汽笛の鳴る里 1




 冬の里は、雪の静けさが守っている。その守りの向こうから、少しく遠く、そろそろ耳慣れてきた音が聞こえてくる。窓を開けて外を見ると、鈍い赤色をした汽車が、ゆっくりと進んで行って、緩い斜面に隠れて行くところだった。のどかな里だ、ああして汽車が行き交う音がもしもなければ、寂しいほどに音が少ない。

 何もそんな辺鄙なとこへ行かなくとも。

 医者としてここへ赴任されると決まったとき、知人の多くが同じくそんなことを言った。それを最初に聞いて、返した俺の言葉を聞いて、相手は不思議そうに首を傾げる。あぁ、またなのか。それももう慣れたこと。

 俺は辺鄙なのは慣れてるよ。
 それでも前は、ずっと海の傍にいたから、
 今度は山の中もいいだろうと思ったんだがな。 

 そう言ったのに、考えてみれば確かに、海の傍に住んでいたことなど一度も無い筈なのだ。

 俺は記憶がどこかおかしい。それは、もう自分でも判っていること。いったいどうしてなのかは知るすべも無いが、経験していない筈のことを、時折はっきりと身の内に感じることがあった。そして時折、幻までも見る。白い髪をした、多分、若い男の姿。後姿だけを、何度も。

 お前、どこかに実在しているのか?
 いるならどうか、会いに来てくれ。
 あったことも無いお前のことが、どうやら俺は好きらしい。

「せんせ、いつもすみません。ここに住まいしてるのは、みんな貧乏な人ばっかりで、アタシも払いが遅れているってのに、それでもちゃぁんと治療はしっかりしてくれて。みんな感謝してるんです」

 冬の間ずっと、膝の痛みで通ってきている女が、小さな子供の手を引きながら、建て付け悪い玄関で、一度深々と頭を下げる。

「アタシで出来ることがあったら、何でも言って下さいね。支払いはお給金が出たらしますけど、それまで待ってくれるお礼代わりに、先生の力になりたいって思うし」
「そんなことは気にしなくとも…。あ…でも、それじゃぁ」
「えぇ、何でも言ってみてくださいな」

 女が駅の切符もぎをしている事を思い出し、化野は躊躇いながらこう言った。

「もし、この里に、真っ白の髪をした男が訪ねてきたら、すぐ俺に知らせて」
「真っ白な髪? うちの隣のお爺さんみたいな?」
「うん…まぁ、でも若い…」
「白髪頭の若い?」

 そんな人間が、居る筈もないし、居たとして、こんなところにくるはずも無いのに、馬鹿なことを言ったものだ、と化野が自分を笑い掛けた時、女に手を引かれた、小さな男の子が、まだあどけない言葉で、一生懸命にこう言った。

「ぼく、みたよ。きょうのあさ。しろしろの、ゆきみたいな、まっ…しろしろのあたまの、おとこのひと」
「これ、フウタ。それはお隣のおじいちゃんのことでしょ」
「ちがうよ、せんせーとおなじくらいの、あたま、しろしろのひと」

 化野は胸を、どきり、と高鳴らせながら、じっと子供を見つめた。

「それって、どこで見…」
「帰るわよ、フウタ。すみません先生、小さな子のいう事ですから、きっと隣のお爺さんのこと言ってるんでしょうけど」
「ちがうよ、ちがうよ、おかあさん、ぼくね、ぼく、きょうのあさね…」

 言いながら、子供は母親に手をひっぱられて行ってしまった。化野は一人残されて、また、少し遠くに汽車の音を聞く。珍しく、長く長く、長い汽笛の音がした。それが何かを告げる音に聞こえて、彼は窓から汽車の通るのを眺めるのだ。

 きっと、きっとあの汽車に乗って、誰かが自分に会いに来る。ずっとずっと探して、探し続けて、やっと見つけて会いに来るのだ。

「俺はここだ。ここにいるよ…お前…。俺の待ってる、ただ一人のお前…」

 目を閉じると、白い髪の男が脳裏に見えた。男は化野の心の中で、初めて振り向いて、彼を見るのだ。美しい、翡翠のような美しい翠の瞳をして…。


   * ** ***** ** *


 雪が、しんしん、しんしんと、降り続いている。それは昨夜遅くからの雪で、しっとりと重い大粒の雪。こんな雪の日は、音がその雪の白に吸われてゆくように、酷く静かで、風無い空気もどこか厳かだった。こんな日は、汽笛が鳴ったとしても、きっと遠くから響いてくるように聞こえる…。

 曇った窓の白を指で少し拭けば、そこから見える遠くの針葉樹が、雪の帳の向こうに霞んで消えかけている。化野はぼんやりしながら、ずっと繰り返し考えている事を、また考えてしまうのだ。

 一週間ほど前、馴染みの患者が子供を連れてやってきて、治療費は後でいいからと、いつもの膝の治療をしてやったのだけれど。その時、初めて化野は「あのこと」を言葉に出して人に聞かせた。どうして言う気になったのか、今考えても不思議だった。するり、と零れてしまった声は、心の奥に住むあの姿を…。


 真っ白の髪をした…。でも、若い男。
 見かけたら、すぐに俺に、知らせて…。


 女は首を傾げたが、連れられている子供は、伸び上がってこう言った。

『ぼく、みたよ。きょうのあさ。しろしろの、ゆきみたいな、まっ…しろしろのあたまの、おとこのひと』

 その子は母親に連れられて、それ以上何も言わずに行ってしまったから、化野は母親に連れられてあの子がまた来るのを、あれからずっと待っている。聞きたかった。聞きたくて、心が震えるほどだった。


 どこで? どこで見たんだ?
 そうして、どこへ行ってしまったんだ?


 あぁ、あの子の家は何処だったか。手を引かれ連れられて、いつも母親の働く横で、一人で遊んでいるのだとしか、そういえば聞いていないのだ。でも、まさか、家を探して訪ねてまで、子供の話を聞きたがるなんて、いくらなんでも、なぁ。酔狂が過ぎるというものだよ。

 はは、

 と、化野は心で笑って、ぼんやり木々を眺めていた目で、通りの向こうの小さな店の方を見た。今時珍しいが、この里ではたまに見かける蓑を着た、初老の男が店から出てきて、積もり続ける雪の道をよろよろゆっくり歩いて行く。あ、あ…転びそうだな、今にも。

 ついそう思って腰を浮かせる。人懐こいものばかりのこの里の年寄りのこと、診療所のこんな目と鼻の先で転んだら、すぐにも湿布薬など貰いに来そうだ。想像して、くすくす笑って、念のため湿布薬の入った棚をちらりと見る。大丈夫。冬は転んで打ち身とかも多いかもと、いらぬほど用意してあったのだ。

 さて、夢見がちなのも、いい加減にするかな。あのくらい小さな子供なら可愛いかもしれんが、こんな大人がいつまでも、幻なんか追いかけてちゃ、患者のことも見誤っちまうかも知れんしな。

