螺旋を辿りて 29





 肌が熱い。微かな水音が奥の岩壁から聞こえているようだ。岩の上を流れ落ちてくるのは冷たい湧き水で、岩風呂を満たしているのは、下から沸き溢れてくる熱い熱い湯。

 自然のままだから、湯はヒトの肌に丁度いい温度になどなってはいなくて、化野もギンコも、少し身を浸しては立ち上がって、湯船のふちに腰を下ろしていた。腰の上に宿の白い手ぬぐい。それ一枚のみの姿で外気を浴びていると、化野などは慣れぬ状況に、そわそわしてしまう。

「あー…、その。熱いな、随分と」
「そうだな。でも、いい泉質だ。湯ノ花が底に沈んで白くなってる。こんないい宿に泊まれるなんてな」
 
 横を向いたまま言っているギンコの頬は、ほんのりと染まっている。肌が白いから、その紅色が色っぽかった。

「なんか…お前、凄く、きれ…」
「もう出よう。上せちまうし。お前はとにかく早く寝た方がいい。疲れているのが、顔見ただけで判るぞ。今まで、眠っても夢ばかり見て、疲れが取れなかったんじゃないのか?」

 お前が綺麗だ、と言い、そのまま顔を寄せてキスをして、いい雰囲気になったら部屋へ戻って…など、不埒なことを考えていたのが、見透かされたような気がして、ちょっと化野は動揺してしまう。

「宿の人が、きっと布団を敷いていてくれるだろうから、先に寝てくれ。俺はもう少し木箱の中身の整理をしないと」
「じゃあ、手伝っ…。いや、手伝うとは言わんが、俺もお前の用が済むまで待ってる。そうだ、その後、目を見せて貰わんとな」
「目? あぁ、もう痛まないから」
「また痛むかもしれないだろう。不養生は駄目だ、医者を恋人に持ったんだから、そこらへんは是非頼ってくれ」

 ギンコは黙っていた。浴衣を羽織って部屋へ戻った後、木箱の中身を整えながら、彼は後ろを向いている。化野へ向けた背中は相変わらず猫背で、その背に胸を重ねて抱き寄せたいと、化野は思ってしまうのだ。

 あぁ、その、浴衣の不器用そうな着方。今にも着崩れそうな様子に、思わず化野の顔に笑みが零れた。

「ずっと、昔からそうか? そういや夢の中でも、お前はずっと着物なんか着てないしなぁ。下手くそで…可愛いな…」
「可愛い…ってか、馬鹿にして」
「してないよ。可愛くて、愛しいんだ、ギンコ。…ギンコ……」
「…寝ろっ、て」

 言いながら、ギンコは背中を抱き締められる。木箱に添えた手が震えていた。首筋を吸われ、耳朶を舐められて、彼は息を詰まらせた。嫌がる素振りの片手が、その手首が捕まえられて、振り向いたギンコの唇を、化野に唇が塞ぐのだ。

「欲しい…。抱いていいだろう?」
「だから、寝ろと言って…」
「寝るさ。お前を抱いてからな。お前が嫌がらないで抱かれてくれたら、眠る時間もあるだろう?」

 もう口づけを許しながら、目を閉じたその片方の瞼の下には、翡翠色の目は無い。痛いと言った彼の目を、化野は診たいと思っているが、それは叶わぬことなのだ。敷かれてあった布団に身を投げて、二人は体を重ねあう。

 甘い抱擁と、切ない愛の囁きと、心を込めた愛撫に酔って、時折ギンコは涙を流し、ずっと閉じていた片目も、時にうっすらと開く。闇の色したその奥に、化野は少し、怯えた。

人間は器用な生き物じゃぁないから、
見えないものは判らない。
判らないものを好きにはなれない…。

 その時、どこからか聞こえたそれは、蟲の事を言うギンコの言葉であって、化野とギンコのことを差しているわけではなかったのだが、化野は怖気た自分を厭うように、少しの間目を閉じていた。









