綴珠の縁 6 teijyu no enishi




「経過がいいようですから、また同じ薬を二週間、出しておきます。どうしても眠れないときだけ、白い錠剤を夕食後に一錠飲んでください。お大事に、マキタさん」
 
 ぱたん、と音を立てて扉が閉まる。ほとんど同時に、ほんの微かな音で、机の上の小さな時計が、十二時をさす。

「休憩だ………。ギンコ」
「あぁ、おつかれ…さ…、ちょっ、おい…ッ!」

 繋いだ片手が握りこまれると同時に、視野が一瞬で真っ暗になる。化野の匂いで鼻腔が埋められた。抱き締められ、ギンコの顔は化野の胸に押し付けられていた。化野の仕草は、乱暴ではないが、その腕からは簡単には逃げられそうにない。

「…馬鹿…、このッ、やめ……」

 ぎゅ、と抱き締める力が益々強くなる。診察室の外には看護士たちがいるし、患者たちだってまだ、待合室で会計を待っていたりするのに、どうしてこう、この男は…。

 だけれどギンコだって本当は気持ちは同じだ。抱き締められて嬉しいし、こうして体をぴったりと合わせたくて、ずっと眩暈すらしていた。

「あだ…し…」

「先生、マキタさんの眠剤、五日分だけで。……先生? あら、あなた確か…」
「あ、あぁ、その…じゃ、い、一週間分。いや、五日で…いい」
「はい、判りました」

 月子さんじゃない。別の若い看護士だ。ギンコはとっさに化野から素早く離れ、くっついているのを見られずに済んだが、髪や目、その風変わりな姿をしっかり彼女に見られてしまった。

 看護士はギンコを見て、何かを思い出そうとするかのように首を傾げたが、化野の指示を聞くとすぐにドアの向こうに消える。ギンコは疲れたように背中で壁に寄りかかり、片手で白い髪をくしゃりと掻き上げた。

「前に来たとき、俺は多分、今の看護士に会ってるんだ。後で何か聞かれるかもしれないからな、化野」
「そうだな、明日までにはちゃんと言い訳を考えとくよ。それより、ギンコ、休憩中はどうする? せっかく一時間半あるから、少しでも飢えを満たしておかんと、俺は午後から持ちそうに無い」
「腹の空き具合みたいに言うな」

 言いながらも、互いに手を差し伸べあって、しっかりと指を絡めて繋ぎ合う。化野はギンコの手を引き寄せて、彼の手の甲に唇を乗せた。そうしながら切なげな目でギンコを見つめ、化野は恨み言のように囁いている。

「…なんで俺ばかりこんなに苦しいんだ」
「俺も同じだって」
「とてもそうは見えない」
「見えなくたって、同じだ」

 ギンコはふい、と横を向いて、小さな声でぽつりと言った。

「どっか、誰も入ってこないとこはないのか…?」
「ない。それとも、トイレの個室にでも篭るか」
「そんな目立つことができるか!」

 男女兼用の個室がひとつしかないトイレに、男二人して入って出てこないなんて、奇妙以外の何ものでもない。だけどそれ以外にひとつも方法がないのなら…。

 無理に抑えていた呼吸が、知らずのうちに速く浅くなっている。たった今は手を握り合っているというのに、どうしてこんなに苦しいのか。化野が患者を診察するたび、数分ごとに数分も手を離していたのだ。限界が、近いのかもしれない。こんなことで午後からどう乗り切ればいいのだろう。

「ちょっと、待っててくれ」

 化野は自分からギンコの手を離した。そうして診察室の外へ出て行くと
、そこに一人残っている看護士に声を掛ける。

「他の二人は、また下のカフェで昼食か?」
「ええ、そうです。二人が戻ったら、私が行きます。先生は今日は?」
「俺のことは…。なんなら君も行ってくれば? そうだ。折角三人で食べるんなら、甘いものなんかも食べてくるといい。ミーティング食事代で、カフェから領収書貰っていいから」

 わぁ、ほんとですか? と、嬉しそうな声で言って、若い看護士はさっそく立ち上がったようだった。急ぎ足で出かけていく彼女の背中に、ゆっくりでいいよ、とさらに付け加えて、化野はやっとギンコの前に戻ってくる。

