞ御注意くださいませ
刻 の 蝶 トキ ノ チョウ 1
見えていた星が、一つ、一つ、見えなくなった。
誰も見上げぬ深夜の空に、黒雲のように広がるものがある。
聞こえる音は何もしなかった。
誰にも気付かれぬように、誰にも邪魔されぬように。
ざぁ…っ…
聞こえぬ音で空を覆うは、
「 」を繋ぐ、蟲の声…。
「暫くじゃないか…!」
言った途端に、化野の膝の傍で、茶の入った湯のみが倒れた。畳の上に零れて広がった茶を、うっかりと踏んでしまって、化野は焦っている。そんな彼を見て、まだ旅姿を解かぬギンコは、おかしそうに、ふ、と笑った。
「…そうかもしれん」
「そうだぞ、ギンコ、秋以来だ。…よく来たな」
慌てて手布で畳を拭いて、そんな仕草も適当に、化野はギンコの茶を入れに立つ。茶なんか本当は入れに立ちたくはないのだ。それよりもギンコが幻じゃないのかどうか、触れて、抱き締めて確かめたくて仕方ない。いつも会うたび繰り返される、これは恋しさの痛み。
「あぁ、茶でいいか? それとも酒を出そうか」
「茶でいいよ。お前、酔うと…。いや、なんでも」
背中から木箱を下ろす姿。首にしっかりと巻いた布を解き、コートを脱ぎ、囲炉裏の傍に座る仕草。化野は茶を入れながら、その姿を視野の端に見ている。心に痛いような嬉しさが染みてくる。
ギンコが旅支度を解く姿を見るのが、化野は好きだった。それは今から、二日三日は去らずにいてくれるという証だから。
「旅はどうだ?」
そう聞くのはいつものこと。
「いや、相変わらずだよ」
それも決まった返事だった。少し俯いているギンコへ、熱い茶の入った湯飲みを差し出す。拭き足りなくてまだ濡れている畳の目を、ギンコが何とはなしに布で拭き直していた。
「今日はこれといった土産がなくて」
「あぁ、またそういう。別にそんなのはいいって言ったろ。…お前が来てくれるだけでいいよ」
何度言わせる気なのかと、化野はもどかしく思う。互いの気持ちを確かめて、それからもう何度も会っているのに、その前までのやり取りは中々崩れない。ものを売りに来る蟲師と、珍品好きの医家。それだけだった頃とは、もう違っているはずなのに。
ギンコの顔がよく見える場所に座りなおして、化野は斜めに首を傾け、少しだけ項垂れているギンコの顔をそっと覗き込んで言うのだ。それはついさっきの彼の言葉を揶揄した言い方。少しばかり意地悪に笑うその目が、愛しさで満たされて揺れている。
「茶でいいよ、か? 俺が酔うと、どうなるって?」
「……そ、そんなこと、言ったか? 俺」
「言っただろ?」
くすくすと化野は笑うのだ。笑いながら手を伸べて、ギンコの腕を捕まえる。こんなふうに引き寄せようとして感じる、微かな抵抗は来るたび淡くなった。既にほんのり染まっているギンコの首筋も耳朶も、愛しくて愛しくて苦しくなる。
こうして、からかいながら抱き寄せてしまえるほど、二人の関係が変わったと思うのに。なのに、化野はいつもいつも、言おうと決めていて言えずにいる言葉が一つあって。
「ギンコ」
「…ん…? なに…。ぁ…」
ちゅ、と音を立てて首筋に跡を付ける。困ったように眉根を寄せるギンコの表情に、鼓動を高鳴らせながら髪を撫でる。焦らないように、急がないように、気をつけながらギンコのシャツのボタンを外して、化野はその耳に囁いた。
「なぁ、言っても、嫌がらないか? お前」
「何を…だよ…」
「よく来たな、の代わりにさ」
「………」
シャツの下から手を滑り込ませ、胸を撫でながら化野はそう聞いた。ギンコはどうしてか顔を横に向けて、うっすらと開いた瞳を潤ませている。ん、と低く声を上げ、ほんの些細な愛撫に仰け反る仕草は、化野の言葉を止めさせてしまうほどに色っぽくて、可愛くて仕方なかった。
「…ギンコ、ギンコ」
「あ…、は…っ」
畳の上に仰向けで、片膝を立てた格好で、ずっと視線を横に逃がしていたギンコが、戸惑うように僅かに化野を見て、喘ぎながら唇をわななかせる。