09/11/10





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「寝たのか、ギンコ」

 しばし黙っていたあと、化野はぽつりと聞いた。散々好きなように愛撫して抱いて、その最中は互いに、声を堪えることすら忘れていたから、今考えると冷や汗が出そうだった。こんな狭い宿で、他に泊り客がないと判っていても、宿の主人の寝ている部屋だって、それほど離れていないだろうに。

「…寝てないよ。体が火照って、いつまでも暑くて、眠れる気がしない」
「だよなぁ、すまん」

 部屋に備え付けのティッシュを随分使ってしまった。そうでもしなきゃ布団を汚しただろうし、下手をすりゃ畳まで濡らしてたと思う。何度も消えそうになる理性を掻き集めて、零さないように、飛び散らないように、そこらへんを押さえたり、零れたのを急いで拭いたり…。

 そんな滑稽な、男同士の性の営み。布団から少し離したところにあるコンビニの袋の中身は、その丸めたティッシュが捨ててあって、困ったように化野はそこから視線を離す。

 男同士でこんなことをしている現実が、急に迫って眩暈がする。それでも好きだと、苦しいほど思う。

「ギンコ」
「ん…?」

 ごろり、とギンコが寝返りを打って、もう一組敷いてある方の布団へ体を近づける。せっかく肩が触れていたのに、そんなことが寂しくて、化野はギンコの気を引こうとした。

「な、なぁ、眠れないなら何か話をしてくれ。言いたくないことはいいから、お前が話していいと思えることを。蟲のことでもいい、もちろん、お前のことでもいいし。そう…ちょっと変な感じだが、お前の知ってる『俺』のことでもいいから」

 そう頼めば、ギンコは困ったように化野を盗み見て、その顔を隠すように背を丸め、それでも長い沈黙のあとに口を開く。

「……俺はずっと、旅ばかりして過ごしてた…」
「う、うん」
「十になったころには、既に浮き草暮らしだったよ。それより前のことは…覚えていない」
「え? 覚えてない…って」
「覚えてないんだ。記憶を失くしてるらしくてな。一人だったから、俺を知る誰かから話を聞くことも出来なくて、俺は俺自身の、もっと小さな子供だったころのことは知らない。そういうわけだから、話すのはそれより後のことで勘弁してくれ」

 淡々と、紡がれる言葉が、変に現実味を帯びている。勿論、ギンコがこんなことで、作り話などするとは思えない。

「は、話すの、嫌じゃないのか?」
「なんで」
「いや、だって…。お前は聞いても、何も言ってくれないだろう」
「…そりゃ。何だって教えるわけにいかないからな」

 何だって教えてくれたっていいだろう、と、心で思いながら化野は何も言えなかった。天井を見ているギンコの、うっすらと開いた目は片方きりで、もう片方の暗がりが、彼を遠く見せる。ギンコは少し、かすれた声で言った。

「まぁ、実を言えば、いつもこういうことは話してるんだ。話せないことが多すぎる代わりに…。別に面白い話じゃないが」
「お前のことなら何だって、俺は聞きたいよ、ギンコ」

 少し離れた場所にある露天の風呂から、小さな水音がずっと聞こえている。それが遠い波音に紛れて聞こえ、その音に誘われ、二人は過去の空間に引き寄せられていくようだ。

 ギンコは語る。そうして化野は、聞きながらギンコのことを、少しずつ思い出すのだった。




「蟲師という仕事をしていて、ずっと一人旅だったんだ。時にその仕事の都合や、たまたまで、誰かと共に歩くこともあったが、そんなのはごく稀だった。俺にとってすべての人間は、蟲払いをするうえで出会った人たちと、仕事で関わる人たち…、薬師とか、まあそういうたぐいのな。
 それとあとは、自分自身。それだけでしかなかったんだよ。それ以上の何かを作りたいとも思ってなかった。
 俺たちが今、こうしているこ場所には、昔、小さな海里があってな。昼間、のあの、高台にある東屋な。あそこにお前は住んでたんだよ」

