螺旋を辿りて 22




 折角、睡眠薬を飲んだというのに、酷く眠りは浅かった。しかも、どうしてか首や肩が痛くて、化野は小さく呻き声をあげながら目を開く。見開いた目の前に、古びた木の…。

 …? これは? 木の、机?
 おかしいな、ソファで眠った筈が。

 そこまで思って化野はやっと気付いた。これは夢なのだ。待ち望んだ夢。ギンコとの大切な記憶を与えてくれる、何より欲しかった夢だ。あぁ、今は現実のことは忘れていた方がいい。きっとその方が、夢は色んなことを教えてくれる。

 俺は化野だ。

 そう…百八十年も前に、ギンコと出会い、ギンコに惹かれ、最初にギンコを愛した化野なのだ。潮の匂いのする山間の里。古い、木で出来た家屋に住み、その里で医者をしながら、ギンコと…。

 一緒に、暮し…て?

 判らない。どうやらうたた寝していたらしい自分の目の前には、机に開いてのせられた、ぼろぼろな古い書物と、硯に筆に、冷めた茶の入った湯飲み。そういえば、喉が乾いている気がする。手を伸ばして湯飲みを掴もうとするが、その指が何故か空を切り、もどかしげに更に手を…。

「片眼鏡、膝の傍に落ちてるぞ、先生。…ったく。仕事があるというから黙ってここで待ってたのに、寝てたのか?」

 あぁ…。
 ギンコの声だ。俺の…。

 胸が苦しくなって切ない筈なのに、俺は膝の傍から片眼鏡を拾い上げ、慣れた仕草で目に嵌めたのだ。その途端、少し霞んでいた視野が、すっきりと見えるようになり、同時に彼は、判ったのだ。
 知りたくてたまらなかった、この時代の自分のこと。自分の思い。そして記憶の数々。夢の自分自身と心を一つに重ねたまま、化野は声のした方を振り向き、縁側に猫背で座っているギンコを見た。

「悪かった。もう今日の仕事は終いだ。よく来たな、ギンコ」

 自然と化野の顔に笑みが零れる。好きだと感じる想いが零れて、声が優しくなる。目に映る姿が愛しくて大切で、この世のすべてが、美しいものに感じられた。誰かを愛するというのは、こういうことなのか。こんなにも切なくて苦しくて、そうして暖かなものなのか。

「傍にきてくれ。いや、俺がそっちへ行くよ、顔がよく見たい」
「…別に、さして代わり映えしやしねぇよ、先生」
「変わっただろうから見たいと誰が言った? 三ヶ月ぶりなんだ。そもそもお前の姿をよく見もしないで、語らいも後回しにして、仕事なんざ、真面目に出来るはずもなかったな」

 居眠りしてたくせに、とギンコはブツブツ言うのだが、一瞬で睡魔に襲われるほど、化野が疲れているのだろうかと、心から案じる目をしているのだ。文机に手を置いて立ち上がる化野の姿を見上げたギンコは、ふと何かを思って自分が急いで化野の方へ来る。

「あー、俺がそっちへいく」

 そうして後ろ手で障子の片側を閉め、低い垣根の向こうの通りから、部屋の中が見えないようにするのだ。

「ギンコ、口づけしたい、お前に」
「…言うと思った。す、少しだぞ。障子、片方しか…、ん、んん…」

 はぁ…と、合間に甘い息が漏れた。ギンコは文机の横に近付いた途端、片腕を引かれて畳に膝を付き、膝立ちの姿勢なった化野に口を吸われる。背中を抱かれ、白い髪をくしゃりと撫でられ、今にも床に引き倒されてしまいそうだ。

「やめ…。お、怒るぞっ」
「なんでだ? お前と俺は恋人同士だろう。こうするのに何の不自然もないんだし、俺はもう、酷くお前に餓えてるんだ。させてくれ」
「まだ夕方だ。それに、ここへくる道々、ちょっと気になることがあってな。それを調べなきゃなら…。あ…ぁ…。こらッ、手ぇ、よせ…っ!」

 気になること、とギンコが言った時、化野の胸がざわりとした。夢の中の過去の化野の、ではなく、この夢を見ている現代世界の化野の胸がだ。もう一つ、どこかで隠れて重なっている、さらに別の時代の化野の思いだ、と、どうしてか思った。
 夢の化野は、これから自分たちに起こる先のことを知らない。けれどもこの先、次に生まれてくる化野は、既に過ぎ去っていった前世の自分の記憶として、すべてを知っているのだ。

 あぁ、怖い。あぁ、駄目だ。
 このままじゃ、何かが「おきて」しまう。
 取り返しのつかない、何かが。
 そこから、すべては始まったのだ。

 ソファで眠る化野は、目を覚まさないまま、ぞく、と身を震わせた。だが、夢の中で自分はそのままギンコを抱き寄せ、片方開いたままの障子を気にしもせず、深く甘く口づけを続けた。ギンコもまた流されて、やっと夕暮れの訪れたその時間の中で、唇へと施される愛撫に酔う。