「職権乱用ってやつ」
「なんとでも言え。悪態でも何でもついてろ。その代わり、時間のある限りお前を離さんから」

 言いながら、化野は激しくギンコを抱き締めた。骨が軋むほどの抱擁をしているのに、飢えは満たされない。焦る様に手のひらを重ね、互いの手の甲に爪の跡をつけながら、二人は口付けを交わした。

 甘い、と、そう思う。蜜のように…。そして棘が刺さっていくように、胸が痛かった。何かが体のどこかをこじ開けているのかと思える。すうすうと冷たい風が背中へ当たっているようで、寒くて凍えそうで、強く強く抱き締め合う。

「すきだ…ッ…」

 息苦しいような、かすれた声でそう言って、化野はギンコの首筋に口付けをした。跡がつけられてしまうと判っていても、ギンコはその愛撫を咎めることが出来なかった。

 閉じた瞼の裏に、美しく広がる桜色の波紋が見えて、それがすぐにもう一つ増えた。二つは酷くゆっくりと、大きく広がりながら、真ん中で触れ合って、一つの綺麗な模様になる。その模様の接点から、きらきらと光の粒のような、何かの小さな欠片が零れた。

「見えるか…化野」
「何が…?」
「あぁ、見えないのか、こんな綺麗なものが…。残念だ」
「俺はお前の姿が見えりゃいい。他はいらないよ」
「…よく、言う…。珍品好きの、化野先生」

 言えば化野が、ほんの少し拗ねるような気配がギンコに伝わる。声も仕草も見えないのに、それでもギンコには化野の心の揺れが分かるのだ。くす、と小さく笑って、ギンコは言った。

「俺も…好きだよ、先生」
「…ぁあ、これのことか? 今、見えたよ。本当だ、綺麗な水色の輪っかが…」

 水色、と化野は言った。ギンコの見ているものと色が違う。どうしてかは分からないが、それを見ていると化野もギンコも、穏やかで満ち足りた気持ちになれた。

 意識の遠くで、時計の音を聞いている。刻々と時を刻み、容赦なく時間を数える時計の音。深いけれど、濃厚ではない口付けを、何度も何度も交わしながら、医師の机と椅子の傍で、二人はずっと抱き合っている。知らないうちに手と手は離れていたが、身を寄せ合っていれば辛くはなかった。

 長いような、短いようなその間、二人はそれぞれの心の中で、水色の、桜色の、美しい波紋が広がっては何か光るものを生み出しているのを見ていたのだった。





 ギンコは真剣な顔をしていた。こんなのよりも、自分の手や指とを使って、あと腕時計でもあれば、その方が余程簡単なのに、と、そう思っているのがしかめた眉に現れている。

「すぐ終わるから、楽にしててね。痛くないから、動かないんだよ。はい、終わった。いい子だったなぁ、ユウキ君、もう一年生だもんね、すっかりお兄ちゃんだ」

 慣れたように言いながら、化野はちら、と血圧計に出た結果を見て、今度は子供の母親にむかって説明を始めた。子供は男の子で、とにかく元気の盛り、母親にがっしり押さえつけられながら、視線だけは自由にきょろきょろして…。

 何より興味津々にギンコの姿を見ていた。

「ママぁ、この人、目が葉っぱの色ー」
「ユウタ! おとなしくしてなさいっ。すみません、ほんともう、この子落ち着き無くて」
「いえいえ、元気なのが一番です。これならお薬はもういらないですね。ユウキく…。えっと、ごめん、ユウタくん」
「わーいっ」

 名前を間違えていたことに気付いて、化野はぎこちなく言い直した。子供の母親は、気にした様子も無く笑って「ユウキは夫の名なんです」と言って、立ち上がる。午後の診療がこれで終わった。あとは往診の一件だけ。

 化野は一度白衣を脱ぎ、往診専用であるらしいカバンを持たされて、ギンコとともに医院を出た。

「蟲はもう抜けたんじゃないのか? 苦しくならないぞ、なぁギンコ」
「…よかったな」

 ギンコはそう言って、自分の前を歩く化野の手を見つめていた。







10/06/30



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綴珠の縁 7 teijyu no enishi




 エレベータの扉が閉じた途端に、化野はギンコの手を握った。握るだけじゃなく引き寄せて、軽く唇を重ねる。ギンコは睨むような目をしたが、嫌がりはせずに壁に背中を寄りかけた。

「苦しくないんじゃないのか? 化野」
「ん…? まぁ、そうだが。いいじゃないか、今日一日くらい手を繋いでたって。見られなきゃいいんだ。蟲だって、まだいるかもしれんのだろ? …ってことで、医院の車で往診行くから」