「え、俺は東屋に住んでたのか?」

「…ぶっ…。馬鹿、そういう意味じゃないよ」

 ギンコが笑ったので、化野も嬉しくなった。誰かが笑顔になっただけで、こんなにも嬉しくて、それと同時に切なくて、触れたくなる。

「……」
「なん、だよ、お前はほんっとに」

 手が伸びてきて、ギンコの腕に触れてきた。呆れたように言いながら、ギンコは嫌がらない。寝返りを打ち、彼は胸を布団につけて、化野の手のひらをその胸の下に敷き込んだ。

 鼓動が響いて、ギンコの命の音が、化野に届いていた。









09/12/08





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「親兄弟も家もない。故郷すら覚えていない。幼い頃の記憶も一切持たないで生きてきたから、自分が人と深く関わることなんかないと、俺は思っていた。自分の存在を人に歓迎されたことも、あまり無かったからな。
 言っただろう? 人は自分の判らないもの、得体のしれないものには恐怖を覚える。仕方ないことなんだ。だけど、ずっと変わらない筈の旅の途中、あの場所で医者をしていたお前と会って、俺は少し変わったらしい。
 知り人の中にお前一人が加わっただけで『他人』という響きが怖くなくなったんだ。感謝している」

 淡々と語られる言葉に、化野は口を挟めずにいた。彼の胸の下に引き込まれた化野の手のひらが、静かに響くギンコの鼓動を感じている。ギンコは続けた。

「あぁ、そうだ。違和感、無いか? つい過去のお前と今のお前を、同じように感じて喋っちまう。お前の記憶にないことも多いのにな。だけど俺の追いかけているのは『化野』というたった一人の男なんだ」

 化野は、迷いながら静かに言う。

「違和感、は、少しはあるよ。でも構わないで続けてくれ。俺は今にすべてのことを思い出して、その、お前の言う『化野』と、何もかもを共有する唯一人の人間になるんだろう? 早くそうなりたいと思ってる」
「無理は、しないでくれよ」

 ギンコは化野の傍へ身を寄せて、片手のひらで彼の額に触れた。熱はないし、特に具合が悪そうでもない。少しばかり顔色が良くないように見えたが、それは部屋が暗いせいだろうか。

 その手を掴んで手のひらに口付けして、化野はギンコの体を腕の中に掴まえる。耳元に囁くように言う言葉は、熱いほどの気持ちが込められた。

「もっと教えてくれ。最初にお前と出会った『化野』は、どんな男だったんだ? そんなふうに、俺もお前を支えたい。お前にとって、かけがえない存在で居たいし、頼れる男になりたい」
「…今以上にか? 欲張りだな」
「茶化すな。ちゃんと教えろ。そいつはやっぱお前に一目ぼれして、すぐ告白したのか? そ、それとも、俺の時みたいにお前からキ…」

 ギンコは俯いて、化野の肩に顔を埋めて、消えそうな声で言った。

「俺が自分からそんなことできる筈ないだろう。あの時は…その、む、夢中で…。それに、そのことなら、お前、夢で見たと言ってたぞ」
「夢…って、あ…」

 響いて聞こえる鼓動はギンコの胸の鼓動。言われて思い当たる夢は一つ。あの高台の家で、無理強いをしていたのは、そうか、最初にギンコと会った『化野』なのか。どこからどんなふうに、と、化野は思う。どうしてどうやって愛して、何故あんなことをしたのだろう。なのにギンコに愛された…。

 知り得ないことが、悔しかった。化野はギンコのことを、殆ど何も知らない。語ってくれる言葉も、上っ面でしか判らなくて、誰とも深く関われなかったという痛みも寂しさも、家族や故郷のない心細さも、判ってやれていないと思う。

「でもな、化野。お前が誤解していたら、悪いと思うから、言っとく。あれは…本当は俺が誘ったんだ。ああなるように仕向けた」
「え…っ」
「…責めてもいいぞ。俺は最初の時からずっと、身勝手な思いでお前の一生を振り回してる。あの時、俺からキ…キスをしたのは、計算ずくじゃなかったけど、でも、最初から俺と繋がってるお前の運命を、呼び覚まそうとした手段の一つだった」
「……ギンコ」

 ギンコは項垂れていた顔を上げて、唇をそっと化野の耳に触れさせた。産毛だけに掠らせるような触れ方に、化野の胸がどきり、と鳴った。

「化野、お前は俺の運命の輪の中にいる。きっかけ一つで捕まって、そこから先はけして抗えない。お前は必ず俺を愛するんだ。本当は愛したくなくても、例え他に好きな相手がいたとしても、俺を選んだことによって、他に何を失うとしても…」
「それじゃ…」

