綴珠の縁 1 teijyu no enishi





「あーぁ、雨だなぁ」
「そうだな」
「あーぁ、せっかく前々から決めてたのになぁ」
「大した降りじゃないだろ?」
「…そうだよな」

 化野はにっこりと笑
って、ガイドブックを広げた。そろそろ桜も終わりの季節。ずっと仕事が忙しく、近所の小さな公園に、夜桜をちょっと見に行ったっきりで、ろくに花見もしてやしない。

 やっと作った休日で、ある川沿いの小道へと、名残の散り桜を眺めにいく約束だったのだ、ギンコと二人きりで。

「じゃ、いくか!」
「…結局行くのか」
「嫌なのか?」
「じゃねぇよ。さっきまで行く気がなくなってたのはお前だろ、化野」
「そうだった。悪かったよ、お前がそんなに楽しみにしてたってのにな」

 そんなやり取りをしたのは数時間前の今朝のこと、ほんの僅かに思い出し笑いしたギンコの顔の前へと、熱い缶コーヒーが差し出される。それから、同じく駅の売店で買ったのであろう、ありきたりのサンドイッチと。

 列車の席に並んで座って、窓の外に見るのは、割と幅の広い川の流れ。この川沿いをずっと行ったある場所に、散るのが遅い種の桜がまだ残っているという。

 二つのサンドイッチの包みを開けて、ハムサンドとサラダサンドを一つずつ交換して、それを食べていると、ギンコは抑えきれずに嬉しくなってきてしまうのだ。

 こんなのは、昔は絶対に出来ないことだった。昔も昔、そう…今から百年、二百年も前のことだ。自分自身の記憶ながら、いい加減薄れてしまっている過去を、ギンコはゆっくりと思い出す。

 蟲師、という生業で、ギンコはずっと流れ者の暮らし。一つところに長くは居られず、それを違えれば必ず何処かで悪いことが起こった。そうして逆にこの化野は、土地を離れられない医家の身で…。だから今こうしてしているように、どこか遠くへ二人で出かけたりなんか、できやしなかったのだ。

「それ、そんな美味いか? 気に入ったのか、ギンコ、こっちのもやろうか?」
「は…?」
「いやぁ、笑ってるからさ。美味いんだろ? ハムサンド」
「…馬鹿、いらねぇよ、お前の齧り掛けなんか」

 そうやって憎まれ口を叩いてやっても、化野はぜんぜん気にしたふうがなく、自分の齧ったところを上手に千切ってくれながら、変なヤツだなぁ、キスする仲じゃないか、などと小声で囁いてくるのだ。

 ギンコは仕方なくそのハムサンドを受け取りながら、笑ってしまう口元を隠して窓の方を向いた。遠くにぼんやり、もう桜の色が見える。化野もそれに気付いたのだろう、彼はにこにこと笑いながら、ギンコの肩越しに風景を眺め…

「夢のようだぞ」

 と、そう呟いた。


* ** ***** ** *

 
 夢のよう、と言うのならば、ギンコに出会ってからの今がまさにそうなのだ。化野は駅の壁の時刻表を眺めている彼の背中を見ながら、ふと思った。

 まだ、出会ってから半年を過ぎたばかりで、しかも一緒に暮らしたのなんか、さらにその半分もなくて。なのに二人の気持ちは通じ合っていたし、キスどころか、殆ど毎晩、やることやってしまっていて。

 だけれど…だけれど早すぎだとか軽はずみだとか、急ぎ過ぎだとかなんかちっとも思わない。二人はある意味、数百年前からの知り合いで、恋人同士だからだ。

 ギンコが化野を振り向いて言った。

「帰りは二時間後の二時過ぎか、その次の四時前の列車だな。どっちにするかは決めないで、のんびりしようぜ、化野」
「ああ、そうだな、のんびりしよう、ギンコ」

 そうして二人はその通りにのんびりと、疎らにある土産物屋を覗いたりしながら、目当ての桜並木を目指した。ガイドブックに載ってはいるものの、もう散り際だし今日は霧雨が降っているしで、殆ど人通りはない。

 傘なんかいらない、と言ったギンコを無視して、ビニール傘を一本だけ買って、いわゆる相合傘をしようとすると、化野はギンコに酷く嫌がられて、少し寂しくなる。

「怒ったのか、ギンコ…」
「別にぃ」
「…怒ってないんなら、隣を歩いてくれよ」
「そんな恋人同士みたいなこと、堂々と出来るか」
「こいびとどうし、だろうが、俺たちは」