「暗くなってきた…。待っててくれ。今、雨戸を閉めちまうから」
「…あぁ……」

 畳の上で仰向けになったまま、ギンコは幸せな思いで化野の背中を見た。雨戸がガタガタと音立てて閉められ、部屋にはほんのりと蝋燭が灯される。揺れる柔い光の傍で、もう抵抗の一つもせずにすべての服を剥がれ、互いに求め合い、口を吸い合い。飽きもせず確かめ合って、気付けばとっぷりと夜も更けていた。






09/05/23




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 どれだけの時間か、二人して寝入っていたらしく、そろそろ明け方かという頃。ギンコは唐突に、びくり、と身を震わせて呟いた。化野も眠りが浅かったらしく、目を覚ましたようだった。

「…調べねぇと……」
「ん…。何をだ?」

 蝋燭もとうに消えてしまった暗がりで、化野は彼を逃がさないように、腰に腕を回して抱きながら聞き返す。

「蟲のことだ。さっき言ったろう。ここへくる途中、妙な現象を見た。向こうに遠く見える山と、ここへ来る途中に過ぎてきた山から、何か…黒い影の塊のような……」

「ほぉ、それはどういう? よく聞かせてくれ」
「お前に話して聞かせる為の土産話じゃあねぇよ。もっと…下手すりゃ、この里にとっても、多少は深刻な…ような」
「よく判らんな」
「あぁ、俺もまだ。調べんことには何も」

 ギンコはだるい腰を庇いながら、化野の腕を振り払い、無理をしてそこから起き上がった。剥ぎ取られ、まわりに散らされた服を拾い集めて身につけていると、化野も身を起こして着物を着る。

「まだ早朝だぞ。お前は寝てりゃいい」
「いや、起きよう。囲炉裏に火を入れるから、外へ行くなら少し温まってからに…」

 新しい蝋燭に火を灯し、囲炉裏の方へと化野は歩く。屈んで炭の具合を見た、その時のこと。外で何か奇妙な音がしたようだった。顔を上げた化野の視線の前で、ギンコは酷く青ざめている。

「化野」
「ん? 今、何か音が」
「部屋を出るな。絶対にだ」
「え…」

 ギンコは身軽く立ち上がり、雨戸を少しだけ開けて外へ出て行ってしまった。ギンコはすぐに雨戸を閉じてしまったから外の明け空さえ化野には見えていない。ただ…。

 ただ。音が、していた。微かに。

 いいや、すぐに煩いほどの激しさで。なんという音だろう。鳥の羽ばたきの音に似て、けれどそうではなく…。その音が、ぴったりと閉じた雨戸にも、天上の向こうの屋根にも、壁にも、ぶつかっているような大きな音で。それはまるで、この家を、取り巻いているように。

「ギ、ギンコ…っ」

 居てもたってもいられず、化野は立って行って雨戸に手を掛けた。ガタ、と立て付けの悪い音がして、そこに隙間が開いて、見えたのは…真っ黒い何か…。


  『            …ッ!』


 
 化野は叫び声を、確かに聞いた。けれどその言葉は判らなかった。聞いた筈なのに、判らないのだ。ただ、黒い、無数の何かに視野を奪われ、途端に胸が酷く痛んだ。呼吸も苦しい。魂に何か、錆びた刃物でも刺さったような、そんな痛みだと、無力なばかりでそう思った。

 あぁ、ギンコ…ギンコ…。この記憶は何だ。恐ろしい。怖い。
 お前が隠していたのは、これなのか…?
 でも、今、俺が知りたいには、お前の、居場所…。

 ソファで眠ったまま、化野は両手で顔を覆っている。知りたい気持ちはあっても、恐怖で指の震えさえ止まらない。それから逃げたい気持ちもあったかもしれないが、今、もっとも知りたいのがギンコの居場所だ、そちらを教えてくれと、強く願う。

 ぎゅ、と手の中の片眼鏡を握り締め、一心に願うと、今度は目映い光が彼を包んだ。眩し過ぎたけれど、ギンコの声が聞こえて、彼はなんとか目を開く。見えてきたのは硝子もなく、格子だけが嵌った窓と、そこから差し込む真昼の日差し。

 夢は時を古い方へ飛び越えて、さっきまで見ていたよりも前の記憶が化野の脳裏に描かれたようだった。

「沼の一件で見せてもらった以外の、普通の地図はないのか?」
「あるぞ。実はお前がここを旅立った後、どんなところを歩いていくのか知りたくて色々と集めたんだ」
「あぁ? …いや、じゃあ、それを見せてくれ」

 そうだ。それだよ。それを見たいんだ!
 
 化野は眠ったままで歓喜して、自分の手がギンコの前に、一枚の大きな地図を広げるのを凝視した。随分と精密な地図だ。小さな道なんぞ書き込めないほどの広域で、だからこそ、化野の知りたいことが判る。

 海、と…陸の形。この里の位置に丸く印がしてある。そして遠くに、高い山。別の方角に、湖か、沼のような。この形は、知って…いる?