 きし、と音立てて、古い椅子から立ち上がり、化野は窓へ背中を向けた。その時、彼が丁度視線を離してしまった商店の引き戸が開く。中から出てきた男は、この里では見ない男で、暗い色した襟巻きを、頭と首に巻きつけている。
 男は店の中を振り返って、背の曲がった老婆に一言礼を言う。勿論、その声が化野に聞こえるはずもないのだが。

…あぁ、判った。そこの向いの坂の上が、
   里にただ一件の診療所な。ありがとうよ、ばあさん。

 ここいらの村も里も、みんな似たような駅だから、男は一度、汽車に乗ったままこの里を行き過ぎた。通り過ぎる汽車の窓にいた彼を、駅で切符もぎする女の子供が見ていたなどと、そんなことはギンコも知らない。

 ぎゅ、とギンコは雪を踏む。降り続く、淡い青灰色の雪を見上げ、その向こうの診療所の建物を見て、白い息を、ほぉ、と吐く。もうあと、何歩なのだろう。会いたくて会いたくて堪らぬ相手が、彼のすぐ目の前に立つ時まで。







2011/01/09 サイト掲載










2
 














汽笛の鳴る里 2







 コツ…

 と、何か入口の方から音がした。ほぅら、お出でなすった、さっきの男は、やっぱり転んだな。しかし、なにやらここいらの里人らしくなく、控えめな来訪の音だ。大抵のものは、扉が揺れんばかりにどんどん叩く。そこへ、コツ、と、また音がしてくる。

「あー、はいはい、今出るよ。雪で転んだのかい? 気をつけなきゃぁ…」

 開いた扉のその向こうと、化野はその時、出会ったのだ。その瞬間、まるで、世界が変わったように思えた、と、のちにその日を振り返って、化野は何度も言うことになる。

「化野…せんせい…?」
「…………ぁ……」

 長く長く沈黙して、そのあとに零れた声も、たったの一音だけだった。彼の視線の先に立つ男は、分厚いベージュの色のコートを着て、首に巻いた襟巻きには、降り積もりかけた雪を纏いつかせ、静かに、けれど怖いほど真っ直ぐに、化野の顔を眺めていた。

「人違い、だろうか。この里に一人きりの医者を訪ねて、ほうぼう聞いてきたのだが」
「あ…っ、いや…。そ、そう…そうだよ、俺が化野だ。この里で、去年の終りから医者をしている。ま、まあ…入るといい」
「すまんね、邪魔するよ…」

 背中を向けて、震える手でコーヒーカップを取り出しながら、あぁ、と、化野は吐息をついた。これは夢だろうか。まさか。だとすれば随分とはっきりした、随分と願いどおりの夢に思える。雪よりも澄んだ、雪の色をした髪。美しい翡翠を嵌め込んだ様な翠の目。

 夢の中ではずっと後姿ばかり見てきて、ついこの間、その同じ夢の中で、彼はゆっくり振り向いてくれた。今、目の前にいる男、そのままの姿で、こうして現実に現れたのだ。

 ごく、と息を飲みながら、なんとか深呼吸を一つして、カチカチと震える指に掴んだスプーンを、カップの縁にぶつけて音を鳴らしている化野。心臓は今にも壊れそうに高鳴って、どうすればこの動揺がおさまるのか判らない。

「化野、先生」
「ん、ん…っ? ど、どうし…」
「俺は医者のあんた訪ねてきた、と言ったんだが、体の具合の方とか、あんたは聞かないんだな」

 カチャン、と、大きな音を立てて、スプーンは床に落ちてしまった。身を屈めてそれを拾い上げ、白髪の男は化野にそれを差し出す。受け取って、机にそれを置きながら、化野はひとつ、大きな溜息をついた。

「そうすべきなのは、判ってるんだが…。すまない。その…。医者として失格なんだ、俺は」
「そんな大袈裟な」
「いや、そうなんだ。聞いてくれ。俺は今日、今ここで、あんたに初めて会ったはずだろう?」
「……そうだな」

 するり、と襟巻きを解いて、男は喉と首筋をあらわにした。その肌の白さに視線を捕まえられながら、化野はもう一度、息を飲み、そうしてとうとう言ってしまったのだ。呆れられるか馬鹿にされるか。どっちにしても医者として駄目だと思われて、下手するとこのまま、去られてしまうかもしれないのに、それでも言葉は止められなかった。

「初めて会ったが、俺はあんたを知ってる。夢で…または白昼夢で、何度もあんたと会っているんだ。本当に会えるとは思わなかったけど」
「……俺も、先生と初めて会ったが、先生を…よく知ってるよ…」
「………え…?」

 外では、まだ音もなく、しんしんと雪が降り続いている。化野の家よりもさらに奥、緩い坂道を歩きで登ったその先にも家はあるが、そちらで誰かが、雪を掻いている音が聞こえていた。人の声もする。
 近所同士で声を掛け合って、こんなに雪が深くとも平穏で、緩やかな時の流れの中を、この里の人々は暮しているのだろう。夕餉の支度のいい匂いが、どこからかふわりと漂っている。薪ストーブの煙の匂いもしていた。

 今、目の前にこの男がいるのは、夢なんかじゃあない。時間は普通に流れているのだ。 

「ここ、座っていいかい? 先生」

 聞きながら、返事を貰う前に、白髪の男は目の前の椅子に腰を下した。古びた椅子が、きしり、と小さく軋んだ。

 男は化野の目の前に座って、まるでそこが自分の席だとでも言うように、斜めに視線を逸らしている。そこから見える窓からは、今も降り続いている雪の景色が見えていた。雪の降るのに音はしない。ただ、遠くから里人の小さな話し声が、内容までは聞こえずに届いている。

「辺鄙なところだな」
「……え…っ。あぁ…そ、そうだな…」
「お陰で駅を降りてからは、探しやすくて助かったけどな。着く前は降りる駅が判らなくて、ずっとこの先のトンネルを越えちまって、二、三日も違う町を探してた。地図に駅名が載ってないってのも酷い。いくら小さい駅だったって」
「あーー。そうだな、ちょいと前まで、ここの駅は廃駅になるならないって、もめてたらしいし…」

 化野は片手に白いカップを持ったままの恰好で、立ち竦んでいた。話しかけられて返事をしているものの、気持ちは殆ど上の空、まだ夢なのじゃないかと疑っている。

「先生」

 そう、男は言った。座っていた椅子から立ち上がり、それを横へと押しやって、彼はゆっくりと言うのだ。

「夢で何度も俺に会ってて…。じゃあ、今も夢だと思ってるかい?」
「…できれば、夢じゃなきゃいいと思ってる」
「あぁ、夢なんかじゃないが、なんならもう少しだけ、夢だと思って酔っててくれよ」

 男は化野に近付いた。近付いて彼の手のカップを取り上げて、すぐ傍の机に置いた。白いよれた白衣の胸に、彼はそっと手を置いて、夢か幻のような、美しい緑の瞳で、じっと化野を見る。