 するとギンコはちょっとだけ振り向いて、頬っぺたを赤くして言った。

「こいびとどうしみたいなこと どうどうと は、出来ねぇって言ったんだ」

 つまり、恋人同士、と言うとこを否定したわけではないと。しょうがないか、と思って化野も傘を閉じて、二人はまた隣合って歩いた。霧雨は音もないけれど、それでも段々と二人の体を濡らす、ギンコは白いワイシャツの中に、Tシャツも着ているらしかったが、それでも透けて肌の色が見えてくる。

 化野はギンコよりは寒がりなので、さらにもう一枚ジャケットを着ていたけれど、ただ、自分のことよりギンコのその格好が気になってきた。

「上着、貸そうか」
「別に寒くない」
「あー…でもなぁ、そのカッコ、ちょっと…その、な」
「なんだよ」

 いや、その…と暫し口ごもってから、化野は言った。

「色っぽいぞ、かなり…」
「……っ…!」

 ギンコは言葉をなくし、見る間に顔を赤くして、耳まで染めて早足になり、どんどん化野の傍から遠ざかっていく。

「すけべ」
「…すっ…。しょうがないだろう、その通りなんだから」
「そんな目で見るのはお前くらいだ。放っとけ」
「放っといていいのか? お前、俺に襲われるぞっ」

 人通りがないからいいものの、そんな馬鹿なやり取りをしながら、二人は道を歩いていく。緩やかな坂を上っていき、芝生の中に一筋の土の道が続くところを進んでいけば、自然と目的の場所に着いていた。

「…ギンコ、待てって! そんな急いだら息が切れて…っ」
「化野…」
「あ? あぁ…ここ、かぁ…」

 土手の上。上り切るまでは見えなかった風景が広がる。流れているせせらぎと、その両側に並ぶ桜の、沢山の枝、枝…。確かに終わりかけだったのかもしれない、けれどまだ十分綺麗で、その花弁が引っ切り無しに舞い散っていくのが、酷く華やかで、それでいて儚げで。

「凄いな」
「うん」
「綺麗だ」
「そうだな」
「これは…でも、今日で最後みたいだなぁ」
「ああ、もって後、数時間だろ」

 降り頻る桜の花びらが、まるで空気までを桃色に染めたように見せている。川を流れる水も染まっていた。その川べりの、雨に濡れた草も染まっている。

 そうしてそこでたった二人、この美しい風景を眺めている男二人の体も、纏い付く桜の色に染まっていた。

「凄いぞ、お前、ピンク色だ」
「ピンク色はよせ」
「じゃあ、桃色」
「………」
「薄紅色」
「別に、なんだっていい」
「桜色」
「はは、まさに、それ」

 化野は桜の匂いのする空気を、胸いっぱいに吸い込んで言った。

「こんなとこで二人っきりとは、これ以上の贅沢はないな」
「…まぁな。でも桜が好きなのは人ばっかりじゃないんだけどな」

 なんだか特別な響きのある言い回しだったから、化野は思わずギンコの顔を覗き込んだ。

「蟲の、話か?」
「あー…まぁ、その話はいいや。傘」

 ギンコは、化野が持っているビニール傘を受け取って広げた。霧雨だけならば、けっして聞こえそうもない音がした。

 ぱらぱら ぱらぱら ぱらぱらぱら…

「蟲の音か…」
「結構、綺麗なんだけどな。見えないだろうな」
 
 この蟲は、案外、人にも見えやすいんだけどな、と言われたが、化野には見えなかった。酷く寂しく思った。

「見えん。どんなのだ?」
「小さな小さな、水の粒…て、感じのヤツさ。花が好きで、雨に混じって降ってくるんだ。今みたいに。見えても手ぇ出すなよ、ちょっと厄介なんだ」

 そう言って、ギンコはあたりを見回し、逃げ場所にぴったりのものを見つけて歩き出す。今時はちょっと珍しい、古びた電話ボックスが、土手の上に一つ、ぽつんと立っていた。







10/04/11







2へ  ↓















綴珠の縁 2
 teijyu no enishi





 きぃ と、軋む音を立てて、硝子の扉が開く。大の男二人では、どう考えても狭く、狭過ぎて、体がぴったりと密着する。どきどき、した。化野の体は温かい。子供みたいに体温が高いんじゃないかと思ったが、つまりはギンコの体が彼よりも冷えているからだ。

「冷えてる。…お前、馬鹿だなぁ」

 そう耳元で呟いて、化野が両腕の中にギンコをくるみ込む。どさ、と音立てて彼のもっていたカバンが、ボックスの中の床に落ちた。化野はギンコの首筋に顔を埋める。霧雨の雫と、濡れた桃色の桜の花びらで、白い髪は随分と冷たかったのに、構う気などない。