「ぁ…あ…。か…代わり、に…?」
「……うん」
愛撫に心乱されながら、もう溺れてしまいそうになりながら、それでもギンコは、化野の言おうとしている言葉を聞きたがった。化野の背中で、着物の布地を握っている指が、心細いように震えている。
「なんで震えるんだ、ギンコ」
化野は宥めるように言う。怖いことを言われるように思うのか? 何か不安に思うのか? 化野はいつも不思議でならない。ギンコはどうしてこんなにも臆病に、人との関わりに怖気るのだろう。
「お前がもしも俺や、俺がお前を待っているこの家を、自分の場所のように思ってくれているのなら、いつもお前が来たときに言うよ。ずっと言いたいと思ってたんだ」
化野はギンコの耳朶に唇をつけて、そっとその言葉を、
その時、びく、とギンコの体が震えた。視線が惑うように部屋の天井を見て、壁を見て、それから閉じている障子を見た。ただでも白いギンコの肌が…その顔が、急に青ざめていくのが判った。
「ギンコ、どうした?」
「……蟲が」
「蟲? どこに…部屋の中か?」
ギンコの視線は動いている。天井へ、壁へ、そして障子や襖へ、床へと。
「外、だ…」
怯えた目。こんなギンコの顔を見るのは、始めてかもしれなかった。心配になって、抱き締めようとした体は、化野の腕の中から逃げていく。その頃には、化野の耳にも微かに聞こえ始めていた。
小さな何かが無数に、外にいる。そしてその何かは家を取り巻いて、壁や屋根や雨戸に次々とぶつかっているようだった。数え切れない小さなその音は、幾千、幾万と重なって、まるで、吹雪の中で木々の葉が擦れ合う、ざぁ…、という音に似て聞こえた。
「この音が蟲の立てる音か…? ギンコ?!」
ギンコはまさにたった今、開いた障子を閉じるところだった。自分はその向こうへ出ながら、化野を小さく振り向いた。
「何があっても、何が聞こえても…、絶対、外には出ないでくれ」
「ギンコ!」
化野は反射的に閉じた障子へと走った。激しくそこを開けるが、見えたのは閉じられる寸前の雨戸と、その向こうに行ってしまう、ギンコの後姿。そして…
そして化野の目に、ほんの一瞬映った「黒」。それは無数の蝶だった。
続
11/06/12
↓ 2へ
刻 の 蝶 トキ ノ チョウ 2
本当は、どうしたらいいかなんて、何一つわからないのに、ギンコは外へと飛び出したのだ。そのまま為す術もなく、視界を覆う蟲の只中に、彼は立ち尽くしているしかなかった。
あの一瞬に思ったのは、ただただ、化野を守りたいと、そのことだけだ。そのためならどんなところへだって出て行くし、自分が危険な目に会うのなんか構わない。
だって、やっと見つけた居場所なのだ。やっと見つけた、大切な…。激しく荒れ狂うような蟲の大群の中で、思っている。ギンコ、と穏やかな声で名を呼ばれるたびの、痛いような切なさ。気付けばそっと、自分を見ているあの眼差しの優しさを。
こんな時だと言うのに、泣きたいようなその幸せを思って、ギンコは唇を噛んだ。うっすらと目をあけて、開いた目に映すのは、化野と過ごした幾つもの時間。
「あ、あだし…の…」
大丈夫。何があったって。俺が…守る…。
ギンコの瞳に映っているのは、逆巻く濁流にすら似た、黒、黒、黒い蝶たちの渦。そうしてその中に時折混じる、ほんの数匹だけの真っ白な蝶。淡く光るその蝶の軌跡が、刺さるように目にあざやかで。
「…ひ…ッ」
開いていたギンコの目を目掛けて、その白い蝶がぶつかってきた。右目ではなく、何も無い左の眼窩へと。ギンコは短く悲鳴を上げて、反射的に顔を庇う。よろめいて、庭の木に背中をぶつけ、そのまま背中を小さく丸めた。
このままこうして、やり過ごすしかないのか、とギンコが頭の隅で思ったその時。聞こえたのだ、雨戸をがたつかせる音と、化野の声が。
「ギンコ…っ、ギンコ、大丈夫か…ッ」
「…化野、開けるな…ッ!」