「そんなでかいの、いらねぇよ。ああ、こっちがいい、これくれ、化野」
 
 ギンコがその精密な地図の上に、別の地図を広げた。それはこの里の周りだけの、ごく簡単なもので、それでは化野の知りたい情報はわからない。落胆したが、ついさっき見た地図には確かに、知っている形の湖沼があった。

 眠っている化野の瞼が震え、彼は目を覚ましてじっと空を見据えた。体調は最悪だ。まだ睡眠薬の効き目は続いているのに、強引に身を起こし、濃いコーヒーを入れて飲む。ガンガンと、頭に痛みが響いていて、吐き気も酷かったが、化野は休もうなどと欠片も思わなかった。

 地図。地図帳とか、あっただろうか。あぁ、それよりインターネットだ。Webでマップを見る方が余程早い。しまってあったノートパソコンを出してきて起動する。

 夢で記憶したあの古い地図を、細かいところまで必死に思い出そうとしていたら、吐き気が込み上げてきて、少し吐いてしまったが、そんなことは取るに足りない。瞬きすら惜しむ気持ちで、画面に見入って、やがて化野は見つけたのだ。

 ここなら、行ける。新幹線を使えば、そう遠くはないはずだ。化野は今度はJRの時刻表を画面に表示させる。それから自分が、今現在の時間すら分かっていないのに気付いて時計を見て、やっと彼は我にかえった。
 
 夜半過ぎ、明け方前の朝の四時十分。

 駄目だ…。仕事をこれ以上放り出していることは出来ない。明日は医院を開かなければ。一日休業してしまった自分を、待っている患者は少なくはないのだ。

 ギンコ。
 待っててくれ。
 俺が行くまで、そこに、いてくれ…。

 キーボードの上に顔を伏せて、化野は酷い頭痛に呻いた。無意識にまた片眼鏡のレンズを手にして握り締める。彼はよろよろと立ち上がり、そのままベッドに身を投げ入れ、握ったままのこぶしに口づけした。愛しいギンコの唇にキスをしたのだ、と、彼はそんな気持ちでいるのだった。







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「では…次の方を……」

「ええ?」


 素っ頓狂な声が傍で聞こえて、化野は閉じていた目を開いた。いつの間にか眠っていたらしい。席の隣に座っている年配の女性に照れ笑いを一つ見せて、彼は窓から外を見た。風景は、一瞬も止まらずに後ろへと流れている。

 ここは列車の中なのだ。

 片手を顔へと上げて、化野はこめかみの片方をそっと押した。悪い方の目が痛い。昨夜もまたインターネットで、しつこいくらい地図を確認しなおして、化野は旅に出てきた。ギンコが消えたあの日から三日、いつもと同じに医院を開き、しっかりと仕事をして過ごし、やっと週末が訪れてくれたのだった。

 それでも、さっきまで見ていた夢は仕事の夢で、零れてしまった寝言は、次の患者を呼んでくれるよう、看護師に促す言葉だったのだが。

 ギンコ…。ギンコ…お前、何処にいる? 俺は夢で見た地図を頼りに、こうしてお前を探しているよ。詳しい場所なんか判らない。遠くにあの形の沼があって、あの方角に山があって、夢で見た浜辺の形、夢で見た太陽の場所…。そんなものを頼るしかなくて、それでもこうして探しているんだ。

 それでも、自分でも信じがたいような直感めいたものが、俺をこの列車に乗らせた。そして地図を見れば、どうしてもそこへ行かねばならないのだと、心が騒いで仕方ない。

 お前はきっと、ここにいる…。

 その時、さっきから隣に座っていた年配の女性が、化野の広げている地図を見て声を掛けてきた。

「お兄さんは、ここへお行きになるの?」
「え? あぁ、そうです」
「なんもない浜町ですけどね。そこ、あたしの故郷よ」
「え…っ? じゃあ、聞いても、いいだろうか!」

 列車は幾つかの駅を停まらずに行き過ぎ、もうすぐ乗り換えの駅に停まる。化野は急いで言葉を纏め、女性へと幾つかの質問をした。ギンコへの距離が、また縮まったと、そう思えて、まだまだ不安なままでも、化野は嬉しくなっていた。



 ギンコは急な坂道を登る。古びた小さな家々と、海と川と、豊かな自然以外、殆ど何もない町だ。だけれどギンコはそれが嬉しい。ここだけ少し時間の流れが止まっていて、登っていく坂道の先に、「あの化野」が、昔々のそのままに、居てくれそうに錯覚する。実際は、そんなわけがないのだが。

 歩く道の先は、今はただの、町の管轄の山。一度は雑に舗装されたらしい地面の、質の悪いアスファルトが、夏の日差し、冬の凍れに負けて崩れて、今また乾き気味の自然の土と、大差ないような姿を曝している。

「来たぞ、化野…」

 あぁ よく来たな  ギンコ …

 小さく囁くギンコの声に、返されて聞こえるその声は、化野の声。ギンコの魂に染み付いて離れない。永劫に胸から離さない、愛するものの愛しい声。

「そんなに変わらないなぁ、ここは」

 そうか?  ま そりゃ 田舎だからな

 懐かしい声を、震える胸で聞きながら、ギンコは切なげに唇を噛む。坂を登り続ける視線の向こうには、ここが以前、小さな見晴らし公園だった頃の名残の、古びた東屋がある。

「折角「お前」を見つけたのに、気持ちも通じ合えたのに、怖くて逃げてきちまったよ…。呆れるだろう、なぁ化野…」

 その言葉に、返されてくる返事は無い。胸には何も聞こえずに、ギンコは少しずつ近付いてくる東屋を見上げていた。その向こうにまだ高くある太陽の逆光で、東屋の柱も屋根も黒く見え、ギンコの目には「それ」がちっとも見えていない。