 嬉しそうに化野は言う。

「珍しい、こんなとこで、こんなことしてるのに…、お前」

 嫌がらない、なんて。

「黙ってろ」

 ぽつ、とギンコが言った。ガラス張りの小さな箱は本当に狭い。電話ののせられたスペースが邪魔で、ギンコは微かに身を反らし、片腕を化野の腰に回した。そうしなければ、背中に当たった受話器のところが、ごつごつと痛かったから。

「ギンコ」

 甘い息遣いは、まるで桜の香りだ。そんなのは気のせいと判っているのに、慕わしさが胸に迫って、どうしようもない。

 言葉にしないだけで、いつも身の内を埋め尽くしている思いが、鼓動に混じって跳ねて、零れていく。身を震わせて、唇の動きだけで呟いて、ギンコは化野の髪に唇を寄せた。好きだ…好きだ…。

「好きだぞ、ギンコ」
「黙れよ」
「嫌だ。好きだよ…好きだ…。なんでこんなに想いが止まらないんだろう。好きなんだ、お前が。ギンコ、愛してる」
「…馬鹿…や…」

 びく、とギンコの肌が震えた。化野が小さく首を揺らして、ギンコの髪を舌先で掻き分け、その肌にじかに吸い付いた。

 この想いが、慕わしさが、どうしてかなんて、誰も知らない。蝶に踊らされているだけなんて、思いたくない、思わない、絶対に違う。だって何もかもが起こる前に、俺は化野に惹かれたんだ。何もかもが起こる前に、化野も俺を好きだと言った。 

 雨に濡らされて花びらがびっしりと貼り付いた硝子の向こうに、ちらちらと舞い踊っているのは蝶ではなくて花びらだから、怖がることなんかない。震えることなんかない。

「跡…つけるなよ」
「無理だって」
「じゃあ、離れろ」
「無理」

 ちゅ、と音が鳴った。同じ場所に吸い付いて、化野はそこにわざと跡をつける。髪に隠れるか隠れないか、ぎりぎりの場所と判っていて、はっきりと目に見える愛撫のしるしを。
 
「傍にいてくれ」

 何処にも行かず、いつも俺の帰りを家で待っていて欲しい。蟲だかなんだか知らないが、そのために急に消えられるのは嫌だ。戻るとわかっていたって寂しい。 

「…いるだろ」
「ずっとだ」
「……無理言うな」
「…すまん……」

 不意に、化野の声が震えて、そう言った。ずっと傍にいられないのは、本当は自分の方だ。不死のギンコ。永遠に死なず、長い長い時の流れすら、彼の中を素通りしていく。時の流れに逆らえず、流されていく化野は、いつかはギンコを置き去りにするのだ。

 化野はそっと身を離して、間近でじっとギンコを見た。白い髪に沢山くっついた桜色の花びらが、彼をいつもと違う姿に見せている。馬鹿なせりふだと判っていたが、どうしても言葉にしたくてつい言った。

「綺麗だ、まるでヴェールだ」
「…なんだそれ」
「花嫁の」
「……ば…ッ! おま」

 ギンコの顔が赤く染まる。怒っているのが半分と、照れているのが半分かな、などと、勝手に思って化野は笑った。その笑いを苦笑しながら見ているギンコの目が、ほんの一瞬で暗く陰る。

「でも、俺はあれが嫌いだ。…結婚のとき、神父が、言うだろ…?」

 項垂れて、呟かれたギンコの言葉の意味を、すべて聞く前に判って、化野はギンコの腰を強く抱き寄せる。ガラス張りの箱と判っていても、抑えられずにキスをした。ギンコも嫌がらなかったけれど、切なくて痛い口付けだった。

 死が二人を、分かつまで…。

「そう…だよな。俺は、馬鹿だよ、ギンコ」

 許してくれ、と、小さく呟く唇へ、自分から軽くキスをして、ギンコはとうとう化野の腕の中から逃げた。外へ出ると霧雨は止んでいたから、横に立てかけていたカサを手にして、化野は半端に開いたそれをパサパサと左右に回す。

 水滴だけが落ちた透明なビニールに、桜の花びらが綺麗に付いて、安い二百円のカサにしては豪華に見えた。

「なぁ、これ、綺麗…」

 きら、と、その時光った何かを、化野の視線が追って動く。「それ」は丁度ギンコの髪の上に跳ねて、小さな小さな宝石のように、きらきらと酷く美しい。

「髪に…何か…」

 化野が手を伸ばして触れると、その光るものは彼の左手の指先にくっついた。丸くて、ほんの一ミリ程度の、水晶のように綺麗なそれを、不思議そうに首を傾げて見ている化野。ギンコは遅れて気付いて、見た途端にギョッとした。