 無意識に、化野は口走っていた。少なからずショックで、声は震えていた。ギンコを愛していることを、今だって少しも疑わないし、後悔などないのに、それでも言ってしまった。人は不器用で、幾らでも間違いを犯す、愚かな生き物だった。

「それじゃもしかして、妻が死んでいなくても、例えば捨てられない筈の家族がいても、俺はお前を、選んでたのか?」
「…あぁ、少なくても、今まではそうだった」

 長い沈黙が落ちた。ギンコは化野の腕の中で震えていた。言わないで済むこんなことまで言葉にして、自分の罪を曝け出す。言えば化野は怯むだろう。だけれど愛し続けてくれるだろう。それは運命だからだ。

 途切れない輪廻の輪の中に、心も記憶も閉じ込められて、解き放たれないでいる間に、繰り返されたギンコの罪。彼の世界にはずっと「化野」しかいないけれど、一つ一つの時代の中で、彼に会う前の化野の世界には「ギンコ」しかいないわけじゃない。

 何にも縛られない普通の人間と同じ生を、化野は生きているのに、永遠を生きるギンコの人生と重なった途端に捕えられてしまう。死ぬまで扉の開かない、運命の檻の中に。

「そうか、だからお前は、いつも辛そうにしてたのか」

 やっと口を開いた化野の声は優しかった。自分に妻はいない。子供も居ないし他に家族もない。こうしてギンコと会って、たとえどんなふうに人生が変わろうと、そのせいで誰かが不幸になることはない。

 でもきっとギンコの口ぶりだと、そうじゃないこともきっとあったのだ。妻のいる化野。子供のいる化野。そうでなくとも将来を約束した女性がいる場合もあったかもしれない。きっとそんな立場だったら、いくらギンコを愛しても悩んだだろう。その前にギンコも、その「化野と出会って」いいのかどうか、苦しんだだろう。

「優しいんだな、お前。困るよ、ますます好きになる」
「な…っ何言って…。ど、どうかしてるぞ」
「何がだ。少なくとも、俺には伴侶も子供も居ない。心置きなくお前を愛せる。もっと溺れさせてくれて構わんぞ」
「……」

 黙ったままだったが、ギンコが腕の中でさらに身を寄せたのが判った。抑えようも無い想いで、化野はギンコの唇を求めていた。









10/01/05











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「や…っ、よせ…。ぁ」
「嫌なのか? ギンコ、ギンコ…」  

 敷布団の上に立てた肘を突っ張って、仰向けの体を後ずさらせ、ギンコは化野の愛撫から逃げる。

 酔ってしまうのは簡単だ。それどころか、天地すらも判らなくなるくらい、あっさりと溺れたのはたった数時間前の出来事。多分、さほど遠くない部屋に、宿の夫婦がいると判っていて、あらぬ物音や声を響かせてしまって後悔したのに、ここでまた繰り返す訳にはいかない。

「化、野ッ。声、聞こえちま…」
「…浴衣の袖を、噛んでいりゃぁいい。そうすりゃ、少しくらい」
「駄目だ、少しで済むはず…っ」 

 ぐい、と化野の胸を押して拒んで、布団の傍に脱ぎ散らかされた浴衣を引き寄せる。必死になるその姿を見て、化野も仕方なく情欲を抑えようとしてくれた。奥歯を噛んで目を逸らしつつ、自身の浴衣を手探りで手繰る。

 夜目の効くギンコは袖に腕を通し、何も言わずにもう一つの布団へと潜り込む。化野も少し手間取った後、なんとか浴衣の前を合わせ、そこで気付いた。

 これ、俺の着てたのじゃない。

 微かに差し込む月明かりに、ぼんやりと浮かび上がる淡い模様は、自分の着てた紺色の浴衣のものじゃなくて、ギンコ着ていた深緑に白の細かい模様のもの。見ればやはり、ギンコが彼の浴衣を着ていた。