「あ、今、コーヒーを…」
「後でいい」
「いや、でも、体が冷えてるだろうし」
「目を閉じててくれ」
「なん……」

 化野は、閉じろと言われた目を見開いたままだった。そのまま相手の顔を見ていて、その顔が酷く間近へ迫るのを、嫌がりもせずにじっとしている。顔がそうやって近付いて、男の息が化野の唇に掛かり、今にも唇と唇が触れそうに…。

 ドンドン…っ、ドンドン…っ。

 その時、扉が大きな音を立てた。男は勿論動きを止めたし、殆ど呆けていた化野も我に帰って、誰かが叩いている扉の方を見た。

「せんせい…っ、居ないのかい、先生ッ」
「い、いるよ、どうした、何かあったか?!」

 急患だ。すぐに察した化野は、扉を大きく開けて対応に出た。さすがは医者というもので、今までの成り行きか一瞬で頭から飛んでいる。息を切らしてそこに立っていた女が言った。

「うちの爺さんがさ、転んで立てなくなっちまったんだよぉ。石段道の途中で、今へたりこんじまってるんだ」
「石段道…って、まさかあの狭いとこで転んで動けないのか?!」

 この里の一番高いところには、石段道と呼ばれる路地が、こまこまと折れ曲がり、枝分かれしながら続いている。あまりに急な上に狭い通り道で、人二人擦れ違うのも大変な場所だから、あんなところで、もしも腰をやっちまったんなら大変だ。

 治療のため、そのあとの安静のため、怪我人を急いで抱えて降りるか、負ぶって降りるかしかないのに、あのへんの手摺は低くて脆いのだ。万が一患者を抱えたまま、よろけたりしたら二次災害になってしまう。せめて若い男手が、もう一人あれば…。

 振り向いた化野の目が、部屋の隅で所在なさげに立っている男の目と、ぴったりとあった。

「…医者ってのは、いつの時代でも大変だな。手伝うよ」

 男は静かに笑って、そう言った。


***********


「その…。す、すまんな、変なことになって」
「別に変でもないだろ。俺は怪我や病であんたを訪ねたわけじゃないから、問題はない。それより、前を向いてた方がいいぞ、案内人を見失っちまう」

 二人は今、さらに先を行く里人を追いかけて、くねくねと曲がりながら続く狭い道を登っていた。片側は石を高く積み上げた壁、もう片側は頼りない低い木の手摺。所々に分かれ道があり、まだこの里に慣れていない化野は、下手をすれば迷ってしまうだろう。

「もう少しっ、もう少し上だよ、先生っ」
「ああ、判ってるっ」

 ふうふうと息をついている化野のうしろで、白い髪の男はさほど息も切らさず、平気そうな顔で着いてくる。思わずまた振り向いて、化野は言った。

「健脚なんだなぁ」
「まあね、歩き旅をしてるからな」
「…じゃあ、またすぐ旅に…?」

 ぽろり、と問いが零れた。聞かれた相手は暫し黙り、下を向いたままで小さく言った。

「…さてね、化野、先生…次第だから」

 よくは意味も判らずに、化野の胸は、しくり、と痛んだ。







2011/01/16 サイト掲載










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汽笛の鳴る里 3







「ああ…っ、あそこだよ、先生方!」

 まるでギンコのことまで先生、と呼ぶように、案内の里人は叫んだ。見れば細い石段道の先に、蓑を背に被った小柄な年寄りが、寒そうに蹲っている。

「大丈夫か、爺さん!?」
「ぁあ、ぁあ、平気だから爺呼ばわりはよしてくれんかぃ、若先生」
「…ったって、動けんのだろう。遅くなってすまない。今、抱えて降りるからな」
「あぁ?! 先生がかい。冗談だろう。いくら俺が小柄だったって、もっと力のある男衆でなきゃ無理…。あたたたたっ…」

 無理だ無理だと腕を振り回し、化野の差し出した手を払い除けるも、老人は痛そうに顔を歪めて悲鳴を上げる。腰が随分と痛むらしい。体がすっかり冷えてしまっているのも要因だろう。

 こうしてはおれん、と、化野は顔を引き締め、無理にでも抱えて降りようと老人へさらに一歩を踏み出した。

「爺さん、不安かしれんが、ここは任せて」
「この先へ行っても、下の里へ降りる道はないのかい?」

 と、いきなり口を挟んだのは、化野の後ろに黙って立っていたギンコだ。彼はひょい、と後ろから顔を出し、手すりを掴んで揺らしてみて、それから道のさらに上を見通した。彼の問いかけには、案内の里人も老人も首を横に振る。

「難儀だな。ま、なんとかするしかないんだろうけどな」
「誰だい、お前さん」
「旅の者だよ。ギンコってんだ。ここにいる医家先生の客人てとこかな。でも先生よりは力もあるし、行動力もあるつもりだ」

 ギンコって言うのか。変な響きの名前だが、そうか、そういう名なんだな。

 こんな場合だというのに、化野は大事に彼の名前を心にしまい込む。ギンコは化野の両肩を後ろから押して、石積みの塀に背中を押し付けさせるようにすると、彼の胸と自分の胸を殆ど重ねるようにして、その狭い場所で擦れ違う。ふわり、と漂う濃い緑の匂いに、またしてもこんな場合だというのに、化野はドキリとした。

「真冬なんだぜ、爺さん。ここは高台で風も強いし、まさかこのまんま、凍死したくはないんだろ?」
「あ、当たり前だろが! しかしお前さんが、一人でわしを背負うってのか?」

 自信を持ってそう言っているギンコの体を、老人は不躾にじろじろと見るが、服の上から見ても、そう力自慢には思えない。

「背負うのは俺だが、他の二人にも手伝ってもらうさ。出来るだけ安全に、確実にこの狭い石段の坂を下りていくんなら、爺さん含めた全員の協力が必要だぜ」

 堂々と言い放つその姿を、凄いぞ、男前だ、と、化野は妙に感心する。夢幻で見ていた姿だと、綺麗で儚くて今にも消えてしまいそうだったのに、現実の「ギンコ」は頼もしい。

「おいおい、呆けてんなよ、化野先生」
 
 老人が頷いたのを見て、ギンコはすっぱりとコートを脱ぐ。そうして両袖部分を縛り、くるくるとよじり合わせてから、その裾の方を化野に差し出す。

「俺は爺さんを負ぶうから、先生はここをしっかり掴んでくれ。それから案内のあんたは、こっちの襟の方を掴んで。二人ともなるべく腕を伸ばすんだぞ。二人の腕と俺のコート。それが爺さんと俺の命綱だ」

 そこまで言われて、やっと全員がギンコの意図を理解した。老人一人を背負って、ギンコは狭い石段道を降りる。手すりは低くてもろくて、バランスを崩せば真っ逆さまだが、ギンコと老人の前後に化野と案内の里人がいて、ギンコのコートで作った丈夫な幕を掴んで歩けば、ぐっと安心感が増す。