「でも、大丈夫だよ、化野。どうしたって、俺には『お前』の存在が………」

 ギンコの独り言が、そこでふっつりと途切れた。東屋の柱の一つに手を掛けて、屋根の下に入る寸前の場所で、彼はそうして言葉を失い、居る筈のない男の姿を、翠の瞳に映していたのだ。

「あ…、あだし……」
「探したぞ、ギンコ」
 
 化野は言った。疲れの隠せない顔をして、粗末な木のベンチに深く腰を下ろし、まるでギンコのように猫背の姿勢になって、そのままで彼は手を伸ばす。そうしてしっかりと、ギンコの片手の手首を掴んだ。

「捕まえた。暫らく離さんから、そう思え」

 言いながら立ち上がり、化野はギンコの体を抱いた。背中には木箱。今はあの大きなトランクは無く、直に背負ったそれが邪魔で、化野はギンコをちゃんと抱き締められない。それでも彼はその木箱ごと、ぎゅう、と力を入れて、両腕でギンコの体を縛った。

「どうして…ここが…」
「『知ってる』からだ。俺も…。いいや、俺が『化野』だからだよ。俺の中に眠っていた記憶が、ここを教えてくれたんだ。お前がここにいると。ちゃんと捕まえておけ、とな」

 はぁ…と、短く深い息を吐いて、化野は強く目を閉じた。ここ何日も、殆ど眠っていない。眠ったとしてもギンコの夢を見ては飛び起き、その夢の記憶に、今、こうして立っているこの場所の、ヒントを探そうと必死になっていた。そうしてやっと、化野はここまできて、ここで待っていたのだ。

「俺は死んで、またこの姿に転生する。転生して再びお前に探し当てられて、お前を愛するんだな。きっとそれが永遠に繰り返されるんだろう。だからなのか?」

 化野は言った。言葉では強く責めるように。けれどギンコを想う気持ちを込めて、低く、淡々と。

「俺は俺一人で終りじゃなく、また次があるから、お前は俺の傍を離れても、なんでもないっていう…。そういうことなのか? だから、俺の前から消えたのか!?」

 ギンコは責められて震えて、言葉を紡げないでいた。だけれど化野の背中を抱いて、その体温を感じている。背中に静かな海の波の音が響いていた。木漏れ日は足元の土をまだらに撫でていて、それはまるで、過去に時間が戻ったようだった。







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「…違う……」

 ギンコはやっとの思いで言った。言葉は震え、脚も指も、体のどこすらも震えていた。怖かった。何度も何度も繰り返してきたことなのに、命すらかけなければならないように怖かった。

 不死のくせに。
 時の流れすら、素通りする体なのにな。
 なんて、滑稽なんだろうか、俺は。

「違うっていうんなら、どうしてお前は…っ」
「あだしの…頼む…」

 震えて小さな声で、ギンコはそう言った。化野に抱き締められ、自分も彼の背中に手を回したままで、彼はぽつりぽつりと言ったのだ。

「そんなに、急がないでくれ、化野。まだ、気持ちが通じてからたったの数日だろう? それほど沢山のことを思い出して、体が辛いはずだ。今までもっとゆっくり思い出していった『化野』だって、寝込むほど苦しんだんだ、俺は、それを見てきたんだよ」

 ギンコの手がゆっくりと動いて、化野と少し体を離し、彼の頬を両手で包んだ。柔らかな黒い髪が、彼の手のうちでくしゃりと混ぜられる。

「一度も…」

 化野は言った。ギンコの顔をじっと見つめながら、視線を逸らさせない真摯さで。

「一度も死なずに、一つの命のままでか? 何人もの俺が死ぬのを、お前は…見て…」
「あぁ、そうだよ…。俺は不死だから…。死なない、老いもしない、何年も…もう二百年も、生きて……。なぁ、気味が、悪く…ないか…?」

 頬に触れているギンコの指が離れていこうとしている。化野は彼の手の甲に自分の手のひらを重ねた。

「なんで」

 ぎゅう、と、また強く腰を抱かれる。

「なんでそんなこと言うんだ、ギンコ。俺はお前を好きだ。今、こうして腕の中にいるお前が好きだ。死なない? 老いない? お前は辛かったと思うが、俺にはそれだって嬉しい。だって…。だって、だぞ、それなら俺は、お前に先に死なれることは、絶対無いということだろう」

 言い放ってしまってから。化野は少し眉を下げて、心配そうにギンコを見た。素直な謝罪の言葉が零れた。

「すまん。逆を考えれば、お前の辛さが判るのに、俺は自分のことばっかりだ。愛想つかしたりしないでくれよ」
「化野…。……っ…!」

 その時、ギンコが背負った木箱から、何か音がした。ギンコはびくりと震え、慌てて化野の腕から逃げた。そのまま東屋から駆け出そうとして、片腕を強く掴まれる。

「どこいくんだ、ギンコっ、いくんなら俺も連れて行け!」
「……わか…ったよ」

 ギンコは項垂れて暫し考え込み、それから化野の方を向かないままで呟く。掴んだ腕は震えていた。声も震えていた。心もきっと、心細くて怖くて、震えているのだろうと化野は思った。