「お、おいっ、触るなって言っただろう…!」

 パシ、と凄い勢いで払い落とされて、化野は目をぱちくりとさせたのだが、ギンコは一瞬、呆けたような顔をした後、左の手で自分の髪をガシガシとやって、どうしたわけか、急に化野の手を握ったのだ。彼の左手を、自分の右手で、しっかりと。

「…どーすんだ、しばらく離れねーぞ、これ」
「これ…って?」

 意味がわからなくて、化野はさらに首を傾げる。ギンコは化野の手を握る指に、ぎゅ、と力を込めて、これだよ、と上下に揺すった。

「へ?」
「へ、じゃねぇ。少なくとも丸一日、この手はこうして繋いだまんまだからな。お前、明日仕事だろ。休めねぇのか、もう一日くらい」
「いや…そりゃ、無理だよ。今日の休みだって、取るの大変だったんだから…」

 まだよく判っていない化野に、ギンコは深いため息を聞かせ、仲良しの子供同士のように、しっかりと繋いだ手を、困惑顔で見下ろすのだった。







10/05/03







3へ  ↓















綴珠の縁 3
 teijyu no enishi




「こりゃローカルだな。助かった…」

 駅へと戻ったとき、駅員の姿の一人もなくて、ギンコはそう言って息をついた。もう夕暮れだからなのだろうが、無人駅になってしまっている。

 人目を気にせずにいられることを安堵して、彼は繋いだままの手で、強引に化野を引っ張って、券売機の前に立った。だが、左手だけしか空いていないので、まずは財布を取り出すのに難儀することになる。 

「ほれ」

 ギンコとは逆で、右手の自由の利く化野が、自分のズボンの尻ポケットから財布を取り出してそれを開いて差し出した。

 人間は普通、ひとりひとり両手が使えるものだから、人の使うものというのは、どれも大概、片手では使いにくい。財布を片手で開くことが出来ても、もう片方の手が使えなければ、そこから小銭を取り出すことも出来ないし、券売機に小銭を入れることも出来ないのだ。

「じゃ、借りとく。あとで返すから」
「…またそういう他人行儀なことを。俺たちはふう…、いや、家族みたいなもんなんだから」

 夫婦、と言いかけて言い直したのが見え見えで、ギンコはじろり、と化野を見た。それでも何も言わずに小銭を取り出し、二人分の切符を買った。自動改札へは、二人分を立て続けに投入して、急いで通り抜ける。

 やがてやってきた汽車も、殆ど無人のようなものだった。たった一人乗っていたおばあさんが、次の駅で降りてしまうと、三両きりの車内には、化野とギンコだけが残される。

「助かったな、ギンコ」

 そう言いながらも、にこにこしている化野を、ギンコは呆れた顔で見た。

「なぁ、何が嬉しいんだ? お前」
「え…? 別に嬉しくなんか」
「嘘をつけ。さっきからずっと笑ってるだろ」
「…あー。そうだっけか? うーん…」

 唸って見せたものの、化野は笑顔を隠すこともしないでいる。

「だって、こういうこと、お前嫌がるだろう。さっきも『相合傘』してくれなかったしなぁ。俺はさ、少しくらいやってみたかったんで、嬉しいんだ」
「…いいけどな。…笑ってろよ、今に困り果てた顔しかできなくなるぜ」

 そうこうするうちに、汽車は駅を次々と過ぎていく。少し栄えた街の駅では、二人のいる車両にも沢山人が入ってきて、通路を挟んだ向かい側にも、サラリーマンらしい男が座った。

 ぐい、と手に力を入れて、ギンコは自分と化野の間に、繋いだままの手を隠す。項垂れて、寝たふりまで始めてしまって、化野も仕方なくそれへ習った。そうして会話も出来ずに空いてしまった時間で、化野は家についてからのことを考えている。

 家に着いたら結構遅いな…。
 途中、なんか買って帰って、軽く食べて。
 それから風呂……。

 あれ…?

 服、服はどうやって脱いだらいいんだ? 