顔を上げて、そう叫んだほんの一瞬のこと。開いたギンコの口の中へ、白い蝶が吸い込まれるように…。
「…ぅ…ッ、う…」
「ギンコ…!」
「う…。は、早…く、戸ぉ、閉め…ろ…ッ」
ギンコの必死の目。苦しそうに蹲ろうとする体。それでも彼は化野の方を見て、微かに開いた雨戸の方へと手を伸ばす。やっと手が戸に触れ、もう一方の彼の手は化野の体を家の中へと押し戻す。
「か、隠れて…いろ…」
そうして、満身の力を込めて、ギンコはその雨戸を閉じた。そのままそこへ縋りつくように座り込み、けれどもけして、閉めた戸から手を離さず、きつくきつく押さえ続ける。地に膝を付き、あたりを飛び回る蝶たちに体をなぶられ、息も絶え絶えになりながら、それでも…。
どれだけの時間が経っただろうか。
蝶は少しずつ消えていった。飛び去っていったものか、それとも存在自体消えたものかなどわからない。そして、それほど時間が経ったはずも無いのに、もう明け方の光が、空の隅を照らし始めていた。蝶に覆われたこの家だけは、その間、別の時が流れていたのかもしれなかった。
「ギ…ギンコ…?」
がた、と微かな音をさせ、雨戸が小さく開いた。もう、ギンコはその戸を押さえつけてはいなかった。丁度すぐその傍、幾つかの踏み石の上に、体を小さく縮こまらせて、彼は意識を失っていたのだ。
「ギンコ…ッ、おいっ!」
抱え上げた体は、夜露にでも濡れたのかひいやりと冷えていて、化野は必死になって彼を家の中へ運び入れた。布団へ寝かせ、ほんの僅か、土に汚れた顔を拭いてやり、彼の頬を濡らしている雫にも気付いた。化野の見ている前で、また、ほろり、と、新しい雫が頬に零れてくる。
大丈夫だ… 大丈夫だ… ちゃんと息をしている…
少し冷えているが、体温がある…
そら、鼓動だってしっかり打っているのだから…
滅多なことなど、あるものか…
思いながらも、化野の体の震えは止まらない。いつもの白いシャツ越しに、ギンコの胸に手を置いて、ことりことりと打っている胸の音を確かめる。うっすら開いた唇に、そっと指を触れ、息が洩れていることもわかった。なのに不安は消えなくて、きつく目を閉じて、化野はギンコの傍らに座り込んでいた。
あの時、確かに見た光景が、怖くて、怖くて、どうしようもなかったのだ。あぁ、あの白い蝶が…確かに一匹、ギンコの口へ…。
「…ん…ぅ…」
「あ…! 目ぇ覚ましたのか! ギンコっ」
「……………」
意識を取り戻した後、ほんの数秒の間、ギンコはぼんやりと化野を見ていた。そうしてゆっくりと動かした手を、化野の方へと伸ばし、けれど触れることはせずに、ぱたり、とその片腕を布団の上に落とす。
「もう、朝…なのか?」
「そうだ。何故だかあっという間に朝になってて…。そ、そんなことより、お前、大丈夫なのか…っ?」
「…いや何、どこもどうともないよ。そんな青い顔すんなって」
小さく笑う様子すら見せて、ギンコはただただ化野の姿を目の中に映している。その視線がゆっくりと動いて、化野の顔を眺め、胸や腕を眺め、畳についている膝を眺めた。何かを確かめるようにそうしたあと、ふ、と目を閉じて息をつく。
「あー。それにしても、夕べは参った」
はは、と笑って身を起こしたその顔は変に青かった。化野の顔色のことなど、言えたものではないのに、それでも態度ばかりが妙に明るい。
「まぁ、何事もなくて、よかったけどな」
「…何事も…って、お前、あの時…」
そう聞きかけた化野の言葉を、いきなりギンコは遮った。伸ばした手、その指先で化野の唇に触れ、斜めに覗き込むような視線で食い入るように、ギンコはじっと化野を見たのだ。そして、ふ、と目を細めて、彼は笑う。
「来たばかりだがな、化野、そうそうゆっくりしてられなくなっちまった。あの蝶、何も悪さはしていかなかったが、余所の里ではどうだか判らんし」
「いや、待て、ギンコ」