「だったら、連れて行くから、一つだけ誓ってくれ。本当に、俺を気味悪がったりしないと、お前の一番大切なものにかけて…」
「なら、ギンコに誓うよ。俺の大切なものはギンコ、お前だからな」

 ギンコはそのまま、何度か深く呼吸をした。そうするうちに彼の体の震えはおさまり、やっとギンコは歩き始める。化野はギンコの腕を掴んだまま、その背中を追うように坂を下った。海が見える。まだ豊かで濃い緑のあるこの場所に、その海の青があざやかな背景になっていた。







09/08/15




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「あぁ、不思議だ。ここが懐かしい。ここにお前といる事が…」

 感じたとおりに化野が言う。坂を下るギンコの片腕が、化野に捕まえられたまま、逃げたがるように揺れた。

 あぁ、やめてくれ。そんなことを言うのは。
 お前が感じているより何倍も、何十倍も、俺は感じてるよ。
 心が痛くなるほどに。
 泣きたくなるんだ。
 幸せで…。それゆえ尚更、怖くて。

「普通の人間はな…化野…」
「え?」
「俺みたいな奴を嫌がるもんなんだ。こんな気味の悪い姿をして、いつまでも年をとらなくて死ななくて、その上、俺は…」
「やめろ…っ」

 激しく言って、化野は立ち止まった。

「さっきも言った。俺はお前がどんなだって、気味悪がったりしないし、ずっと好きでいるよ。今までだって、そうだったんじゃないのか。それともお前を嫌がった『化野』が、一人でもいたか?!」
「いないさ。ただのひとりも」

 すぐにギンコは言った。震えてはいたが、はっきりした言葉だった。

「だから、これからお前に見てもらうんだ。普段こうしている時は判らない俺の事をな。すべてを知ってもらって、それからもう一度『好きだ』と言ってほしいんだ。それだけのことだけどな、なのに震えてるのは、ただ俺が臆病すぎるだけのことなんだよ」

「そうか、それなら、まかしておけ、ギンコ」

 やっと化野は笑った。励ますような笑みだった。そうして足の速いギンコの隣に立って、並んで歩きながら彼の横顔を見つめる。手はまだ掴んだままだ。やがてふたりは岩場についた。歩き難いその場所を波に濡れないように進んで行くと、小山のような岩壁が、深くえぐれた場所へと出る。

「ここで、薄暗くなるまで待つ」
「…まだ何時間もあるぞ。それまでずっとここに?」
「あぁ。寒くないか? 化野」
「そういえば、すこし…。て…お前の方が薄着じゃないか! この上着」
「俺はいい。慣れてる」

 ギンコは背中から木箱を下ろした。音も立たないほど静かに、平らな岩の上にそれを下ろし、扉のような蓋を開くと、どういう仕組みになっているのか、その蓋をあっさり取り外した。そうして風呂敷を敷いてある岩の上に置く。

 蓋の外された木箱の中には、幾つもの小さな抽斗が。その一つ一つの抽斗を、丁寧な仕草で取り出しては、さっきの蓋の上へ置き、取り出しては置き。

「…手伝う事は…?」
「無いよ。もう少し、下がって見ていてくれ。多少危ないものも入ってるから」
「危ないもの、って」
「すまん、作業に専念させてくれるか?」

 そう言われては、もう話し掛けることも出来ない。仕方なく、化野はギンコの手元を見ていた。さっきまで掴んでいた手首に、うっすらと赤い跡が残っている。もしかして、痛かったかもしれないと後悔したが、今は詫びの言葉すら封じられているのだ。

 ギンコは抽斗をすべて取り出し、風呂敷の四隅を縛って、別の岩の上へと運んできて置いた。それから抽斗の収まっていた沢山の空洞を上にして、木箱本体を横へ寝かせる。続けられた作業は、酷く緩やかで、時間は随分と流れていたらしい。

 ざざ… ざざ…

 気付けば波は、随分と高い。ギンコの立っている岩が、下の方から波に濡れ始めていた。

「もう少し、下がっていた方がいい。濡れるぞ、化野」
「お前はそこにいるんだろう。俺もここでいい」

 口をへの字に曲げて、化野が言った。それをちらりと見て、ギンコがほんの少し笑った。気付いた化野は嬉しくなって、もっとギンコの傍にいこうとする。

「来るな。それ以上来ると、巻き込まれる」
「巻き込ま……。あ…ッ」

 化野は無意識に声を上げていた。いつの間にか立ち込めていた雲。夜と言うには早いが、随分と暗くなっていた空。そうして彼の視野に見える海は、点々と、そうしてうっすらと、光っていたのだ。銀色の、弱々しい色をして。

 色や光の大きさこそ違うが、その光るものはホタルに似ていた。波の上を漂いながら、光はギンコの方へと集まってくる。ズボンのポケットに入れていた手が出されると、その手には小さな瓶があった。