 ギンコと老人がもしもよろけても落ちそうになっても、化野と里人がコートをしっかりと握って支えれば、落ちることはまずない。

「お前さん…若いのに、場数踏んどるのう」
「はは。そう褒めんなよ。じゃあ、やるか」
「すまなんだが、よろしく頼む」

 作戦はうまくいった。それから十五分もかかったが、全員が怪我ひとつなく安全な広い道へ降りて、老人は医院で手当てを受け、やっと連絡が取れた家族が連れて帰った。

 また二人きりになった化野とギンコ。ギンコはさすがに疲れた風で、最初の椅子を軋ませながら、ふう、と雄弁なため息をついた。

「先生、お疲れさん。今日はもう終いかい?」
「あ、あぁ…。本当に助かった。なんと礼を言っていいか」
「よしてくれ。爺さんに、あの案内人に、爺さんの家族らに、もう礼は溢れ返るほど言ってもらったよ。…ただ、俺は早く化野先生と…」
「…え?」

 お前と、二人きりになりたかっただけだよ。

 心ではそう呟いて、ギンコはうっすらと柔らかく笑う。もちろん、そんな内心の想いを、化野は知らない。

 知らないで、あぁ、と、化野は思った。さっきまでは随分と頼りがいがあって、俺なんかより男らしいくらいだったのに、今、こうしてここで改めてみれば、やっぱり綺麗なんだ。儚げで…今にも、ふっ…と、消えてしまいそうで。

「その…今夜は、どうするか決めてるのか? この里には実は宿はないんだが」
「…だとは思ってたよ」
「あ、そうか、あんなことがあったから、こんな遅くなってしまったんだったな。すまない。駅二つ先へ行けば、民宿とかもあるんだが、今からは、汽車が…間に合うかどうか、かなりぎりぎり…かも」

 嘘だ。すぐに行けば充分に間に合う。もっとここにいて欲しくてそう言っただけだ。いっそここに泊まらないかといいたいが、入院施設とも言えない患者用のベッドがひとつ空いているだけで、それへ寝ろとも言い難かった。

 なんとか引き止められないかと、親指の爪でも噛みたい気持ちで、化野は思い悩んでいたのだ。しまった、コーヒーを先に入れればよかったんだ。それを飲み終えて、もう汽車が間に合わない時刻になってしまっていれば、泊まれとすんなり言えたのに。

「さっき」
「え…っ」
「…いや、さっきの続き」
「続き?」
「忘れたのか? いい心臓だな、先生」

 きぃ、きぃ、と安っぽく椅子が音を鳴らしている。ギンコは小さくゆっくりと体を揺らして、まるで揺り椅子に座っている風情。閉め忘れたカーテン。黒く染まった夜更けの窓硝子。ストーブで温まった部屋の内側で、硝子は白く曇り出している。

「…さっき……」
 
 思い出した。かぁ…と顔が熱くなる。急患でここを飛び出していく前、ギンコは…この綺麗な男は、俺に近付いて、唇と唇が、今にも触れそうだった。続き? 続きって、何の? あの続きか。あの続きは、じゃあ、つまり唇、を…。

 無意識に手のひらで口を覆って、化野はギンコの顔を見つめていた。思考が止まる。どうしていいか判らない。ただ、判っているのは、この男のことを、自分がずっと、ずっと想ってきたということだけだった。

「す…」
「……す?」

 ギンコは嫌に余裕に見える。少し笑って聞き返して、喉の渇きが辛くて、首に手をやっている化野に、さらりと背を向けて、コップに水を入れてきてくれた。

「何が『す』なんだ?」
「……どうして、あんたは…。いやっ、すまん、き、君はそんなに余裕があるんだ?」
「あんたでいいよ。『お前』の方がもっといいけど。余裕なんか無い。ただ、『知っている』から、そう見えるだけだろ」
「何を?」

 きぃ、と、彼の座った椅子がまた軋む。

「いろんなことを。…お前のことも、俺のことも、この先のことも、もっとずっと先のことも、ずっと昔のこともさ。で? 何が『す』なんだ?」
「じゃあ…っ、俺がなんて言おうとしてるのかも、お、お前は知ってるのか?」
「知ってるよ。でも言って欲しい。…化野から」

 喉がカラカラに渇いていた。水をごくりと飲んでも乾きは癒えず、言葉は出てこなかった。だけど唇の動きだけで、化野は言ったのだ。

 … す き だ …

 
 窓硝子はもうすっかり白く曇って、外の夜の闇すらも見えない。最終の汽車が、控えめな汽笛を鳴らして、この里を遠ざかっていく。ずっと冷静そうに見えていたギンコの、美しい翡翠色の瞳が揺れて、彼は少し項垂れた。

「…ギンコ……?」

 初めてその名を呼んだのだ、と化野は気付いて、それからもうひとつのことにも気付く。ギンコの瞳から雫が零れて、木の床に一つ二つ模様をつけていた。

「参ったな。泣き顔も、綺麗だなんてな…」







11/02/12 サイト掲載










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汽笛の鳴る里 4







 しゅん …   しゅん …

 ストーブの上で、湯の沸いたやかんが鳴いている。白い白い湯気がいつものように立ち上る。だけれど腕の中の現実が、夢よりも不思議で、胸の高鳴りをどうしたら静められるのかと、化野は心の片隅で思っていた。

 あぁ、こんなこと… どうして、俺は…

「…ん…っ、ん…」
「急く…なよ…っ、逃げや、しね…ぇ…」

 自分から吸い付いた唇は、柔らかくて甘くて、今にも逃げられてしまうような気がして、気付かぬうちに乱暴にしてしまう。背中に回した手で、化野はギンコの着ている服を強く掴み、頭を押さえた手で髪を握って、斜めに深く、唇を…。

 何度目かに歯が当たって、ギンコの指が化野の鎖骨のあたりを軽く引っかいた。押しのけられて、唇はやっと離れた。

「君を…す、好きだ…」
「……俺もだよ」
「あぁ、でも、なんで」
「今に判る」

 淡々と言っているのに、ギンコの翡翠の瞳には、ついさっき流した涙の名残。うっすらと笑って、今度はギンコの方から化野の唇を求め、甘く吸ってから、とろけてしまうような、うっとりとした目をして化野を見た。

「なぁ…? もう、今日は誰もこねぇんだろ…?」
「…急患でもない限りは」
「なら…。ベッ…ト…」

 すぅ、とギンコの白い首筋が染まるのを見た。

「………あ…、で、でも…そ…」
「嫌か…?」

 尋ねられて、また胸がばくばくと鼓動を速める。会いたいと願い続けていた。だけれど会えるとは思っていなかった。記憶とは別に、胸に抱き続けたこの男の面影。いつしか恋していた想いに、偽りの欠片もありはしない。

 こうして出会えた夢のような現実の中、口付けをして、こんなに激しく求めて、それから…押し流されるようにその先も…?