 地下まで滑り降りていくエレベータ。広い駐車場の真ん中に止められた車は、案外小さめで丸い可愛い形をしていた。色は白だが、シートの上に乗せられてあるクッションは、渋く灰色がかってはいるものの、淡い桃色。

「えーっと、いつもは看護士の子が、銀行とか行くのに使ってて…。いや、元々は妻の車なんだ。嫌か? ギンコ」
「…別に」

 化野は運転席へ、ギンコは助手席へ。ギンコが手を出す前に、化野から手を差し伸べてきて、彼の手を掴む。

「大丈夫だぞ、オートマだからな。慣れた道だし、右手だけで充分。この車だと、いつも左足と左手が余るんだが、今日の左手はお前と一つだ。運転も楽しくていい」

 そんな軽口を叩きながら、車はスタートする。地下から出ると、日が軽く傾いていて、日差しは優しかった。

 ギンコはズボンのポケットにねじ込んでいた帽子を取り出して深くかぶる。余程人の少ない場所にいる時以外、外出ではいつもそうだ。髪を少しでも目立たなくするために、帽子の色は白に近いグレー。顔を少し伏せて、瞳も外へは向けていない。

「…ギンコ?」
「あぁ?」
「いや、なんでもないよ。すまん」

 そんな暮らしは、辛くはないのか? そう聞いてしまうところだった。無神経が過ぎる自分が、時々怖くなる。謝りの言葉に返事はないが、気持ちを伝えるために、化野は繋いでいる手の指で、ギンコの指をそっと撫でた。

「運転、気ぃつけろよ」
「大丈夫だって」

 車は緩やかに車道を走り出す。往診先は今日は結局一箇所だけ、少し遠くて往復に時間がかかるから、他の予定は入れられていなかった。既に一度言ってあったのだが、それでも化野は済まなそうにギンコに説明する。

「患者はまだ若い女性なんだ。だから女の看護士ならまだしも、男ってのはやっぱり。だから、車で待っててくれ。なるべく急ぐ」
「あぁ、判ってるさ。急いて何か間違ったりするなよ、先生」




 
 ギンコは木漏れ日を見上げて、目を細めた。まるで森の中のようだが、ここがその往診の家の庭だという。

 目的のこの家まで、一時間弱かかった。帰りはきっと道が混むから、もっとかかるかもしれんな、と、そう言いながら化野はそっとギンコの手から自分の手を離す。カバンを持って、彼はすぐに背中を向けた。百メートルほど先には大きな大きな豪邸。走るような勢いでゆく化野の背中が、大きな建物の、大きな両開きの扉の中に消える。

 ギンコは自分の手のひらを見つめ、それを、ぎゅ、と強く握り締めた。いったん、唇を噛んで堪えるような表情になったかと思うと、彼は助手席で背中を丸めて嗚咽した。

「ぁ、あ…あぁ…」

 はぁ、はぁ、と浅い息が繰り返される。項垂れたギンコの頭から、彼の足元へと帽子が落ちて、彼は髪まで震えていた。

「化野…っ、早く…。はや…く…!」

 閉じた目の奥で、歪んだ形の波紋が揺れる。それはやっぱり淡い桃色をして、寂しげに、不安げに生まれては消えた。

 この桃色は桜の色。化野が見ていた水色は雨の色。桜散る中を、雨に混じって降り落ちながら、雌雄に分かれてしまう蟲が、もう一度つがいで出会って一つになって、ともに潜む場所を見つける。その場所が、化野とギンコが重ねた手のひらの中。

 綴珠と呼ばれたこの蟲は、そうして分たれ、また出合って居場所を見つけ、そこで契って子をなすのだ。ギンコへの手のひらにいる蟲は、言ってみれば女の方。今、まさに子を宿して、安寧な褥がどうしても必要な頃。

 化野にいるのは雄の方だから、愛をもって雌と身を絡め合う時期が済んでしまえば、一時、それまでよりも熱は冷める。

「…だ、だから、男なんてぇのは…っ」

 自分も男の癖に、ギンコは妙な悪態をついた。化野、化野、と心臓の鼓動までが、彼を呼んでいる気がした。こめかみで、首筋で、脈打つ血の一滴ずつでさえ、彼に焦がれて求めている。