今度は化野の手がギンコへと伸ばされた。そうして彼は、幾分乱暴なほどの遣り方で、ギンコを布団へと押し戻し、無理に仰向けにさせて言ったのだ。
「どうしても行くのなら、止めはせんが、ちゃんと診させてからにしてくれ。そうでなきゃ…」
「いらないって」
「いや、ギンコ…お前が…」
「…いいんだ…っ!」
激しく遮られ、化野の目が何かに気付いたように揺れた。ギンコはその視線から逃げるように化野を押しのけ、すぐさま木箱と上着を抱え持つ。
「大声出して、すまん。でもこれが俺の仕事なんだ…。分かるだろう…、化野」
「そんなに急ぐのか…」
「…慌しくてすまんが。…また、くるよ」
「あぁ…! 待ってるからな、ギンコ」
去って行く背中に、言わなければならないことが、他にあるような気がした。今度こそはそうするのだと、夕べも確か何かを言い掛けたのに、その言葉がどうしても見つからず、遠くなる姿を化野は見ている。
隠れていろ、とあの時ギンコは言ったのだ。あんなに必死の声は聞いたことが無かった。だからギンコの押さえている雨戸の向こうで、化野もその戸に触れながら祈っていた。ギンコに、何事もないように、と。
その願いが、誰かに聞き届けて貰えたのかどうか、それだけでも本当は確かめたかった。でも。
いいんだ、とギンコは言ったのだ。必死の声で、言ったのだ。言うとおりにしてくれなければ、お前にはもう会えないと、そんな響きに聞こえたのだ。何故なのかは…分からない。
「ギンコ…」
化野はギンコを送り出した縁側で、長いこと項垂れていた。
坂を下りながら、ギンコは思っている。いつもの坂道だ、化野に会うために登る道、化野の元へまたくるのだと、そう思いながら下りる道。何度も、何度も、ずっと、何度も。
振り向いて、もう一度。と、そんな思いが消えてくれない。けれどそれと同時に、怖くて怖くて、ギンコは震えていたのだ。
知られてはならない。
心配を、掛けてはならない。
事実を気付かれてはならない。
何があろうと、
例えどれほど化野が…知りたがろうと。
そう…あの時、
一度はひいやりと冷えた胸。
鼓動が消えた。息すらも。
夕べ、庭で意識を失う前に、ギンコはそのことに気付いていたのだ。口に入った蝶が、喉を滑り降りて胸で止まり、そこからだんだん体が冷えて、鼓動がすぐに止んだこと。冷えが一気に四肢へと及び、このまま死ぬのかとそう思った。
死ぬわけではなく、こうして意識は戻ったし、鼓動も呼吸も、体温も戻ったが、今も淡々と感じている体の異変。蟲のせいだ…。体が変えられのだ、と、ギンコには分かる。
どんなに分かりたくなくても、分かるのだ。怯える自分を、化野には見せたくなかった。今までよりももっと、人と違う存在になったことを、知られたくなかった。怖かったのだ。化野のあの目が。触れてこようとする手が。
化野…
呟くために零れた息は、涙のように、悲しく透き通っていた。
続
11/06/27
↓ 3へ
刻 の 蝶 トキ ノ チョウ 3
無数の蝶の大群はヌシに遣える刻の蝶。土地のヌシが死ねば、
別のヌシの傍に身を寄せて、次の自分達のヌシを待つ。
人間の前に姿を現すことは本来無いが、ヌシが死んだ直後だけは、
ほんの一時、統制を失って乱れ飛ぶことがあるという。
生き物すべての魂に、その蟲が関わっているのだと言い、
その蝶を「輪廻」という大仰な名で呼ぶものもいる。
「『刻の蝶』 …別名を、輪廻……」
ギンコは淡幽の書庫で、随分長いこと項垂れていた。ここへ来てさえ、刻の蝶の詳しい生態は判らない。見た、というものの話が、随分昔の日付で一つ、あとは出所すら判らない、伝説染みた記述が一つきり。体に入られただとか、その後の対処法など書かれている筈もいない。
淡幽は寝込んでいて会っていないが、それを幸い、と、ギンコは思ってしまう。敏感な彼女に、何かを悟られるのが怖かった。
「悪いね、蔵書だけ見せてもらって…。今回は何も聞かせる話が無いし、淡幽が具合悪くしてんなら、俺が来てたこと自体言わねぇでいいよ、おたまさん」