「『記憶』違いかもしれんが、な」

 ぽつりと言った化野の言葉に、ギンコの肩が小さく揺れた。

「昔も、こんなふうに俺は、お前に自分の着物を貸しては、叶いそうもない自分の望みを紛らわしてた気がするぞ。…別に仕向けられなくたって、きっと俺はお前を、その…」

 ごほん…っ、と一つ咳をして、化野も布団に潜り込んだ。ギンコを抱き締めたい気持ちがあった。彼の体を自分のものにしたくてしたくて、いつも身を焦がしてた。嫌われたくなくて手出しも出来ない自分だったのだろう。そう、過去の自分を想像して納得できた。

 だから、ギンコが済まながることなど、何一つないのだ。

「好きだぞ。ギンコ。お前が欲しい」
「こ…っ、馬鹿、もう寝ろ」
「違う。今のは最初の時の俺の言葉だ。すべて思い出したわけじゃなくとも判る。お前にそうと仕向けられなくたって、誘われなくたって、俺はお前を抱きたかった。自分のものにしたかった。お前に振り回されてそうなったんじゃない」
「……」

 もそ、と小さく身をゆすって、ギンコは布団で顔を隠した。そんなギンコの、夜目にも白い髪を眺めて、化野はつぶやいていた。

「おやすみ、ギンコ」
「……すみ…」


 * ** **** ** *


 宿の玄関で、化野とギンコは宿の夫婦の見送りを受ける。よく晴れた、少し寒い朝で、空は高く澄んでいる。

「よろしかったらまたお越しください。お待ちしてますから」

 女将が柔らかい笑みで言って、心づくしの小さな弁当を手渡してくれたが、この朝の明るい光の下で、ギンコは自分の髪や瞳の色を気にしてか、斜め横を向いたままろくに返事もしようとしない。化野は気にして何度か振り向いたが、結局は何も言わずに自分だけが返事をして頭を下げた。

「本当によくして頂いて助かりました。またこちらに来るときは、お世話になると思います」

 少し歩いて電車に乗って、向かい合って座席についてから、化野は同意を求めるようにギンコに話しかける。

「また泊まりにこよう。出来れば今度はゆっくり二泊くらい…。小さいけどいい宿だったし、その…何よりここは、俺とお前の思い出の場所なんだろう?」
「…そう…だな、そのうちに」

 歯切れの悪い返事を化野は気にしたが、ギンコはあえて窓の外風景ばかりを眺めていた。本当は、この里にはもう、ギンコは何十回も来ている。化野の言った言葉以上に、彼にとっては特別の場所だからだ。

 だけれどこんなふうに宿になど泊まったことはなかったし、この土地の人間と言葉を交わすこともない。何度も訪れた場所であり、今後も来るであろう特別な場所だからこそ、人々の記憶に自分の存在が鮮明に残らないようにと、気を付けていた。

 次に来る時は髪と目を隠すために、ちゃんと帽子とサングラスでも、用意しなくては。そう、これまでみたいに。

 でも、それはきっと、この先、数十年も先のこと。今までの彼は、化野を探して探して、疲れて心が折れそうなときにだけ、ここを訪れていたし、これから先だってそうした方がいいと判っている。長い長い時の流れの中で、年をとらない彼には、守らなければならない決まりごとがあるのだ。

「少し、眠っていいか」
「…あ、あぁ。じゃあ、俺も少し。ケータイのアラームをセットしとくよ。降りる駅はまだずっと遠いし。後で一緒にこの弁当は食べるだろ?」
「ん? 食べるよ」
「そうか。じゃ、昼前にアラームを鳴らすからな」

 少しはほっとして、化野はギンコのために毛布を借りに席を立った。









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 傍らではギンコが眠っている。ゆっくりと進んでは停まり、また進んでいく列車の音は、何故か心に静かに響いて、子守唄のようだ…などと、つい思った。化野はギンコの体を覆った毛布が、ずり落ちないようにしっかりと直してやり、それから窓の外の風景を見た。

 やがては、見ているはずのその風景が、彼の脳裏をカラ滑りしていき、思うのはただ、ギンコのことだった。あまりに自分と、いいや普通の人間とは違う生き方を、ずっとしてきたギンコ。