「嫌なんだ…。俺を、ひとりに、す…るな……化野…」

 閉じた瞼の裏に見えるのは、何度も見てきた愛する人の、最期の顔ばかりだった。自分についた蟲が見せているのだと、理性でわかっていても、この痛みは紛れも無い彼自身の痛み。身を裂かれるほどの、彼の悲しみなのだ。

「う、ぅ…ぁ…。会いてぇ、よぉ…」

 ぼろぼろと零れる涙が、膝を濡らし、シートを濡らしていく。ギンコは震える手でダッシュボードの中を探った。何か、化野の匂いのするものを探そうと、彼の無意識がさせている。それとも彼の中の蟲がさせているのだろうか。

 入っていたハンカチは、かわいらしい赤のチェックで、これはきっと若い女の看護士のもの。小さな手鏡もそうだろう。他は、車に関する書類と、銀行の名前の入った空の封筒と…。

 何も無い、と諦めかけた手が、何か小さな紙切れに触れた。引っ張り出して、涙に濡れた目で見て…。びくり、とギンコの背が震える。その紙切れはぽろりと落ちて、助手席の足元に。

 写真、だった。女と、化野の。

 ラフなジャケットはお揃い。どこか外国の観光地らしい、噴水の前で肩を寄せ合って、二人は笑って。日付があったが、ギンコはもうそれを見なかった。それでも目をつぶって拾って、幾分乱暴に無造作に、ダッシュボードへ突っ込んでそこを閉じた。

「…嫌だ、嫌…だ…。あだし…の…」

 零れる涙は、止め処がない。ギンコは少し前まで化野が座っていたシートに、ぐいぐいと顔を押し付けて、その背もたれにしがみ付いていた。恋しさだけで、このまま死んでしまえるかもしれないと、そうまで思った。

 呼吸する術までなくしたように、彼は喘いで、そのままずるずると、そこに蹲っていたのだった。





 化野は、使用人に玄関まで送られて、やっとその家から出てきた。ばたん、と扉が閉じてから、彼は落ち葉を蹴散らすようにして、酷く急いで車まで走っていた。車の中に、ギンコがいないように見えていぶかしみながら、ドアに手をかけて、やっと気付く。

「ギンコ…っ!」

 何かの発作なのかと思った。医者の彼が見ても、それほどの苦しみように見える。運転席のシートに突っ伏して、痙攣するように震える体が、化野の声を聞いてびくり、と揺れた。

「い、生きて…」
「…ギン…」
「生きてて、くれた…のか?」
「なに、言って…」

 伸ばされた手を、強く握った。必死で抱き起こして、そのまま抱き締めた。何を言われたのか、よくは判らなかったが、抱き締めたくて、今以上に触れたくて、狂いそうな、そんな思いが心の奥に、ゆっくりと広がっていった。




10/07/04



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綴珠の縁 8 teijyu no enishi



 目の前に白い肌が見える。綺麗だ、とても。


    なにやってるんだ 
    おい ここをどこだとおもってる


 首筋に触れている白い髪。そこから流れるように窪んだ鎖骨の陰り。唇はうっすらと開いていて、小さく覗く歯の先と、舌の色には頭がぐらぐらする。


    ひとのいえのにわだぞ ここは
 

 もっと見たくて、もっと触れたくて、ギンコの着ている服を、胸の上までたくし上げて、顔を寄せて口を付けた。舌をあてた。


    まるで しょうきじゃないみたいだ 
    しょうきならこんなことはしない
    できるはずが ない


 狭くて焦れる。車なんて元々狭いのに、この車はまた小さいから、ドアも閉められずに、化野はギンコのズボンを引き下ろした。下着も一緒にずり下がって、やっと見えたそれを、大事に大事に指で包んだ。

 右手だけで、だ。左手はギンコの右手と繋いでいて、ぴったりと吸い付き合うように離せないから。

「ギンコ、すまない…。こんなに苦しい想いさせてたなんて」
「あ…、あだしの…何して…。ぁあ…」

 ゆったりと夢の波にたゆたうように、ギンコは薄くだけ目を開いている。化野にされていることを、カラダでは分っていても、心は理解していないように、肌を震わせながら脚を開く。

「もう大丈夫だぞ、ギンコ。放さないから。離れないからな」
「ん、うん…。わかった、わかったよ。ひ…ぁ、ぅうッ」

 咥えられて、舐められて吸われて、ギンコは仰け反った。殆ど裸に剥かれた姿で、車の窓越しの木漏れ日が、その肌を撫でている。化野の唇と指が、それを辿るように何度も這う。