「い、嫌というより、その…き、君は…」
「俺はお前に …抱かれたいんだ。そのためにお前を探したんだ。そして、やっと会いに来たんだ。言っただろう? 『俺もだよ』…」

 化野が戸惑っている前で、ばさ、とギンコが服を脱ぎ捨てる。見たこともないような、白い肌が曝された。その肌に、胸に、ギンコは自分で手のひらを滑らせる。

 見てくれ、俺を、見てくれ…、と、
 欲しがってくれ、抱いてくれ…、と、
 愛してくれ、と、声無き言葉が滲むようだ。
 思い出してくれ、と、翡翠の色が、揺れて。

 
 しゅん … しゅん …

 熱い音で、やかんが鳴いている。ストーブの中で火が弾ける。窓の外の、雪の積もる音はしない。今夜の最後の電車が行き過ぎる音は、知らないうちに、響き渡って消えたのだろう。

 あだしの  あだしの

 ギンコが何度も名前を呼ぶ。

 ギンコ…

 慣れぬように、化野が呼び返した。


   * ** ***** ** *


 遠くをゆく汽車の音で、ギンコは目を覚ました。耳慣れぬ音だ。それよりは聞き慣れた音も聞こえてくる。雪を掻く音。雪を掻きつつ世間話をする、明るい話し声。

「せんせ、昨日は大変だったんだってねぇ?」
「もう聞いたのかい? 耳が早いな。うん、まあ、大変だったが、実は手伝ってくれる人がいて」
「それが例の髪の白い若いお人だろ? その人のことも、みんな知ってるよぉ。切符もぎのキセさんとこの子が、なんだかお手柄顔で、会う人会う人に話して聞かせているもんねぇ」

 先生の友達なのかい? と、里人が聞いた。暫し雪の掻く音だけが響いていて、化野の言葉はそのあとに続いた。

「うん…まぁ、そうかな…」

 半分夢うつつで聞いていたギンコは、そこでやっと我に返る。飛び起きて、床に散らばっているであろう服を探したら、全部が枕元にきちんとまとめてあった。急いで身に着けて、外へと飛び出したら、雪かきを肩にのせて戻ってきた化野がそこにいた。

「あぁ、起き」
「化野! 無理するなよ、具合が良くない筈だ」
「…え? いや、別に」

 化野は言ったが、ギンコは有無を言わせず、彼の腕を掴んで強引に家の中へと入らせる。中へ戻って気付いたが、小さな机の上には二人分の珈琲カップがもう用意され、ストーブの上では夕べと同じく、やかんが白い湯気を噴き出していた。

「頭痛がするだろう、化野。それに吐き気も…」
「いや、だから、どこも何も。…あ…」

 額に手を当てられ、心配そうに顔を覗き込まれる。大人しくされるままになっていた化野が、ぷ、と小さく吹き出して笑った。

「なんだかこれじゃ、君の方が医者みたいだな。本当に大丈夫だよ。なんでだ? 夕べのことで、俺がそんなに疲れたと思ってか? そりゃまぁ、み、未経験だったけど…」

 額に置かれていたギンコの手のひらが、する、と滑るように離れる。

 自分じゃなくて、彼の方が余程、顔が青い…。それに気付いた化野が、慣れた仕草でギンコの手を取り、ほんの十秒ほど脈を見て、顔色をよく確かめ、ふと伸ばした手で首筋に触れた。

「何なら、もう一日くらいここに滞在しないか…? その、特に他意はないよ。でも俺じゃなくて君の顔色が悪いみたいだし、ええと…あの…」

 ちょっと項垂れて、照れ隠しのようにがりがりと化野は頭を掻く。

「判らないことだらけだから、もう少し話をしたいんだ。できれば君の連絡先とか、教えて欲し……。ギンコ?」

 ギンコは不意に化野に背中を向けた。そしてベッドのある部屋に入っていって、彼がついさっき飛び出したままで、乱れている布団の上へ腰を下ろした。びっくりしながらも化野が追ってきて、何か話しかけようとする。

「ギン…」
「思い出してないのか?」

 唐突な言葉が、ギンコの唇から零れた。どこか責めるような響きだった。

「え? 何を?」
「何ひとつ、思い出さないのか? 俺を…」
「何言っ…。ん…ッ」

 項垂れていた顔を上げて、ギンコが化野の腕を掴む。引き寄せられて化野は唇を塞がれ、朝に似合わぬ口付け。いきなり舌まで絡められ、思わず目を見張り、彼はギンコの胸を押し離した。

「もう一度、抱いてくれ」

 酷く真摯な響きで、ギンコは言うのだった。









11/02/20 サイト掲載










5 












汽笛の鳴る里 5






「抱いて…。抱いてくれ。化野…」
「…え、でも、朝だし、医院も開けなきゃなら…。ぅん…ふ…っ」

 もう一度唇が塞がれる。首に腕を回され、そのままベッドに倒れ込み、夕べ交わしたどのキスよりも、ずっと濃厚に求められた。口を吸われながら、化野はうっすらと目を開けて、ギンコの目を閉じた顔を見ていた。

 悲しそうな顔だと、思った。伏せた睫毛を濡らして、涙の雫が零れていた。

 どうしていいか判らなくて、それでも、いつ最初の患者が来るか判らないから、そのまま流されることだけは出来なくて。化野は彼の髪を撫で、肩のあたりを撫でて、ギンコが少しでも落ち着いてくれるのを待っていた。

 嫌がったり、止めさせようとはしないけれど、応じてくれることもない化野に気付いて、やがてはギンコの腕から力が抜ける。仰向けのままで、ぱたりと両腕を投げ出して、彼は無理に気持ちを落ち着かせようとした。

「す、すまない。どうかしてるんだ。気にしないでくれるか? 少し…一人に…」

 一すじ流れていた涙を、腕で乱暴に拭って、ギンコは化野に背中を向けるように寝返りを打つ。

「何か、俺に出来ることはないか? ギンコ」
「……思い、出し…て…」

 言い掛けた言葉を、ギンコは無理に止めた。一晩、肌を重ねていたのに、化野は何も思い出さなかったのだ。こんなことは今までなかった。抱かれさえすれば、二人の為の時計の針が、確かに動き出す筈なのに、それが…どうして。

 考えていると、体の震えが止まらない。嗚咽が込み上げそうで、息を止めて背中を丸め、シーツに顔を押し付ける。

「ギンコ」
「大丈夫だから、少し、一人にしてくれ…」
「好きだよ、ギンコ」
「……あだし…」

 化野のくれた言葉が嬉しくて、だけれど、それならばどうして思い出してくれないのかと、ギンコはもっと苦しくなった。涙が零れないように、目をきつく閉じた。

「なぁ、ギンコ、不思議だよな。俺はお前を知らない筈なのに、お前の姿を知ってたんだ。夢で何度も何度も見たよ。まだ会ってもいないのに、好きになってたんだ。でも、何も知らない」

 暖かな手が、ギンコの髪を撫でる。背中をそっとさすってくれて、髪に顔を埋めるように、耳朶に口付けをしてくれた。

「これから、お前のことを教えてくれるだろ? お前は『知ってる』と言ってたけど、俺の話も、聞いてくれるだろう? もしも事情が許すなら、一緒にここに…。狭いけど、この家に俺と…」