 はた、と思い当たって、化野はちょっと考えた。さっき、ギンコはなんて言っていただろう。明日の今頃までこのまま、と言ってやしなかっただろうか。そうして、もう一日くらい仕事を休めないのか…と。

「…え……」
 
 ということは、仕事に行くのも、仕事場である医院でも、このままギンコと一緒に居て、手を繋いでいるってことなのか? それは、いくらなんでも、まずい…。

「な、なぁ、ギンコ…?」
「…………なんだよ」
「その、この手はほんのちょっとも離せないのか? 何時間か、とか」
「…出来るんなら苦労しねぇよ」

 はぁ…とギンコのため息が聞こえる。

「…だから言ったんだ。どうする? 俺を連れて仕事に出て、俺を診察室にも入れて、隣にくっつけて仕事するか? それに、右手だけで診察とか、ちゃんとできるのか?」
「診察は、たぶん、できると思う。明日は午後三時過ぎには往診に出るから、診察は午前と午後を足しても四時間くらいで、そのあとは一人で往診…」

 言っているうちに段々と化野の声に困惑が滲む。往診? 往診もギンコをつれていくのか? 明日は若い女性の往診もあるのに、医者でも看護士でもないギンコまで、患者の女性の部屋に入れることが、はたして可能かどうか。

「うぅーーーん…どうしたら…」
「ほんと言うと、絶対離せないわけじゃ…ない」
「え? 今、なんて言った?」
「…やっと着駅だ。降りるぞ、化野」

 またしてもギンコは化野を引っ張るようにして、ずんずんと汽車の中を進み、ホームへ降りて、さらに歩いた。二人はお互い体を寄せるようにして、体と体の間にある、繋いでいる手がなるべく見えないように気をつけている。

 駅の外に出ると、多少金がかかっても仕方ないと判断して、彼らは手っ取り早くタクシーを拾った。そうして化野のマンションへとつけてもらって、早々に部屋の中へと逃げ込む。

 部屋に入って鍵を掛けると、いつの間にか詰めていた息を、二人して深く吐き出し、テレビの前のソファにどさり、と身を預けた。

「さっき、なんて言ったんだギンコ。教えてくれ。この手が離せないわけじゃないとかなんとか、言わなかったか」
「…言ったけどな。どうせなら、やってみて実証した方が判るだろうと思ったんだ。もう遅いし、風呂に入っちまおう。その方がいい」

 座ったばかりのソファから立ち上がるのも、二人同時じゃなくちゃならない。仲の良過ぎる夫婦さながらに、一緒に立って、一緒にバスルームに入っていき、片手でシャツのボタンを外しながら、ギンコは言った。

「この手、離せることは離せるんだが、文献によると多分、離したくないような心境にさせられるんだ」
「離したくないような…心境??」
「実証って言ったろ、今、判るからお前も脱ぐ準備だけしろよ、化野」
「…そうか、判った」

 本当は、わかってなどいなかったのだが、化野はギンコの言うことを聞いて、自分の服に片手を掛けた。上着のボタンを外し、シャツのボタンも外す。だが二人、片手同士を繋いだままでは、袖から腕を抜くことができない。

「いいか、じゃあ、離すから。手早く袖から腕を抜けよ」
「お、おお。判ったが、一体、どうなんるだ?」
「やればわかるさ」

 繋いでいる手を暫し眺めて、ギンコは固く握っている指を開いた。そうして手と手が離れることに、なんの抵抗も感じなくて、化野は一瞬、ほんの一瞬だけ、拍子抜けしたような気分を味わった。

「なんだ。別になんでもないじゃないか…!」
「…そうか? 俺は、そうでもない……」

 ギンコの声は震えていた。さ、と素早くワイシャツとティーシャツから腕を抜いて、彼はまだもたもたしている化野を見た。強く、見つめた。どうしてか、泣き出す寸前のような、少し濡れた目をして…。

「早く…っ あだしの…」
「あ、あぁ…」

 催促されて、やっと腕から袖を抜く。すぽり、とシャツも脱いで、上半身裸になった頃やっと、化野はギンコの気持ちが判った。ギンコの気持ち、というよりも、蟲が自分たちにどんなふうに影響を与えているかが、酷いくらいはっきりと判ったのだ。

「て、手を…! ギンコっ」
「ああ、早く…」

 どくん、どくん、と心臓が鳴る。
 目が眩む感じがして、胸が痛くなった。
 呼吸も速い。
 息が苦しい。
 泣きたい…。
 酷く切ないのだ。
 涙が今にも、零れそうに…。

 さっきまでと同じように、ぎゅ、と手を握り合った途端、それらの思いは波が引くように消えて、ただ、痛いほどの切なさが、二人の胸に微かに残っていた。あぁ、紛れもない、これは、人を「乞うる」心だ。

「…参った」
「言ったろ。…困り果てた顔しかできなくなる、て」
「なんって蟲だ…」

 化野はあいている右手で、髪をくしゃくしゃと掻き回した。たった丸一日程度のことだが、明日の仕事のことを思うと、これは手ごわい難関だった。







10/05/17











4へ  ↓




















綴珠の縁 4 teijyu no enishi




「熱いかな? 少し」
「いや、こんくらいだろ」

 さーーーーーーーー

 と、音を立ててシャワーの湯が二人の体に降り掛かる。 ここはバスルームだから、二人は当然、裸になって、そうして向かい合って立っていたのだった。湯に入るのは最初から諦めた。化野は湯につかるのが大好きだったけれど、そんなことを言ってる場合でもない。