 どきん どきん と、心臓の鼓動が大きくて、目を閉じて見るあの水の輪が、今は美しい薄紫に咲いている。少しずつ重なってそれぞれに広がる波紋が、一つの見事な花に見えた。

「化野…。み…ず、……みず…」
「…水…か、分った」

 喉が渇いたのだろうなどと、不思議と思わなかった。この近くに、ギンコの欲しい物が、欲しい場所があるのだと、どうしてかちゃんと分っていて、化野は急いで運転席へと移る。

 倒した助手席のシートの上に、あられもない格好のギンコ。その素肌の上を、様々な木々の葉の影が流れていた。

「水、はや、く…」
「あぁ、水だな。わかってる。すぐに連れてくからな」


 川、泉、沼でもいい。
 小さな池でも構わない。
 どうしても無いなら水たまりでいい。
 早くしなけりゃ、駄目になる。
 せっかく こうして

 生まれて… くるものを…。

 
 どこか耳の近く。それとも意識の中で、小さな雫が鳴らす音が、幾つも幾つも、響いている気がした。





      大丈夫ですか? なんなら
      先生。 
      そこで 「   」いっても
      構いませんが

 
 誰かにそう言われた気がする。

 その同じ声が、この広い広い庭の、どこに池があるのか、教えてくれたのだ。誰だったのか判らない。それでも多分、診察を終えて、玄関まで見送りされた時だったのだと思う。

 いつもはロクに喋らない、体の大きな、それでも多分まだ随分と若い、学生なんだろう少年に、そう言われたのではなかったか。

 化野は小さな池の傍で、ギンコの体をしっかりと支えて立っている。捕まえていなければ、彼は殆ど裸のような格好のままで、その池に入っていってしまいそうだったのだ。

 池の端に膝をついて、無理やりに遠くまで身を乗り出して、ギンコはぽろぽろと涙を零した。その涙は、うっすらと紫色で、まるで紫水晶の粒のようだ。

 涙は零れて、零れて、美しく澄んだ水の中へと落ちていく。

 それを見ているのは、酷く切なかった。何か、自分の大事なものが遠くへ行ってしまうような気がして、その雫のたった一つでもいいから、手のひらに受け止めたいと化野は願っていた。

 けれども化野はギンコの体を押さえていたし、ギンコがそんな化野の両腕に、しっかりとしがみ付いていたから、彼は何も出来なかった。

 ただ、見ている前で雫は幾つも零れていき、それらが一本の透き通った糸に綴られた、綺麗な命の珠の、一綴りのようにも見えた。それだけだった。ただそれだけだったが、化野もほんの幾粒かだけ、寂しさを紛らわすための涙を落とした。




「し、信じ、られんな」
「…まぁ…俺もだよ」
「したのはお前だろ…!」
「そうだが、お前もそうして欲しがってたぞ。…違うか」

 ギンコも化野も、赤くなったり青くなったりしながら、必死で服を調えた。もっとも脱いでいたのはギンコだけで、化野はせいぜいスーツに酷く皺がついている程度のことだった。

「ち、違わない…。多分…。でも蟲のせいだからな」
「俺だってだろう。だけど、あれはきっと、俺自身の本音でもあったんだ。お前はどうか、知らんが」

 少し意地悪だろうか。と、そう思いながら言うと、ギンコの耳がまた、真っ赤に染まっていくのが見えた。

「零れてた雫が、綺麗な色だったなぁ」
「そうか? …どんな色だ?」
「お前の目から零れてたんだぞ? 見てなかったのか?」
「そんな余裕なかった。何故だか知らんが、切なくて苦しかったんだ」

 生んだばかりの子供を手放す親は、あんな気持ちなのだろうか。言葉に出来ずにそう思って、ギンコは化野の返事を待ち、薄紫だったと教えてもらう。

 なるほど、そうだろう、と、すぐにそう思う。水の色と桜の色のかけ合わせなら、紫色が確かに道理だ。

 やっと身支度を整えて、ギンコは文字通り逃げ隠れするように、こそこそと車の助手席で縮こまる。化野は運転席に乗り込んで、なるべく静かに、静かに静かに庭を横切り、開いたままの門から外へ出た。