 言葉は、そこで不意に途切れた。化野は診療室の方を振り向いて、次に壁の時計を見た。医院を開ける時間だった。扉の外で、既に誰かが待っている気配がしていた。

「会えてよかったよ。お前が傷ついていても、会えないままでいたら、癒してやることも出来ないからさ」

 す、と化野の気配が遠のいた。彼はいつもの日課どおりに、医院の扉を大きく開けて、その外で待っている患者を診療室へと通した。今日は土曜だから、診療は午前で終わる。

 薬を貰いに来た少女に、その母親の薬を出してやり、腕が肩より上がらなくなったと、困り果てて訴える爺さんの肩を、丁寧にマッサージしてやる。腹痛の薬を欲しがられ、頭痛の悩みを聞いてやり、果ては飼い犬の夜鳴きの相談までされて、最後にきた患者は、あの切符もぎの女だった。

 給金が貰えたから、と、わざわざ仕事の合間に払いに来たのだ。母親の足元にまとわりつくようにして、男の子が化野を見上げている。

「あぁ、この間は、ありがとうな、風太。先生が会いたかった人が、風太の言うとおり、ちゃんとこの里に来てくれたよ」

 礼を言われて、風太は嬉しそうに顔を上げる。頭を撫でてもらって、誇らしげにしている我が子、母親も笑顔で言った。
 
「風太、よかったね。先生にまで撫でてもらって。さっきは風太の言ってた、あの白い髪の人にも撫でて貰ったしねぇ」
「……今、何て?」
「えぇ、さっき駅から出たとこで、会ったんですよ。先生や風太の言うとおりの、白い髪した若い…」
「そんな、まさか」

 化野はすぐに、隣の部屋の扉を開いた。その部屋には扉が一つだけしかなくて、この診療室を通らなければ、どこへも出て行けない部屋のはずだった。だが、そこには誰もいない、きちんと整えられたベッドの上にも、勿論ギンコはいなかったのだ。

「嘘だろ、ギンコ…」

 かち、と、小さな音を鳴らして壁の時計が正午をさした。今日の診療は終わりだ。女も昼ご飯を食べに、一度子供と家に戻るらしく、化野の様子が変わったのを気にしながら帰って行った。

「行ってしまうのか? お前。…また、俺は置き去りなのか?」

 無意識の言葉が、彼の中の幻をなぞっていた。会ったこともない筈の人を見るように、経験していないことを、以前もあったことのように感じる。

 ほんのひと時、傍にいてくれた恋人が、夜が明けたらもう旅に出て行き、次にいつ会えるかも約束してはもらえない。そんな痛みが、彼の胸に迫って、気付いたらもう化野は、駅へ向かう雪深い道を、白衣のままで走っていた。


  * ** ***** ** *


 雪を踏む音は優しい。何かを包み込むように、一歩、歩くたびに足の下から小さく響く。ギンコはコートを着て、髪を布で覆って、俯いて歩いていた。今日は昨日と違って、雪は降っていなくて、白く白く広がる空が明るい。

 それでも、彼の足元も頭上の空も、回りの風景もみんな白くて、幻の中を歩いているような気がしてくる。向かっているのは、駅だった。

 どうしてだろう。約束を、酷く違えられたような気がする。ずっと、変わらないと思い、そうと信じていたことが、不意に叶えられなくなって、その事実がギンコは怖かった。

 不死のギンコ。

 死ねない命に変えられて、もう何年を生きただろう。愛した男が死ぬのを、もう何度も見た。そのたびに次に生まれてくる同じ魂を探して、探して、探し当てては恋人になった。

 死なないことが約束なわけじゃない。探すことが約束なわけじゃない。出会うたびに愛することも、いつもいつも死に別れてしまうことも、約束なのだと思ったことはなかった。

 ただ、ギンコは、愛してもらえると、そう信じていたのだ。他の何よりも誰よりも、大切に思われ、それが運命なのだと何一つ疑うことなく愛される。鍵穴に、たった一つ合うように作られた鍵のように、出会って、肌を重ねることで、運命の扉が必ず開いて…。

 馬鹿だな。好きだと、言ってもらったのにな…。

 小さく苦笑して足を止める。駅舎はもう目の前だった。あまりに里が静かだから、まだ山向こうを走っている汽車の音が、かすかに聞こえているような気がする。

 もう少し、離れていようか。きっと急ぎ過ぎたのだ。まだ時は満ちていなくて、だから化野は思い出さなかったのかもしれない。会った事もないのに、姿を知っていると言われ、あんなに嬉しかった気持ちが、今は虚しい。

 それほどの絆なのだと思って、ただ幸せだった。化野の心の中に、会う前から面影だけで淡く浮かんでいて、その幸福と引き換えにするように、抱かれても思い出しては貰えなかった。これから先、どうなるのかも判らない。

 好 き だ …

 化野はそう言った。

 俺もだよ、そう返した。

 なのにそれだけでは不安が拭えなくて、我侭なのだと思う。臆病すぎるとも思っている。敷かれた線路を逸れずに走り続ける、そんな運命を呪っていた筈なのに、変わらないはずの事が、ほんの僅か違っただけで、こんなに怖いなんて。

 汽車は、何時にくるのだろう…。時刻表を見ようと思い、ギンコが駅舎に入っていこうとしたその時、丁度、駅の中から出てきた女が、驚いたように目を見開いた。

「あぁ…! 白い髪の…」
「……」

 頭に巻いた布が緩んで、前髪が少し見えていたらしい。女の足元にいた子供が、不躾にギンコの顔を指差した。

「このヒト、せんせいのまってたヒト!」
「…先生って、化野先生かい?」
「うん、せんせい! せんせいの、すごくまってたヒト…っ」

 ギンコは少し優しい気持ちになって、子供の頭を黙って撫でた。女は子供の母親なのだろう、嬉しそうにギンコに会釈してから、やっと気付いたように言った。

「あ、あのぅ…そろそろ汽車が通りますけど、今…」


 ぴーーーーーー……っ

 
 汽笛の音が長く響いた。寂しい音だな、まるで泣き声のようだ。ギンコはそう思って、駅舎の扉に手を掛けた。 

















11/03/11 サイト掲載










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汽笛の鳴る里 6





 顔を前へ向けたギンコの眼差しを見て、女は何も言えなくなった。風太も小さいなりに何かを感じるのだろう、母親の服の裾を掴まえて、ギンコをじっと見つめ、それから困ったように下を向いた。

 ギンコは二人から視線を逸らして、駅舎の重い扉を押して入っていく。改札が無人なのは、汽車の中で料金を払っても構わないからだろう。ポケットの中にあったロッカーの鍵を手にして、大きな荷物を取り出すと、彼はそのままホームへと出て行った。

 近付いてくる汽車が見える。けれど入ってくるのはギンコが立っているのとは逆側のホーム。走って階段を登っていこうとしたが、到底間に合わないと分かって脚を止めた。乗れなかったことを、安堵する気持ちに気付いてギンコは唇を噛んだ。