 片手でも案外器用に、自分の体をだいたい洗い終えて、化野は何やら嬉しそうに言った。

「じゃ、次はお前の体だな」
「?! 何でだ。自分の体は自分で洗える」
「でも、左手じゃ随分不自由だし、届かないとこもあるだろ」
「そ、そうだが…」

 ボディソープのポンプの上に、ウォッシュタオルをのせて片手で押さえて、化野は中々器用に泡を出している。それからそのタオルで、無造作にギンコの腹の上を擦ると、嫌がるまではしないものの、ギンコは項垂れて居心地悪そうにしていた。

「かゆいとこはありませんかー? なんてな」
「…馬鹿。ねぇよ」
 
 拗ねたような言いようがどこか可愛い。こっそり顔を覗き込めば、その頬が微かに染まっていた。気付かない振りで化野はギンコの腹を擦り、脇腹を擦り、胸や肩や、首まで丁寧に泡をつけて擦っていく。

「なんか、エロいってのは、こういうのなのかな」
「なっ…! 何言ってッ、お前…っ」
「だって、泡が」

 体から滑り落ちていく泡が、丁度狙ったようにギンコの足の間あたりに止まって、白い綺麗な陰毛が泡まみれになっていた。その奥にあるモノが、化野の視線を浴びて、ひくん、と小さく跳ねる。

「うわ…、おま」
「貸せッ」

 ギンコは慌てて化野の手からタオルを奪い。何とか化野に背中を向け、ごしごしと急いでそこらを洗ってしまった。脚の間をそうやって流し、太腿から膝、その下までも、無理に化野の手を引っ張りながら洗うと、じゃぶり、とタオルを桶に突っ込む。

「終わったぞっ」
「まだだろ。背中とか尻とか、あとは髪」
「別にいい。いちんちくらい。死にゃしねぇし」
「だ・め・だ! 明日は診察室にお前も入るんだからな、清潔にして貰わなきゃ困る」

 それを言われてはギンコも従わざるを得ない。おとなしく化野の前で背中を向けて、さっき体の前を洗われていたときのように、じっとタオルと泡の感触に堪えた。背中はまだいい。尻もまあ、歯を食い縛るような気持ちで恥ずかしさを我慢した。

 だけれど後ろから尻の割れ目の内を、指で直にするりと撫でられた時は声が出てしまう。

「ぁあ…ッ!」
「お、いい声だなぁ」
「何考えてんだ、化野っ。笑ってる場合なんかじゃ…ッ」
「まぁ、そうだけどな。でももう腹は決めたよ。これ以上は悩んでもどうしようもないから、滅多に無い機会は楽しもうかなと」

 ギンコは正直、開いた口が塞がらないような気分だった。能天気ってのとは違うと判るが、それでもこんなにのほほんと、これほど不自由で難儀な状況で、笑ってるなんて。

「どう決めたんだ? 聞いてないぞ」
「別に。大した案じゃないんだ。結局、俺が患者の体に触るときだけは、手は離してもらうしかないけどな」
「だろうな…。判った…」

 深刻な顔をしているギンコの尻を、また化野の手のひらが、するり、と撫でる。全身で震え上がったギンコの脚の間へと、化野は後ろから手を入れた。逃げようにも、抗う手は一つしか開いていない。握り込まれて、強引に愛撫され、悲鳴に喜びが混じってしまう。

「んぁあッ。こ、こら…っ。やめろッ、あ…! ひ、ぁう…。い…っク…」

 細かい泡をつけた手のひらで、そこにぶら下がってるものをするるすと撫でられると、ほんの少しの我慢しか出来ずに、ギンコは風呂場のタイルに放ってしまっていた。 





「お前なんかが、医者をやってるのが不思議でならん」
「…酷いこというなぁ。何怒ってるんだ?」

 散々イかされ、ぐったりしたところを髪まで洗ってもらって、今は二人、大きなベッドで裸で横になっていた。向かい合わせでいるものの、ギンコはさっきから化野と目を合わせない。

「眠いだろうが、ちょっと聞いててくれ。明日の話だ」
「………」
「ギンコ、お前は俺が外国に勉強に行ってた頃の知人で、ハーフってことにしとく。そうすりゃその目や髪の色も、少しは納得してもらえるだろう。今回、俺はちょっと怪我をして片手がうまく動かないから、その間に診療の助手をお前に頼んだってわけだ。中々いい言い訳だよな?」
「そうかねぇ」
「そうするしかないんだ。一日限りのこと何だし、なんとか助手に化けてくれ、ギンコ」