「…お前のことは、お嬢さんが贔屓にしているからな」
たまは淡々とそう言い、それでも何か気遣いでもするように、ちらりとギンコの目を見た。その視線を避けるように項垂れて、ギンコは淡幽の家を出る。
最初に気付いたのは、爪だった。一週間経っても、二週間経っても、ほんの僅かすら伸びていなかったのだ。それから些細な怪我。うっかり指先を切った小さな傷からは、何も変わらずに血が流れたし、痛みも勿論あったけれど、傷の治りが異常に速い。みつきも過ぎた頃には、髪が少しも伸びないことに気付いた。
試しに、耳の傍の髪を少し短く切ったが、切る前と同じ長さになるまで普通に伸びていき、そこでふっつりと成長が止まる。
そうしてギンコは淡幽の家に寄って、調べられるだけのことを調べたいと思っていたが、そこでも手がかりの欠片すら見つからなかったのだ。
とっぷりと日が暮れて、月の昇った夜半の山中、ギンコは刃物を構えて、恐る恐る自分の左腕に当てた。目を閉じて、そのままざっくりと切ったのだ。あらかじめ布を噛んでいた口から嗚咽が洩れ、あまりの痛みに体がガクリ、と痙攣する。だらだらと零れる血が、彼の蹲った地面に染み込んでいき、あたりには濃い血の匂いが広がっていく。
激痛に顔を歪めながら、ギンコは自分でつけたその傷を見ていた。骨が見えそうなほどのその傷は、見る間に深い部分から塞がっていき、数分もせぬうちに血も止まる。
「は…はは…」
ずきん、ずきん、と鼓動するような痛みに震え、ギンコは少しばかり笑った。傷跡だけは醜いままに腕にあり、痛みもまだ消えてはいないが、これはあきらかに、普通の人間とは違う。
「便利な、もんだよ…。薬もろくに持ち歩けん旅暮らしの身の上だ。医家に…なんざ、次はいつ…行けるかも判らんのだし…」
立ち上がろうとして、ギンコはよろめいた。たった今、失った分の血が回復するのには、やはり幾らかの時間が必要なのだろう。傍らの木に縋って、そこに額を付け、脳裏に浮かぶ顔を嫌がるように、彼は首を横に小さく振っている。
「薬いらず、医家知らずとは、何ともありがたい……。…ぅ…う…っ」
笑い混じりの声に、震える嗚咽が重なった。痛みももう殆ど無いが、ただ、酷い傷跡だけは、その後、長くギンコの腕に残っていた。そうしてその心には、いつまでも閉じずに痛みを零す傷が、酷く大きく口を開いたのだ。
誰も聞かぬ山の奥で、一人淋しげにギンコは呟く。
「まぁ…こんなのは自業自得、だしな…」
そうだ、これは、自分の罪だ。
あの時、化野の里へと向かうのに山を一つ二つと抜けた。その一つ目の山の気配が、どこか不穏にざわざわとしていて、一度脚を止めたのを覚えている。山全体を覆うような、蟲の気配も感じていたのだ。何かがある、と、そう思ったのに、ギンコは化野の里へ寄るのをやめなかった。
自分に何かが、ついてくるかもしれない。
危ういその可能性に、気付かないふりをした。
あの時に、もしも…思い留まっていれば…。
なんで行ったんだ。そう思い、ぎり、と歯を食い縛るようにして、ギンコはまた項垂れる。それからゆっくりと顔を上げ、しんしんと音もなく降る月の明るさを、じっと見上げながら化野の姿を思い浮かべた。
「会いたかったからだよ…。お前に、会いたかった…から」
小さな月明かりと、闇しかない山中で、草の擦れる音を聞きながら、ギンコは静かに泣いた。
「我侭は、もう言わんよ…。出会えただけで、満足だ…」
きつく目を閉じたギンコの脳裏で、化野が彼を見ていた。酷く切ない目をして、音の聞こえないその姿が、どうしてこないんだ、と言っていた。待ってるんだぞ、と言っていた。ギンコ、ギンコと、あの優しい唇が、何度も彼を呼んでいる。
「思い出だけで、充分過ぎる…って、そう言ってんだよ…俺は…」
なのに、そんな顔して見るなよ、あだしの…。
俺を呼ぶな…。俺を…。