 あだしの… あだしの… たった今は? 俺のことを思い出していないか。思い出して今、ここへと向かってきてくれてるなら、あぁ、どんなにか嬉しいのに…。

 汽車は、汽笛をもう一度鳴らし、走るスピードを緩めたまま、止まらずに遠ざかって行った。ローカルな駅らしいことだ、と思う。入るホームに誰もいなければ止まりもしないのだろうか。

 柱に張られた時刻表に気付いたが、それを見ることもなく、ギンコはひんやりと冷えた待合室の椅子に座っていた。暫くして、また汽笛が遠くから聞こえる。

 次こそこちらのホームだろう。近付いてくるあの音は、俺をこの里から遠くへと、連れて行ってくれる汽車の音だろうか。ギンコが椅子を立ち、誰もいない改札をこえてホームへ出た後、駅舎の扉が、勢いよく開かれた。





 汽笛の音が山向こうから遠く聞こえる。大丈夫だ、あの汽車にギンコは乗らない。その前に来た汽車にも乗ってない。そう思っていても足を止めず、いっそう懸命に雪を蹴立てて、化野は駅までの道を走ってゆく。

 吐く息の色を白く変えて、降り出した小雪混じりの風に、白衣の前を乱されながら、化野は一度転んだ。膝と手のひらが痛んだが、気にならなかった。指から血が出てしまったことになど、気付いてもいなかった。

 ギンコが、もうこの里を離れていってしまおうとしているのなら、次に汽車の来るのに間に合うとか、間に合わないとかじゃない。今すぐにでも傍に行きたくて、何か言わなきゃならない、と、それだけを思って走っている。

 駅舎が見えた。今の時間なら無人だ。壊すような勢いで扉を押して入ると、ホームに立っているギンコの背中が、くすんだ色のガラス窓の向こうに見えた。

「ギンコ…ッ」
「…っ……」

 びく、と背中が震えたのが分かった。なのにギンコは振り向かずに、汽車の音がする方向を見ている。

「なんで…なんで何も言わないで行くんだ…っ」
「…また、来るよ……」
「いつ…っ? いや、違う。そうじゃない。言ったじゃないか、ここで、この里で…。あの家で、俺と…っ」
「……返事は、してないだろ? ……だって…おまえ、は…」

 ぴーーーーーーーーー…っ。
 長く尾を引く汽笛が、ギンコの言葉を裂くように響く。


 お前は、俺を思い出してもくれないじゃないか。


 そう、言葉にしなかった想いが、ギンコの息を苦しくさせた。もしも、それをそのまま告げたとしても、化野には何のことなのかすら分からない。不思議そうにする顔や、戸惑う目を、もう見たくない。二度と、見たくはないんだ…。

 あぁ、汽車の音が近付いてくる。足元に小さな振動が届く。緩いカーブを回って、赤錆に似た古ぼけた色の、小さな汽車の姿が見えた。

 ホームに近付いてきながら、汽車がゆっくりとスピードを緩める。若い顔をした運転主が、ホームに立っているギンコと、その後ろにいる化野の姿をちらりと見て、今度は汽笛が控えめに二度鳴らされた。

 ぴーーー ぴーーーーーーーー…っ。

 ギンコはホームの白線の傍に近付きながら、黙ってじっと項垂れる。心が、溢れてしまいそうだ。胸を裂き、血を流しながら、涙を流しながら、無言のままの彼の胸から零れているのは、たった一つの願いだった。

 思い出して欲しいけれど、今は、そうじゃない。ただ、もう一度だけでもいいから、言って欲しかった。どうか言ってくれ、と、そう告げたかった。たった一言、そのたった一言が欲しい。

 傍に…いてくれ、と。

 あぁ、そうだ。それが本当の心。離れたくなんかない。傍にいたい。どんなに怖くても、どんなに辛くても、切なくても悲しくても、不安でも…。

 傍にいたいのだ、例え心が、ズタズタになったって。

 汽車が音を立ててホームに滑り込む。化野が何か言った。でも聞こえなかった。もう一度、お願いだから、化野。今度は、聞こえるようにもう一度だけでいいから…。

「…の、汽車…は…ギンコ」
 
 きつく目を閉じたギンコの前に、けれどその汽車は、停まらなかったのだ。停まらずにいってしまった。ホームに立っているギンコの姿を、運転手はちゃんと見たのに、それでも停まらずに走り抜けて、遠ざかっていく。

 ギンコの歪んだ視野に中を、遠くなる汽車…。

「…この時間、汽車は停まらずに通過するんだ。上りも停まらなかったろう…? 次に停まるのは夕方だから、それまでは、お前はここから出て行けやしないよ。…いや…違う。夕方になったって、行かせないよ。行かせるものか…っ」

 項垂れたギンコの足元に、ぱたぱたと雫が落ちる。

 振り向かないで立っているギンコの体を、化野は後ろから包むように抱いた。ギンコが片手にぶら下げていた、大きな大きな荷物が、がしゃ、と音を立ててホームのコンクリートに落ちる。

「頼んで…いいか…?」

 震えて揺れる声で、ギンコは呟いていた。

「『傍にいろ』…と、い、言って…くれ……」

 あぁそれだけで、きっと、俺のこの足は動かなくなるから。駅舎の傍にすらもう寄らない。汽笛が鳴ったら耳を塞いで、汽車の近付いてくるのが見えてしまいそうなら、きっと目を閉じているから。

「…言っ…て、くれよ…っ。あだしの…」

 この里はお前の、そのたった一言で、俺の中で閉じた里になる。俺をお前に縛ってくれ。臆病な俺が、逃げ出せないように、言葉で俺を、ここに閉じ込めていてくれ。

 化野はギンコの首筋に、そっと口付けを落として言った。

「俺の、傍にいろよ、ギンコ」
「…うん、傍にいる…」

 遠ざかっていく汽車の音が、すっかり聞こえなくなってしまっても、ふたりはホームに立っていた。






 

11/04/03 サイト記載












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汽笛の鳴る里 7





さく  さく  さく

「汽車は汽笛を鳴らしたろ、ギンコ」

さく さく さく さく

「…あぁ、鳴らしたな」
「ここの路線はもうずっと昔から通っていて、汽車もずっとこの駅に停まってた。ここが廃駅になると一度決まった時には、近隣のどの里の駅員も、運転手たちもみんな反対してくれた。結局、廃駅にはならなかったものの、こうして、一日のうちの殆どは、汽車は停まらず行ってしまうようになったんだけどな」

さく  さく  さく

「だからあの汽笛はさ、運転手の気持ちなんだ。汽車がここの駅に停まらない時も、運転手が汽笛を鳴らしていく。心でちゃんと、汽車はここに停まったんだと、告げて行ってくれてるのさ」
「そうか…」

さく さく さく さく

 雪を踏んで歩きながら、化野はそんなことを喋っている。ギンコはそんな化野のすぐ後ろを歩きながら、困ったように自分の右手を見た。駅で化野に手首を掴まえられた。そうしてそれからずっと、その手は握られたままなのだ。