 わかったよ。と溜息混じりに言えば、化野はあいている片手で、子供の頭でも撫でるようにギンコの髪に触れた。

「よろしく頼む、ギンコ助手」
「あぁ、判りました、化野先生」

 化野先生、と調子を合わせて呼んだとき、胸のどこかが、しくり、と痛んだ。懐かしい呼び名だ。二百年もの過去の中、出会ったばかりの化野を、ほんの少しの間そう呼んでいたっけ。

 そう呼ぶと、二人の距離が少し開いた気がする。勿論気のせいに決まっているのだが、なんとなく寒くて、ギンコは僅かに身を寄せた。それを察してか、それともただの偶然と気まぐれのせいか、化野はギンコの背中を抱いてくる。

「いっそ、ほんとの助手にならんか? そうできりゃ昼間もずっと一緒でいられる」
「…気軽く言うなよ、馬鹿だな」

 そう叱ったギンコの声は、寂しげで、限りなく優しかった。







10/06/06











5へ  ↓




















綴珠の縁 5 teijyu no enishi




「おはよう」
「あら、おはようございます、先生。今日は随分お早いんですねぇ」

 少し年のいった女の看護士が、化野の姿を見るなり驚いたように目を丸くした。いつもならば三人いる看護士たちが全員出勤して、掃除やら支度やらを済ませた頃、やっと出てくる化野が、もうすっかり準備万端整えて、医師の席に座っていたからだ。

「…あー、ちょっと事情があってな。今日は…知り合いをつれてきているんだ。向こうにいるとき、少しの間助手をしてくれた古い友人なんだが」
「はじめまして、おはようございます」

 化野のすぐ横にくっついてはいるものの、その体の影に隠れるようにしていたギンコが、ちょっとだけ頭を下げながら、言葉少なくそう言った。

「まぁ、そうでしたか? おはようございます。それで今日は…?」
「その…な、実は昨日、うっかり手を怪我して。いや、大したことはないんだけどな」

 ひょい、と化野が向こう側の手を上げて、包帯をしたその様子を看護士に見せる。手はすぐに下に下ろされて見えなくなった。

「それでこのギンコに、今日一日助手を頼むことにしたので、看護士のみんなもよろしく頼みたい。他の二人には貴方から説明していてくれるか?」
「まぁまぁ、そんなことが。えぇ、判りましたけど…。でも先生、今は人手も足りているんですから、助手なら私でも、他の看護士でも出来ますのに、いいんですか?」
「あぁ、いいんだ。昔、手伝ってもらってたし、看護士のみんなには、いつも通りに仕事をしていて貰いたいと思ったんだよ」

 判りました、と簡単に了解して、看護士が二人に背中を向けた。普段から自分の周りの殆どのことを、一人で勝手にどんどんやってしまう化野だから、あまり普段と変わらない、と思ったのかもしれない。

「あ、それじゃ今日一日、先生のこと、よろしくお願いしますね。ええっと…銀吾、さん?」
「………ギ…」

 ギンコが名前の間違いを、訂正しようとしたその時、化野が機嫌よく笑って言った。

「ああ、ギンゴだ。真野銀吾、真一郎のシン、野原のノ」
「よろしくお願いします、真野先生」
「…俺は別にせんせいなんかじゃ……」

 いいからっ、と、小声で言って、化野はギンコの手をぎゅ、と握った。そうして看護士が出て行ったあと、はぁ…っ、と息を吐いて、化野は机に突っ伏した。

「ほんの一瞬手を離しただけでこれかぁ、参ったな。でも頑張るしかないがな」

 診療室はかなり狭くて、医師の椅子と机は壁際にくっついている。その、より壁に近い方にギンコが座って、その隣に化野が座れば、前を開けたままの化野の白衣に隠れて、二人が手をつなぎあっていることは、看護士にも見えないのだ。

 これはなかなかいい隠し方と言えるだろう。

 だが、患者の体を診療するのに、片手を後ろへ回したまま、というわけにいかないから、化野が机の前から離れるときは、二人は手を離さなければならない。

 怪我をした振りをするために、今朝家で片手に包帯をする間は、勿論二人は手を離したし、着替えするためにも手は離した。けれどそのたびに辛くて辛くて、切なくて鼓動が速まる。それを診療する患者の数だけ、何分かずつ手を離すのだと判っていて、そのたびの苦しさが怖かった。