「お前、どこにいるんだ。なぁ、おい…」
ギンコ、と、名前を口にするのはあまりに痛くて、化野はそこでいつも言葉を止める。文机の周りは、数冊ずつ積み重なった書の山が五つも六つもあって、彼の周りを取り巻いていた。
僅かだけ開いた雨戸から差しているのは、日の光なのに、部屋の中は薄暗い。化野は酷く疲れた顔をして、その日差しから目を逸らすようにまた書へと視線を落とした。そこへ里人の声が外から届く。
「先生…。ふみだけど……」
「…あぁ、青左か? すまんな、そこへ置いてくれ。それと…もう先生じゃない、と、そう言ったろう?」
浜や田畑や、家での仕事の手を止めて、わざわざここへふみやらなんやら持ってくるのは、里の老若男女、皆の意思のようだった。それを幾分困ったように、いつも化野は言うのだ。
もう、俺は『先生』じゃない。
この里の医家先生は、
別にちゃんと立派な人がいるだろう …と。
青左は勧められもしないのに、雨戸の開いている部分に腰を割り込ませるようにして座って、酷く悲しそうに、少し怒ったように言った。
「…俺にとって、先生は化野先生だけだ。怪我したって病だったって、先生にしか診せないよ。先生はさ、自分の身勝手なんだって医家をやめて、ちゃんと別の先生をこの里へ呼んでくれたけど…。だから俺だって、先生にしか診せないのは、俺の勝手だ…!」
長い長いこと、化野は黙っていた。けれど彼はさっきまでと少しも変わらない口調で、ぽつりと言っただけだった。
「好きにしたがいいさ…。お前は随分丈夫だからな、病も怪我もそう簡単にはかからんよ」
ぱらり、と化野の指が書物を捲る。青左はそんな彼の横顔を見て、もう自分のことなど忘れたふうなのに気付くと、勢いよく立ち上がって浜へと駆け戻っていった。
彼のいた場所におかれたふみの数は、十と少し。化野は青左の足音が聞こえなくなってから立ち上がって、脚の弱った年寄りのように、雨戸に掴まりながら身を屈めた。随分と青い顔色で、差し伸べた手は痩せ細って見える。
かさかさと音立てて、開くふみには古物屋や本屋、そして蟲師の誰それ、だとか書かれてあり、どれも何か売り物を紹介している内容のもの。書かれた値段を目で追って、化野は文机の中の銭入れを開いてみた。
「……また、何か売るか…。別に惜しくは無いしな」
そう言って、彼の目が雨戸の外の空を見上げ、その目の上に月を映す。銀色の美しい色が、あの髪の色を思い出させる。
「…どこにいる…? なぁ、お前、今どこに…」
続
11/07/09
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刻 の 蝶 トキ ノ チョウ 4
蝶の姿の蟲のことを、調べている医家がいるのだと、そんな噂を、ギンコは聞いた。どんな粗末な品でも、書物にほんの数行の記述でも、蝶の形をした蟲に関わりさえあれば、言い値で買い取る好事家がいると。
…違う。あいつじゃない。あいつがそんなことをする理由なんか、ない。
真っ青な顔色をして、ギンコはゆっくりと歩いている。ゆっくりと、と意識しなければ、足を速めてしまう自分に気付かない振りをしていた。対岸に、懐かしい里の灯りがもう見える。あぁ、あれだ…。一際高い場所に、ぽつんと、けして明る過ぎぬ灯火が、あいつの居場所を教えている。
その灯火が揺れて、今にも消えてしまう蝋燭の火のように弱々しく見えるのは、たった今それを見ているギンコの目が霞んでいるからだ。
噂を聞いてから、一日、それでもギンコは苦しみ、悩んだ。理由は無い筈だと、繰り返し繰り返し心に刻むように思っても、胸のどこかで鳴っている声を、無視など出来やしなかった。
いいや、あいつだ。分かっている癖に…。訳も知らせず姿を消して、あれからどれだけたったと思う? お前があいつを忘れられぬように、あいつはお前を忘れない。あれほど心配していたものを、突き放すように逃げたのは誰なんだ?