 死ねず、老いずに、何百年も生きているというのは、どういうものなんだろう。そうなってしまった理由も知らないけれど、そうやって長い年月を生きていく弊害を、ふと化野は思う。思って、そうして、数時間前に宿を出るときに見せたギンコの姿が浮かんだ。

 あんなに親切にしてくれた宿の人に、素っ気無くして、視線も合わせようとしないで。横を向いて、見られるのを拒むように…。「また来ような」と言った俺の言葉に、お前は頷いてくれたけれど、本心から頷いているようには、とても見えなかった。

 白い髪、翠の、片方だけの目の、老いることも死ぬこともない男。それがギンコなのだ。あの優しく穏やかな田舎の街は、最初の「俺」との思い出の場所だと、切ない顔して呟いて、きっと何度も訪れているだろうけれど、だからこそ。だからこそ、人から身を隠すようにしていなければならないのじゃないのか?

 逆を言えば、同じ街に何度も訪れるようなことは、避けた方がいいに決まっているのに、それでも足を運んでしまう、大切な大切な場所。目立たないようにしていることで、次にもまた来られるように、細心の注意を払って…。

 なのに、能天気に「また来ような」だなんて、俺は言ったのか。無理に頷かせたのか。

「…す…ま……」

 すまない、と言いかけて項垂れて、化野は強く目を閉じた。そうして、今更のように、はた、と彼は思い当たる。一緒に暮らして欲しいと懇願して、ギンコは渋々のように折れてくれたけれど、それを渋っていた事にだって、理由はあったのだ。

 目立たぬように。

 人の記憶に残らぬように。

 彼がこの先ずっと、化野の傍で暮らすのなら、それは何年だろうか。何十年もであって欲しいと望んでいるが、その間もずっと、ギンコは歳をとらない。周囲の人々に不審に思われないためには…どうすれば?

「…越せばいい」

 ぽつり、と化野は言った。それくらい何でもない。何も毎年のように居場所を変えねばならないわけじゃない。例えば十年に一度とか。掛け替えのない恋人と離れずに暮らしていく為に、今、東京に住んでいるのだから、次は九州がいいか。それとも、北海道にでも? 

 くす、と笑って化野はギンコの髪に手を伸ばした。柔らかで愛しい髪の手触り。さらに頬を撫でて、そのぬくもりを感じれば、涙さえ滲んでしまいそうな心地がする。

 なんて素晴らしいのだろう。恋人の為に、いいや違うな。恋人と過ごしていく幸せのために、出来ることがある。出来る努力がある。何も出来ずに苦しませるよりも、なんて幸せな生き方だろうか。

「あ、蝶が」

 見ていても、心に届いていなかった風景が、突然化野の意識に届いた。続く畑の風景の中に、黒い蝶。模様など欠片もないように見える、不思議な蝶だった。まるで闇を切り抜いたような姿で、ちらちらと飛び回り、唐突に消えてしまう。

「消えた。……見間違い、か?」

 あんなにはっきり見えたのに。窓の方へと身を乗り出し、窓ガラスに手を置いている化野を、いつの間にか目を覚ましたギンコが見ていた。

「幻でも見たんだろ」
「あ、起きてたのか、ギンコ。…幻? 今の蝶が? いや、あんなにはっきり…」
「いいから探すなよ。黒い蝶なんか、不吉な感じがするだろ?」

 化野はギンコの方を向いて、しばし黙ったあとで「そうだな」と呟いた。黒い蝶、などとは一言も言っていないのに「黒」と言い切る不自然さなんか、今は追及したくない。

 化野はにっこりと笑って弁当の包みを広げ、車内販売で熱い茶を求める。さて食べようかと思ったところにケータイのアラームがなって、二人に正午を知らせた。

「寝てなかったのか? 化野」
「あ、いや…うん、まぁな。お前の方は、随分丁度良く目を覚ましたじゃないか」
「実は、腹に時計があるんだ」

 真顔で言って弁当の蓋を開けると、中身はなんと、子供の遠足の弁当のよう。二人で一瞬言葉に詰まったあとで、化野だけが、ぷ、と吹き出した。から揚げにタマゴ焼きに、タコさんの形の赤いウインナー。小さなハンバーグの上に、花の形のニンジン、りんごのウサギ。ご飯の半分の上には鳥ソボロが。