「で…、真一郎の真で、真野銀吾ってのはなんなんだよ」
「あぁ…そのことか、まぁ、いいだろ。覚えやすいじゃないか。適当につけたらまた忘れるぞ、お前は」

 ギンコは呆れたように溜息をついて、医師の机の上に頬杖をついた。真一郎というのは化野の名前だ。いつも「化野」、としか呼ばないが、彼に似合う名だと、ギンコも思っている。

 そして最初、ここで化野に偽名を名乗ったとき、高橋だか鈴木だか佐々木だか、あまりにもよくある名前を使ってしまったせいで、翌日には覚えていなかったのも事実だった。

「まぁ、いいけどな、どうでも。それよか、もう一回おさらいしていいか? よく使う薬の辞書はこっちで、漢方って言ったらこのファイルを出せばいいだな? 血圧計の使い方は覚えたし…あとは…。注射とかはここではしないのか?」
「あぁ、それはあっちの小部屋で、看護士がしてくれるからいいんだ。そんなことまで、素人のお前にはさせられん」

 できるけど、と言いかけてギンコは黙った。なんでも免許が必要な時代だから、できるできないの問題でもないのだろう。

「あー…」
「ん? どうした?」
「お前のこと、ハーフなんだと言い忘れた」
「…あぁ、別にいいんじゃないのか? さっきのオバさんは、気にしてないみたいだったぞ」
「オバさんて…。うん、まぁ、月子さんはな。動じない性格なんだ」
「月子さん?」
「うん、星野月子さんというんだ、凄い名だろう」
「…ほんとだな」

 それから診療開始まで三十分、ギンコは目がつりあがるほど真面目に、化野の医師机の中身を覚え、そのほか必要なことを覚え切るのに必死になっていた。逆に化野は今ひとつ能天気で、凄い記憶力だな、ギンコは頭がいいぞ、などと、感心してばかりいる。

 そうこうするうち、とうとう診療の時間がやってきた。

「先生、院をあけまーす」
「あぁ」

 さっきのオバさんとは違う、若い女の看護士の声だけが聞こえ、ついでドアを開ける音がする。もう外で待っていたらしい一人目の患者が、馴染みらしい気軽な挨拶ともに、医院に入ってきたのだった。




 
「それじゃ、いつもの薬を、四週間分処方しておきます。飲み忘れても、二回分一緒に飲んじゃ駄目ですよ、タカシナさん」
「もうだいじょぶだよぉ、ワシにゃ先生に作ってもらった『らくちんお薬カレンダー』があるからな」

 からからと笑って、白髪頭の患者が出て行く。化野はドアがゆっくりと閉まるまでの間、にこにこと笑っていたのだが、ぱたり、とドアが閉まった途端、必死の顔で振り向いて、机の上に手を這わせた。

 その手の上に、すぐにギンコの手が置かれる。指と指を交互に絡ませ、ぎゅう、と強く握るが、すぐには動悸がおさまらなくて、化野は机に顔を伏せてしまった。

「辛い」
「…判ってる、俺もだ」
「あと何人だ…」
「知らん、俺に聞くな。…それにしても、『らくちんお薬カレンダー』な」

 潤ませた目でギンコの姿をじっと見つめながら、化野は恨みがましく言った。

「なんでお前、そんなに平気そうなんだよ、ギンコ。カレンダーのことなんか…。だいたいそれは俺が作ったんじゃないぞ。俺の発案で月子さんが作ったんだ」
「発案者はお前なんじゃないか」
「命名は俺じゃないっ。…ギンコ……」
 
 つないだ手を、ぐい、と引っ張って、化野はギンコを自分の方へ引き寄せようとした。その途端、怖い目になって繋いだ手を緩め、ギンコは化野を叱る。

「よせ…っ。仕事中だぞ、化野。ここはお前の大事な医院で、俺の知ってるお前は、いつだって仕事を大事にしてた。そんなことしてる場所でも場合でもない」
「…わかった。すまん」

 は、ぁ…。と震える息をついて、化野は背筋を伸ばした。その背中に語りかけるように、ギンコはぽつりと言った。

「無理に平気そうにしてるだけで、別に平気なんかじゃない。お前と違って、患者が入ってきた途端、顔色まで平素に戻れる自信がないからだ。昼の休憩とか、あるのか? 先生」
「……あるよ。一時間半だ。あと一時間したら、休憩だから」

 ちらりと振り向いて見たギンコの目は、はっきりと潤んでいた。普段から宝石みたいだと思っていた目が、今日はまたそのせいで酷く綺麗で、化野は急いで視線を逸らす。

 化野は言った。

「はい、次の人、入ってもらって」







10/06/20