あんなことがあったあと、安堵させてやることもせずに逃げ回って、お前は結局、自分のことしか考えてないじゃないか。
「あぁ、そうだ…。俺は身勝手なんだ」
だからこんなヤツ、早く忘れちまってくれよ…。
俺も、もう、忘れる。きっと忘れるから…。
涙がほろりと零れると、遠いあの灯が、また綺麗に灯って見えた。ギンコはそれを見ないように、地面に膝をついて項垂れる。鼓動の一つずつが、言葉を持って胸に刺さるようだった。
会いたい 会いたい 会いたい …
一度きり もう 一度きりだ これで 最後だから …
ギンコは顔を上げて歩き出した。足を前に出すごとに、きりきりと胸が痛んだ。会えるのだ、嬉しい、嬉しい、と動悸が跳ねて、それを押し殺すために顔を歪めていた。あの腕の傷跡へ、服の上から爪を立てて、ギンコは自分に言い聞かせる。
もう、俺は「ヒト」ですらない。
情に流され、お前の身まで危険に曝した罪を、
死ぬ瞬間まで、背負って歩いていく、
愚かな「ヒト」だった、モノ。
最後に一度「ヒト」の振りして、お前に会いに行くことだけは、どうか許してくれ。罰ならどれだけでも、この身に背負って歩くから。独りぽっちで何処まででも、それを抱えて生きるから。
化野の里に着いたのは、とっぷりと夜も更けた頃だった。漁に出る生業のものは勿論、田畑に働くものも朝は早い。こんな夜更けになれば出歩く里人は堪えていて、しん、と静まり返っている。否、そのはずだったけれど、ギンコのすぐ傍で戸の開く音と人の声。
「せんせぇ、やっと子供の熱も下がって、こんな遅ぅまで」
びく、とギンコの体が震えた。先生、と、この里で呼ばれるのが誰なのか、分かり過ぎていてその身が強張る。
「いやいや、なに、これが私ら医家の仕事ですからの」
なのに、朗らかに答えたその声は、ギンコの知る「先生」ではなかったのだ。
「おぉそうだ、熱冷まし、もう幾つか渡しておきましょう」
その見知らぬ男が、カタと音を鳴らして開いた箱は、遠目にも見覚えがあった。あれは確かに、化野の鞄だ。びっしりと綺麗に整えられて、様々な薬包が詰まった抽斗、その横に、きちんと畳まれた白い布や、巻かれた幾つかの包帯が収められ、几帳面なあいつらしい、あの…。
立ち木の陰に身を寄せているギンコに気付くことなく、男は慣れた足取りで暗い夜道を歩いていく。浜へと近付く道を選び、すぐにギンコの視野から消えた。
今、垣間見た事実が、ギンコの心を掻き乱した。顔を上げて、縋るように見た高台には、確かに揺れる灯があって、闇に半ば隠されながらも、あの家がちゃんと見える。
どういうことなんだ、化野…
ギンコはとうとう、あの斜面を登り始めた。最後の逢瀬だと決めたから、会える瞬間が近付くごと、二度と会わぬ終わりの一瞬も目前に迫ってくる。早く会いたくて、なのに足に鉛でも詰まったように、進むのが酷く辛かった。
もうあと、ほんの少し。
声を上げれば聞こえるほど近くに、あいつが。
項垂れていた顔を上げると、ほんの少しだけ開いたままの雨戸が見えた。そこから灯りが零れて、庭の石の上を細長く照らしている。低い垣根の切れた場所から、いつものように庭へと入って、伸ばしたギンコの手が雨戸に触れた。