「ギ、ギンコ…っ、光が…」

 光はいつしか波から離れ、ギンコの回りを漂い始めている。彼の体の回りを。いいや、彼の頭の回りを。左の目を狙うように、特にその辺りを。

 やがて、化野は気付いた。光は、ギンコの眼窩の空洞の中に、するりと飛び込み、そこから逃げ出し、けれどもまた別の銀色がそこへと吸い寄せられるように近付いていくのだ。ギンコは淡々と、表情も変えずにじっと立っている。

 風が強くなってきていた。潮を含んだ風は冷たくて、肌はそろそろ凍えるようだ。寒気までを、化野は感じて、それが本当は、ギンコから目を逸らさずに見つめているせいだと判る。

 得体の知れない光を集め、それに絡みつかれ、目の中へまで誘い込んでいる姿は、正直、酷く恐ろしく見えた。

 化野のそんな思いを知ってか知らずか、ギンコは無表情なままで、瓶の蓋のコルクを抜いている。もう、顔が時々見えなくなるほど、沢山の光に覆われた彼は、瓶を顔の前で何度か揺らし、その中へと光を捕まえているようだった。それからコルクを嵌めると、岩の上へ座って、もう一方のポケットから取り出した煙草へ火を点ける。

 薄紫の煙が、うっすらと立つと、光たちは怯えたように霧散して消えていく。つけたばかりの煙草の火を消して、彼は視線を足元の木箱へと落とした。木箱も、銀色に光っている。その光は少しずつ薄れて、消えていく。

「満足か? お前ら。数十年ぶりの生きた餌だもんなぁ」

 波音に紛れながらも、ギンコの声が化野に届いた。

「これからまた数十年は、干したので我慢してくれよ。この蟲寄せは、やっぱり、ちょっと目が痛ぇ…」

 岩の上に投げ出したギンコの足は、打ち寄せる波に濡れていた。少し陸の方へ戻ればいいものを、今のギンコにはそうするのが怖い。光る蟲たちに取り巻かれながら、ギンコは一度化野を見た。化野は、酷く怯えた顔をしていた。ギンコは自分の胸が、裂けてしまう音を、聞いたように思った。

「なぁ…あだしの…」

 やっぱり、気持ちが悪いだろう?
 お前の目には見えなくとも、俺はいつもこういう
 得体の知れないものに、絡みつかれて過ごしているんだ。
 覚えていないんだが、この目も蟲のせいだろうし、
 この髪も、多分。
 怖くなっただろう、化野。
 俺のことが、嫌に…。

「目が痛いって?」
「………」

 唐突に聞こえた化野の声は、普通の響きを持っていた。

「どら、見せてみろ。専門じゃないが、それでも一般人よりは知ってるぞ、目のことだって。見せろ」

 もう殆ど真っ暗に近い岩場で、化野は恐る恐る足を次の岩に伸ばして、ギンコに近付こうと頑張っている。それでもよろめいて、転びそうになって手を振り回す姿が、なんだか可愛く見えた。

「転ぶぞ。危ないから動くな。…俺が……」
 
 俺が、お前の傍へ…行くから。

 夜目が効くはずのギンコの視野がかすんだ。あぁ、まただ、とギンコは思った。ぼやけた視界を見ようと必死になり、化野の方へ手を伸ばしながら、一滴、潮の味をした雫が、海の波の中に滴り落ちていった。







09/09/27




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 小さくて狭い洞窟の中で、ギンコは岩に腰掛けていた。その傍らの別の岩に腰掛けて、化野は彼のしていることをじっと見ている。ギンコは沢山の抽斗の入った風呂敷包みを開いて、中から何かを取り出していた。

「なんだ、それは」
「ランプだよ。携帯用だから、そんなに明るくはならんがな」

 手のひらに乗るくらいの、本当に小さなランプに火が入ると、それでも想像していたよりもずっとしっかりした明かりが、周囲に広がった。使ったライターを胸ポケットに滑り込ませながら、ギンコは独り言を言っている。

「便利になったもんだ。ライターがあるとないとじゃ、手間が違う」
「…なかったらどうするんだ?」
「あー…。そうなぁ、火打石か、木を擦り合わせて使うとか、それか、俺らの奥の手とかな」
「奥の手…って?」

 ギンコは、光の傍からちらりと化野を見る。洞窟に時折流れ込んでくる小さな風が、その時、彼の長い前髪を微かに揺らした。見えたのは閉じた瞼。もう一方の目は普通に開いているのに。

「目を、見せてくれ。さっき、痛むと言ってたし」
「…こんな小さい明かりじゃ、どうせ見えないだろ。今度でいいよ」

 ギンコの視線が洞窟の外を見る。洞を抜けた向こうには、さっき彼が立っていた場所があって、そこにカラの木箱が置き去りだ。ギンコの目には、その木箱の回りを漂う蟲が見えていたし、その蟲達が別の蟲を、ゆっくりと捕食する様子も見えている。