「「なんだか」」

 と、二人は同時に言う。ギンコは言葉を止めたが、化野は止めずに続きを言っている。

「母さんが作ってくれた弁当みたいじゃないか」

 化野はギンコが不意に言葉を止めたのに気付いて顔を上げる。タマゴ焼きを箸で摘んで口に頬張っているギンコへ、言葉の先を促すように視線をやると、彼は少し小さくなった声でこう言った。

「いや、こんな弁当、見たこともねぇな…って、思ったんだ」
「……っ」

 化野はまた言葉に詰まって、無意識におかずの一つを箸で摘んでいる。十より前の記憶が無くて、それから一人の旅ばかりしていたギンコ。そう聞いたのに、その意味を自分は、何一つ判っていない。

 すまん、と、心で言って、箸に摘まれていたそれを、ギンコの弁当の白飯の上にそっとのせた。

「やるよ」
「何のカタチだ? こりゃ」
「タコさんウインナー。そのくらい知っとけ。常識だぞ」
「…勉強になった」

 赤いタコの形のウインナーを眺めて、ギンコは小さく苦笑したのだった。









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「お前、夕べは煙草吸ってたのか、こんなに!」
「あー、うん、すまん。ちょっと考えたいことがあって…な」

 化野の部屋に入った途端、もんわり、と煙草の匂いがして、ギンコは目を吊り上げた。夕べ自分のベッドに来た時には、シャワーを浴びて、きっちり匂いを落としていたのが憎らしい。

 医者なので中毒、ということは勿論ないが、仕事で何時間も考え込んでしまうようなことがある時にだけ、化野は一晩で一箱も煙草を吸う。

「普段は吸わない人間がまとめてこんなに…。今に体を壊す。なるべく止めてくれ」
「あぁ、すまん、重々承知してるんだが、こういう時とか…」

 言いながら、デスクの上に大量に広がった過去の患者のカルテを指し示し、

「極度の緊張を紛らわせたい時だけ、つい、な。気を付ける。心配させて、本当にすまん」
「判ってんなら、いい…」
「愛してるぞ、ギンコ」

 ちゅ、と唇を吸われて、ギンコは化野の髪を掴み、乱暴に彼の体を自分から引き剥がす。乱暴だなぁ、と文句を言いながら化野は笑っていた。

 出会ったばかりの、半年前のギンコなら、こんなことはしなかった。だけれど彼が次々思い出している本来のギンコはこんな男だし、そういうギンコを化野は好きなのだ。それに、この対等な感じに、酷く幸せを感じる。

「で、悩んでたことは解決したのか? 化野。それともまだなのか? まだでも今日は続きはするな。殆ど寝てないだろう」
「ん。いや、解決っていうんじゃないが、踏ん切りがついた。ずっと勉強だ。ずっと、ずうっと。そうやって、少しずつでも、いい医者になってくしかないからな」
「………」

 今だって、お前はいい医者だよ。とギンコは眼差しだけで言って、すい、と視線を逸らす。過去のカルテの中の、治療の遅れた患者、苦しませてしまった患者、救えなかった患者、たちを思い、化野は時々自己嫌悪の沼に嵌る。

 そうして歯を食いしばって悩んで、時には泣いて、叫んで、そこから脱して一層の努力家になる。そんな彼が誇らしくて、とても好きで、だけれど無理をするので心配して、ギンコはずっと、ずっと彼の傍から離れたくなくなっていくのだ。

 化野に見えないものを、ギンコは見る。部屋の中にさえ少しずつ増えてきた蟲たち。窓の外に漂い、硝子を抜けて入ってくる蟲、入れないで数を増やす蟲。限界だ、とわかっていて、今日と決めたものを明日に延ばし、また明日になれば、その次の日にしようかと決心を鈍らせる。