あぁ、この戸を開けて彼を呼んだ化野の声が、耳の奥に今も刺さっている。それを振り向いて叫んだ自分の声が、舌の上に今も残って…。あの日さえなければ、と、ギンコは切れるほど唇を噛んだ。
「…あ……」
「…ふみか? そこ…置いといてくれ」
かすれた声。力のない、少ししわがれた。ギンコの目には、見覚えのある洋燈が見える。細く開いた雨戸の内、すぐのところに置かれて、煌々と灯りを放って。その先を見ると、歩くにも妨げになりそうに、積みあがった書物の山が幾つも。
「…今日は誰だ? また青左か? それとも、いお? なぁ、いい加減にしたがいいよ。もう先生なんかじゃないと言ったろう。俺などに構うな、本当にな…。なんだ? あぁ…朝なのか?」
夜更けだ。こんなに暗いのに、化野はそんなことを言う。雨戸に触れたギンコの手は震え、それでも貪るように彼は戸の中へと視線を這わせた。敷かれた布団の中に、人の寝ている形。それが何故だか変に薄く見え、そしてその布団の上に出されている、藍色の着物の片手も。痩せて…。
「…あだし…の…」
「俺はまだ眠っているらしい…。あぁ、なんて…いい夢だ…。ギンコ…。ギンコ……」
す、と傾いてこちらを見た顔。その青白くこけた頬に、ぽろりと一すじの涙が零れた。
「化野…。どうして…こんな…」
「…ギ…ギンコ…。ギンコなのか? 本当に、お前なのか…?」
ぼう、としていた化野の目には、見る間に生気が宿った。なのに体が言うことを聞かず、布団の中でもがいて、それでもやっと身を起こす。立ち上がろうとした膝が崩れ、そこらに置かれた書物や巻物の山が乱れた。それでも化野は這って、這いずって雨戸まで行き、そこに立ち尽くすギンコの袖を、必死に握って…。
貪るように、愛しいものの顔を、ずっと会いたくて、気もふれんばかりに、焦がれていたものの姿を、化野は見たのだ。
「何か…、言ってくれ…、ギンコ」
「…化野」
「あぁ、ギンコ……。会いたかっ…」
「どう…して…!」
袖を握った化野の指は、ずる、とすぐに外れかけた。それを支えるギンコの手が、化野の腕を掴み、背中へと回る。ごつごつと骨が手のひらに痛いほど痩せた体。何か病を患い、それなのに、ろくに養生もせずにいるのだろうその身。
彼の傍に転がり、開いた巻物には、蝶、らしきものの雑な絵が見える。書物にも俄か作りのようなものが混じって、明らかに、買い取って利のある類のものじゃないのに。
あぁ、
どうして…
お前は、医家までやめて…
どうして…
こんなものに、お前は大枚はたいて…
どうして…
こんなに痩せ細って…
どうして… どうして…
俺を
忘れないんだ…?
声にならないその問いを、心のどこかで聞いたのだろうか。化野は青い顔に、そのこけた頬に、酷く優しい笑みを浮かべて、ギンコの頬をそっと撫でた。
「俺はな…お前を、好いているんだよ…。何度言えば、ギンコ…お前にちゃんと、届くんだろうな…?」
「…馬鹿な…ことを」
ふ、と化野の視線が揺れた。しっかりとギンコを見つめていた目が霞んで、体から力が抜けていく。なのに彼は必死に縋って。ギンコの肩に手を掛けて、身を乗り出すように、ギンコの唇へ、自分の唇を押し付ける。
「…消えたら、怒るぞ……」
悪戯な子供のような、そんな笑みを口元に一瞬浮かべ、そう言ったきり、化野は意識を失った。
続
11/07/24