「あれは、どうしてあんなふうに置いてあるんだ?」

 当然の疑問を化野が言葉にした。聞きたい事はまだある。自分と彼しかいないこの海で、確かにさっき、別の誰かに話しかけていたギンコ。

「それに、さっき見えた光はなんだ。今も、見間違いでなければ、小さな光が見える。あの、木の箱のあたりに」

 聞かれると、ギンコはポケットから煙草を出して、さっきのライターでそれへ火を灯す。僅かな光と、微かな紫煙を見せながら、ギンコは言葉を選ぶように少しの間黙っていた。

「蟲、って、聞いた事あるか? 蟻とか、蜂とか、そういうのとは違う、別の存在なんだ。殆どの人間は見ることも出来ない…」
「…初めて聞く」
「だろうな、昔よりもずっと、知るものは少ない。でも、さっきは見えただろう? 条件が揃った時のみ、万人に姿を現す蟲もいるんだ」

 ギンコは言葉を切って、煙草の煙を深く吸い込んだ。何かを追うように視線を動かし、明らかに何かを狙って一方向に煙を吐く。

「蟲師、って言ってな。蟲が引き起こす現象に、人間が巻き込まれちまった時、それを何とかする、そういう仕事だ」
「……お前が、その、蟲師…なのか?」
「そうだよ、珍しいだろ?」

 化野は何かを考えているようだった。ギンコから一度目を離し、岩の上の木の箱を見て、それからもう一度ギンコを見た。

「『蟲』ってのは、危ないことはないのか?」

 眉間に皺まで寄せて聞いてくる化野。危ないも何もない。蟲という生き物は恐ろしいほどに多彩だ。なんの害もないものもいるが、人の命など一瞬で消し去る蟲もいる。街一つを滅ぼす蟲もいるだろうし、転生までもに、力を及ぼす蟲もいるのだから。 

「…いろいろいるからな。中にはそりゃ、危ないのも」
「なら、そんな仕事!」

 ギンコは化野から視線を逸らした。そうして岩から立ち上がり、置き去りだった木箱を取りに出て行く。大きな声では無いのに、ギンコの声が化野へと届いていた。

「蟲にも色々いる。これについてる蟲なんかは、時の流れの速さを緩める蟲だ。この木箱はなぁ、化野、俺が最初にお前と会った時から持ってるんだ。朽ちずに長持ちしているのは、蟲のお陰だ。古くなって壊れちゃ哀しいんで、俺はせっせとこの蟲に餌を与えてるってわけだ」

 それがあの、波間で光っていた蟲だ。蟲の餌の、別の蟲。気付けば、からの眼窩の中が、ほんのりと温かい。ずっと閉じていたから逃げられずにいた蟲の一匹が、そろそろ逃れたいともがいている。

「蟲はな、俺がそうと望んでいなくとも、俺の身のまわりに集まってきちまうんだ。だから俺が傍にいると、お前の生活も蟲にまみれちまう。…それでもいいか。嫌じゃあないか? 危ない蟲もいると、さっき言ったぞ」

 化野は黙っていた。黙ったままで立ち上がって、覚束ない足元でも、なんとか急いでギンコの傍へいった。伸ばした手がギンコの腕を捕まえる。

「お前、泣いてるじゃないか…!」

 そう、叫んだ。振り向いたギンコの、片方きりの瞳は潤んで、たぶん、ひと粒目ではない涙が零れ落ちた。

「どうして隠してる? どうして隠して泣くんだ。俺が、お前を嫌がると思ってるのか? 『蟲』?そりゃあ、そんなの知らなかった。お前がそんなものを見てるのも、そんなことに左右されて生きてるのも。でも、大事なのは、そんなことじゃないだろう…ッ」
「…っ、あだしの…」

 抱き締められて、ギンコは息を止めた。ギンコが泣いてるのを咎めた化野も、今は声を揺らして泣くのを堪えている。

「どうして、どうしてだ? 俺が信用できないからか? 今までの『俺』は、誰一人お前を嫌がらなかったんだろう? なのに、今、この俺を、お前は信じてくれないのか?」
「…違うんだ。お前だけを、じゃないよ。俺は何度でも『化野』を疑ってきたんだ。もしかして、今度の『化野』は、俺を好いてはくれないかもしれない、ってな。だって、俺は…俺を愛してくれるお前がいなけりゃ、生きていくのが、怖いから」

 途切れない命を、どうして誰もが欲しがるのだろう。幸せな毎日でなければ、不死がどんなに辛いか、誰もそれを考えない。

「……さあ、化野…俺を、好きだと、そう言ってくれ。死ぬまで変わらず好きでいると、誓ってくれよ、今ここで」

 閉じた瞼の下の蟲が、ゆらゆらと揺れながら光っていた。長い前髪で隠していても、その光は化野の目にも映っている。見せるのが、怖い、怖い、と、そう思いながら、ギンコとゆっくりと目を開く。蟲はやっと自由を得て、潮風の中へと帰っていった。

「なんだ、よく見りゃ、綺麗な蟲じゃあないか…」

 化野は言って、笑っていた。ギンコの頬を両手で包んで、そのまま笑って…そうして口づけをした。

「『好き』だとか、そんなもんじゃぁないよ。俺は…お前を、愛している。死ぬまでお前を愛していていいか? こんな、どこにでもいるような男だが」
「あだし…。ん…っぅ…」