「おっ、買い物かい? いい大根だな」

 白い割烹着をきた主婦らしい女が、買い物かごから大根を突き出して歩いていて、化野はそう声を掛けた。

「そうだろう、先生。ふろふきにしようかと思っててさぁ。あとで少し持ってこうか?」
「いやいや、育ち盛りがいっぱいいるだろ。自分ちで食べなよ」

 そんなふうな里人との、ごく有り触れた会話の間も化野の手がギンコの手を握っている。

「あ、化野」
「ん? 大根食べたかったか? うちでもやろうか、ふろふき…」
「そ、そうじゃなくて、もう手…、手を離…っ」

 ぎゅ、と逆に握る力を強くして、化野は悪戯っぽく笑った。

「別に誰も気にしてやしないし、気にされたって離す気はないな。そうやって焦ってると、お前、なんだか可愛いしな」
「な、何言ってんだっ」
「思ってる通りのことだぞ、ギンコ」

 ぐい、とギンコの手を引っ張って、もっと自分の傍へと寄らせながら、化野は笑っている。笑っているけれど、その目の奥には酷く真剣な色があった。

 ホームでギンコの背中を見た時の、あの想い。汽車は停まらないと分かっていても、ギンコが消えてしまうかと思った。強く抱き締めていても、急に存在を薄れさせて消えてしまうように思う。

 思い出してくれ、とギンコは言う。何のことなのか化野には判らない。分かっているのはギンコが悲しんでいるということと、それが自分のせいなのだということだけだ。

「ギンコ。まだ昼間だけどな」
「え? あ、あぁ」
「抱くぞ。もう一回」
「…え…っ? 何……」

 何、じゃないだろ、と化野は思っている。もう一度抱いてくれ、と、あんなに濃厚なキスをしてきたのはお前じゃないか。だけどそのキスのせいじゃない。あの懇願のせいじゃなくて、化野がギンコを欲しいのだ。この腕の中に抱いて、幻じゃないのだと、心の底から信じて安心したい。

 そうしてギンコの願いを叶えたい。思い出すべきことがあるのなら、それを思い出したいのだ。

「体が冷えてるなぁ。まずは一緒に風呂でもどうだ?」

 幾らかおどけてそう言えば、ギンコは白い首筋を赤らめる。それでも、夕べ化野と肌を重ねてから、ギンコは風呂を使っていなくて、仕事前にシャワーを浴びたらしい彼に、そのまま抱かれるのは抵抗があった。

「ふ、風呂は…か、借りたいけど」
「じゃあ入るといい、すぐ沸かすからな」

 ニコリ、と笑って化野はそう言った。その後はギンコをもう一度抱くのだ。「思い出す」かどうかは、多分、自分でどうにかできることじゃないだろうが、夕べのことを色々反芻して、今度はちゃんとしようと思った。ギンコが安心して身を任せられるように「しよう」と。

 家へと戻って、化野はすぐに風呂を沸かし始める。勿論、握ってい続けたギンコの手は離したが、それでも時々、ちゃんと部屋にいるかどうか確かめるように、首を覗かせる。

「いなくなるなよ…!」
「…ならないって」

 ベッドの端に座って、ギンコは困ったようにそう答える。

「お前の言うのは当てにならないじゃないか。お前、いつだって…。いつだって…。あれ?」
「………」

 ギンコはじっと化野の顔を見る。思い出したのか? そう問うような切ない目。だけれど化野はたた首を傾げて、不思議そうな顔をして、風呂場へと戻っていく。やがて風呂が沸いて、ギンコが入っている間、化野は手持ちぶさたになって、ついさっきギンコが座っていた場所へ腰を下ろした。

 きし、とベットまでが軋む。その家の椅子も机もベッドも、床も、どれもこれも古い音を立てるが、別に化野はそれが嫌じゃない。ただ、夕べのあの時は、このぎしぎし言うのが凄く耳について、自分達の体の動きの激しさを教えるようで困った。

「はぁ…」

 溜息をついて、所在なさげに周りを見回すと、同じ部屋にある机の上に、ギンコの荷物がある。大きな木の箱。革のベルトが二本付いてて、背中に背負う形をしている。じっと眺めていると、なんだかそれが気になって、化野はベットから立ち上がった。

 見たことも無い木のカバン。背中に背負うものと言ったら、今なら革か合皮か、布製のリュックかなんかが普通だから、こういうのはこんな鄙びた里でも見た事が無い。

 なんとなくドキドキしながら手を触れて、殆ど無意識に、化野はその箱の開け方を考えた。よく見れば背中に付かない方の広い面が、丸々一枚蓋になっていて、それを開くと中にはびっしりと抽斗が並んでいる。化野は、その抽斗の一つを開けようと…。

 そこまでやってしまってから、唐突に化野は視線に気付いた。開いたままの部屋の扉のところから、濡れたままの髪をしたギンコが、彼のしていることを見ていたのだった。

「あ…っ、ごめっ、すまんッ、その…つ、つい気になって…あの」
「いや、いいんだ…。お前は…【相変わらず】だなぁ…」

 ギンコは何故か満足そうに笑っていた。あぁ「化野」だ、本当に…同じあの魂…。こんなこと一つでそう思えて、微笑んでいながら、ギンコはいつの間にか泣いていた。ぼろぼろと涙を零して、それから彼は言ったのだ。

「…急がないでいいよ、化野。お前は俺の目の前にいる。思い出す時がきたら、その時はきっと俺を思い出してくれ。それまでお前の傍で、お前と一緒に月日を過ごして、俺は待ってるよ」


 あいしてる


 音を消した唇が、確かにそう言ったのを感じた。遠くをゆく汽車の、長い長い汽笛の音が、ギンコと化野を包んで響いて、薄れて消えていく。


「俺もだよ」

 
 化野はそう言って、怖いくらいの愛しさに包まれ、ギンコの体を強く抱き締めた。これは運命なのだと、彼はそう思った。胸が痛んで、涙が出てしまいそうで、ギンコの肩に額をつけた。


 あいしてる


 音の無い唇で、化野もそう言った。死ぬまできっと、愛しているのだ。死んだってきっと、愛している。永遠に…永遠に…。














 やっと終わった「汽笛の響く里」っ。読んでくださった方、ありがとうございますっ。最後の話は若干、補足的な…。でも大事な部分?かなーと思って、ちょいちょいと二人の気持ちを書きました。

 死んだら二度と会えないのが、この世の摂理だけれど、二人はその摂理の外で、見えない絆で繋がっているのだと思う。死に別れた時の、もう二度と会えない痛みの代わりに、ギンコの背負わされた重荷のなんと大きいことでしょう。

 そうしてやがて、愛するものがそんなにも傷つくのだと知った時の化野先生の、悲しみのなんと大きいことでしょう。愛とは残酷なものですねぇ(クサイ?すいません)。

 この話は終わったけど、螺旋のシリーズで書きたいものは、山のようにあるので、当分、惑い星の書くネタは尽きませんっ。どうか気の向くときに、付き合っていただければと思うのでした。

 ありがとうございます。



11/04/03