「ギンコ…?」
「え…?」
「どこか具合悪いのか? 顔色も少し…」
「いや、平気だ。しょっちゅう俺の体を見てるお前が一番、それをよく知ってるだろう」

 あだしの、とギンコは静かに言った。うっすら笑って、化野の好きな綺麗な綺麗な笑顔で、真っ直ぐに恋人を見て…。

「言っても無駄かも知れんが、済んだことを、あまり後悔するな……。お前はいつも…、いつだって、よくやってる。この先も、今も、今までも、ずっと…以前から。だからお前が苦しむことなんか」
「あぁ、判ったよ、ギンコ…。さ、そろそろ俺は仕事に出る。お前は今日は?」
「…今日も、ここいらで蟲の様子を見てるよ。それが俺の仕事だ」
「まだ、大丈夫なんだろう?」
「ああ大丈夫だ」

 安心したように、にっこりと笑って化野は鞄を持ち、腕時計を見て玄関へと向かう。遠ざかる背中を、ギンコは見ていた。付いて行って見送りはしない。夕になればここでまた会える、そういういつもの習慣をあえて繰り返し、気ぃつけてな、と笑って言った。

 玄関のドアが閉じて、エレベータへと向かっていた化野は、ふと思い出して足を止める。そういえば、今日は記念日だった。半年前の今日の夕方、ギンコは患者を装って彼の医院を訪れたのだ。ささやかだが、お祝いしよう、ワインを買って帰るから、と、そう言って出掛けようと思っていた。

 数百年生き続けているギンコにとって、自分は五人目の化野。死んでは生まれ、ギンコと出会って恋に落ち、命尽きて死んで、また生まれて…。五人目の俺との、記念すべき五度目の出会いの日から、やっと半年。

 部屋に戻って、告げてこようか。

 化野は一瞬思い、けれど考え直してエレベータへと歩き出した。



* ** ***** ** *



 化野、
 少しの間、俺は遠くを歩いてくるよ。
 前に教えてあったとおり、蟲を散らすためだ。
 
 言わずに行ってすまない。

 これは別れじゃない。
 ただ、少し外出が長くなるだけだと思って、
 安心してていいよ、俺の帰るこの家で…


 
 ギンコはペンを置いて、短い走り書きを一度だけ読み返した。何年も会えなくなるわけでもないのに、喉が震えて嗚咽を零してしまいそうだった。半年前の今日を、ギンコはゆっくりと思い出す。

 今となっては覚えても居ないありきたりの偽名で、ギンコは化野が医師を勤める医院のドアを開いたのだ。あの時の動悸は覚えている。間近で感じた化野の息遣いを、胸に触れた指の温かさを覚えている。

 化野は少し目を見開いて、ギンコの髪の色に驚いた顔をし、それから酷く優しく穏やかな医者の顔になってこう言ったのだ。

 痛みはいつから…?

「あぁ、大丈夫だ。もう何処も痛くないから、お前こそ、何も心配しないで、待っていてくれ。じゃあ、化野、…行ってくる」

 ドアが開いた。そうして閉じた。

 ギンコは木箱を背負って、ずっとずっと二百年も前と同じ姿で歩き出す。彼を慕うように蟲たちが追いかけ、彼の体へまといつく。ギンコは何でもないことのようにそれらを付き従わせ、ふ、と愛しげな目をそれらへ向けながら、旅へと向かうのだ。


 俺は旅の間は、黒い蝶のことは思い出さない。
 
 お前も、俺のいない間に、あの日のことを思い出さないでくれ。

 どうか

 どうか それだけは …

  






「螺旋を辿りて」 
一応の完





 


 
 

 あれ? 完? 終わってしまいました。それではまた! …逃げるなーーーーーーって、怒られそうですが。あはは。螺旋シリーズの一つ目が終わっただけですから、謎な部分は、また別のお話を書いて、そこで知っていただきたいと思ってます。

 次に書くのは多分、全ての始まりとなった、最初の化野とギンコのお話になるかと思います。タイトルは恐らく「刻の蝶(ときのちょう)」。その時まで、螺旋シリーズはストップしておきますね。

 楽しみに待っててくださる方が、ひとりでもいいのでおりますように…。
 長い長いこの話、最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。




10/01/05