 長い口づけだった。波音も潮風も、聞こえないし、感じない。さらに満ち来る波が、置き去りのままの木箱をさらっていきそうになって、ギンコは慌てて口づけをほどいた。

「あ…っ、木箱…」
「手伝おう」
「なら、あっちの風呂敷を持ってきてくれ、大事なものだ。商売道具なんだ」

 それに触らせてもらえることを、単純に喜んで化野は岩の家を飛び跳ねていく。いつの間にか月が出ていて、二人を照らしているのだった。







09/10/15




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 ギンコは化野に背中を向けて、淡々と木箱に抽斗を戻していた。化野はそんなギンコの手元を見ながら、切ない気持ちで唇を噛んでいる。ギンコの大事な商売道具に触らせてもらえて、喜んだもの束の間、ぱっ、とそれを奪われて、後はあまり見せてもくれない。

「…いろいろ、入ってるもんでな。お前を危ない目に会わせたくないんだよ」

 ぽつり、と良い訳の様に呟くギンコに、唇尖らせて化野は返事をする。

「別に、拗ねてなんかない。あー…それより、ギンコはここに来る前、どこかへ寄ってたのか? 俺の方が何日も後に家を出たのに、俺が着くのが数時間も早かっただろう」
「あぁ、煙草をね。作るためにな」
「…作る…?」

 ギンコは木箱に抽斗を納め終えて、それをひょい、と背中に背負いながら、化野の隣にやってきた。海の見える場所に並んで腰掛けて、月の光が細かく散り散りに乱れる水面を、彼は淡々と眺めている。

「あぁ、蟲師の吸う特別の煙草だ。今じゃ蟲煙草の草もあまり生息してないから、大変でな。漢方薬の減量にも使う草だから、遠出して専門店へ寄ってた。これから自分で紙で巻いて作る」

 あんまりいい匂いじゃないから、一緒にいるお前には悪いけどな。と、ギンコはやんわり断りを入れる。

「俺もそれ、手伝っ…」
「馬鹿。医者が手を煙草臭くしてどうする。ベランダに出てやるか、部屋に篭ってやるか、いずれにしろ一人でやるよ」

 そんなギンコの横顔を眺めながら、化野は寂しそうに言うのだ。

「お前は、なんだか…つれない、なぁ…」
「……」
「最初に告白された時なんかは、凄く自分が惚れられてるんだって感じて、照れくさいくらいだったのに、今は…。ギ……っ…」

 すい、と寄せられた顔。軽く唇を塞がれて、そのまま背中を抱き締められる。何度か吸い付かれ髪を撫でられて、その静かな愛撫に、化野はくらくらした。

 クールに見えるのは、そう見えるだけだ。
 ギンコはやっばり、俺のこと…・。

 口づけが終わると、ギンコは立ち上がり、木箱を背中で揺すりあげて、月明かりを浴びる斜面を見上げた。斜面を登りきると、さっきの東屋がある。昔むかし、この場所に一人の医家が住んでいた。化野という名で、彼にはギンコという名の男の恋人がいた。

 ギンコは旅を暮す身の上だったから、化野とは長い時間一緒にいられなかったけれど、それでも、いいや、それゆえ…強く恋し合い、深く求め合っていたのだ。甘い想いが化野の胸に満ちる。切ない痛みが胸に刺さる。

「ここにあった里に住んでた『化野』は、辛かっただろうな…。お前、あんまりここに来てくれなかったんだろ? 来たと思ったらすぐに旅に出て、離れ離れだったんだろう?」
「…随分色々判ったんだな。夢で見たのか? 体は平気なのか?」
「……平気だ。別に、なんとも」

 眩暈や頭痛が苦しくて、何度も吐いただの、なんだの、いうつもりはなかった。見たのは色々な断片ばかり。そこから想像したりするばかりで、何も確かなことは分かっていない。

「なぁ、ギンコ」
「ん?」
「宿を取ってあるんだ。こんな時間だから、旅館の人間を叩き起こすことになるけど、行こう。少し疲れた」
「……あぁ、いいよ」
 
 化野に野宿させようなんて、ギンコも思ってはいない。少しどころではなく疲れている彼を、早く休ませたかった。化野が決めた宿は、随分小さいところで民宿のような感じだったが、かえって宿のものは親切で感じが良かった。寝ていたところを起こされても、怒らずに招き入れてくれ、簡単な夜食すら出てきたのだ。

 こじんまりした露天風呂まであって、化野は下がっていこうとする宿の主人に、丁寧に頭を下げて礼を言う。ギンコと旅をして、宿に泊まる。そんな成り行きが嬉しいのは、願っても願っても、一度もそうできなかった、過去の「化野」の思いなのかもしれない。

「風呂へ入ろう、ギンコ。深夜だが、入っていいと言ってたよな」
「あぁ、先にお前が使うといい。俺は後でも…」
「何言ってる、ビジネスホテルのユニットバスと違うんだ。露天の温泉だぞ。二人で入れるし、今はシーズンオフだから、貸切だそうだ。行こう!」
「…はいはい」

 考えてみれば、随分疲れているであろう化野を、一人で風呂に入らせて、もしも何かあったら大変だ。ギンコは木箱の上に上着をかけ、目立たないように部屋の隅へ押しやって、化野と共に露天風呂へと向かった。

 宿の、紺色の浴衣を着た化野の後姿が、ギンコに切ない想いをさせるのだった。







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