 暫し走って、その家が遠く見えなくなると、やっと車内で体を伸ばしてギンコは聞いた。

「見られてないだろうか」
「たぶんな。何故だか知らんが、外へ誰かが出てくるのを見たことは無い
んだ。あんな広い庭なのに、整えられてるふうも無いだろう」
「…それにしても、随分凄い豪邸だな。なんか政治家とかの家なのか?」
「いや…。何してる人の家か知らんが、当主はどうも俺の患者の若い娘さんらしいんだ。二十代にやっとって感じの、小柄な女性なんだがな。変に浮世離れした、不思議な人だ」
「ふぅん、そうか。森みたいな凄い庭だったが、あそこに池があって、助かった。蟲をちゃんと放せたし」

 化野はまた思い出しかける。そうだ、池がある、と教えられたのだ。教えてくれたのは、その当主の弟だという少年。少年の声は、酷くゆっくりと沈むように静かだ。


 先生、今日は 随分 大変そうだ。
 辛いのなら庭で休んでいくといいです。

 そんなふうに、大人びた口ぶりで少年は言ったのだ。窓の向こうの、一つの方向を指差して。

 池ならこちらにありますよ。
 もみじの道を真っ直ぐ入って、
 一本だけ桜の大樹のある影に。

 なんなら、そこで「生んで」いっても
 構いませんが…。



「化野っ、青だぞ? 大丈夫か?」

 けたたましく後ろから、クラクションが鳴らされる。化野は慌てて車を発進させて、ついつい考えてしまうそのことを、頭の片隅に追いやった。考えるのはいつでも出来る。
 
 不思議なことの一つや二つ、今更増えてもおかしいとは思わない。今、こうして自分がギンコといることこそが、何より不思議で信じがたいことで、そうしてそれは、夢や幻ではない真実なのだから。

「疲れたんだろう。帰ったらちゃんと休めよ。明日も仕事だろう?」
「そりゃあな。でも、少し寝物語もいいさ。話したいことがある」
「…構わんが」

 明日になれば、また当然のように昼間は離れ離れだ。抱き合ってベッドの中で、今日のことを沢山話したい。切なかったこと、辛かったこと、嬉しかったこと、幸せだったこと。そして不思議に思うことも、いろいろ。

「ほら、信号、変わったぞ、化野。あとでちゃんと聞くから、考え事は今は止めとけって」

 言いながら、ギンコが行きの道のように、化野の手のひらに手を触れた。

「でも多分、お前はすぐ寝ちまうさ。随分、疲れているんだからな」

 予言のように、うっすら笑ってギンコは言う。蟲に憑かれるということが、どれだけ消耗するのかなんて、化野は勿論知らなかった。夢と現の境に住む生き物の世界に、ほんの僅かの間、足を踏み入れたのが確かでも、それはまるで夢で見た幻。

 夜半前、あの家のことを話し始めてすぐに、化野はすうすうと子供のような顔で眠ってしまう。寝顔を眺めているギンコは、満ちている幸せを感じながら、それでも胸の痛みを忘れては居なかった。

 置き去りにされていたあの写真が、棘が刺さるような苦しさをギンコに与えている。

「あんまり…無造作にしとくもんじゃないだろ、化野…。ちゃんと、しまっとけよ…ああいう、大切なものは」

 眠っている化野の心に、名を呼ぶ声が届いたのだろうか。化野はシーツの上にギンコの手を探して、探して、やがては探り当てて、嬉しそうに呟いた。

「夢、の…ようだぞ、ギンコ…」

「……」



 あぁ、そうだよ。これは…
 俺とお前だけが主人公の、幸せで切ない夢だ。
 覚めない夢だよ、例え誰かを犠牲にしようとも。

 そうしてそれが終わるのは、
 俺をだけを置き去りに、 
 …お前が一人で、死んでしまう時だよ。
















 化野先生の奥様は、すでに病死していていないので、ギンコが罪を感じる必要はないのですが…。いいえ、そうではなく、彼が感じているのはただの嫉妬なのかもしれません。

 自分が化野を見つけるまでの間、妻で居た女性。結婚して一緒に暮らし、旅をしたり、同じ職業でいつも傍にいた女を、許せないと思うような、醜い心なのかもしれませんよ。

 だけれど嫉妬は、紛れも無い『愛』の想いなのです。化野先生を愛する気持ちが強ければ強いけど、それはどんなに理不尽でも我侭でも、押さえようもなく、彼の中で、暴れてしまうのですね。

 螺旋シリーズの第二弾が、これにて終了しましたー。また何か書きますねー。


10/07/06